2022年03月04日

東京都の民謡

「鮎かつぎ唄」(八王子)
♪鮎はナー瀬につくヨー 鳥ゃ木のナー枝にヨー
人は情けのヨー 下に住むヨー
山家(やまが)育ちのヨー この若鮎もヨー
江戸にナーエ下りてヨー 酒(ささ)の友ヨー
若葉が萌えるころ、真夜中の甲州街道を足早に行く人たちがいた。多摩川で獲れる若(わか)鮎(あゆ)を荷ない、四ツ谷大木戸にある魚市場へ急ぐ人夫たちは、夜通し歩きながら「鮎かつぎ唄」を唄っていた。途中、狐や狸に化かされないための用心であった。新宿に着く頃に夜が明ける。
§△京極加津江COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。鮎を担いで行く人夫が唄うにしてはテンポが遅い。仕事唄らしくないステージ用の歌唱。
「臼挽唄」(東京)
♪ハァーエお前さんとなればナーエ
何処まヨーイ(ヨイサー)でもヨーイ
親を捨てナーエこの世ヨーイ(ヨイサー)でもヨーイ(ヨイサー)
闇とヨーイなると(ソダー)エともやイーヤーヨー
§○秋野恵子COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。
「江戸木遣(きや)り唄」(東京)
♪真鶴
木遣りオーオーオーイヤルヨー
受けエーエーヨーオー
手古
木遣りオーイヤーレテー
受けテーコーセーエーエイエーホーヤーアーネー
木遣りエーイホーシメワーヨーイゾー
受けコーレワーセーエーエイエーホーヤーアーネー
田植(大間)
木遣りヤーレーエーエーエーイーエーエーエーエーヨー
受けヨーイヨーイ
木遣りソーレーエーワー
受けエーエーヨーイヨーイネー
材木や石など、建築資材を大勢で曳いていくときに唄う。木遣りは木をやり渡すという意味だ。山や木には神霊が宿っているという自然崇拝の信仰が底流にある。これが地固めや、これから建てる家の繁栄を祈ったり、工事の無事を祈る予祝の唄として唄われるようになっていく。
棟上げや新築祝いなどの宴席で唄われるようになると、本来の作業唄が祝い唄へと変化していった。江戸では高所で作業する鳶(とび)職(しょく)が木遣りを覚え、祝儀唄や祭礼に唄うものとして転用した。こうして江戸で鳶職の者が唄う独特の江戸木遣りが生まれる。地方でも祭礼用、土木建築用など、多種多様の木遣り唄が生み出された。
唄は音頭取りの独唱と、それを受ける大勢の掛け声との掛け合いの形をとる。作業の手順に従って“真鶴(まなづる)、手(て)古(こ)、棒車”などを次々と唄い、最後に“黒金”を唄って一日の仕事を終えた。鳶職は江戸の町の消防作業にもかかわったので、江戸木遣りは江戸消防記念会によって唄い継がれている。
§○竹本金太郎COCF-6517(90)も組連中。神輿(みこし)かつぎの音入り。
「江戸の子守唄」(東京)
♪ねんねんころりよ おころりよ
坊やはよい子だ ねんねしな
坊やのお守りは どこへ行った
あの山越えて 里へ行った
里の土産に 何もろた
でんでん太鼓に 笙(しょう)の笛
日本各地に伝わる寝かせ唄。でんでん太鼓は、柄の付いた小さな両面太鼓のこと。太鼓に小さな重りが付いた紐が二本ついていて、柄を振ると重りが太鼓の皮に当たって音を立てる。笙の笛は、何本かの竹を束ねて笛にしたものである。
生まれてまもない聖徳太子は夜泣きがひどく、夜泣き太子と呼ばれていた。いつも「ねんねんねんねんろろろろ」と歌ってもらって寝付いたという。この聖徳太子のための子守唄が全国へ伝わり、少しずつ言いまわしが変化していったという。現在でも、聖徳太子像にお参りすると、夜泣きが収まるという信仰が各地にある。
§○三橋美智也KICX-431(96)管弦楽伴奏。
「大島あんこ節」(東京)
♪(ソリャ エンヤラヤノヤー
