2022年03月04日

茨城県の民謡

「阿(あ)字(じ)ケ(が)浦(うら)音頭(おんど)」(茨城)
♪ハァー波は黒潮 静かに寄せてヨー
(ハァ ヤッショーヤッショ)
沖に渚(なぎさ)に(ソレ)東風(こち)が吹く
(ハァ ヤッショーヤッショ)
東風が吹く
阿字ヶ浦は、水戸と大洗に隣接する臨海都市ひたちなか市にある。松並木が美しい海岸で夏には海水浴でにぎわう。
初代谷井法童が作詞・作曲。谷井法童(1899-1973)は昭和二十二(1947)年、茨城県磯節保存会を創設。郷土民謡や那珂湊(なかみなと)八朔(はっさく)祭(まつ)り屋台囃子の継承と普及のために、幅広い活動を続けた。現在、保存会は福田佑子が三代目の会長を務めている。
酒列(さかつら)磯前(いしさき)神社は、ひたちなか市磯崎(いそざき)町(ちょう)にある。神社の名は、神社に面して南に約45度に傾斜した岩石が列なっていて、その内の一部逆の北に傾いた箇所がある。そこから「逆列(さかつら)」の地名が生まれ、祭神の少彦名(すくなひこなの)命(みこと)が酒の神であるところから「酒列(さかつら)」となった。
江戸時代初期、元和の頃、阿字ヶ浦の沢田川を中心とする海辺にあった村が消えてしまった。大塚村、二亦村、青塚村が七十五日の間、吹き荒れた大風で、砂に埋まってしまったという。これが千々(ちぢ)乱風(らんぷう)の伝説だ。今から四百年ほど前のことであった。
§○伊東律子CRCM-40050(97)三味線/谷井宗之、川上一美、笛/長谷川潔、太鼓/谷井法行、大滝守、鉦/谷井法童、囃子言葉/福田佑子、大矢千代子、大矢裕美、吉原有美、稲野辺千河子、中島照代。
「網のし唄」(茨城)
♪(ハァヨーイノセヨーイノセ)
延せやのせのせ(コラショ)大目の目のし
(アヨーイノセヨイノセ)
のせばのすほど(コラショ)アレサ目が締まる
(ハアヨーイノセヨイノセ)
三陸一帯の漁師たちが櫓をこぎながら唄う“舟甚句”や“浜甚句”が南下。水戸の三(さん)浜(ぴん)の漁師たちが、大目網を締める時の唄となった。三浜は那珂湊、平磯、大洗の浜をいう。
この方面では、明治末期から大正にかけて、マグロの流し網が盛んであった。当時の流し網は、平磯町の網師が、あばりという針で目の粗い大目の網を編み上げていた。そのままでは網の目が締まらないので、海岸で数十人の老若男女が力を合わせ、網に水をかけながら、引っ張り合って網の目を締めなおした。この作業も、マグロが近寄らなくなり、すたってしまった。唄は谷井法童が手を加え、伴奏にも工夫をこらして今日の姿にした。
§○佐々木一夫COCF-9308(91)ちょっと辛そうな唄い方が、いかにも作業唄らしい。力強さがあり、囃子言葉も素朴でよい。三味線/大川佳子、小沢千月、尺八/渡辺輝憧、千葉淡景、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/根本正三郎、久住峰月。○伊東律子CRCM-40050(97)「元唄」囃子言葉/上田義明、谷井修二、根本光章、大内豊、神長倉計、福田英明。手拍子だけの野趣ある演唱。浜で作業する女性の雰囲気を出して唄っている。CRCM-40050(97)三味線/谷井宗之、川上一美、尺八/谷井法童、清水法泉、太鼓/谷井法行、鉦/大滝守、囃子言葉/上田義明、根本光章、大内豊、神長倉計、吉川奈津子、吉原有美、大矢裕美、伊賀和子。FGS-604(98)三味線/谷井宗之、川上一美、尺八/清水法泉、谷井法童、太鼓/谷井法行、鉦/長谷川潔、囃子言葉/野上脩二、倉垣隆、徳田英明、上田義明。○福田佑子KICH-2014(91)三味線/藤本e丈、谷井糸子、尺八/谷井法童、鳴り物/谷井法童社中、囃子言葉/キング民謡合唱団。浜の作業を手伝う喉自慢の娘が、若々しい声で気分よく唄っている雰囲気がある。管弦楽伴奏。△初代浜田喜一VDR-25128(88)尺八/千葉淡景、松崎忠夫、笛/斉藤参勇、三味線/大川佳子、影沢藤秀、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴巳、囃子/西田和枝、新津幸子、浜田喜美男、浜田喜美藤、小野春雄。鼻にかかった独特の唄い方。初代浜田喜一(1917-1985)は、北海道江差の出身。海の唄を唄わせるとさすがにうまい。五歳で初舞台を踏み神童、天才歌手と謳われた。肺切除という大患に見舞われ弟に名前を譲ったが、克服して民謡界に復帰、初代を名乗った。
「あやめ踊り」⇒「潮来音頭」
「磯原節」(茨城)
♪末の松並 東は海よ 吹いてくれるな 汐風よ
風に吹かれりゃ 松の葉さへも オヤこぼれ松葉に なって落ちる
お色黒いは 磯原生れ 風に吹かれた 汐風に
