2022年03月04日

新潟県の民謡

「相川音頭」(新潟)
♪どっと笑うて 立つ波風の(ハイハイハイ)
荒き折節(おりふし) 義経公は(ハイハイハイ)
いかがしつらん 弓取り落とし(ハイハイハイ)
しかも引き潮 矢よりも早く(ハイハイハイ)
七七調四句の口説き形式盆踊り唄。佐渡の金山奉行を慰めるために唄い踊られ、御前踊りの名がある。中国地方の口説き形式の盆踊り唄が持ち込まれたもの。当初、唄の文句には色ものや心中ものが多かった。文政(1818)から天保(1830)の頃、五段の源平軍談が相川の山田良範によって作られた。
大正十三(1924)年、郷土芸能保存のために設立された立浪会は、主にこの歌詞を唄った。そのために、口説きの盆踊り唄が持つ自由奔放さが失われていったが、逆に品格ある唄と踊りの民謡となった。哀調を帯びた節と洗練された優雅な踊りで、今や日本を代表する民謡となっている。
立浪会は創立直後から、日本全国のみならず台湾、中国にも長期演奏旅行を実施。人々に唄を聴かせ、踊りを教えた。
毎年六月の初め、相川音頭流しの“宵乃(よいの)舞(まい)”が相川京町通りを中心に開催されている。薄暗い京町通りの両脇に特製の雪洞(ぼんぼり)を灯し、漁火(いさりび)を見ながらの流し踊りは、ひときわ風情を感じさせる。
§◎村田文蔵COCF-12698(95)三味線/松下くめ子、琴/秋月大丸、笛/関野卯太郎。囃子言葉/はやし連中。壮年の気迫ある歌唱。COCJ-307OO(99)三味線/松江駒吉、小鼓/丸岡藤作。TFC-1210(99)お囃子方不記載。村田(1882-1956)はこの唄の模範演唱者。立浪会の唄い手として唄の普及に大きな功績を遺し、相川町第一号名誉町民となっている。立浪会の会長であった曽我真一(1893-1992)によると、村田の性格は美声とは逆に大変に地味で、酒は呑まずの大の甘党。いつもにこにこ顔をしていて、長い付き合いの間、一度も怒った顔をみたことがなかったそうだ。○小杉栄山CF-3458(89)味わいの年輪を刻んだ声でいい雰囲気を醸す。三味線/水野はま子、高橋みつえ、笛/老成参州、太鼓/星野秀子、鼓/貝瀬松寿、囃子言葉/白瀬春子、星野美恵。△初代浜田喜一VZCG-134(97)浜田節。三味線/大川佳子、市川紫、尺八/千葉淡景、矢下勇、笛/老成参州、鼓/堅田喜三久、囃子言葉/浜田社中。
「出雲崎おけさ」(新潟)
♪(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
おけさ踊りと 磯打つ波はノ
(ハヨシタヨシタヨシタナ)
いつも心が ソーレいそいそと
(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
佐渡へ渡る港として寺泊とともに賑わった出雲崎は、良寛(1758-1831)出生の地として知られる。江戸時代には陸路、海路の要所であり、幕府の直轄地(天領)として栄えた。
この地が港の賑わいをみせていた頃、船人相手の遊女たちが酒席で唄った。早い調子で上の句が地口、下の句になると節になる。この種の技法は「寺泊おけさ」や「柏崎おけさ」などと同じだ。
おけさ節は江戸中期ごろ、北前(きたまえ)船(ぶね)とともに北上した九州のハイヤ節が変化したものというのが定説だが、賑やかなお囃子と勢いのある曲調にその影響を色濃く残している。
出雲崎町大字羽黒町の海沿いに“おけさ源流の地”の碑が立っている。源義経に殉じた佐藤継信、忠信兄弟の母(音羽御前)は、我が子を弔う旅の途中、ここ出雲崎で息子たちの奮戦を聞き、喜びのあまり袈裟を着けたまま唄い踊ったことが、おけさの唄と踊りの始まりだとの伝承が刻まれている。
