2022年03月04日

千葉県の民謡

「朝のでがけ」(千葉)
♪ハァ朝の出掛けにヨォ
どの山ヨーホイ見ても コラヨーホイ
(チョイサーキタサ)
霧のかからぬヨーホイ 山はないコラヨーホイ
(チョイサーキタサ)
唄い出しから曲名がある。農漁村一帯で酒の席で唄われ、手踊りも付いている。千葉の草刈り馬子唄が元唄のようで、そのような唄い方になっている。
江戸時代末期、常陸のお洒落(しゃらく)と呼ばれる農民技芸集団が千葉へ巡業してきた折、持ち込んだ唄というのが真相のようである。
お洒落は三味線、鉦、太鼓、四つ竹などを持ち、いろんな唄や踊りで農村を巡業していた。その中の一つにこの唄があった。土地の人たちは、その手踊りを酒盛り唄に転用したのである。
§○大場三郎APCJ-5039(94)小節での声の返し方がうまい。お囃子方は一括記載。囃子言葉は女声。○黒田幸子COCJ-30338(99)重厚で粘り声の幸子節。本来、もっと軽い唄い方のほうがいいだろう。三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、鉦/美波駒世、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若、添田和子。
「安房(あわ)節(ぶし)」(千葉)
♪(アイヨー)
ハァーエ 白帆眠れる 鏡が浦の(アイヨー)
粋な安房節ゃ マァ主の声
エーちんちげねえや ンそんそこだよ
島の烏(からす)が オロロンロン
(アイヨー)
館山市(たてやまし)を中心に唄われている。漁に出る男達の士気を鼓舞するために船頭が唄い、櫓取りが囃した。作業の内容によって唄のテンポが変えられた。主に男は漁獲のとき、女は魚などを運ぶ際に唄ったが、現在では祝いの席などで座興として披露されている。
安房は、阿波国(徳島県)の海洋部族である斎部(いつき)氏(し)が移民して国を造ったとされる。両地方の地名や方言には共通性がみられ、安房には、おおらかな南国気質が残っている。九十九里の浜に船を揚げる時、船を押す女の仕事を“おっぺし”という。東京都江戸川区の葛西から房総にかけて、おっ欠く(壊す、損じる)、おっぺす(押す)というように“おっ”をかぶせて話すが、おっぺすがおっぺしの職業名となった。平成五(1993)年一月、館山市の布良漁港に安房節記念碑が建てられた。
§○寺西シヅCOCF-12697(95)三味線/藤本直之、藤本秀花、尺八/森俊洞、囃子言葉/小桜芳枝、中山優子、太鼓、鉦/西裕之。館山出身で美声で評判をとっていた寺西シヅは、昭和二十年代までお座敷に出ていたという。○京極加津恵COCF-93
08(91)ちよっと蠱惑的で細い声。三味線/神山峰子、神山峰昭、尺八/二代目神山天水、神山天秀月、笛/木津竹嶺、太鼓/木津しげり、鉦/木津かおり。
「押(おし)込(こみ)甚句(じんく)」(千葉)
♪ハァ押せや 押せ押せ(ヨイショ)
船頭さんも 水夫(かこ)も(コイショ)
ハァ押せば 港が(コイショ)オヤサ近くなる
(ヨーイヨイ ヨーイヤセー コイショ ドッコイショ)
房総半島東側の漁師町、夷隅郡(いすみぐん)大原町(いすみ市)の唄。大漁船が港へ漕ぎ戻ってくる際、櫓を漕ぐ手に合わせて勇壮に唄われてきた。押し込みとは、船が次々と港へ押し込んでくるさまをいう。
宮城県下、松島湾沿岸の漁村で唄われていた浜甚句が大原に持ち込まれ、鰯(いわし)漁(りょう)が大漁のときの祝い唄を兼ねた艪漕ぎ唄となった。浜甚句は酒盛りのときや櫓を押すときに唄われ、宮城県の「遠島甚句」などと同系統の唄である。