啼いてくれるな 渚の千鳥 オヤ末の松並ァ 風ざらし
茨城県の北端、太平洋に面した北茨城市(きたいばらきし)磯原町(いそはらちょう)は、詩人野口雨情(1882-1945)の生まれ故郷である。大正十五(1926)年、雨情が町のために作詞、藤井清水(きよみ)(1889-1944)が作曲した。
雨情は舟に弱いという藤井を小舟に乗せ、実際に波に揺られて曲作りをさせた。昭和五(1930)年、藤井は自作自演でレコードに吹き込んだが、あまり反響がなかった。戦後、茨城の民謡研究家・煙山(けむやま)喜八郎(きはちろう)が復活普及を図り、地元の芸妓や東京の峰村利子、黒田幸子といった民謡家に働きかける。黒田がNHKの電波に乗せ、峰村が弟子の大塚美春にレコードに吹き込ませてから、広く知られるようになった。
藤井清水は広島県呉市出身。昭和三(1928)年、日本民謡協会の設立に参加。昭和十四(1939)年から町田嘉(か)章(しょう)(佳聲)らと全国の民謡採譜を始めている。日本人の魂の声を芸術的に謳い上げ、山田耕筰(やまだこうさく)をして日本最高の作曲家といわしめた。この唄も気品があり、ほのかに土地の匂いを感じさせる名曲である。
なお、原詩の「お色黒いは磯原生れ」を「お色黒いも磯原生れ」、「末の松並ゃア風ざらし」を「末の松波風さらし」、「打つは仇浪(あだなみ)音ばかり」を「打つは荒波音ばかり」、「風にゃ晒(さら)され波には打たれ」を「風にゃ晒され波にはもまれ」、「夜あけ千鳥かあの啼く鳥は」を「夜あけ千鳥かあの鳴く声は」と誤って唄っている無神経なステージ民謡歌手が多い。
作詞家にとって言葉は命である。歌詞カードの表記も「松並」を「松波」としているものがほとんどだ。松並と松波では意味が全然違う。
歌詞を違えて唄っているのは、鎌田英一、原田直之、金沢明子、小杉真貴子、早坂光枝、藤みち子などである。
§◎磯原お鯉VDR-25152(88)三味線伴奏。さりげない歌唱。音源はSP盤。旦那衆を前にして唄う芸者さんの雰囲気がある。○伊東律子CRCM-40049(97)三味線/伊東律子。弾き語り。
「磯節」(茨城)
♪磯で名所は 大洗さまよ(ハァサイショネ)
松が見えます ほのぼのと(松ガネ)
見えます イソほのぼのと(ハァサイショネ)
(テヤテヤテヤテヤ イササカリンリン 好かれちゃドンドン サイショネ)
三陸海岸一帯で漁師が唄う酒盛り唄の“浜甚句”が南下。那珂湊(なかみなと)では「網のし唄」になり、大洗では花柳界に入ってお座敷調の「磯節」となった。
水戸藩は江戸の吉原にならい、大洗の祝町に花街を作って、領内が栄えることを図った。明治の初め、この花街でお茶屋を営む渡辺精作(竹楽房1845-1920)は、古くから唄われていた戯(ざ)れ唄に近い磯節に新しい文句を加え、曲節も整えた。
大洗の磯浜町生まれの美声の盲人・関根(せきね)安中(あんちゅう)(丑太郎1877-1940)は、この唄が得意であった。水戸出身の第十九代横綱・常陸(ひたち)山(やま)谷(たに)右衛門(えもん)(1874-1922)は安中を非常に可愛がり、東京に呼び寄せて連れ歩き、磯節を唄わせた。安中は打ち寄せる波のような勢いのある節で、船を漕ぐように体を揺らしながら唄ったという。常陸山は力量風格ともに優れ、欧米視察、アメリカ巡業、国技館建設など角界百年の基礎を築き、力士の社会的地位を向上させた名横綱だった。
昭和になると谷井法童や石沢竹楽(1913-2004)などの努力により、全国に普及して多くの愛好者が生まれた。唄の文句にある大洗さまとは、水戸光圀(みとみつくに)が造営した磯浜神社のこと。大洗海岸の丘の上、松林に囲まれて建っている。
合いの手のテヤは鰹(かつお)を釣り上げる漁師の“遠いや”の掛け声。早く近くへきて、針に掛かってくれと呼ぶ。いささかリンリンは、磯浜町の磯坂を上り下りする馬に付けた鈴の音。好かれちゃどんどんは、祝町遊郭の遊女と馴染みになった漁師が、どんどん通い詰めて、どんちゃん騒ぎするさま。ハァ最初ネは、遊女がいう次回の約束言葉からきている。