§○牧野藤吉COCF-13287(96)野趣があり、素朴な力強さがある。三味線/小林タケ、中越孝一、関本トネ、笛/池田朝秋、太鼓/関本文治、囃子言葉/中川寅吉、小林トキ、渡辺トキノ。○安藤春子FGS-605(98)三味線/高橋吉雄、鉦/小野塚西之助、太鼓/岩崎文二、囃子言葉/足立八重子、高橋よしえ。字余り。爽快感は乏しいが、野趣にあふれ、田舎臭さを残しているところがよい。△小林声松APCJ-5037(94)少々素人っぽい唄い方だが、そこに捨てがたい野趣を感じさせる。お囃子方はCD一括記載。
「岩室(いわむろ)甚句」(新潟)
♪おらがヤー若いとき 弥彦(やひこ)参りをしたればナー
(ハヨシタヤーヨシタヤー)
なじょが見つけて 寄りなれというたれど
嬶(かか)が居たれば 返事がならぬ
(ハヨシタヤーヨシタヤー)
岩室は弥彦神社参詣の人々の宿場として栄えた。曲節は素朴で味わい深く、曲調はゆったりとして柔らかい。唄の文句も世相、風俗を反映していて面白い。
昭和七(1932)八年頃、岩室の鴬芸者・小竜と初江が中心となり、三味線の手と太鼓を工夫。今日の「岩室甚句」を作り上げた。母体になっているのは近郷の農民たちが盆踊りに唄う越後甚句の一種であり「新潟甚句」や「長岡甚句」などと同系統のものである。新潟や長岡のような派手な芸風とは対照的に、素朴な温泉場の唄らしい野暮さがある。
岩室温泉は多宝山や弥彦山の山麓に古くから栄えた温泉で、昔、一羽の雁が舞い降り、傷を癒(いや)していたのを村人が見て、その効能を知ったのが始まりとされる。一名“霊雁の湯”。囃子言葉のヨシタヤの意味は不明だが「長岡甚句」「出雲崎おけさ」などの囃子言葉にも使われている。“なじょ”は馴染みの女性。“だいろ”は蝸牛(かたつむり)のことだ。
§○久子COCF-13287(96)野趣があり、新潟民謡の粋さををうまく出している。三味線/柏原チセ、和田タマ、笛/久保田春男、本間駒吉、太鼓/市川サキ、囃子言葉/井塚タキ。△浅草〆香APCJ-5037(94)小節の使い方に田舎芸者の粋さを感じさせ、味もある。この唄は男性より女性が唄う方がよい。
「魚沼田植唄」(新潟)
♪(ハァ ヨシタイヨシタイ)
苗がよければ 代もよい
三千刈りも ひとしきりヨ
ひとしきりテバ ひとしきりヨ
(ハァ ヨシタイヨシタイ)
魚沼市は福島県との県境に位置し、緑の山々に囲まれている。魚沼産のこしひかりは日本有数の銘米だ。田植え唄は苗を水田に植え付ける作業の中で唄われる。越後の山々に降り積もった雪は豊富な雪解け水となって、魚沼の地を豊かに潤す。昼夜の寒暖差が大きいことは、丈夫で強い稲を育てる要因だ。
越後では車田植えが行われていた。苗を車の輪のように田の中心から円を描きながら、後ずさりして植えていく方法である。縄や木の定規を使って植える定規植えや、木枠を転がして植える型植えとは異なり、古い時代の田植えの方法である。
苗がなくなると、苗配りは後ろから声を掛けて苗を投げる。今では前へ進みながら植えるようになり、唄を必要としなくなった。作業の方法が移り変わる過程で、唄が持つ役割も変化していき、唄は徐々に消滅していく。今では田植え唄が伝承されている地域は、比較的山間地か零細な田んぼが多い地域に限られてしまった。全国的に近代化していく農法に順応できず、対応が遅れたために田植え唄が残されたのである。
§○水落忠夫APCJ-5037(94)長閑な感じを出している。野趣と雅趣のある歌唱だが、力強さも欲しいところ。お囃子方は一括記載。
「越後追分」(新潟)
♪<本唄>
(ハァー ソイソイソイソイ)
櫓も櫂も(ソイ)波に取られて(ハーソイ)
アー身は棄て(ソイ)小船ヨー(ハァー ソイソイソイソイ)
何処へ(ソイ)ハァー取り付く(ソイ)島もない
(ハァー ソイソイソイソイ)
<合いの手>
よくも染めたよ船頭さんの厚子(あつし)ヤラサノエー