ハ エンヤラヤノあんこさんに わしゃ迷うた)
エー東京大島は 針金便り
(エンヤラヤノヤー)
ソラ主と私は 文便り
便船で届けられる手紙を待ちわびる島の娘の心情を唄っている。姉コがなまって“あんこ”になった。手ぬぐいをかぶり、前掛けをした美しい娘さんだけでなく、自分より年上の女性はすべて“あんこさん”だ。
東京と大島間の通信は衛星無線だが、昔は海底電線による通信方法が採られていた。エンヤラヤと呼ばれていた長崎県の鯨漁の艪漕ぎ唄が大島化した。
エンヤラヤは、九州の平戸や博多方面で三味線唄となり、その後、全国に広まっていく。山形県では「最上川舟唄」の追分部分になり、北海道では「江差追分」の前唄になっている。大島へは大正の中頃、石川県能登(のと)方面で、酒造り職人をしていた杜氏さんと呼ばれた老人が、岡田港のあたりに伝えたという。昭和に入り、地元の芸妓置屋の主人・白井米造がこれを「あんこ節」と改名。戦前から大島(おおしま)里喜(りき)(1909-1986)が唄って全国に知られるようになった。
§◎大島りきK30X-219(87)野趣と味があり、唄い初めに、かすかなしわぶきが入るのも面白い。三味線/藤本e丈、藤本直久、尺八/米谷智、鳴り物/音羽会、囃子言葉/志村春美、紺野初美。COCF-9308(91)○若い頃の声。三味線/本條秀太郎、本條実、笛/米谷威和男、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/大島太郎、白瀬春子、白瀬孝子。COCF-12698(95)三味線/白井はる子、木村梅子、お囃子方/望月太意之助社中、囃子言葉/柳瀬友子、柳瀬光子。FGS-604(98)三味線/那知市、尺八/黒田尚行、囃子言葉/大島太郎、山田朱美。○大島亜也COCJ-30338(99)若いアンコさんが唄うような雰囲気をだしている。三味線/藤本e也、藤本秀太郎、尺八/米谷威和男、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴助、囃子言葉/大島芳子、大島絹代。TFC-908(00)伴奏者不記載。管弦楽伴奏。
「大島節」(東京)
♪(ア ハイハイト)エーわたしゃ大島の 御神火の育ちヨ
(ア ハイハイト)ヤレ胸に煙りはヨ 絶えやせぬナ
椿の花が咲き、黒潮が岸辺を洗う伊豆大島の代表的な唄。大島の椿は自生のヤブツバキが約三百万本。十一、二月になると、一斉に赤い花を咲かせる。島の中央にある三原山(764b)からは、いつも噴煙が立ち上り、原始の昔から、人々は火を噴く山全体を神格化して崇めた。大島では三原山を“御神(ごじん)火(か)さま”と呼んでいる。
明治の初年ころ、茶の栽培が始まる。土地に古くから伝わっていた“よまい節”と、当時、横浜で唄われていた“お茶場節”を加味して茶摘み仕事で唄っていた。大島が観光地になると、花柳界でも盛んに唄われ、三味線の手が付いて全国に知られるようになった。
§◎大島りきFGS-604(98)三味線/那知市、尺八/黒田尚行、囃子言葉/大島太郎、山田朱美。TFC-1202(99)○三味線/藤本e丈、囃子言葉/地元連中。若い声。FG
S-604(98)三味線/那知市、尺八/黒田尚行、囃子言葉/大島太郎、山田朱美。KICH-
2465(05)素唄。囃子言葉/志村春美、紺野初美。年配のあんこさんが唄っているような味のある唄。海の女のたくましさと一途さがうまく表現されている。晩年の歌唱のようだが、まさに円熟の境地。咳払いの音がかすかに入っているのも一興。UPCY-6192(06)お囃子方不記載。△成田雲竹COCJ-30666(99)三味線/高橋竹山。津軽民謡の第一人者で、国宝的存在の成田雲竹が、あえて関東の民謡に挑戦しているところに、雲竹の民謡研究にかける情熱と姿勢が伺える。