§◎関根安中TFC-1206(99)音源はSP盤。「大洗甚句」入り。COCF-12697(95)三味線/見砂貞子。○福田佑子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、川上一美、尺八/清水法泉、太鼓/谷井法行、囃子言葉/伊東律子、谷井洋子。海の唄らしく気迫の演唱。他に「ひきがたり磯節」「追分入り」「大洗甚句入り」が収められている。CRCM-40050(97)管弦楽伴奏。お座敷調でしっとりと唄う。FGS-604(98)三味線/伊東律子、谷井宗之、尺八/清水法泉、太鼓/谷井法行、囃子言葉/手塚満寿美、谷井洋子。COCJ-32319(03)三味線/谷井糸子、坪川貴雄、尺八/二代目谷井法童、太鼓/谷井宗之、囃子/谷本恵美子、伊東律子。福田佑子が磯節と出合ったのは小学校六年生のころであった。厳しい毎日の練習で、出だしの三文字を何時間も繰り返し唄わされた。品を良くというのが師匠・谷井法童の教えであった。○伊東律子CRCM-40050(97)野趣と元気さのある演唱。浜の女の雰囲気がうまく出ている。伊東は福田と同じく谷井法童の愛弟子。福田正編曲。三味線/谷井宗之、川上一美、尺八/清水法泉、太鼓/谷井法行、囃子言葉/吉原有美、稲野辺千河子。下手な編曲によるオケ伴奏は唄の邪魔。○高塚とし子OODG-70(86)艶があり、声量も豊かな美声。野趣と雅趣ある歌唱。三味線/本條秀太郎、本條寿、笛/望月太八、太鼓/堅田啓輝、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。△成田雲竹COCJ-30669(99)三味線/高橋竹山。櫓を漕ぎながらの唄だから、もっと遅いテンポで唄うべきであると言う雲竹の唄。△佐藤松子KICH-8114(93)しっとりとしたお座敷唄にまとめている。三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/米谷威和男、囃子言葉/佐藤松重、井上弘子。
「潮来音頭」(茨城)
♪潮来出島の 真菰(まこも)の中に(アリャセー)
あやめ咲くとは しおらしやションガァーイ
しおらしや あやめ咲くとは しおらしやションガァーイ
銚子から利根川をさかのぼると行方(なめがた)郡潮来町(いたこまち)(潮来市)だ。ここはかつて東回りの船の寄港地であり、香取(かとり)、鹿島(かしま)、息栖(いきす)の水郷三社の中間地として賑わいをみせていた。船頭や参詣人相手の遊廓は、全盛時には妓楼(ぎろう)九軒、引き手茶屋四十余軒。浜一丁目に軒を連ねたという。花柳界の座敷唄として唄われたのが「潮来音頭」と「潮来甚句」だ。「潮来音頭」はションガイの囃子言葉をもち、当初は潮来節と呼ばれていたようである。「潮来甚句」とセットで唄うと「あやめ踊り」と呼ばれる。
昭和三十(1955)年ごろまで、潮来の水田地帯には江間(えま)と呼ばれる水路が張り巡らされ、運搬にはサッパ舟と呼ばれる櫓漕ぎの舟が利用されていた。現在、約五百種百万株におよぶあやめ(花菖蒲)と水路を行く舟が風情を醸(かも)している。水郷は以前は「すいきょう」と読まれたが、酔狂者を連想させることから「すいごう」に統一され、潮来市では毎年六月に「水郷潮来あやめまつり」が開催されている。
§○福田佑子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、川上一美、尺八/清水法泉、太鼓/谷井法行、鉦/谷井法童、囃子言葉/伊東律子、古平やす子、長谷川そめ。野趣ある演唱。CRCM-40050(97)「あやめ踊り(潮来音頭〜潮来甚句)」福田正編曲。三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/室田秀風、太鼓/鼓友美代子、鉦/美波佐輔、囃子言葉/西田和枝、西田和美、伊東律子。管弦楽伴奏。FGS-604(98)「あやめ踊り(潮来音頭〜潮来甚句)」三味線/伊東律子、谷井宗之、尺八/清水法泉、太鼓/谷井法行、鉦/谷井法童、囃子言葉/手塚満寿美、谷井洋子。△藤みち子VICG-5367(94)三味線/藤本博久、藤本直秀、笛/米谷威和男、尺八/米谷和修、太鼓/美鵬那る駒、鉦/美鵬成る駒、囃子言葉/稲庭淳、森山美智代。
「潮来甚句」(茨城)
♪揃た揃たヨ 足拍子 手拍子
(アラヨイヨイサ)
秋の出穂より ヤレ良く揃た
(潮来通いの舟なれば 津の宮河岸から帆を上げて
潮来の河岸へと 乗り込め乗り込め)
宮城県の船乗りが伝えた「塩釜甚句」が変化したもの。潮来の花柳界で酒席の騒ぎ唄として唄われてきた。
潮来は古くから水上交通が盛んだった。江戸の人口は、明暦三(1657)年の大火以後、著しく増加。幕府は奥州各藩から米を買付けた。
伊達藩の千石船は石巻を出ると、銚子(ちょうし)から利根川(とねがわ)を上り、潮来まで来て米を高瀬船に積み替え、関宿から江戸川を下って米を江戸に運んだ。潮来には米倉が建ち並び「塩釜甚句」もよく唄われていた。回り道をしたのは、当時の船と航海術では房総半島を回って東京湾に入るのは危険だったからである。
近世中期以降、輸送ルートが房総半島を迂回(うかい)する海路に移行してから、東国三社(茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、同県神栖市の息栖(いきす)神社、千葉県佐原市の香取神宮)詣でなどの船が増え、潮来河岸は新たな発展に向かう。
