2022年03月04日

神奈川県の民謡

「いかとり唄」(神奈川)
♪沖に見えるは いか採り船か
さぞや寒かろ 冷たかろヨイヨイ
今朝も早よから この浜伝い
ねんねこ寝るまでヨ 守り仕事ヨイヨイ
逗子市(ずしし)小坪(こつぼ)の子守唄。夕暮れの浜風に吹かれながら子守娘が唄う。小坪の高橋サク(1900-?)が伝えていた。
大崎公園のあたりは、昔、小坪の女達の憩いの場で、三月三日には、お花見と称して弁当と雛人形を携えて登り、人形に“西向け!東向け!”と声をかけて海を眺めさせる風習があった。日頃、労働に明け暮れる漁村の女性たちの何よりの楽しみであった。奉公に出ていた娘達も、暇を貰って宿下りした。いかとり唄には、この日を待ちわびる子守娘の気持ちがこめられている。
小坪の小さい入江は、白鷺が舞う“鷺の浦”と呼ばれ、大崎から飯島、稲村ガ崎にかけての磯は棚が発達して、魚貝類や海藻の生育に適した漁場であった。今では小坪湾の大半が埋め立てられ、逗子マリーナとなっている。
作曲家・福田和禾子(わかこ)(1941-2008)が「いかつり唄」として編曲。民謡愛好家の裾野を広げている。
§○高橋キヨ子ZV-52(88)本條秀太郎採譜、編曲、尺八/三橋貴風、藤崎重康、米澤浩、ギター/本條秀長。少しかすれた声が渋い味を出している。お座敷調の子守唄。子守少女の気分と雰囲気は乏しい。○ダ・カーポ(榊原まさとし、広子)「イカ採りの唄」COCP-32234(03)。
「遠藤盆唄」(神奈川)
♪さあさ皆様 踊ろじゃないか(さあさ皆様 踊ろじゃないか)
とかくこの場は うたがつま うたがつま
(とかくこの場は うたがつま うたがつま)
盆よ盆よと 待ちるが盆よ(盆よ盆よと 待ちるが盆よ)
盆が過ぎれば 秋となる 秋となる
(盆が過ぎれば 秋となる 秋となる)
小田急江ノ島線湘南台駅に近く、茅ヶ崎(ちがさき)市に接した藤沢市遠藤地域の盆踊り唄。盆唄は踊りを伴わないご先祖さまへの供養唄のこと。盆唄と盆踊り唄は違うものだ。「北海盆唄」「相馬盆唄」なども同様、盆踊り唄である。
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/高橋祐次郎、高橋祐貴恵、尺八/米谷幸太、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/西田美和、西田和子。
「お茶場唄」(神奈川)
♪(ドッコイ ヤレヤレ ソラモメ ソラモメ)
揉めや揉め揉め 揉まなきゃ縒れぬ(アイヨットー)
揉めば古葉も 粉茶となる
(ドッコイ ヤレヤレ ソラモメ ソラモメ)
十や十二の 小娘さえも(アイヨットー)
今じゃ茶の味 好きな味
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、笛/米谷智、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。
「片瀬餅つき唄」(神奈川)
♪(ソレ)
ヤレ相州サ片瀬の(ソレ)もどりの松はハ松はサ枯れても
(ソレ)名は残る(ヤレ松はサ枯れてもソレ名は残る)
ヤレ相模サ横山(ソレ)照手姫はハ夫(つま)のサためとて
(ソレ)車曳く(ヤレ夫のサためとてソレ車曳く)
藤沢市の片瀬地域は相模湾に面し、江ノ島弁財天参詣への道が通っている。唄の文句にある照手姫は、藤沢が舞台である小栗判官の物語で知られ、スーパー歌舞伎『オグリ』で一躍有名になった。小栗伝説は、説経師によって語り継がれ広められたものだ。県内には藤沢市遊行寺長生院などに小栗判官に関する史跡や伝承が残されている。
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、笛/米谷和修、尺八/米谷雄廣、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。
「五反田節」(神奈川)
♪これほどのエー 旅の疲れを
五反田の酒屋で忘れたや
忘れてもエー 忘れなさなや
五反田の酒屋の小娘ご
