2022年03月04日

埼玉県の民謡

「吾(あが)野(の)機織(はたお)り唄」(埼玉)
♪わたしゃ吾野の 機屋の娘
思い(ハ 一反)思い一筋 恋の糸 トオカナンダイ
(ハ 一反トントン)
飯能市(はんのうし)吾(あが)野(の)生まれの民謡家・小沢(おざわ)千月(ちげつ)が掘り起こし、伝承に努めた。吾野は池袋駅から西武線で約一時間半、高麗川の谷あいの町である。
織り物の歴史は人類の歴史とともに古く、日本では弥生時代前期、すでに織機を使用していた。経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を通して規則正しく編んでいく方法は、古代から現在に至るまで世界の各地においてまったく同じだ。手織機(ておりき)または手機(てばた)は、この往復操作を繰り返して行う装置である。
踏み木を足で上下させると、縦糸を通した綜(そう)が開く。その間に横糸を巻いた舟形の杼(ひ)を通し、筬(おさ)でたたいて打ち込む。筬は竹の薄い小片を櫛の歯のように連ね、長方形の枠にいれたものである。織り終えたものは一反の長さの布になる。織り子を集めて織らせるのは機屋だが、県内のほとんどの農家では、副業として賃機(ちんばた)を織っていた。糸を貸りて織り、賃金をもらって生活の支えにしていたのである。
§△原田直之30CF-2172(88)三味線/原田真木、斉藤徳雄、尺八/笛/佃一生、鳴り物/山田鶴喜美、山田鶴司、木津かおり、囃子言葉/西田よし枝、堀征子。土の匂いが希薄な歌唱。三味線の原田真木は直之夫人。原田(1942-)は東北民謡研究の先覚者である武田忠一郎(1892-1970)を義父に持ち、宮城県民謡の我妻桃也を師と仰ぐ。昭和五十年代、NHKTV番組「民謡をあなたに」で金沢明子と共にレギュラー出演して人気を博す。この番組は、作業唄としての民謡の雰囲気と、土地の香りのない民謡を広く誤解認知させてしまう結果を招いた。
「入間(いるま)機織(はたおり)唄(うた)」(埼玉)
♪機が織れない機神様ヨ どうぞこの手の上がるように
(ハーチョコトン チョコトン)
糸は千本切れてもつなぐ 主と切れたらつながれぬ
(ハーチョコトン チョコトン)
§○澤瀉秋子VZCG-616(06)三味線/藤本博久、藤本秀統、尺八/米谷智、太鼓/美鵬駒三朗、四ツ竹/美鵬那る駒、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。
「川越舟唄」(埼玉)
♪ハァー花の川越 エー高瀬の舟で
(アイヨーノヨー)通い舟路の三十里
(アイヨーノヨーアイヨーノヨー)
§○澤瀉秋子VZCG-616(06)尺八/米谷和修、擬音/美鵬駒三朗、囃子言葉/新津美恵子。
「狭山(さやま)茶作り唄」(埼玉)
♪狭山よいとこ よい茶の場所よ
(ハーヨレヨレヨレヨレ)
娘やりたや ハー婿欲しや
(ハーヨリコメヨリコメ)
狭山茶の生産地は県西部の武蔵野である。狭山は緑茶産地の北限とされ、他の産地では年に三、四回、葉を摘むが、狭山茶は春と夏の二回しか新芽を摘まない。
わが国のお茶の始まりは、平安時代の初期。最澄(768-822)や空海(774-835)などの留学僧が中国から茶を持ち帰ったことに始まる。その後、鎌倉時代の初め、栄西(1141-1215)が中国から茶の種子を持ち帰って栽培した。栄西は『喫茶養生記』を著して喫茶の効能を広く世に知らしめる。
武蔵河越の地に茶をもたらしたのは明恵(みょうえ)(1173-1232)であった。河越の茶は狭山茶と呼ばれ、享保二(1802)年頃から本格的な茶業が始まった。出荷先は主に江戸。江戸後期には現在の瑞穂町、武蔵村山市、東大和市を中心に狭山茶が生産された。安政の開港(1859)後は、生糸とともに輸出品の中心となり、主としてアメリカへ輸出されている。