§○福田佑子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、川上一美、太鼓/長谷川潔、鉦/谷井法童、囃子言葉/伊東律子、古平やす子、長谷川そめ。○高塚利子APCJ-5039
(94)声に張りがあり、野趣に富む。お囃子方は一括記載。
「茨城大漁節」(茨城)
♪(サーテー)
一つとせ 一番漁した優勝旗
(ハァコリャコリャ)
立てて新造の船おろし この大漁船
(ハァコリャコリャ)
渡辺竹楽房(1845-1920)が「磯節」を世に出そうとして、ちょうど二十年目の明治四十二(1909)年、渡辺が一夜で歌詞を作り上げた。一夜漬けの大漁節ともいわれ、現在は祝唄として唄い継がれている。千葉県の「銚子大漁節」と同じメロディーに乗せて唄う。唄に登場する魚はカツオに始まり、サンマ、タイ、ヒラメ、アジ、コチ、イワシ、メジカジキからクジラまで、近海から遠洋漁業に属するものがあり、かつての盛大な収穫の様子を偲ぶことができる。
§○福田佑子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、川上一美、太鼓/谷井法童、谷井法行、谷井一仁、大滝仁、笛/長谷川潔、鉦/谷井仁、囃子言葉/谷井修二、根本光章、倉垣隆、上田義明、大内豊、伊東律子、谷井洋子、砂押千草、吉川奈津美。
「鰯網(いわしあみ)大漁祝唄」(茨城)
♪エー明日はマ大漁だトーヨーエー
(エートーヨトエーヤレソレおしゃらくトーヨーエー)
エー鹿島の浦からトーヨーエー
(エートーヨトエーヤレソレおしゃらくトーヨーエー)
エー大漁が来たならトーヨーエー
(エートーヨトエーヤレソレおしゃらくトーヨーエー)
エーこちらのものだよトーヨーエー
(エートーヨトエーヤレソレおしゃらくトーヨーエー)
茨城県磯節保存会が採譜した。鰯が大漁のとき、漁師たちは氏神へお礼参りをする。網元は祝宴を催して漁師たちを招いた。漁師たちはその途次、祝い唄を高らかに唄いながら歩いたのである。
§◎伊東律子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、大矢裕美、笛/長谷川潔、太鼓/谷井法行、鉦/谷井法童、囃子言葉/上田義明、根本光章、谷井修二、大内豊、福田英明、神長倉計。野趣ある演唱。○CRCM-40050(97)福田正編曲。三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/竹井誠、鳴り物/田中佐幸、望月喜美、高橋明邦、囃子言葉/西田和枝社中、黒田祐庄、正木祐月、千代田輝次郎、福田佑子。茨城県磯節保存会採譜。
「大洗(おおあらい)甚句(じんく)」(茨城)
♪(ハァ テヤテヤテヤ イササカリンリン 好かれちゃドンドン ハーサイショネ)
私に逢いたけりゃ 音に聞こえし大洗下の(ハーサイショネソレ)
大きな石を押し分けて(ソレ)
小さな石をかき分けて(ソレ)
細かい小砂利を紙に包んで
三尺小窓の小屏風の陰から
ぱらりぱらりと投げしゃんせ(ソレ)
その時ゃ私が推量して(ソレ)
雨が降ってきたとイソ逢いに出る
(ハァ テヤテヤテヤ イササカリンリン 好かれちゃドンドン ハーサイショネ)
大洗町の花柳界のお座敷唄。曲は「おてもやん」や「名古屋甚句」などと同系統の本調子甚句が大洗化したもの。本調子甚句は江戸時代末から明治にかけて、各地の花柳界で大流行した。
大正の末期、東京吉原の芸妓と幇間(たいこもち)が水戸へ観梅(かんばい)に来て大洗に投宿(とうしゅく)。地元の芸妓や磯節の関根安中が座敷に呼ばれ、芸を競い合って唄い踊った。その時、即興で唄ったこの甚句が残された。これが磯節の中に挿入されて「大洗甚句」と名づけられ、今日まで唄い継がれている。
§○福田佑子CRCM-40049(97)「磯節(大洗甚句入り)」唄/三味線/福田佑子、囃子言葉/伊東律子。〇藤みち子VICG-5367(94)三味線/藤本博久、藤本直秀、笛/米谷威和男、尺八/米谷和修、太鼓/美鵬那る駒、鉦/美鵬成る駒、囃子言葉/稲庭淳、森山美智代。端唄調。
「奥久慈馬唄」(茨城)
♪(ハイーハイ)
羽黒 米山 久慈川ほとり
(ハイ)
ハァ今日の初ぜり うしろ髪
(ハイーハイ)
白石照雄作詞、佐々木基晴作曲の新民謡。福島県南部から茨城県北部にかけての一帯は奥久慈と呼ばれる。四季折々の山々の美、久慈川の清流、澄みわたる青い空は訪れる人々の心を潤す。この久慈の恵まれた自然を馬子唄に表現した。
久慈川はその源を茨城、栃木、福島の三県にまたがってそびえる八溝山(1022m)に発し、福島、茨城両県の山々の間を流れて山田川、里川などの支川を合わせ日立市久慈町の南方で太平洋に注ぐ。