江戸時代、夷隅、安房の浜には、東北からの船が盛んに立ち寄っていた。ことに興津(おきつ)港(勝浦市)は、東北諸藩の廻米交易船の碇泊地として、その繁栄ぶりは“興津千軒”と称えられていた。
仙台藩は興津の天童山下に陣屋を置き、寄航船の管理をしていた。現在、興津海浜公園にある繋船柱は、仙台藩が運んだものであり、石巻近在から産する“仙台石”と呼ばれる粘板岩だ。かつて港の弁天崎の磯際には十数本も立っていた。これに繋留(けいりゅう)する船舶は、一艘につき金一朱と御供米二升、五百石以下は二百文を納めたといわれている。
§○吾妻栄二郎CRCM-4OO06(90)福田正編曲。お囃子方不記載。管弦楽伴奏。
「勝浦餅搗き唄」(千葉)
♪(ドッコイヨンヤセー ドッコイヨンヤセー ハーヨンヤセー ヨンヤセー)
ここのお家の(ホイ)四隅の角へ(ハーナンダコラ)
末代長者ノナー ホノホイ(ホイ)
花が咲くおめでたや
(ハーヨンヤセー ヨンヤセー)
利根川の土手普請の際に唄った地固め唄が、餅つき唄に転用された。三味線の手が付いて、お座敷唄として唄われている。地固め作業の趣を残し、良い雰囲気を持っている。地固め唄は、茨城県猿島郡あたりの唄のようである。勝浦市は太平洋に面し、いせえびの漁獲量は日本一を誇る。
§△本條晶也ZV-29(87)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/室田秀風、鳴り物/望月太喜之丞、高橋明邦、囃子言葉/西田和枝、西田和好。声が細く、少々子供っぽい。囃子言葉も幼い声を出して唄を支える。
「鴨川やんざ節」(千葉)
♪(ハァ ヤンザヤンザ)
ハァやんざやんざと(キタサ)繰り出す声はヨーエ
(ハァ ヤンザヤンザ)
ほかじゃあるまい 地曳き網
(ハァ ヤンザヤンザ)
房総半島の南東部にある港町・鴨川の花柳界で唄われるお座敷唄。大正十四(1925)年頃、鴨川の梅松屋の西宮はるが、ここに伝わるやんざ節に三味線の手を付けた。元唄は宮城県の松島沿岸の漁師たちが唄っていた浜甚句だが、上品で趣のある唄である。
鴨川から九十九里浜にかけての地曵き網は有名で、かつては大地曵き網が何張も仕掛られ“やんせやんせ”のかけ声も勇ましく曵かれていた。魚が沿岸に近寄らなくなった現在、片貝海岸の数カ所で観光客目当ての地曳き網が行われている。鴨川市は房総半島の南東部、太平洋側に位置する町。平成十七(2005)年二月、旧鴨川市と天津小湊町(あまつこみなとまち)の合併によって誕生した。鴨川の名は、古い郷名の加茂と、町内を貫流している川が京都の鴨川に似ているところから付けられた。
§△佐々木一夫COCF-9308(91)漁師唄としての味わいが薄く、唄の工夫も不足している。そつなく唄うより、もっと唄の雰囲気を表に出して唄って欲しいものだ。三味線/本條宏、本條利子、笛/福田次郎、尺八/木津竹嶺、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波那る駒、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽、佐々木一夫社中。
「木更津(きさらづ)甚句(じんく)」(千葉)
♪ハァ 木更津照るとも 東京は曇れ
可愛いお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャドッコイ
コリャコーリャ 日に焼ける
(サテ シタコリャ シタコリャ シタコリャサ)
酒席の騒ぎ唄。全国各地で見られる二上り甚句が変化した佳曲。