腰には大船裾に波背に錨(いかり)の紋どころネー
質に入れても流りゃせぬ(ハァー ソイソイソイソイ)
馬子唄くずし的な本唄と、長崎県の西海岸一帯で唄われていたエンヤラヤが変化した合いの手から成っている。エンヤラヤは鯨漁の船漕ぎ唄。
瞽女(ごぜ)や座頭などの遊芸人は、本唄だけでは短すぎて座が持たない。そこで、合いの手の部分を伸ばして口説風(くどきふう)の松前節を生み出し、二つを結び付けた。
信州浅間山麓の追分(おいわけ)宿(じゅく)は、中仙道と北国街道の分岐点である。そこの飯盛り女たちが唄い出した唄を追分節と呼び“蝦夷(えぞ)や松前やらずの雨が”の文句が好まれて唄われたため、別名を松前節という。それが越後にも伝わり、県下全域で広く唄われるようになった。この唄が日本海を北上して北海道に入り「江差追分」を生み出す。戦後、各地の追分が紹介されるようになると、区別するために地域名が冠せられるようになった。
§◎鈴木節美APCJ-5037(94)重い三味線の伴奏とソイ掛けに趣があり、素朴な声に味がある。◎月子00DG-70(86)三味線/千代栄。渋くて重く低い声で力があり、三味線が味わい深い雰囲気を醸す。COCF-9309(91)○三味線/千代栄。○初代浜田喜一VZCG-134(97)“追分の浜田節”とその名を謳われただけに、浜田の追分には独特の味と雰囲気がある。尺八/千葉淡景、斉藤二男、掛声/丸山正子。
「越後船方節」(新潟)
♪(ハァ イヤサカサッサ オイソレマカショ)
日和山から(ハァ イヤサカサッサ)沖眺むれば(ハァ イヤサカサッサ)
沖には鴎の夫婦連れ
足を櫓櫂に身を舟に(ハァ イヤサカサッサ)
羽根を帆にして舟遊び
私の心もその通り(ハァ イヤサカサッサ)
夫婦仲良くトコアンチャンそのように
(ハァ イヤサカサッサ ハァ イヤサカサッサ)
島根県下の港で、酒席の騒ぎ唄として唄われていた出雲節が、北海道通いの北前船によって新潟の港に入り、越後色に染め上げられた。船人が酒席で好んで唄うので船方節と呼ばれた。さらに北上して山形の「酒田船方節」や秋田の「秋田船方節」を育てる。新潟の花柳界に入った船方節は、花柳界の水で磨き上げられ、昭和の初め頃まで盛んに唄われた。
一般の人たちが唄うには難しすぎたが、戦後まもなく新潟の鈴木節(せつ)美(み)(1898-1986)が今日の節回しにして唄いやすいものとした。この唄をもとに秋田県男鹿市の森八千代が「秋田船方節」を完成させたといわれる。
§○椿正昭VZCG-134(97)小沢直与志採譜・編曲。気分よく唄っている。声に作業唄、海の男の力強さが欲しいところだ。三味線/静子、豊藤美、尺八/坂田誠山、〆太鼓、太鼓/栗原進、囃子言葉/西田和枝、西田和美。
「越後松坂」(新潟)
♪ハァめでためでたの この酒盛りは
枝も栄える 葉も繁る
松坂は越後の蒲原(かんばら)地方で生まれた祝い唄だ。越後瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の女性や座頭が、この唄を普及させた。かつて“瞽女さん”は関東、北陸から九州にいたる広い地域にわたって見られたが、今では見られなくなってしまった。越後の高田瞽女と長岡瞽女は、近年まで存続していた。三味線を小脇に抱え、食器や粗末な寝具を茣(ご)蓙(ざ)にくるんで背負い、一人の目明きの手引きが持つ紐につかまって歩いた。一年のほとんどが旅に明け暮れた。
瞽女宿に荷を降ろすと、近所を門付けに回る。その夜は、集まった人を前にして段物や口説きを語り、いくらかのお金を貰った。越後瞽女は八(や)百(お)屋(や)お七、鈴木主水(もんど)、お吉清三など、いろんな物語を取り入れた新保(しんぼ)広大寺、追分、松坂を諸国に持ち回る。そうした唄はその土地土地に根付いていった。群馬県の「八木(やぎ)節(ぶし)」、秋田県の「飴売り唄」、青森県の「じょんから節」、北海道の「道南口説」などは、瞽女が伝えた唄から生まれたのである。松坂が越後のどこで生まれたかは不明だが、南は九州鹿児島の屋久島から、北は北海道まで唄われている。