町の町長から依頼を受けた佐々木基晴は、民謡を知らない人が、民謡の良さを感ずるような唄作りを心掛けた。
§◎佐々木基晴KICH-8202(96)尺八/米谷和修、掛声/西田和枝。
「鹿島甚句」(茨城)
♪(ハァ イヤサカサッサ)
ハァ鹿島中浦ではヨ(アキタ)鴎というが
(ハァ イヤサカサッサ)
隅田川ではヨ(アキタ)アリャサ都鳥
(ハァ イヤサカサッサ)
鹿島郡(かしまぐん)波崎町(はさきまち)矢田部(やたべ)(神栖市(かみすし))の酒席の座興唄。本條秀太郎が採譜、編曲、補作詞した。矢田部方面では明治の末期頃まで地曳き網漁法が盛んであった。海岸には網小屋が立ち並び、砂浜には一帯に干し網が見られた。
§○伊東律子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、大矢裕美、笛/長谷川潔、太鼓/谷井法行、福田一仁、稲野辺敬之、磯崎太一、鉦/谷井法童、囃子言葉/稲野辺恵、磯前直子、軍司真美、小松多賀子、古林麻衣子、吉原有美、稲野辺千河子。
「鹿島立ち」(茨城)
♪梅は千寿に 春魁(さきが)けて
うれしや常世(とこよ)の 花と咲く
ホンニ 常世の花と咲く
茨城県磯節保存会創立三十周年記念曲。谷井法童作詞、福田正作曲。哀調の中に雅趣が漂う。常陸国風土記には、高天原からこの地に下降してきた神の名は香島の天(あめ)の大神(おおかみ)とある。崇神天皇の時代に受けた奉納品は、大刀、鉾、鉄弓、鉄箭など武具がほとんどで、香島の神は古くから戦の神と考えられていた。
万葉の頃、防人(さきもり)として徴兵された東国の人々は、鹿島の神に参詣してから筑紫(つくし)、壱岐(いき)、対馬(つしま)などの任地に旅立って行った。中世以後も源頼朝(みなもとのよりとも)や徳川家康の篤(あつ)い保護を受け、武人守護の神として崇敬を集め、重要な戦いの前には、鹿島神宮に参詣してから戦に臨むのが通例とされた。
平成七(1995)年、鹿島町が隣村と合併して鹿嶋市が発足。佐賀県の鹿島市と同音同一表記であったことから鹿嶋市とされた。水戸の公園に千本の梅が植えられたのは明治十九(1886)年のこと。
§◎福田佑子CRCM-40049(97)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鼓・太鼓/堅田啓輝、囃子言葉/伊東律子、谷井法童作詞、福田正作・編曲。
「鹿島土搗唄」(茨城)
♪(ソリャヨーイヨーイヨーイヤネエーアリャリャン
エーコリャリャーンサァーヨーイトネ)
この家座敷は(コラサッサド)
めでたい座敷(ハァヨーイヨーイ)
鶴と亀とが ヤーレ舞い遊ぶ
磯節保存会採譜。土搗(どつ)き唄は土木作業で地固めをする際に唄う。太い丸太や大きな石に数本の綱を付けて引き上げ、これを落として地面を固めた。音頭取りが掛け声をかけ、引き手が囃す。“ヨイトマケ(地固め作業)”の唄をステージ民謡に仕立てたもの。
§○福田佑子CRCM-40050(97)福田正編曲。三味線/本條秀太郎、」本條秀若、笛/室田秀風、太鼓/鼓友美代子、囃子言葉/西田和枝、西田和美、伊東律子。
「鹿島めでた」(茨城)
♪めでたいものは 芋(いも)の種
背高ゆらりと 葉を開く
親がナーエ 鰊(にしん)で(ハァ ソウダヨメデタイ)
子はあたまよナーエ(ハァ メデタイメデタイ)
関東全域にわたり、はつうせ、はつせ、これさま、鎌倉節、花見、芋の種などと呼ばれる一連の祝い唄が伝わっている。昭和六十(1985)年、磯節保存会が鹿島地方の祝い唄として世に出した。曲想のよい優雅な曲。白扇を持って踊る振りが付けられている。
§◎福田佑子CRCM-40050(97)三味線/本條秀太郎、本條秀若、琴/山内喜美子、笛/竹井誠、鳴り物/田中佐幸、望月喜美、高橋明邦、囃子言葉/伊東律子。福田正編曲。採譜、茨城県磯節保存会。
「霞ヶ浦(かすみがうら)帆曳(ほひ)き唄」(茨城)
♪(ヤーンサーノコーラサーエーンヤ コーラコーイショー)
霞ヶ(ソレ)浦風 帆曳きに受けりゃ
(ヤーンサーノコーラサー エーンヤコーラコーイショー)
唄も(ソレ)はずんで あやめ節
夕暮れの茜(あかね)色(いろ)の空を背景に、帆曳き船で行う霞ヶ浦のわかさぎ漁は一幅の名画のような美しい光景である。船は筑波おろしの寒風を帆いっぱいにはらみ、静かに湖面をすべる。何百隻という帆曳き船が湖面いっぱいに出揃った光景は、実に壮観であった。船よりも帆の方が大きいため、網の上げ下ろしには危険を伴う。作業の息が合わないと船が転覆しかねない。そのために親子、夫婦での出漁が多かった。現在ではほとんどの船がトロール船に切り替えられ、霞ヶ浦のかつての風情は失われた。