幕末の頃、木更津生まれの落語家・木更津亭柳勢が江戸で唄って大評判になった。明治に入ってしばらく忘れられていたが、大正になり、木更津生まれの芸妓若福が、東京新橋烏森(からすもり)のお座敷で唄って再び大流行。
“照るとも”で節尻が上がるのは東京風。地元では、ハァが一本調子で唄い出され、照るともの“る”が下がり“曇れ”は尻下がりで上がって止まる。
木更津の名の由来は“君去らず”だ。日本武尊(やまとたけるのみこと)は父の景(けい)行(こう)天皇(B.C13-130)に命じられ、東国平定に向かった。相模の走水(はしりみず)から上総(かずさ)の国へ渡る途中、大時化(おおしけ)に見舞われる。妻の弟(おと)橘(たちばな)姫(ひめ)は海神の怒りを鎮めるための生(い)け贄(にえ)となり、自ら海中に身を投ずる。陸に上がった日本武尊は「君去らず袖しが浦に立つ浪のその面影を見るぞ哀しき」と詠み、妻の袖が流れ着いた浜辺に立ち尽くして愛妻を偲んだという。
慶長十九(1614)年、大坂冬の陣に木更津から二十余人の水夫が徳川方へ参陣した。彼らの半数は戦死したが、幕府は水夫や遺族に特権を与え、江戸で専用の河岸を与えた。木更津と江戸の間は半日と少しの距離である。木更津は、潮来方面からくる船の関所として大きな権限を持ち、町は江戸の台所、物資の集積地として栄えた。木更津の船頭衆は、百三十石の帆船で東京湾を渡った。船底は遠浅の海で竿が差せるように平らで、帆柱は大川(隅田川下流部)の橋の下をくぐるときには倒せるようになっていた。囃子言葉の“ヤッサイモッサイ”は、木更津船の船頭の威勢のよい掛け声から取ったものといわれている。
嘉永六(1853)年、切られの与三郎とお富が登場する『与話(よわ)情(なさけ)浮名(うきなの)横(よこ)櫛(ぐし)』が江戸中村座で初演された。二人の馴れ初めは木更津であった。切られの与三郎の「しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年越し……死んだと思ったお富とは、お釈迦さまでも気がつくめえ」の名セリフによって、木更津の名は一躍全国に知られるようになった。
<地元風>
§○志村春美K30X-219(87)出だしの一節と囃子言葉に特色。三味線/藤本e丈、藤本秀三世、尺八/徳永正仁、鳴り物/西泰維。小娘が唄っているような雰囲気がある。○千香丸、鈴若FGS-604(98)三味線/犬塚とく、〆香、豊寿、太鼓/折江。こちらは年増芸者が唄っている雰囲気。
<東京風>
§○下谷二三子TFC-1205(99)編曲者不記載。三味線/藤本e丈、藤本知洋陽、囃子言葉/新津美恵子、新津幸子。花柳界風。下谷は本名・池松二三子。山形県鶴岡市出身。父が興行師、母が歌手という環境に育ち、十歳から舞台に立つ。下谷の花柳界に籍を置き、藤本e丈に民謡を師事。この唄でレコードデビューした。△神谷美和子OODG-71(86)ちょっと大人っぽく、きっちりと唄ってる。お座敷調に流れすぎないところがよい。三味線/本條秀太郎、本條宏、尺八/矢下勇厳、太鼓/山田鶴喜美、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽、白瀬春恵。APCJ-5039(94)お囃子方は一括記載。かわい子ぶりを強調して唄っているが、粋と艶は生来のものであり、経験を重ねて磨かれるものだ。小細工を弄するよりも折り目正しく唄った方がよい。
「行徳音頭(いっちゃ節)」(千葉)
♪ハァー ぬしは沖へ出る マタ わたしは田圃ナアヱ
夫婦揃ふて イツチヤサツト 共稼ぎナアヱ
ハァー 私しや行徳 マタ 塩浜育ちナアヱ
色の黒いは イツチヤサツト 親譲りナアヱ