§○光本佳し子KICH-127(98)三味線/藤本博久、藤本秀禎、笛/米谷和修、鳴り物/美鵬奈る駒、美鵬成る駒、囃子言葉/西田和枝、西田美和。採譜、編曲/藤本e丈。
「秩父音頭」(埼玉)
♪(コラショ)
ハァーエ狭霧 朝霧 炭付け馬の 狭霧 朝霧 炭付け馬の
(コラショ)
影はナァーエ(ホイ)影は見えねど アレサシャーラシャンと
朝霧蹴立てて よく来たねット
囲炉裏端(ば)寄って おあたりなット
(コラショ)
秩父郡一帯で唄われた盆踊りの豊年踊りが母体。元唄の歌詞は卑猥(ひわい)なものが多かったが、昭和四(1929)年、秩父郡皆野町(みなのまち)の医師で俳人の金子伊(かねこい)昔(せき)紅(こう)が中心となって歌詞を募集。自らも作詞して曲節に手を加え、土地の唄自慢である吉岡儀作や相沢左門次などに唄わせた。
同五(1930)年、明治神宮鎮座十周年を記念して行われた遷座祭に、全国から選ばれた郷土芸能の奉納があった。そのなかのひとつとして秩父地方の盆踊りも加えられ、秩父豊年踊りの名称でこの唄が奉納された。元唄は群馬県新田郡新田町木崎(太田市)に伝わる木崎節といわれている。木崎宿の男たちが渡し舟で利根川を渡り、対岸の深谷まで夜遊びに通ったことで唄が伝わった。形式は栃木県の「日光和楽踊り」と同じ。七七七五の終わりの五音の前にアレサヨー、またはアレサの囃子言葉が入るアレサ型の盆踊り唄。唄の文句が一節終わると、踊り手の囃子言葉が入る。
金子伊昔紅(1889-1977)、本名は元春。大正四(1915)年、京都府立医学専門学校を卒業。皆野町に壺春堂医院を開き、その後、秩父郡市医師会を設立する。「馬酔木(あしび)」の同人で、水原秋(しゅう)桜子(おうし)(1892-1981)や高浜虚子(きょし)(1874-1959)らと親交があった。
§◎吉岡儀作、相沢左門次、中田節子、秩父金子社中VDR-25152(88)素朴で野趣があり、いかにも素人が楽しんで唄っている雰囲気を持つ。◎吉岡儀作TFC-1210(99)笛/宮前光重、野口昌之助、大太鼓/柴崎徳寧、小太鼓/小笠原栄子、吉岡菊江、吉田みち子、鉦/新井栄、囃子言葉/金子伊昔紅、猪野勝江。音源はSP盤。かなりノイズがある。COCJ-307OO(99)指揮/金子伊昔紅。吉岡儀作は、秩父音頭を今風にまとめあげた金子伊昔紅の金子病院で働いていたという。明治神宮の遷宮十周年の催しで、吉岡の唄が奉納された。○小沢千月COCF-13287(96)三味線/菊元寿郎、市川紫、尺八/久保田燿峰、笛/老成参州、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/中村好菊、中村菊紫。
「秩父木挽き唄」(埼玉)
♪嫌だいやだよ 木挽きさんはいやだ
仲の良いのを 挽き分ける
§◎柴田隆章VDR-5193(87)尺八/小沢秀水、掛け声/小林照玉。
かつて民謡は古里の生活と共にあり、野山に生きる人々の心情の発露であった。そうした唄が商業ベースに乗せられ、商品としての価値が付加されていくと、大衆受けを狙った曲節に変化していき、商業歌手が唄って更に形を変えていった。古里の生活様式や労働形態が近代化の波に洗われ、大きく変容を遂げていくと、古い素朴な唄は急速に消滅していった。今、大勢の観客を前にして華やかなライトを浴び、派手な衣装で着飾ったステージ歌手たちが唄う民謡は、原初の姿とは関係のない、切花の美しさに似た唄だ。
「とのさ節」(埼玉)
♪(トコドッコイドッコイドッコイ)
わしらサーエ殿ささんは 餌刺しが好きで
餌刺し出るときの 姿を見れば
腰に餅箱 手にゃ竿さげて
裏の細道 じょなじょな行けば
榎林に小鳥が三羽
これを刺してくりょと 竿取り直し
竿は短し小鳥は高し
そこで小鳥のいうこと 聞けば
殿さ餌刺しかわしゃ 百舌の鳥
縁があるなら また来て刺しなヤーレ
(トコドッコイ ドッコイドッコイ)