昭和三十九(1964)年、磯節保存会の谷井法童が作詞作曲。この帆曳き漁の模様を唄に残した。囃子言葉のヤンサは水の神を崇め鎮める意味で、コイショは櫓を漕ぐときの掛け声である。
§◎福田佑子CRCM-40050(97)福田正編曲。三味線/谷井宗之、尺八/清水法泉、囃子言葉/伊東律子。ステージ用の歌唱で、湖面をすべる船で唄っているような雰囲気がある。管弦楽伴奏。△藤みち子VICG-5367(94)尺八/米谷威和男、囃子言葉/西田和枝、西田和菜。
「げんたか節」(茨城)
♪わしと行かぬか(ハァ ドッコイショ)
鹿島の浜にヨーホイ(ヨーホイ)
片手地曳きの綱引きに
(片手地曳きの綱引きに ハァ ゲンタカホーゲンタカホー)
鹿島郡(かしまぐん)波崎町(はさきまち)矢田部(やたべ)で潮待ちをして、いざこれから地引網を始めるときの唄。げんたかの意味は不明。地引網は、中央の袋状の網と、それに魚を追い込む網がらできている。網船で沖合いに張りまわし、浜から引き綱を引いて魚を採る。
§◎福田佑子CRCM-40049(97)あえて声に濁りを入れ、作業唄らしく唄っている。派手な振り袖を着てスポットライトを浴び、ことさら綺麗に唄い上げるステージ歌手が見習うべきところだ。三味線/伊藤律子、谷井宗之、川上一美、太鼓/谷井法童、谷井法行、谷井一仁、大滝守、笛/長谷川潔、鉦/谷井仁、囃子言葉/根本光章、倉垣隆、上田義明、福田英明、神長倉計、大内豊、谷井洋子、砂押千草、吉川奈津美、長谷川そめ。茨城県磯節保存会採譜。
「猿島(さしま)豊年音頭(猿島盆踊り唄)」(茨城)
♪(前唄)ハァー風が稲穂に 稲穂が風に(ハァヨイヤサノコラショ)
続く田圃は 黄金の波よ(ハァヨイヤサノコラショ)
(本唄)筑波おろしの そよ吹く頃は 俺が国さじゃ豊年踊り
嫁も姑(しゅうと)も 手拍子揃え 踊りゃ浴衣のアリャ花が咲く
(後唄)俺が国さの 豊年踊りじゃエー
県西にある境町を中心にして、猿島(さしま)郡一帯で唄われている盆踊り唄。奥州街道と日光街道の宿場である中田宿の“中田盆唄”が猿島一帯にひろまった。太鼓、酒樽、笛、鉦(かね)などのお囃子を入れて、軽快な節回しで唄われる。
境町は関東平野のほぼ中央、利根川中流左岸の町で、境河岸は鬼怒(きぬ)川(がわ)、利根川、江戸川の水運の拠点のひとつであった。対岸の関宿町(せきやどまち)(千葉県野田市)は、船で江戸に入るための要所であり、川の関所が置かれていた。中田宿は利根川北岸にある宿場で、川を上下する船頭たちや、日光街道を行き来する旅人で賑わっていた。田山(たやま)花袋(かたい)の『田舎教師』の舞台となった遊郭があったところだ。
§○吾妻栄二郎CRCM-4OO40(95)三味線/吾妻栄幹、吾妻栄輝、笛/佃一生、鳴り物/山田鶴喜美、囃子言葉/西田とみ枝、西田とみ鈴。○藤みち子VZCG-609(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、尺八/米谷智、笛/米谷和修、太鼓/美鵬駒三朗。
「三(さん)浜(ぴん)浜言葉」(茨城)
♪どんとナー どんどどんどと 磯打つ波は
時化(しけ)りゃ鴎(かもめ)の陸(おか)上がり(ヨイサ)
(エーンヤ エンヤラヤーノ ヨーイヤサ)
「煙管(きせる)の雁首ゃ火いっぺえ」
西風(にし)に 西風に吹かれりゃ 巌(いわ)噛む激浪(なみ)も
凪(な)ぎて静かな月明かり
(ヨーイサインヤラヤーノヨーイヤサ)
作詞作曲・谷井法童。滑稽味(こっけいみ)のある合いの手が面白い。大洗(おおあらい)、那珂湊(なかみなと)の浜言葉を挿入した新民謡。
§◎福田佑子、伊東律子CRCM-40050(97)福田正編曲。管弦楽伴奏。三味線/谷井宗之、大矢裕美、太鼓/谷井法行、囃子言葉/上田義明、根本光章。
「三(さん)浜(ぴん)盆踊り」(茨城)
♪ハァーイヨー(コラサー)
男伊達なら あの那珂川の
(ハァ アリャアリャアリャサ)
水の流れを アレサ止めてみな
(ハァ アリャアリャアリャサ)
別名「茨城盆唄」。大洗町の磯浜、那珂湊市の平磯と磯崎は三浜地方と呼ばれ、漁業の中心地域であった。「相馬盆唄」「秩父音頭」などと同系のアレサ型盆踊り唄。
§○伊東律子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、川上一美、笛/長谷川潔、太鼓/谷井法行、大滝守、福田一仁、磯崎太一、鉦/福田仁、囃子言葉/福田佑子、吉川奈津美、大矢裕美、吉原有美。○上田義明、伊東律子、福田佑子CRCM-40050(97)「元唄入り」三味線/谷井宗之、井上めぐみ、笛/長谷川潔、太鼓/谷井法行、大橋美帆、大橋光、鈴木貴子、鉦/谷井法童、囃子言葉/吉原有美、大矢裕美。元唄を素唄で上田が唄い続いて伊東と福田が唄う。