遠いふるさとの懐かしさが伝わってくる。曲節ともに秀逸な踊り唄。
§◎藤本秀丈大社中OS3702(96)。
「九十九里浜木遣り唄」(千葉)
♪(ハア大漁だ大漁だ)
ハァ ここは九十九里 (ハ ナンダコリャ)
東浪見(とらみ)ヶ浜は (ハ ヨーイヨイ)
今日も大漁の (ハァ ナンダコリャ)
ヤレ旗の波 (ハ ヨーイヨーオイ ヨーイトセ)
ハアリャリャン ハコワノセ ヤートットセ
県東部の長生郡一宮町(いちのみやまち)を中心に、九十九里浜一帯で唄われる。一宮町の玉前神社に参詣する氏子達が、唄い広めた木遣り唄。唄には大漁、海上安全の祈願がこめられていて、一節一節に掛け囃子が入り、威勢のよい唄である。小節を多用せず、海の唄らしく少々荒っぽく唄うとよい。
一宮町は明治二十三(1890)年に町制が敷かれた城下町。太平洋に美しい弓形を描く九十九里浜は、房総半島東岸にある旭市の刑部岬から、夷隅郡(いすみぐん)岬町の太東崎まで続く66qの砂浜である。六町(一町は約109b)を一里として、全体で九十九里あるのでその名がある。砂浜に現れる風紋は風の力や方向で刻々と姿を変え、波打ち際では波が砂を動かして、波(なみ)漣(さざなみ)と呼ばれる模様を作り出している。治承四(1180)年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝(1147-1199)は房州に逃れ、九十九里浜にさしかかった。試みに六町を一里に数え、浜に矢を刺していくと、九十九本で浜が尽きたという。
九十九里町小関は伊能(いのう)忠(ただ)敬(たか)(1745-1818)の出生地だ。忠敬は全国各地を測量して「大日本沿岸輿地(よち)全図」「大日本沿海実測録」を完成させた。
§○大塚文雄KICH-2014(91)大塚は肩肘張った力んだ唄い方をすることが多いが、これは気分よく自然体で唄っていて好感が持てる。編曲/桜田誠一。三味線/藤本e丈、藤本秀輔、囃子言葉/文雅会。△外崎繁栄COCF-9308(91)現代風の声で海の作業唄の感じを出しているが、もう少し荒々しさが欲しいところ。三味線/藤本秀輔、藤本秀茂、尺八/矢下勇厳、笛/老成参郷、太鼓/山田鶴助、鉦/山田鶴弥、囃子言葉/西田和枝、西田和菜。
「白浜音頭」(千葉)
♪サーノエーヨーホエ 房州白浜ヨーホエ
住みよい所ヨ(オサ)
真冬菜種のサ コラショ 花盛りヨ
(ソラ ホントカヨ)
夏は涼風サ 沖から吹いてヨ(オサ)
松の根ごろでサ 夢を見るヨ
(ヨーホエ ヨーホエ ヨイコラショ)
房総半島最南端の安房郡白浜町は、漁業と園芸の町として知られている。真冬でも菜種の花が咲く温暖な土地である。地名は、和歌山県南部の温泉町・白浜の漁民がここに移住して、故郷の名を移したといわれている。歌人の若山(わかやま)牧(ぼく)水(すい)(1885-1928)は、当地の根本海岸で「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」と詠み、作家の林芙美子(1903-1951)は紀行文『房州白濱海岸』を書いた。
昭和三十(1955)年当時、ラジオ東京の人気番組だった民謡フェスティバル担当のプロデューサー・並岡竜司は、房総編を放送するために白浜町を訪れる。観光協会長の森田福之助らと雑談中、白浜を全国宣伝する唄を作ることで意見が一致。当時の町長であった森茂も加わり、翌三十一(1956)年七月「白浜音頭」が誕生した。同四十(1965)年、伊藤かづ子がレコード発売。歌詞と曲調が白浜を訪れる観光客の心を捉え、今や千葉県を代表する民謡として唄われている。平成四(1992)年“民謡で町おこし”を合言葉に、第一回白浜音頭全国大会が開催され、その後、毎年九月に行われている。