§小杉真喜子KICH-313(18)瞽女唄の雰囲気は全くなく、土の匂いも乏しい。
「小木(おぎ)おけさ」(新潟)
♪(ハァ アリャサ サッサ)
ハァー小木の(ハ アリャサ)
御崎の四所五所 桜よ(アリャアリャ アリャサ)
枝は越後へ 葉は佐渡へ(アリャサ サッサ)
九州の「ハンヤ節」が移入されて「小木ハンヤ」になり、それが「小木おけさ」になった。素朴でテンポも早い。小木港(佐渡市小木町)は佐渡の南玄関口であり、日本海を航行する北前船貿易の中継港であった。江戸時代には金の積み出し港として大いに繁栄し、上方(かみがた)の文化もこの港から入ってきた。海に突き出た城山で区切られた西側を“内の澗(ま)”、東側を“外の澗”と呼ぶ。
昔、主人に大変可愛がられた猫がいた。ところがその主人の家が没落する。猫は主人の苦境を救うために遊女に化け、小木、出雲崎あたりの廓で、おけいと名乗って働くようになった。美人で美声のおけいさんが唄い始めた唄は、おけいさん節と呼ばれ、それが訛って「おけさ節」になったという。漁港で生まれたおけさ伝説である。新潟県下のおけさ節はかなりの数がある。
§鹿島久美子VZCG-134(97)三味線/豊藤、豊藤香、笛/老成参州、太鼓/美波駒輔、囃子言葉/白瀬春子、白瀬孝子。きれいに唄い過ぎて野趣に欠ける。
「柏崎おけさ」(新潟)
♪厚子縄帯 腰には矢立てヨ
(ハ アリャヨイヨイヨイ)
伝馬櫂かく ヤーレ程の良さ
(ハ アリャサコリャサ)
三味線の弾き方に特徴がある。三の糸を押さえて撥(ばち)を打ちつけ、木をたたくような音を出す。柏崎は新潟と直江津、佐渡の小木を結ぶ経済流通の重要地点で越後文化の中心地でもあった。戦前、おけさ節の人気を全国的に高めたのは、新潟市曽川生まれの浪曲師・寿々(すず)木(き)米(よね)若(わか)(1899-1979)であった。米若の浪曲「佐渡情話」は大変な人気を呼び、昭和九(1934)年には日活京都で映画化もされている。
寿々木米若の佐渡情話のあらすじを紹介しよう。
柏崎の漁師・吾作は漁に出て遭難したが、佐渡小木町の茂兵衛に助けられ、娘のお光と恋仲になる。お光は、おけさ節が大変うまかった。お光は柏崎に帰って行った吾作に会うために、たらい船で柏崎に繁く通う。お光には親同士が約束した許婚の七之助がいた。七之助は、お光の気持が吾作に向いているのが面白くない。言い寄って振られると、手篭めにしようとしたが思いを遂げることができなかった。七之助は腹いせにお光のたらい船を壊してしまう。お光は嘆き悲しみ、遂に発狂する。
毎日、浜に出て吾作を偲び、日を送っていた。そんなある日、吾作が戻る。吾作はお光を抱きしめ、愛の力で必ず治してみせると決意する。そこへ佐渡に流された日蓮が通りかかり、お題目を唱えて祈るとお光は正気を取り戻し、二人は末永く仲良く暮らしたという。
小木半島に伝わるたらい舟は、昔の大事な嫁入り道具。小回りが利いて安定感があるため、今でもワカメ採りやサザエ漁で使われている。
§○赤川イシ子KMH-07923(95)柏崎民謡保存会。囃子言葉/春日美寿、三味線/田辺伊勢松、間島正明、太鼓/横村英雄、笛/桑原秀雄、服部真一、小川静乃。保存会は、柏崎の民謡愛好家によって昭和二十八(1953)年十月に結成された。
「春日山節」(新潟)
♪戦(いくさ)するなら 謙信公のような
アリャ謙信公のような
敵も情に 泣くような
ソーダソーダソーダその意気だその心意気