県東北部、多摩川南岸の農村部に残る古風な祝儀唄。東京側では「これさま」とか「初瀬」と呼ばれる唄も含めて「五反田」と呼んでいる。かつて川崎市多摩区の東生田(ひがしいくた)、登戸(のぼりと)付近は生田村字五反田と呼ばれていた。その近辺で唄われていたところから名がある。雅趣があり曲想もよい。川崎の古民謡は、そのほとんどが消えてしまったが、わずかに菅(すげ)初瀬保存会などが継承している。
江戸時代から戦前まで、関東の婚礼の席で唄われてきた祝い唄が「初瀬」と「これさま」である。「初瀬」は高砂、鶴亀などのめでたいものをはじめ、農作に関係ある品々を唄の文句に載せて、祝いの席を盛り上げる。「はつうせ」のはつは初めて、うせは産声の意味であるという。
「これさま」は、こちらさま、ご当家という意味で、婿と嫁をほめたり、祝いの席のご馳走のお礼などを唄い込む。ともにゆったりとした素唄いが深い味わいを醸す。
§○高橋キヨ子CRCM-4OO42(95)笛/米谷龍男。格調高く唄っている。高橋は横浜市出身。幼い頃から鈴木昌桃に指導を受け、民謡を研鑽。昭和五十一(1976)年からは三味線の本條秀太郎に師事し、主に西の民謡を得意としている。
「相模木挽き唄」(神奈川)
♪ハァーどんどどんどと(ハァ ソレ)
鳴る瀬はどこだヨ(ハァ ズイコン)
私ゃ深山の(ハァ ソレ)滝の音だヨ
(ハァ ズイコンズイコン)
木挽き作業の中で唄われた。木挽きの仕事は、山から山へと渡り歩き、山小屋に寝泊りして何日かの労働に従事した。家族と離れて暮らす寂しさや、渡り者の侘(わび)しさを唄いあげている。囃子言葉は、鋸(のこぎり)を挽く音を擬音化したもの。
神奈川県東部は丘陵と沿岸部、中央部は平野と台地である。山地は西部にあり、箱根と丹沢山塊には1500b級の山々が連なり、木樵(きこり)の舞台だ。
§○横川正美APCJ-5039(94)味のある声と節で、木挽き衆の雰囲気をうまく出している。お囃子方は一括記載。
「ささら盆唄」(神奈川)
♪ヤンーレェ 盆が来た来た 並木の道に
石の地蔵さんに 煙立つ煙立つ
(ハァ ササラ踊りヨー)
藤沢、茅ヶ崎、平塚周辺の農村部で復活させた伝統的盆踊り唄。太鼓のほかに、びんざさらを使って囃す。びんざさらは、竹や木の薄い小板を紐で束ねた楽器で、田楽系統の踊りに用いられる。地域によって形は違うが、チベットで発祥したとされる。富山県の「こきりこ節」のびんざさらが有名。
形として整ったびんざさらは、長さ15a、厚さ0.6aぐらいの檜(ひのき)の板を百八枚使い、全長が1bほどのもの。小板の一端を木綿の紐で綴り、両端に把手をつける。連ねた小板を波立たせるようにすると、板と板がふれ合って音を出す。田楽踊りは、田植えの時、農民たちが豊作を願い、笛や太鼓を鳴らして唄い踊る。派手な動きではなく、静かにゆっくり踊る。
§○紺野初美APCJ-5039(94)お囃子方は一括記載。
「だんちょね節」(神奈川)
♪三浦三崎で どんと打つ波はネ
可愛いお方のサ 度胸だめし
ダンチョネー
唄の末尾に付くダンチョネは“断腸ね”の意味で、船に乗って出てゆく人との別れは悲しく、断腸の思いだと唄う。三浦市は、古くから全国有数の遠洋漁業基地として栄えた港町だ。
大正から昭和の初めにかけて、蛮カラ学生の間で「デカンショ節」などと共に酒席の唄として唄われ、大いに流行した。1960年代、日活映画全盛期を担った小林旭(1938-)が映画『海から来た流れ者』の主題歌として歌った「アキラのダンチョネ節」(西沢爽作詩、遠藤実補作曲、狛林正一編曲)は、多くの若者に好まれ広く歌われた。80年代には、演歌歌手の八代亜(1950-)が「舟唄」(阿久悠作詞、浜圭介作曲、竜崎孝路編曲)の挿入歌に用いるなど、根強い人気を持っている。
§○新橋千代菊KICH-2014(91)白石十四男編曲。お色気と艶のある美声。小粋なお座敷調にこなして唄う。三味線/藤本e丈、藤本喜代美。○高橋キヨ子ZV-18
(86)渋さと味があり潮の香りをうまく出している。本條秀太郎の三味線がよい。
「チャッキラコ」(神奈川)
♪<初伊勢>
春の(初めに)エーエ初めにエーエ酒や肴はよけれども