「篠(しの)山(やま)木挽き唄」(茨城)
♪(ハァー ゼイコンゼイコン)
ハァーここは篠山(ハァー ドッコイ)
ハァー木挽の里ヨー(ハァー ゼイコン)
昔しゃ殿様ヨー アレヨ鹿狩りにヨー
(ハァー ゼイコンゼイコン)
結城郡(ゆうきぐん)石下(いしげ)地方の作業唄。昭和三十九(1964)年頃、篠山地域を中心に唄われていたものを復活させ、石下町郷土芸能保存会が保存伝承を図ってきた。毎年十一月に全国大会が開催されている。
石下町(いしげまち)(常総市)は関東平野のほぼ中央、県西南部に位置し、中央に鬼怒川、西に飯沼川、東に筑波山を望む町である。篠山地区には山がなく、林が多い。小説『土』の長塚節(1879-1915)の生誕地としても知られる。
この唄を本條秀太郎の作詞作曲とするのは誤りで、本條にはまったく覚えがないとのことであった。本條は潮来市の出身。水郷いたこ大使を務めている。日本人の魂の鼓動を、世界に伝えたいと念願する優れた三味線演奏家だ。
§○藤みち子VICG-5367(94)尺八/米谷威和男、米谷和修、囃子言葉/稲庭淳。
「筑波馬子唄」(茨城)
♪鈴はエ(ハイ)鳴る鳴る(ハイ)
峠は(ハイ)ハァ暮れる(ハイーハイ)
月は(ハイ)筑波の(ハイ)
ハァ背に昇る(ハイーハイ)
各地にある道中馬子唄の系統。草刈りの行き帰りなどにも唄われる。筑波山(つくばさん)は古くから歌に詠まれた信仰の山である。関東平野の北端に位置する独立峰で、東西に並んだほぼ同じ高さの女体山877mと男体山871mの二つの峰からなる双耳峰。深い谷も複雑な起伏の尾根も急崖もなく、単純な形をしているところが人々に好まれた。
§○藤みち子VICG-5367(94)尺八/米谷威和男、鈴/美鵬那る駒、掛声/西田和枝。△佃光堂COCJ-31888(02)尺八/佃一生、掛け声/西田和好。掛け声は稚拙。佃は福島県中通りにある田村市の出身。
「筑波山唄」(茨城)
♪お山ナエー
お山 筑波はナー 恋風 女体
情け 情け男体ナー 夫婦山ナエー
金子嗣憧(かねこしどう)作詞作曲。金子の新民謡作品には、栃木県の「日光山唄」がよく知られている。
§○佐藤運三COCF-14302(97)金子嗣憧作詞・曲。尺八/星野錦謡。○湯浅みつ子COCF-14308(97)尺八/矢下勇。朗々たる美声で、野趣豊かに唄っている。
「常陸麦打ち唄」(茨城)
♪<平打ち>
(チョイ ヨーイヤサ ヨーイヤサ)
ハァ揃た揃うたよ(チョイ)麦打ち衆が揃た
(チョイ ヨヤサー ヨヤサー)
麦の出穂より(ソレ)よく揃た(ハーマイルゾ マイルゾ)
<追っかけ打ち>
(ハー ゴザレヤ ゴザレヤ マイルゾ マイルゾ)
ひばり鳴け鳴け(チョイ)
青空高く高く(青空高く高くソレ)
麦が出来たと(ソレ)鳴いて飛べ
(ハー ゴザレヤ ゴザレヤ マイルゾ マイルゾ)
麦打ちは、千(せん)歯(ば)(杷)こきや輪転機で脱穀した麦の穂を叩いて、粒にするための作業。くるり棒が使われたことで、棒ぶちともいう。
§○伊東律子CRCM-40049(97)三味線/谷井宗之、大矢裕美、尺八/清水法泉、囃子言葉/箱崎マキ子、小又ミキ子、中島照代、伊藤米子、大矢千代子、擬音/谷井法行。
「常陸都々逸(ひたちどどいつ)」(茨城)
♪白鷺が 小首かしげて 二の足ふんで
やつれ姿を 水鏡
江戸時代末期の芸人で、都々逸を大成した都々逸坊(どどいつぼう)扇歌(せんか)(1804-1852)は、茨城県久慈郡(くじぐん)佐竹(さたけ)村(むら)磯部(いそべ)(常陸太田市)の医者の家に生まれた。音曲(おんぎょく)好きが極まり、芸人になるべく郷里を出る。幼いころに患った疱瘡(ほうそう)がもとで、盲目に近かったが、三味線ひとつ抱えて各地を遍歴。江戸に出て音曲噺家となり、高座に上るようになった。
扇歌の唄は俗曲の「よしこの節」の調子と「名古屋節」の“そいつはどいつだドドイツドイドイ”という囃子言葉を組み合わせたもので、いつしか都々逸と呼ばれるようになった。自らも都々逸坊と名乗って人気を博したが、高座で幕府を風刺したため、江戸払い(追放)の処分を受けている(1850)。その二年後、府中(茨城県石岡市)で没した。出身地である常陸太田市では扇歌の業績を称え、毎年、都々逸の全国大会を開催している。
§○吾妻栄二郎CRCM-40040(95)三味線/ばら田芳三、尺八/三野宮貴美夫、森下房春。民謡調の都々逸。追分入り。△福田佑子CRCM-40049/50(97)三味線/伊東律子。
「常陸馬子唄」(茨城)
♪未練残して(ハーイ)見返る(ハーイ)峠(ハーイハイト)