「大津絵節」(東京)
♪大阪を立ち退いて 妾(わたし)の姿が目に立たば
借り駕籠(かご)に身をやつし 奈良の旅篭(はたご)や三輪の茶屋
五日三日と日を送り 二十日あまりに四十両
使い果たして二分残る 金ゆえ大事の忠兵衛さん
科人にならしゃんしたも みんな妾(わたし)ゆえ
さぞやお腹も立ちましょうが 因縁づくじゃとあきらめ下さんせ
死罪になることを知りながらも、男の意地から公金に手をつけた忠兵衛と遊女梅川の逃避行。近松門左衛門の『冥途の飛脚』が唄われている。
「大津絵節」は、東海道大津宿にある柴屋町の遊女たちが唄い出し、江戸時代に流行。明治に入ってからも広く唄われ、元唄は「げほう(外法)梯子(はしご)ずり」で始まり、大津絵の絵柄十種が織り込まれている。絵師で“吃(ども)りの又平”が主人公の近松門左衛門作『傾城(けいせい)反魂(はんごん)香(こう)』は、大津絵を全国に紹介することとなり、各地各様の「大津絵節」が唄われた。
大津の宿で、旅人相手に売られていた大津絵の図柄は、風刺画、武者絵、美人画、鳥獣画など百種類以上ある。江戸後期の文化文政ころには、寿老人、雷公の太鼓釣り、鷹匠、藤娘、座頭、鬼の寒念仏、瓢箪(ひょうたん)鯰(なまず)、槍持(やりもち)奴(やっこ)、釣鐘弁慶、矢の根が大津絵十種として売られた。江戸初期から大衆に親しまれてきた大津絵も、大津宿の衰退とともに消えて行く。
大正期、民衆の中で生まれ育った自由で健康な美こそ、美の本流であるとした柳(やなぎ)宗悦(むねよし)(1889-1961)による民藝運動は、大津絵の価値を再確認させた。
§○藤本二三吉「大津絵」COCJ-32449(03)三味線/小静、秀葉。○五代目古今亭志ん生「江戸大津絵」CF-3378(89)火消しとその女房の情愛を唄う大津絵節は、志ん生(1890-1973)が二十二、三歳のころ、橘家吉之助の弟子である“こみよ”さんから教わったという。永年、慶應義塾の塾長を勤めた小泉信三(1888-1966)は、志ん生が唄う大津絵節を愛好し、聴くたびに号泣したといわれる。志ん生は東京神田生まれ。本名美濃部孝蔵。落語そのままの生き方を貫き、軽妙洒脱な語り口は今なお多くの落語ファンに愛され続けている。
「大森甚句」(東京)
♪鳶(とんび)凧(たこ)ならヨー 糸目をつけて(コイコイ)
手繰り寄せますヨー 膝元にヨー
(キタコラヨイショナ)
昭和初期まで大森海岸一帯の漁師の間で唄われていた。大森は海苔(のり)養殖発祥の地といわれ、江戸時代には御膳海苔として上納されていた。海苔は適度の潮の干満と遠浅で波静かな海面、栄養分を多量に含んだ河口の汽水域を最適とする。かつて、隅田川、多摩川、江戸川が流入し、沿岸の大部分が水深五bより浅い干潟が広がる江戸前の海岸は、その条件を十分に満たしていた。海苔作りは十二月から三月ぐらいに行われ、寒ければ寒いほど良質の海苔ができる。作業は夜中に採り、朝に干すという辛いものであった。海岸は埋め立が進み、海水は汚染されて海苔の生産は絶滅した。
§○白田雅志APCJ-5039(94)お囃子方は一括記載。雅趣があり、粋さも備えている。
「来(くる)梅(め)の茶摘み音頭」(東京)
♪(ハァシャーントセ)
お茶の(ハァシャーントセ)
お茶のでんぐり揉(もみ)ゃ 甲手の毒よ
可愛い嫁御にゃ させらりょか
(ハァ カセゲム怖くちゃ茶は摘めぬット
シャーントセ シャナリトセ)
長谷川凡人採譜、補作詞。梅乃井伯鸞編曲。来梅は旧久留米村(東久留米市)の江戸時代の呼び名である。武蔵野台地のほぼ中央部に位置し、古多摩川が作った扇状地の上にある。
