「草津節」(群馬)
♪草津よいとこ 一度はおいで
(ドッコイショ)
お湯の中にも コリャ花が咲くヨ
(チョイナチョイナ)
草津は今も噴煙をあげている白根山(2160m)と、本白根山(2171m)東麓にある温泉町だ。草津の名は強酸性で、硫黄(いおう)成分の強い温泉臭がある場所“臭処(くさと)”からきている。
温泉は日本武尊(やまとたけるのみこと)、あるいは僧行基(ぎょうき)(668-749)が発見したと伝えられ、古くから東国第一の名湯(めいとう)として各地から湯治客(とうじきゃく)を集めてきた。ここの名物は一日四回、定まった時間に入湯する時間湯である。高温で湧き出す草津の湯は、さまさなければ入れない。水で薄めると湯の薬効が薄れるので、湯長の指揮で入浴客が板を持ってかき回してさます。一回の入浴は三分程度。湯を板でかき回すことを湯もみという。
湯もみ唄には“ヨホホイ”と“ドッコイショ”があり、大正年間から唄われてきた。この地方の機織(はたお)り唄が湯もみ唄の母体である。大正七(1918)年、平井晩村(1884-1919)が紀行『湯けむり』を発表。「草津節」の原型とされる詩を書き残している。平井は前橋の酒造家に生まれ、早大卒業後は報知新聞記者となり『少年倶楽部』『日本少年』などに少年小説を『武侠世界』『面白倶楽部』などに歴史小説を発表。民謡詩人としても知られている。
§○佐藤松千恵COCJ-30338(99)大衆性はあるが個性に乏しい曲を、野太い声で、ちょっと投げやりな松千恵節で品よくまとめている。三味線/藤本喜世美、藤本秀次、笛/米谷威和男、太鼓/美波三駒、美波駒世、囃子言葉/小桜芳枝、添田和子。△長瀬和子KICH-2014(91)艶っぽい歌唱。声に粘りがあり、捨て難い味がある。三味線/藤本秀輔、藤本秀勝竜、笛/米谷智、鳴り物/西泰輔、川内清文、囃子言葉/西田ゆき枝、矢吹紀子。△大塚美春VZCG-135(97)笛/米谷威和男、三味線/藤本秀次、藤本秀花、藤本秀太郎、太鼓/西泰維、鉦/山田鶴助。野趣と味があり悪くない。
「草津湯もみ唄」(群馬)
♪草津よいとこヨーオホホォーイ 夏来て見ればヨ
軒端近くにヨーオホホォーイ 四季の花とかヨ
(ハ ドッコイセ アヨイヨイ)
“ヨホホイ”の三味線の手は土地の芸妓・竹寿(大島タミ)が付けた。“ドッコイショ”に比べて上品なお座敷調になっている。吾妻郡(あがつまぐん)草津町(くさつまち)にある草津温泉は、西の有馬温泉と共に天下の名湯と称された。徳川八代将軍吉宗は、草津温泉の湯を江戸城に運ばせて入浴したという。湯畑の最上部に御汲みあげの湯枠が残っている。
時間湯は明治初期に温泉療法として確立され、湯治専用の浴場では湯もみが行われる。高温の源泉を板でかき回し、入浴可能な温度にまでさます湯もみ作業は、船の櫓漕ぎから考案されたという。湯長の指揮のもと、赤松材の長い板で約三十分、湯をかき混ぜる。三分の時間を限って一斉に入浴。湯長が“さぁよろしくば入りましょう”“よろしくばあがりましょう”と合図する。
明治九(1876)年、明治政府が招いたドイツ人医師ベルツ(1849-1913)が同十一(1878)年、草津温泉の有効性と環境の素晴らしさをドイツ医学界で発表したことで、草津の湯は世界に知られるようになった。現在、湯もみショーとして行われているものは観光目的のもの。
§○長瀬和子KICH-2014(91)お色気のある声で、上品にきちんと唄っている。三味線/藤本e丈、藤本秀輔、藤本秀竜、笛/米谷市郎、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、山道依子。○曽我了子APCJ-5039(94)ゆっくりした唄い方で、お座敷唄の雰囲気をだしている。お囃子方はCD一括記載。
「上州(じょうしゅう)片品(かたしな)追分(おいわけ)」(群馬)
♪めでためでたヨー この座がめでたヨー (ハ お次の番だよ)
笹に小判が 成り下がる (ハ お次の番だよ 下駄はいて出ろ出ろ)
男振りより 金より心ヨー (ハ お次の番だよ)
金で買われぬ 心意気 (ハ お次の番だよ 下駄はいて出ろ出ろ)
片品村(かたしなむら)は県の東北端に位置し、新潟、福島、栃木の各県に接し、植物と湿原で知られる尾瀬を初め、山岳景観の美しい環境に恵まれている。
平成十九(2007)年八月、日光国立公園から独立。29番目の国立公園として新しく尾瀬国立公園に指定された。
§○小野田実COCJ-32009(02)三味線/杵屋勝真代、杵屋五峰、合唱/近藤淡山社中、管弦楽伴奏。
「上州小唄」(群馬)
♪榛名山から 雲が足出して
またも伊香保に 雨降らす