相馬(そうま)御風(ぎょふう)(1883-1950)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の新民謡。相馬は糸魚川市(いといがわし)大町(おおまち)生まれ。早稲田大学校歌「都の西北」や童謡「春よ来い」などの作詞で知られる。晩年は郷里に帰り、良寛の研究に没頭した。
§○鈴木正夫VZCG-134(97)編曲/小沢直与志。
「加茂(かも)松坂(まつざか)」(新潟)
(チョイ アリャアリャサ ハイ チョイアリャサ)
加茂のヤ(ハイ)エエー咲く花(ハイ)
矢立てで開く(ハァ ドウシタ)
矢立て松原花所(ハイ)
イヤアエーノヤエー アリャアリャサ
朝の帰りに袖引きとめて(ハイ)
辛抱しゃんせと目に涙 目に涙
(チョイ アリャアリャサ ハイ チョイアリャサ)
加茂市に伝わる盆踊り唄。上方の木遣(きや)り唄が踊り唄に変化した。上方色の濃い、気品ある唄となっている。
慶長三(1598)年、加賀大聖寺の城主・溝口秀勝(1548-1610)が新発田(しばた)に入封。加茂近在の新田開発を進めたことで、能登(のと)、加賀方面からの移住者が多くなった。唄はこの人たちによって伝えられたものだという。郷土の民謡として定着したのは寛文の頃。弘化四(1947)年、加茂が桑名藩の預かり領となり、伊勢との交渉ができたことから伊勢道中唄の影響があったといわれている。曲は二種類を交互に反復して唄う。
矢立、松原は加茂地方の地名。かつては宿場として賑わい、娼家(しょうか)が軒を並べていた。昭和四十三(1968)年、この唄が刻まれた碑が加茂公園に建立され、地元では唄の普及と保存に努めている。加茂の盆踊りは大通りを流して歩く進行形式である。
§○堀泰一COCF-9309(91)三味線/本田マス、渡辺省蔵、笛/入江竹市、糸田進三、太鼓/佐野一昌、掛声/長谷川チヨ。お百姓さんの雰囲気と素朴さがあり、いかにもこれぞ民謡といった風情がある。よそ者には真似できない味わいある歌唱だ。
「頸城(くびき)松坂」(新潟)
♪めでたエエーヤ めでたが三つ重なれば
(ハーコリャーコリャー)
鶴がエエー 舞います エエー寒鶴がエー
(ハーマダーマダー)
頸城(くびき)は上越市や糸魚川市(いといがわし)を含む地域だ。格調高い唄であり、婚礼の席では正式な祝儀唄とされている。新潟県では、松坂と名がつく民謡は二十近くもあって、広範囲に分布している。松坂には祝い唄と踊り唄の系統があり、江戸時代、新発田(しばた)領の瞽女(ごぜ)や座頭などの遊芸人が、越後から奥州、北海道へと唄い広め「会津松坂」「仙台松坂」「秋田にかた節」「三吉節」「謙良節」と姿を変える。
座頭は広く盲人の別称とされたが、本来は盲目の遊芸者で、昔話の語り手であり伝播者であった。座頭の開祖は天(あま)夜(よの)尊(みこと)、あるいは醍醐天皇(885-930)の第四皇子で、生まれながらに盲目だった蝉丸(せみまる)とする説がある。
§○金谷博治30CF-1751(87)三味線/本條秀太郎、本條秀若、尺八/米谷威和男、囃子言葉/新津美恵子、新津英子。味よし、渋さよし。強さもある。
「佐渡おけさ」(新潟)
♪ハァー 佐渡へ(アリャサ)
佐渡へと 草木もなびくヨ
(アリャアリャアリャサ)
佐渡は居良いか 住み良いか
(アリャササッサ)
佐渡おけさの持つ哀調は、佐渡の金山で働かされていた罪人たちの心情から生まれたからだといわれてきた。名のいわれは、桶屋(おけや)の佐助が唄い出した唄だから“おけさ”と呼ぶという説、愛猫(あいびょう)おけさにまつわる伝説からなどさまざまだ。原型は九州のハイヤ節のようであり、これが北前船などによって各地に伝えられ、佐渡の玄関口・小木の花柳界にも伝えられた。これを小木の女たちは酒席の騒ぎ唄として唄い、相川鉱山の男たちは仕事唄として唄ったようだ。越後側でもハイヤ節を移入して唄を作り上げ“おけさ”と名付けて大流行させている。