江戸時代には久留目、来目、来梅、久留米の文字があてられていた。昭和四十五(1970)年、市制施行の際、福岡県久留米市との混同を避けるために東久留米市となる。市の地下には豊富な地下水が流れ、市内の多くの場所からは地下水が湧き出して小さな流れを作っている。都市化の進展とともに農地が減少。農業従事者は高齢化している。平成十二(2000)年十二月に実施された東久留米市農業実態調査では、農業を営む369戸中、野菜の生産農家が最も多く、お茶の生産は全く行われていないという結果がでている。カセゲムは触れると痒(かゆ)くなる虫のこと。
§△森田圭一VICG-2040(90)三味線/沖光華、梅乃井伴枝、笛/梅乃井楽洞、尺八/櫻川雪洲、太鼓/西川南洲、鉦/梅乃井歌路、囃子言葉/吉能雅子、吉田素々。長谷川凡人採譜、補作詞。梅乃井伯鸞編曲。魅力に乏しい曲節に加えて、品格のない浪曲調の歌唱。
「神津節」(東京)
♪ハァ神津島(こうづしま)から 来いとのヨー(ソーダヨーエ)
手紙ヨー 行かざナー(ソーダソーダエー)
なるまい 顔見せにヨー(ソーダソーダエー)
四ツ竹が入り、三味線も三(さん)線(しん)的奏法で、沖縄、奄美の民謡のような趣を持つ。黒潮に乗って伝えられたものか。神津島は伊豆大島の南西30kmにあり、地形が複雑で風光明媚な伊豆七島のひとつである。島の中央に聳える火山の天上山(574m)と、南側の軽石層からなる秩父山(283m)で形成されている。伊豆七島とは、大島、利島(としま)、新島、神津島、三宅島、御蔵島(みくらじま)、八丈島の七つをいう。
§○藤みち子VICG-5367(94)三味線/藤本博久、藤本直秀、尺八/米谷威和男、太鼓/美鵬那る駒、四ツ竹/美鵬成る駒、囃子言葉/稲庭淳、森山美智代。穏やかに唄い、雅趣もある。
「新保広大寺」(東京板橋・足立)
(下赤塚節)
♪新保ナーナイハ 広大寺がお市見る目もとナイハ目もとナイヨー
七つナーナイハ 糸よりまだまだ細いナイハ細いナイヨー
(アーセッセ)
(保木間節)
♪お市ゃヨーホイ機織りだヨイ投げ文絹機織らぬヨー
側で広大寺がエ糸をやれ引くだエ巻きゃるヨーホイ
§○市橋美和COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。東京にも「新保広大寺」があった。幼い発声で懸命に唄っている。
「千住節」(東京)
♪ハァー千住出てから(コラショイ)
エーまきの野(や)までは(コラショイ)
棹も櫓櫂も手につかぬ(コラーコラーコラショット)
千住の遊郭で酒席の騒ぎ唄として唄われていた。千住は日光街道、奥州街道最初の宿場である。道の両側に旅籠や料理屋がたち並び、旅人で賑わっていた。
唄の文句は、江戸時代から大正時代まで、江戸と川越を行き来していた隅田川の船頭たちの気持を唄っている。池波正太郎の『鬼平犯科帳』にも登場する粋な民謡だ。
§高橋キヨ子CRCM-40067(05)「千住夜下がり節〜千住節」
「多摩川船頭唄(舟上唄)」(東京府中)
♪舟も新し船頭さんも若い 艫(とも)梶(かじ)頼むぞ船頭さん
キタヤレソノ
舟の綱曳きゃエ足並み揃い 背張りゃ船頭さんの腕ひとつ
キタヤレソノ
§○村松直則COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。
「佃(つくだ)島(じま)盆踊り唄」(東京)
♪イヤ 秋の七草で申そうなれば(アコラショイ)
秋の七草で申そうなれば(ソラヤートセー ヨーイヤナ コラショイ)
人も草木も盛りは花よ(アコラショイ)
人も草木も盛りは花よ(ソラヤートセー ヨーイヤナ コラショイ)
隅田川河口にある中央区佃島の盆踊り唄。念仏踊りを思わせるゆったりとした踊りである。明暦三(1657)年の振り袖火事の後、日本橋浜町から築地に移転した本願寺の本堂完成を祝い、門徒の島民が踊ったのが起源という。