§◎伊藤かづ子VZCG-135(97)三味線/静子、豊藤、小沢直与志編曲。野趣があり、ちょっと品のない歌唱。二番の文句に「粋(すい)をきかせて」とあるが、効いているようには思えない。○佐藤松子KICH-8114(93)山口俊郎編曲。三味線/藤本e丈、藤本秀也、囃子言葉/佐藤松子社中。声は婆さま芸者みたいだが、味と渋さに“粋”が効いている松子節。△外崎繁栄COCF-9308(91)元気よく唄い出すが、少々軽薄な歌唱。ことさらなビブラートは日本民謡には不要。三味線/藤本博久、藤本秀久、尺八/佐々木淙山、太鼓/山田鶴三郎、鉦/山田鶴三輪、囃子言葉/新津美恵子、新津幸子。
「銚子大漁節」(千葉)
♪(ハァコリャコリャ)
一つとせ 一番ずつに積み込んで
(ハァコリャコリャ)
川口押し込む 大矢声 浜大漁だネ
(ハァコリャコリャ)
元治元(1864)年の春、九十九里浜の東端、利根川河口に開けた銚子で鰯(いわし)が未曽有の大漁となった。この大漁を記念する大漁節を作ることを思い立った網元の網代久三郎と、俳諧師の石毛利兵衛、銚子の旧家の松本旭江の三人は、数え唄風の歌詞を作った。節付けを常盤津の師匠遊蝶に、振付けを清元の師匠である川安楼のきん子に依頼して出来上がったという。
銚子の鰯漁は、文禄元(1592)年頃、紀州和歌山の漁師がここまで出稼ぎにきて始まったという。紀州の漁民は、早くから伊豆半島沖から房総沖にかけて活躍していたことが知られ、銚子の方面にも、まかせ網、八手網などといった関西漁法が伝わっている。利根川河口の川口は、銚子市川口町(かわぐちちょう)のこと。大矢声は櫓を漕ぐときの掛け声である。
§○地元歌手BY30-5017(85)高い声で唄われ、漁師が持つ野趣があり、標準的な歌唱となっている。お囃子方は一括記載。○初代浜田喜一VZCG-135(97)三味線/大川佳子、鈴木金雄、尺八/千葉淡景、五十嵐竹声、笛/老成参州、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/浜田社中。浜の香りの浜田節。△藤堂輝明COCF-1328
7(96)いなせな元気のよいアンちゃんが唄う。三味線/江川麻知子、江川麻恵美、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、鉦/美波駒世、囃子言葉/白瀬春子社中。
「房州追分」(千葉)
♪ハァ房州館山 沼かしヨーエわ(柏)崎ヨエ
(ハ ヨイジャネカ ヨイジャネカ)
お江戸通いのヨーエ 舟が着く
(ハ ヨイジャネカ ヨイジャネカ)
「朝のでがけ」と同じく、長野県軽井沢町の追分宿で唄われた馬方三下(さんさが)りが母体。最近では、漁師たちの酒盛り唄として唄われている。
§原田直之COCF-9308(91)尺八/佃一生、囃子言葉/西田よし枝、堀征子。やたら元気いっぱいに唄っている。声張り上げて自慢の喉を披露するのも結構だが、粋さと品格が欲しい。全国組織で多くの弟子を集め、大きなステージで各地の唄を器用に唄いこなすのが人気民謡歌手だ。原田直之(1942-)もその一人だが、折り目正しい外見はさておき、くせのある独特の小節は、土の香りや古里の自然の姿を遠くしている。
posted by 暁洲舎 at 07:08| Comment(0) | 関東の民謡
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