大正十三(1924)年、佐渡に立浪会が結成され、相川鉱山に勤める美声の村田文蔵(三)が加わると、相川おけさと相川音頭の全国普及が図られた。後に小唄勝太郎(1904-1974)が節回しを変えて唄い、佐渡おけさの名は全国に知れ渡る。
§◎村田文蔵、村上権五郎TFC-1210(99)お囃子方不記載。○丹山範雄ZV-18
(86)「選鉱場おけさ」入り。三味線/豊静、豊藤嘉、尺八/佐藤功、鳴り物/美波駒三郎社中、囃子言葉/豊静京、高橋きよ子。○地元歌手BY30-5017(85)お囃子方一括記載。標準歌唱で野趣もある。△三橋美智也KICH-2418(06)作詞/横井弘、編曲/山口俊郎。幼い頃から鍛え上げた絶妙の節回しと天性の美声は、戦後十年を経てようやく落ち着きを取り戻した日本人の心に染み透り、圧倒的な人気を博した。三味線/豊吉、豊静、豊寿、囃子言葉/キング合唱団。K30X-22(85)三味線/藤本秀次、藤本秀花、笛/米谷威和男、鳴り物/堅田喜三久社中、囃子言葉/小桜芳枝、添田和子。絶頂期を過ぎると高音が濁り爽快感が薄くなる。△成田雲竹COCJ-30669(9
9)津軽民謡の名手・成田雲竹が唄う参考演唱。三味線/高橋竹山。
「佐渡甚句」(新潟)
♪ハァ佐渡へ佐渡へと 草木もなびく
(ハァ シャンシャン)
佐渡は居よいか エーサー住みよいか
(返し唄)
佐渡は居よいか エーサー住みよいか
(ハァ シャンシャン)
相川方面の酒盛り唄。もとは佐渡各地の甚句の意味であったが、戦後、相川二上り甚句を改めて、佐渡甚句と呼ぶようになった。下の句を反復して唄うのが特徴。村田文蔵の唄で評判を高めた。甚句は二上りの三味線で唄われる七七七五調の騒ぎ唄だ。
§○小林声松APCJ-5037(94)土の匂いのする歌唱。囃子言葉も洗練されない素朴さを持つ。お囃子方は一括記載。○佐藤ミヤ子COCF-9309(91)土に生きる女性の強さを感じさる。野趣と素朴さがよい。民謡は声の良さだけでは唄いこなせない。三味線/佐藤次男、太鼓/宮村繁幸、囃子言葉/佐藤妙美、野沢幸子。
「佐渡ハンヤ節」(新潟)
♪ハァー ハンヤハンヤで半年ァ暮らすヨ
(ハ ヨンサ ヨンサ ヨンサナ)
あとの半年ァヤレーヨー寝て暮らすヨー
(ハ ヨンサ ヨンサ ヨンサナ)
ハァーおらが若いときャ 新潟通うたヨ
(ハ ヨンサ ヨンサ ヨンサナ)
身巾前掛(みはばまえか)けヤーレヨー 帆にかけてヨー
(ハ ヨンサ ヨンサ ヨンサナ)
(ハ 大阪天満 高崎ゃ弁天 梨の木ゃ地蔵さん 大きいのに小さいのに
ニョッカキ ニョッカキ ハ ヨンサ ヨンサヨンサナ)
九州天草から日本海を北前船で北上してきたハンヤ節。佐渡おけさよりも素朴。早い調子で唄われる。海の唄らしく賑やかで明るいのが特徴だ。この唄が佐渡にあった「おけさ」と呼ばれる唄と混じり「佐渡おけさ」に変身したようだ。
§○松本政治KICH-2022(91)三味線/藤本e丈、藤本秀松、笛/米谷威和男、鳴り物/美波三駒、美波駒司郎、囃子言葉/佐藤りん、西田和枝。
「三階節」(新潟)
♪柏崎から椎谷まで 間(あい)に
荒浜荒砂芥(あく)多(だ)の渡しが 無かよかろ
ハァなかよかろ 間に
荒浜荒砂芥多の渡しが 無かよかろ
(ハヤラシャレヤラシャレ)
柏崎地方の盆踊り唄。承応(1652-1654)の昔、専福寺に美声の出家がいて、この出家の説教を聞きたさに、近郊各地から多くの善男善女が集まった。人々はこの僧を称え“しゅげさ(出家様)しゅげさに恋をする”と唄い始め、そこから別名“しゅげさ節”と呼ばれるようになったという。