中央には踊りやぐらが立ち、四方へ提灯が張り渡される。やぐらの上には大太鼓が据えられ、音頭取りが太鼓を叩きながら長い口説きを延々と唄っていく。踊り子は唄の文句の合間に“コラ、ヤートセー、ヨーイヤナ、コラショイ”といった囃子言葉を返す。佃島に伝わる盆踊り唄はすべて口説き形式であり、七七の文句を繰り返す。
佃の名は、江戸時代の初め摂津国西成郡佃村(大阪市西淀川区)の漁民がここに移住、定着したことによる。徳川家康が摂津の多田神社参詣の折、佃村の漁民が家康の川渡りを助けた。その縁によって家康は佃の漁師たちを江戸に呼び寄せたが、江戸にやってきた三十余人の漁師たちは、隅田川の河口に点在する干潟に島を築き、徳川直参の漁夫として江戸湾の漁業を発展させていった。
佃煮はここで生み出された保存食。現在の佃島は超高層建築が立ち並び、往時の面影はない。
§○白田雅志APCJ-5039(94)お囃子方一括記載。
「東京音頭」(東京)
♪ハァ踊り踊るなら チョイト東京音頭(ヨイヨイ)
花の都の 花の都の真ん中で(サテ)
ヤートナ ソレヨイヨイヨイ
(ヤートナ ソレヨイヨイヨイ)
西條八十(1892-1970)作詞、中山晋平(1887-1952)作・編曲。昭和七(1932)年、日比谷公園の盆踊り大会で披露された「丸の内音頭」が好評であったことに着目したビクターが、翌年、全東京市民が唄えるような新たな詞を作る。曲名を「東京音頭」として小唄勝太郎と三島一声でレコード化。唄は爆発的な流行をみせた。
西條八十は生まれ故郷・東京の民謡作りが長年の願いであったが、この曲の完成でようやく安堵したという。
中山晋平は、かつて鹿児島市からご当地の新民謡を依頼された折り、西條らと現地を訪れ、地元の芸妓連からさまざまな民謡を聴いた。中山は、当時はまだ広く世間に知られていなかった「鹿児島おはら節」が一番気に入り、そこで使われる陽気で魅力的な前引きを援用した。
§◎三島一声、葭町(小唄)勝太郎VDR-25152(88)三味線/千代菊、千代、鳴り物入り。SP復刻盤。勝太郎は昭和四(1929)年、新潟から上京。日本橋葭(よし)町(ちょう)で芸者となる。同五年に新内の美声を買われてレコードデビュー。同八年「島の娘」が大ヒット。同九年、葭町から除籍して小唄勝太郎と名乗り、同じビクターの市丸と共に“市勝時代”と呼ばれる鶯芸者の黄金期を築いた。現在の民謡歌手には真似のできない微妙な小節使いはさすがである。三島も民謡らしい歌唱で勝太郎をサポートしている。
「豊島餅つき唄」(東京)
♪(コラショット)
ヤーレめでたナエー(ハイ)
めでたの重なるコラ時は(ハアヤーレヤレット)
頼みナエーエ頼みますぞエ(ハイハイ)
餅つきとコーリャ音頭ヨー(ハアヤーレヤレット)
作業唄というより祝い唄の性格を持っている。餅は正月や祭礼、祝いごとがあるときに搗く。そのために唄の文句もめでたさを唄った歌詞ばかりで、特色あるものではない。
蒸し上がった温かい餅米を臼に入れ、搗き崩してこねるとき、杵を掛け合いで打ち下ろして搗くとき、仕上げのときなどで唄を変える。祝いの宴席で唄われるようになると、三味線、太鼓の伴奏が付けられ、賑やかなものとなった。豊島の名は、東京湾に流入する川の河口に多くの島があったことを表している。
§○藤川照夫KICH-2014(91)めでたい餅つきの楽しさがいっぱい。外(け)連味(れんみ)のない素朴さを残す歌唱。三味線/藤本e丈、藤本秀也、尺八/佐竹正堂、鳴り物/山田三鶴、山田鶴祐、囃子言葉/西田和枝、新津幸子。
「新島大漁節」(東京)
♪一つとせ
日の出に船ぎり 積み込んで
前浜押し込む 賑やかさ
(コラ 前浜押し込む賑やかさ)