ささ前橋高崎までも ごろりぴかりと雨が降る
ホラ ギッチョンギッチョン チョンチョン
伊香保(いかほ)温泉(おんせん)の木暮武太夫(1893-1967)の依頼で、昭和四(1929)年に野口雨情(1882-1945)が作詞、中山晋平(1887-1952)が作曲した。
作詞を依頼された雨情は思うような歌詞が浮かんでこず、遂には帰京を申し出た。木暮たちは野口が一度帰ってしまうと、他の仕事に紛れて作詞が後回しになることを恐れ、無理に引き止める。ようやく出来上がった詞には、この地方に雨や雷が多いことや“風で蝶々が飛ばされる”といった赤城おろしの空っ風や、マイナス要素のフレーズがあった。そのため、いまひとつ評判はよくなかったが、次第に人気を呼び、前橋や高崎のお座敷では欠かせない唄となっていった。
小暮は戦後、社団法人日本温泉協会や国際観光旅館連盟などの会長を務めた名士で、伊香保の大地主である。
§◎藤本ふみ、藤本はなVDR-5172(87)三味線/藤本とみ、加藤はん、鳴り物入り。針音がレトロな昭和四(1929)年発売のSP盤からの復刻。曲調に面白みなし。
「上州田植え唄」(群馬)
♪鎌倉の谷(やつ)(ホー)棟造り イヤーハーノ何で葺く
何で葺く桧(ホー)とさ藁 イヤーハーノこけら葺き
(ハーマダマーダー)
赤城山麓の田植え唄。神奈川県小田原市の田植え唄とよく似ている。平安時代から行われていたお田植え行事での唄が元唄のようだ。町田佳聲(1888-1981)が手を加え、老成参州が笛の手を付けた。
田植えの時期、新潟県の米どころ魚沼地方から、出稼ぎに来る多くの人がいた。群馬では二毛作のため、魚沼の田植えが終わってから上州にやって来ると、ちょうどよかったのである。
寒い時分から田んぼの水持ちを良くするために、土を細かく砕く代掻きが行われる。あら鋤(す)き、鋤き返し、代鋤きは、唐鋤を使い、土や草を深く掻き起こして真鍬で土をならす。代掻きが終わると、大豆糟などの肥料を田に入れた。田植えの苗は、苗代で四十五日間育てたものを使う。苗を等間隔に植えるために木枠や縄が使われた。多くの人手を使って一斉に行うため、近くの村から早乙女(さおとめ)を雇う村もあった。
§◎樺沢(かばさわ)芳(よし)勝(かつ)TFC-1203(99)お囃子方不記載。群馬県勢多郡富士見村小暮出身の樺沢(1899-1977)は、その生涯を群馬民謡の普及に送った功労者。
「上州馬子唄」(群馬)
♪山で床とりゃ ハァ木の根が ハァ枕
落ちる木の葉が ヨーハァ 夜具となる
ハーイコラホイト
上州民謡の名手である樺沢芳勝は、三国峠(標高1245b)越えの三国街道で駄賃付けの馬子を生業としていた。樺沢は馬方達が馬を曳きながら唄っていた唄の節を整えて唄い始める。
樺沢は明治三十二(1899)年生まれ。この唄を勢多郡桂宣村上泉の博労の観音トクから習ったが、当時は馬方節と呼んでいた。昭和十(1935)年ごろ、初代浜田喜一のすすめもあって「上州馬子唄」と改名。樺沢は“一生稽古”を身上にして、農業の傍ら馬を曳き、時には三国峠や碓氷峠の麓まで足を運び「上州馬子唄」や「上州木挽唄」を練習した。日本の数ある駄賃付け馬子唄の中でも、最もすぐれた節回しを持っている。
§◎樺沢芳勝TFC-1203(99)尺八/渡辺輝憧、鈴/山田三昇。野趣、雰囲気、ともに申し分なし。実際に馬を曳きながら唄った経験がある唄い手の演唱には、経験がなく美声だけが頼りのステージ歌手は歯がたたない。○佐野芳山APCJ-5039
(94)野趣も味もあり、渋くて馬子唄らしく唄っている。FGS-604(98)尺八/片桐栄次、堀口善憧、鈴/掛け声/松村文雄。
「上州麦打ち唄」(群馬)
♪赤城山ナーから 谷底見ればヨー
(ハァゴッタラ ゴッタラ ドッコイナット)
瓜(うり)やナー茄子(なす)の ヤレ花盛りヨー
(ハァゴッタラ ゴッタラ ドッコイナット)
群馬県は全国有数の麦の生産地であり、稲の裏作で大麦や小麦を収穫した。麦打ち作業は家族だけでなく、近隣同士が協力して行う。県中央部の富士見村あたりで唄われたもの。昭和三十二(1957)年、樺沢芳勝がラジオ東京で初放送。
§竹嶺会COCF-13992(96)編曲、指導/木津竹嶺。多人数の男女が協力して行う麦打ち作業の雰囲気がよくでている。
2022年03月04日
群馬県の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:09| Comment(0)
| 関東の民謡
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