隠岐のしげさ節は、この三階節が隠岐化したものだ。文政(1818-1829)の頃、京、大坂、江戸で“ヤッショメヤッショメ”と囃すヤッショメ節が流行。それが柏崎地方に入り、盆踊りで唄い踊られるようになったものか。
唄の文句を三度繰り返して唄うところから三回節と呼ばれ、これに三階の文字が当てられた。その後、盆踊り唄としての三階節は、柏崎の花柳界に入ってお座敷唄となり、昭和十(1935)年頃、小唄勝太郎(1904-1974)が唄って全国に知られる。地元の宴会の席では、お開きの時が近づくと、三階節が唄い踊られるのが定番となっている。
§◎初代峰村利子COCF-12698(95)三味線/大石ハル子、笛/波多利純、太鼓/三浦玉舟。TFC-1210(99)SP盤が音源。かなり針音が入る。○志村春美K30X-220
(87)少々、子供っぽいが、野趣もあり、元気いっぱい。三味線/藤本e丈、藤本秀仁、笛/米谷龍男、鳴り物/美波那る駒、美波成る駒、囃子言葉/西田よし枝、西田美智枝。○地元歌手BY30-5017(85)お囃子方は一括記載。野趣があり、無難で標準的な歌唱。△下谷二三子KICH-2015(91)初々しい歌唱が好感。三味線/藤本秀次、藤本秀花、笛/米谷威和男、鳴り物/西泰維。
「三条凧(たこ)ばやし」(新潟)
♪(ハ ヤレヤレヤレヤレ)
三条の名物 凧上げ囃しは
元禄五年の男の節句に 陣屋侍のとんとん達が
上げる烏賊(いか)見て 鍛冶屋(かじや)の小僧め
負けてなるかやと ぼろ烏賊上げりゃ
親が後からヤレヤレヤレと 小屋の空樽引きずり出して
ハぼっこれるほどに はったきながら
勢声かけたが この囃し
(ソレ)とんび とろろよ 大風出せや
後で豆煎(い)って くれるぞえ
(ヤーレコーリャドッコイショ ソラ勝った方がいい 勝った方がいい)
昭和三十九(1964)年頃、渡辺行一が作詞・作曲して復活させた。
三条市の凧(たこ)(イカ)合戦は、江戸時代から伝わる行事である。慶安二(1649)年、村上藩の陣屋が三条に設置されたとき、侍の子供達が凧を揚げた。それを見た地元の子供たちは、姿を見せずに凧を揚げ、糸を操りだして空中で凧糸を切り、侍階級に対する日頃のうっぷんを晴らした。
親たちは空樽をたたき、囃したてて応援した。それがいつしか恒例の行事となり、旧端午(たんご)の節句に行われる凧合戦では、庶民と武士とが争うことが認められた。凧は六角巻凧と呼ばれ、くるくる巻いて小さくできるのが特徴。大きいものでは縦4b、横2b以上のものがある。三条市では毎年、六月の第一土・日曜日に三条凧合戦が行われ、初夏の風物詩として定着している。
§○志村春美KICH-2015(91)可愛いらしい歌唱。わらべ唄風。三味線/藤本e丈、藤本秀花、藤本秀輔、尺八/米谷威和男、鳴り物/山田鶴三、山田鶴喜美、囃子言葉/西田和枝、新津幸子。
「塩たき節」(新潟)
♪昔より 寺泊名物の塩たき踊り
なじょな塩たきでも 作(こし)ろうて出せば
枝垂(しだ)れ小柳 稚児桜
女波(めなみ)男波(おなみ) 汲み分け見れば
今日の月こそ 桶(おけ)にあり
ハァヤラシャレヨーイ
寺泊(てらどまり)の花柳界で唄われたお座敷唄。寺泊は佐渡へ渡る港として、平安初期の弘仁十三(822)年に開かれた。文永八(1271)年十月、佐渡に流罪となった日蓮は、ここで七日間逗留して船待ちをしている。
§○小杉真喜子KICH-8205(96)三味線/藤本e丈、藤本博久、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬駒三朗、美鵬那る駒、琴/山内喜美子。小杉の唄はどれを聴いても唱歌的で小綺麗な歌唱。小杉は新潟県出身。昭和四十(1965)年四月、藤本e丈に入門。初めは歌謡曲歌手を目指したが、藤本の判断で民謡歌手に転向した。
「新発田甚句」(新潟)
♪ハァ ヨーイヨーイヨーイ