越後の「新保広大寺」は、瞽女や座頭などの遊芸人によって各地に伝えられ、各地で変化をとげて定着した。唄い出しから命名された「とのさ節」は、埼玉県、東京都、神奈川県の農村地帯に分布している。宮城県の北部や岩手県一関市には“とのさい節”の名が残っている。埼玉県では祝い唄としても唄われ“殿さエー”で始まり“ヤンレー”の囃子言葉が付くことからヤンレ節とも呼ばれる。
§○藤堂輝明COCF-11371(93)野趣があり、リズム感が良い。三味線/千藤幸蔵、千藤幸一、尺八/米谷威和男、米谷和修、太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬那子駒、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。藤堂(1942-)は福岡県(ふくおかけん)三潴町(みづままち)出身。尺八の名手、渡辺輝堂に師事して腕を磨く。リズム感が良く、作業唄の感じをうまく出し、元気の良い土地の若者が唄うような雰囲気を醸している。
「土(ど)端(は)打ちくずし」(埼玉)
♪さあさ皆さん 千本搗き頼む
(ハドッコイショ)
千本搗きなければ 土端じゃない
トコ姐(ねえ)さん ヨーすまないネー
(チョイヨーチョンガネ)
土搗き唄。埼玉県、茨城県の利根川流域地域に残っている築堤の作業唄だ。土手普請は、土羽ならしから土羽打ちへと進み、表面を削って仕上げる。盛り土の傾斜面を法(のり)という。土羽(端)打ちは、法面を土羽打ち棒や土羽板で打ち、土を締め固める作業である。土羽棒は持つ所を太くした長さ四尺の棒だ。土羽板は長さ四尺、厚さ一寸ぐらいの板である。土羽打ちで打ち固めた後、土羽師が板を使って平らに削って成型した。
§◎柴田隆章VICG-2040(90)三味線/千藤幸一、千藤幸次、尺八/菊田北湖、笛/高橋京水、太鼓/山田鶴喜美、囃子言葉/多田隆章次、松尾桃章。声に濁りがあり、それが泥臭い風情を出している。
「名栗川筏唄」(埼玉)
♪エー雨が降ります エー筏(いかだ)が出ます
(ハァ ピシャンコーン)
山のお客さんが エー出てきます
(ハァ ピシャンコーン ピシャンコーン)
飯能(はんのう)、名栗、日高などの地域から切り出した木材は、筏に組まれて江戸に運ばれた。搬送には筏師が活躍した。
名栗川は秩父山地東縁の蕨山(わらびやま)(1033m)に発して南東に流れ、飯能から下流が入間(いるま)川(がわ)と名を変える。江戸に入ると荒川となり東京湾に注ぐ。川は江戸時代初期から大正期にかけて、材木の運搬に大きな役割を果たしていた。江戸の町が整備され人口が増加していくと、家屋建材の需要が増大する。江戸の華ともいわれるほど頻繁に起きた火事は、その復興のために多くの材木を必要とした。奥武蔵から千住(せんじゅ)まで早くて三日、遅くて七、八日かかって材木を運んでくる。
名栗川(入間川)は、江戸の西の方角からやってくる川であるところから西川と呼ばれ、西川を下ってくる杉や桧は西川材と呼ばれた。
§◎柴田隆章VICG-2041(90)尺八/菊田北湖、高橋京水、囃子言葉/多田隆章次。川で作業する筏師の雰囲気を出して唄っている。少々濁りがある柴田の声に、かえって趣が出ている。民謡の面白さだ。
「花の鴻巣音頭」
♪ひなの古郷 鴻巣人形 古い歴史の光る市(まち)
姿美し心は豊か みんな笑顔で住める街 住める街よ
ソレ花の 花の鴻巣 雛の街
埼玉県の東部中央に位置する鴻巣(こうのす)市は、鉢花、花壇苗の産地、ひな人形の産地として知られている。
野崎源三郎作詞、桜井将喜作曲、山田耕世編曲のご当地ソング。
§都はるみCOCA-11779(94)。
posted by 暁洲舎 at 07:09| Comment(0) | 関東の民謡
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