捨てる(ハーイ)故郷に(ハーイ)花が散る(ハーイハイト)
那珂湊市(なかみなとし)の谷井法童が、古い馬子唄をもとにして編曲。長野県の「小諸馬子唄」に似た情緒ある馬子唄に仕上がっている。
§○吾妻栄二郎CRCM-4OO66(01)尺八/森下房春、効果音/美浪駒三郎。
「八朔(はっさく)祭り囃子」(茨城)
♪ハァーイーヤーサー
ソレーェソレーェソレーェソレーェソレ
オッシャイオッシャイオッシャイナー
十日も二十日もオッシャイナー
ソレーソレソレソレオッシャイナー
毎年八月末に行われる那珂湊の夏祭り(八朔祭り)は、鎌倉時代以来、七百年の歴史がある。元禄年間、水戸藩二代藩主・徳川光圀(1628-1700)が東照宮に倣って祭礼の形式を定めてから、三百年の伝統を持っている。格式が高く、情緒があって、しかも活気に溢れた港町らしい夏祭りだ。
那珂湊を中心として、水戸、太田、笠間の芸妓連が演奏する祭囃子の囃子方は、芸妓の他、町会の女性、民謡保存会など、すべて女性が受け持っている。
§◎磯節保存会(福田佑子、伊東律子)CRCM-40049/50(97)音頭、三味線/福田佑子、伊東律子、太鼓/谷井法行、笛/長谷川潔、鉦/谷井法童、囃子言葉/太鼓/谷井洋子、谷井美帆、谷井美香、砂押千草、吉川奈津美。
「本町(ほんちょう)二丁目」(茨城)
♪本町(二丁目のナーアアナーアアナーアーアアアアヨーイサ)
本町(二丁目の糸屋の娘)
姉が(二十一ナーアアナーアアナーアーアアアアヨーイサ)
姉が(二十一妹が二十歳)
那珂湊天満宮の御祭礼(那珂湊八朔祭り)で、各町内から出る十六台の屋台の華美さは、人々の目を奪う。
お囃子は笛、太鼓、鉦。初日は「しゃぎり」で屋台を曳き出し「四丁目」「おっしゃい」「とっぴき」などが囃される。御神(ごしん)幸(こう)(神様のお出まし)の時は「四丁目」で出発して「おっしゃい」に転ずる。還御(かんぎょ)(お帰り)時は「鎌倉」で出発してから「おっしゃい」に転ずる。最終日、屋台が自町内へ戻ると、お開き前に「おっしゃい」から三味線が入った「本町二丁目」が囃される。
那珂湊は水戸藩唯一の交易港として大いに栄えた。その頃の豪商宅や土蔵群は、昭和末期から急速に姿を消し、現存するのは数えるほどになってしまった。
§◎磯節保存会CRCM-40050(97)三味線/福田佑子、伊東律子、大矢裕美、笛/長谷川潔、鉦/谷井法童、太鼓/牧野美香、吉原有美、鈴木貴子、大太鼓/大橋美帆。
「水戸(みと)投(なげ)節(ぶし)」(茨城)
♪悪(わる)止(ど)めせずと そこ離せ
明日の月日が 無いじゃなし
止めるそなたの 心より
帰るこの身が エーまあどんなに
どんなに つらかろう
投節は“大津投節”ともいう。承応・明暦・万治(1652〜1661)の頃から京都の島原(しまばら)遊廓(ゆうかく)で唄い始められた。三味線にあわせて唄い、唄の終わりを投げるように、言い捨てるように唄う。京都島原の“なげ節”、江戸吉原の“つぎ節”、大坂新町の“まがき節”は、三大遊郭の三名物とされた。
貞享・元禄(1684〜1704)の頃に最も流行。潮来など、地方の遊里でも広く唄われたが、寶永・正徳(1704〜1716)頃から次第に衰え始める。
§○福田佑子CRCM-40049(97)三味線/福田佑子、伊東律子。弾き語り。美人で美声の田舎芸者の風情を感じさせる。伊東律子の「磯節」入り。
「水戸二上り」(茨城)
♪秋の月とはさゆれども 私の心はさえやらぬ
堅田に落つる雁金の ただ忘られぬが主の事
なろうことなら側に居て 逢いたい見たいと思えども
粟津に戻るあの船は あれが矢橋のマア帰帆かえ
近江八景を詠んだ二上り調子の唄。
水戸第九代藩主・徳川斎(なり)昭(あき)(1800-1860)は、この唄を愛好して城内の武士たちに唄わせた。武士たちはそぞろ歩きに口ずさんだという。もとはお座敷調の唄ではなく、野外で唄うものであった。
近江八景は明応九(1500)年、近江守護職・六角高頼(1462-1520)の招待で近江に滞在した近衛政家(1445-1505)が、中国湖南省にある洞庭湖の名勝・瀟湘(しょうしょう)八景(はっけい)になぞらえて和歌を詠んだことに始まる。八景には、三井(みい)の晩鐘、唐崎の夜雨、粟津の晴嵐(せいらん)、石山の秋月、比良(ひら)の暮雪(ぼせつ)、堅田(かただ)の落雁(らくがん)、瀬田(せた)の夕(せき)照(しょう)、矢橋(やばせ)の帰帆(きはん)が選ばれた。
§◎福田佑子CRCM-40049(97)三味線/本條秀太郎。
posted by 暁洲舎 at 07:10| Comment(0) | 関東の民謡
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