エー今日の(はついせ)エーエ初伊勢エーエ春のご祈祷さ
(エー春のご祈祷さ)
♪<チャッキラコ>
こされうつには きりりとしゃんと(イヤ)
ここは四つ角 人が聞く(イヤ)
(チャンチャンコリャチャンチャン)
♪<よささ節>
(ヤーセノセーヨササノサオヤツンツンテン
ドッコイヤレヤレソラモメソラモメ)
三崎町にも 竜宮がござる(オヤヨササノサ)
あの娘(こ)乙姫 チョイト器量良し
(ヤーセノセーヨササノサオヤツンツンテンツンツンテン)
毎年一月十五日、三浦市三崎の海南神社に奉納する踊り。三崎の仲崎、花暮地区に伝わり、国指定重要無形民族文化財に選定されている。
海南神社は、三浦一族の総鎮守として天元五(982)年に創建された。祭神・藤原資(すけ)盈(みつ)の妃・盈(みつ)渡(わたり)姫(ひめ)が土地の娘に教えたという口碑がある。源頼朝が宴を催した歌舞島で、頼朝を慰めるために里女の歌に合わせ、童女たちが即興的に小竹を叩いて踊ったのが始まりともいわれる。
「初伊勢」「チャッキラコ」「二本踊り」「よささ節」「鎌倉節」「お伊勢参り」の六種の踊りを総称して「チャッキラコ」と呼び、四、五歳から十三歳ぐらいまでの少女たちが、母親の唄で舞い踊る。
チャッキラコは、二本の細く短い綾竹の棒に飾りをつけたもの。両手に持って打ち合わせたときの音が曲名の由来である。女性だけが参加資格を持ち、伴奏楽器は使わない。大正の頃まで「よいよいよいやまかせ」という手踊りがあった。
§○高橋キヨ子CRCM-40042(95)採譜・編曲/本條秀太郎、三味線/本條秀太郎、本條秀長、笛/米谷龍男、鳴り物/美波駒輔、鼓友しげり。
「剣崎大漁節」(神奈川)
♪空にゃ雲なく 吉野瀬なぎだ(ハァ ドッコイドッコイ)
イサギ大漁の 手が勇む(ハァ大漁大漁)
面舵ぐっすり 左舵にっこり
浜は祭の にぎやかさ(ハァ大漁大漁)
石塚義一郎作詞、三橋美智也作曲、川上英一編曲の新民謡。
三浦半島南端、剣崎灯台の袂にある松輪漁港周辺に伝わる松輪甚句に、漁船の航海を祈る船玉信仰の言葉を取り入れて新作したという。
一本釣りで漁獲される松輪サバは、大分の佐賀関で水揚げされる関サバと並び、絶品。希少価値の高い魚だ。
§◎三橋美智也KICH-2185(96)。
「箱根駕籠かき唄」(神奈川)
♪竹にナー なりたや(ヤレヤレ)箱根の竹に
諸国ナー 大名の杖竹にナーエ
(ヘッヘッ ヘッヘッ ヘッヘッ)
かつては雲助唄といわれて、かえりみられることが少なかった。民謡本来の仕事唄としての雰囲気を伝える貴重な唄。
雲助が一息入れて、担ぐ肩を入れ替える際、歩みを止めたとき唄う。雲助は宿場や街道において荷物運搬に携わった人夫のことだ。参勤交代の大名行列の際には、運搬人足として長持などの荷物を担いだ。箱根長持唄が駕籠をかつぐときは駕篭かき唄となる。行方(ゆくえ)定めなき浮雲のように、定住せず、品行の悪い者が多かったこともあり、無頼の者を指す蔑称として使われた。街道筋で客を待ち構える様子が、網を張って待つ蜘蛛(くも)のようであるから、蜘蛛助と書くこともある。
雲助の中には、多くの人々に慕われ尊敬を受けた者もあった。
旧東海道、箱根の中腹にある山中新田の東端、老杉の下に雲助久助の墓がある。久助は武家の生まれともいわれ、日頃、頭役として仲間を取り締り、若者や困窮している者の面倒をよく見た。往来で悪者に絡まれて弱っている者には身をもってかばい、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたという。
§◎杉崎浜吉、府川治朗助、杉崎良蔵TFC-1206(99)野趣にあふれた歌唱。掛声に臨場感がある。杉崎浜吉は大正四(1915)年一月、箱根に近い小田原の大窪村出身。幼い頃から箱根周辺の唄に興味を持ち、特に父の長太郎が唄う駕籠かき唄は自然と身に付いた。浜吉は、駕籠かき唄は馬子唄のように伸ばしてはいけないと教えられていた。叔父の亀太郎は“うた亀”の異名を取り、箱根の馬子唄を唄わせれば名人といわれた。○邑山清APCJ-5039(94)掛声/不記載。長閑(のどか)な感じを出して唄っている。