新島に伝わる威勢のよい大漁節だ。数え唄の形は千葉の「銚子大漁節」と似ていて、唄の文句には新島の特産品などが織り込まれている。新島は伊豆七島のひとつ。東京から南へ約160qのところにある。
§○曽我了子APCJ-5039(94)お囃子方は一括記載。お座敷調で上品な歌唱。囃子言葉は女声が受け持っているが、仕事唄らしく男声にした方が雰囲気がでる。
「八丈しょめ節」(東京)
♪イヤー私ゃ八丈の 茅葺(かやぶ)き屋根よ
かわらないのが わしの胸
イヤーわしの心と 底土の浜は
小石小石と 松ばかり(ショメー)
酒席などで手拍子に合わせて唄われる。唄の終わりにショメショメと囃すところから「しょめ節」と呼ばれる。ショメについては、寒流・暖流の交わる漁場の潮目、処女の意、所望がなまったもの、などとする説がある。海の唄が変化したものらしいが、唄の母体は不明。
伊豆七島のなかで本州から最も遠い八丈島(東京都八丈町)は、三宅島とともに流人の島であった。江戸幕府は八丈島を流刑地と定め、慶長十一(1606)年から明治四(1871)年の間に、千八百余の流人を島に送り込んだ。
流人の第一号は宇喜多秀家(1573-1655)だ。秀家は豊臣家五大老の一人で、領地は備前、美作から播磨、備中に及ぶ五十七万四千石を知行する大大名であった。慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦で西軍の主力となり、徳川家康の東軍と戦い敗北を喫する。同十一(1606)年、八丈島へ配流となり、大賀郷(おおかごう)村の預かりの身となった。島にあること五十年、明暦元(1655)年、八十四年の生涯を島で終えた。
八丈島の名は、この島の絹織物の一疋(二反)の長さが八丈であることや、保元の乱(1156)で破れ、この島で自害した鎮西(ちんぜい)八郎(はちろう)為朝(ためとも)(1139-1170)を敬慕して呼んだ“八郎の島”が、当地の発音で“はっちょうの島”となることから、八丈島になったといわれている。
§○高橋キヨ子CRCM-4OO42(95)三味線/本條秀太郎、本條秀五郎、鳴り物・囃子言葉/鼓友緑佳、鼓友緑笑、横川裕子、金田一公美。高橋の声の濁りは、唄に一種の味と渋さを与えている。
「八丈太鼓ばやし」(東京)
♪太鼓たたいて人 様寄せてよナー
わしも逢いたい 人があるヨー
(ソレ打ちやれ 切りやれキタマダ キタマダ)
昔からこの島に伝わる太鼓のリズムに合わせ、流人たちが故郷の歌をあれこれ唄っているうちに出来上がったものだという。横にした大太鼓の両側から、二人がリズムを細かく刻み、これに併せて叩き手が唄う。太鼓を叩きながら唄う太鼓節は、太鼓の曲打ちが島の人以外には難しいため、藤本直久が三味線の手を付けた。元唄となる太鼓節は、太鼓を叩く合間に唄うものである。島の中之郷、樫(かし)立(たて)地域においては、明治の初期頃に既に唄われていた。
太鼓節は太鼓を叩かないと唄えない。宴席などでも手拍子を打ちながら太鼓節を唄うことはなく、太鼓節を唄っているときは、太鼓は静かに叩かれ、唄が終わると本格的に叩かれる。太鼓節と太鼓は一体である。打ち手は足をしっかり開いて構え、気合いのこもった掛け声を掛ける。大きく振りかぶって繰り出される撥(ばち)さばきは勇壮だが、響きわたる太鼓の音の中に一抹の哀感が漂う。
§○大塚文雄KICH-8112(93)三味線/藤本秀三、藤本秀禎、尺八/米谷威和男、鳴り物/美波奈る駒、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、矢吹紀子。
「春山節」(東京・八丈)
♪春になりゃこそ 桑の木も芽立つヨーイ
様も時節を 待つがよいヨーイ
粋な小唄で 桑摘む主のヨーイ
お顔みたさに 廻り道ヨーイ
八丈島の桑摘み唄。陽光さんさんと降り注ぐ春が到来すると、若い娘達は春山で桑を摘み出す。ほのかな恋心を唄に託し、思う人と添える日を夢見て唄う。のどかな季節の雰囲気が漂う佳曲。唄の文句も洗練されている。
§秋野恵子、市橋美和COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。
「東村山音頭」(東京)
♪東村山 庭先ゃ多摩湖(ソレヤレソレ)
狭山茶どころ 人情(なさけ)にあつい
茶飲み話に 花が咲く花が咲く
(チョイト チョックラチョイト チョイト来てね
よかったらおいでよ お茶いれる)
東村山市は埼玉県所沢市に接する武蔵野台地の新興住宅地。もとは神奈川県北多摩郡に属していたのが、明治二十六(1893)年に東京府へ編入された。昭和三十九(1964)年、町から市へ昇格したのを記念して作られた新民謡。土屋忠司作詞、細川潤一作曲。三橋美智也と下谷二三子の唄で披露された。同五十一(1976)年、TBSテレビの人気番組「8時だよ!全員集合」で使われ、全国に知られるようになった。
§◎三橋美智也、下谷二三子KICH-2185(96)お囃子方不記載。
「三宅島のどう搗き唄」(東京)
♪ハーヨーイコノサンセ
ハァめでためでたの若松様よ(ハーヨーイコノサンセ)
枝も栄える 葉も茂るションガイネ
(ホラ葉も茂る 枝も栄える 葉も茂るションガイネ)
(ヨーホイ ヨーホイ ヨイーコノサンセ)
伊豆七島・三宅島の土搗き唄。太い丸太に何本も綱を付け、綱を引いて丸太を引き上げ、何度も落として地面を固める。音頭取りが一節唄うと、他の大勢が声を揃えて唄う。
平成十二(2000)年六月、三宅島雄山(813m)の山頂噴火は、全島民に島外避難を余儀なくさせ、四年と五ヶ月の苦闘を強いた。同十七(2005)年二月、避難指示が解除され、島外での避難生活も一応の終止符が打たれた。
島名の由来は、事代(ことしろ)主命(ぬしのみこと)の三宅島来島伝説による宮家島説、八世紀に多治比真人三宅麿が流されたことによる説、火山噴火の御焼島説などがある。
§◎三宅村伊豆郷土芸能保存会KICH-2023(91)音頭・斉藤孝次。現地録音。
「麦搗き踊り」(東京・江戸川)
♪搗けたよエ このから麦はエ
麦はこなれて舞い(チョイチョイ)チョイト上がるエ
だんだん団子屋の 団子屋のヨ
ア娘エ団子売らずに ただ(チョイチョイ)色話エ
§○市橋美和、清水あゆみ、牧野節子COCJ-31279(00)お囃子/東京の民謡を歌い継ぐ会。
「武蔵野盆唄」(東京)
♪稔る稲穂を しみじみ見れば 田の草取る日も 辛さも消える
一つ今夜は 踊ろじゃないか おらが村さは 豊年祭り
昭和三十四(1959)年、山崎正作詞、佐藤長助作曲、三橋美智也唄で発表された。郷土の古い唄を母体にして、芸能の獅子舞の調子が入っている。
§◎三橋美智也KICH-2185(96)
「武蔵野餅搗き唄」(東京)
♪御代はナー 御代はめでたの(ハァナンダソダーエ)
若松様よ 枝もナー枝も栄えて(ハァソダソダーエ)ヤレ葉も繁る
祝い事があると餅が搗かれる。この唄は作業に使われるのではなく、祝いごとに唄われる祝儀唄。埼玉県川口市方面から、練り節とともに持ち込まれたもの。雅趣ある名曲だ。
§○鎌田英一CRCM-4OO41(95)尺八/米谷威和男、囃子言葉/渡辺邦夫。鎌田(19
40-)の歌唱は明るさが身上。こうした民謡を取上げる姿勢は多としたい。
posted by 暁洲舎 at 07:07| Comment(0) | 関東の民謡
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