「箱根馬子唄」(神奈川)
♪(ハーイハーイ)
箱根エー(ハーイ)エー八里は(ハーイ)
馬でも(ハーイ)越すが(ハーイハーイ)
越すに越されぬ(ハーイ)大井川(ハーイハーイ)
箱根エー(ハーイ)御番所に(ハーイ)
矢倉沢(ハーイ)なけりゃ(ハーイハーイ)
連れて逃げましょ(ハーイ)お江戸まで(ハーイハーイ)
東海道を江戸日本橋から西へ二十四里八丁、箱根は十一番目の宿である。箱根峠は東海道随一の難所であり、旅人は馬や駕篭を利用して峠を越えた。
箱根八里は小田原から三島までの距離をいう。小田原から箱根までは四里八丁、箱根から三島までは三里十八丁あった。
曲節は、箱根で馬子や雲助をしていた杉崎長太郎、亀次郎兄弟が唄う馬子唄が有名。両人の節回しをまねて箱根馬子唄の形が出来上がった。
『椿説弓張月』(1806)や『南総里見八犬伝』(1814)などで知られる滝沢馬琴(1767-1848)は、箱根越えと大井川越えを比較して「箱根八里は汗を流して上る。騎馬は越え来る行路安し。却って懼(おそ)る昨今の皐月(さつき)雨(あめ)。明朝は大井の水漫々」と漢詩に詠んでいる。
§◎杉崎浜吉FGS-604(98)掛け声/杉崎良蔵。◎杉崎亀次郎COCF-1269
7(95)○橋本芳雄COCJ-30338(99)尺八/石高琴風、鈴/美波駒三郎、掛け声/丸山正子。掛け声の丸山に強い個性があり、上出来だ。○佐藤信治APCJ-5039(94)馬子唄の雰囲気をうまく出している。△芳村君男00DG-70(86)芳村の唄う民謡では一番の出来だろう。尺八/矢下勇厳、掛け声、鈴/矢下勇。尺八の矢下勇厳は、昭和十一(1936)年、山形県生まれ。矢下勇(1930-2001)に師事して修練を積んだ。勇厳の尺八は繊細さより、伸びやかな大きさに個性がある。
「三崎甚句」(神奈川)
♪エー三浦三崎に(アイヨーエ)どんと打つ波は
可愛いお方の 度胸定め(エーソダヨーエ)
三崎の港に 菊植えて(エー根もきく葉もきく枝もきく)
エー晩にゃ あなたの便り聞くエー(キタサーエー)
東京湾と相模湾に挟まれて突き出した三浦半島の先端にある三崎港は、近海漁業の中心となる港である。明治の頃までは遠く三陸、紀伊、土佐、南九州からも漁船が集まる港であった。
陸に上がった船頭衆や、漁師相手の港の女が酒席の騒ぎ唄として唄っていた。全国各地に分布する二上り甚句が変化したもので、特に“トコラットの帆前船、上はデッキですべくるよ”とか“兄貴が待ってた烏賊(いか)なます、おいらも一杯食うべかな”などの後囃子に特色がある。この後囃子も、千葉県安房郡一帯で唄われている安房節と共通しているから、三浦半島、房総半島の両方で唄われていたようである。野趣と粋さのある唄である。
港から250b離れた海に浮かぶ周囲4`の城ヶ島に北原白秋(1855-1942)の歌碑が建っている。白秋は大正二(1913)年五月から翌年二月までをここで過ごした。梁田貞(1855-1959)が美しい曲を付けた「城ヶ島の雨」は、夢見る多くの乙女たちに歌われたが、民謡の「三崎甚句」は次第に忘れられて行った。
§○鳴海重光TFC-1207(99)尺八/菊池淡水、三味線/ばら田芳三社中、鳴海重光社中、鳴り物/山田三鶴社中、囃子言葉/鳴海重光社中。○高橋キヨ子CRCM-4OO
42(95)三味線/本條秀太郎、本條宏、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田美智枝。渋い声で唄う。美声でないところが高橋のよさ。
「横須賀長坂長持唄」(神奈川)
♪めでためでたの 若松様よエー
枝もナー栄えて 葉も繁るヨー ホイホイ
こぼれナー松葉をサ アレ見やしゃんせヨ
枯れてなナー 落ちても 二人連れだヨ ホイホイ
§○岩井きよ子KICH-184(03)米谷龍男採譜。尺八/米谷智。
posted by 暁洲舎 at 07:07| Comment(0) | 関東の民謡
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