新発田よいとこ(チョヤサ)東も西も
北も南も 黄金色
(チョヤサッサー)
越後甚句の盆踊り唄。全国に広く分布している甚句は、詞型が七七七五から成り、名称の由来についても諸説がある。土地土地に発生した唄という意味の“地ん句”、神に供える唄という意味の“神供”、長崎の商人である海老屋甚九郎が大阪で大儲けをし、新町の遊女を身請けした話から出来上がった“甚九郎節”が元唄、というものである。これが各地に運ばれ、甚句と呼ばれて定着したという。
新発田市は、加治川と新発田川が町中を流れる、溝口藩十万石の城下町である。越後平野東部の農産物集散地として栄え、鉄鋼産業、製糸、酒造りの町としても知られている。地名の由来については、アイヌ語で鮭の獲れるところを意味するシビタ、潟湖に接する意の洲端(すばた)、新開発新田の転訛などといった説がある。
§○佐藤春男COCF-9309(91)節が少しずれるところもご愛嬌。素朴で野趣を感じさせる。太鼓/谷沢呉志雄、樽/鈴木三勇、鉦/星進、囃子言葉/本間靖雄、鈴木清勝。
「新おけさ」(新潟)
♪道の芝 人に踏まれて一度は枯れるヨ
露の情で よみがえるヨ
大正時代の艶歌師・添田唖蝉坊(1872-1944)が作詞・作曲。新潟から浅草に移り住んだ〆(しめ)香(か)が唄って大ヒットした。艶歌師特有の社会風刺を織り込んだ粋な民謡として人気がある。
〆香は明治四十四(1911)年、新潟市出身。生家が「大長」という小料理屋で、十二歳から三味線を習い、十四の時には会津へ芸者見習いに出た。上京して浅草に住んでレコードデビュー。市丸、勝太郎らと一時代を作り、ポリドールレコードの看板歌手として活躍した。
§◎〆香TFC-1205(99)お囃子方不記載。味のある唄い方。録音も悪くない。
「新保広大寺」(新潟)
♪新保ナーエーエコリャ広大寺が(ハイ)
めくりこいて ヤーコリャ負けたナーエー
(ハァ イイトモ イイトモハイ)
袈裟も衣もヤーレ みなサーヤーコリャ取られたナサエー
(ハァ イイトモドッコイ)
民謡研究家の竹内勉(1937-2015)は、この唄を追分節、ハイヤ節と共に日本民謡の源流をなす唄であるとした。
サエーと唄い出しサエーで終わる。幕末に各地で流行した越後口説きと呼ばれるもの。越後の瞽女や田舎回りの旅芸人、飴売り行商人らが各地に持って回った。文化文政(1804-1829)の頃には上方で、安政(1854-1859)頃には江で流行した。
こだいじ(京都、広島)、こだいじ踊り(岐阜)、古代神(富山)、こだいず踊り(島根)などと呼ばれる民謡は、いずれも同系統である。「八木節」「最上口説き」「秋田飴売り唄」「津軽じょんから節」なども同系統だ。
町田佳聲(1888-1981)は、十日町地方の神楽せり唄である“こだいず”が変化していくうち広大寺の文字があてられ、十日町市(とおかまちし)下組(しもぐみ)新保(しんぽ)にある禅寺の広大寺和尚の伝説と結びついて、元唄のようになったとしている。
広大寺伝説とは、天明二(1782)三年頃のこと、信濃川の中州の耕作権をめぐり、寺島新田と上の島の間で土地争いが起こった。これに加勢した十日町の縮緬(ちりめん)問屋(どんや)の最上屋は上の島側につき、広大寺十四代目住職の白岩亮瑞和尚は寺島新田側を応援した。最上屋主人の上村藤右衛門邦好は、この争いに勝つためには、寺の和尚を追い出すのが一番の早道と考え、和尚を誹謗するざれ唄を作り、越後瞽女たちに唄わせた。広大寺の門前にある豆腐屋の若後家お市が、和尚の愛人だという噂話はあっという間に広まり、和尚側は敗訴する。
§○水落忠夫TFC-1209(99)三味線/水落忠文、尺八/桑原清、鳴り物/熊谷元明、囃子言葉/水落忠直。水落は、昭和九(1934)年、新潟県南魚沼郡薮神村(南魚沼市)に生まれる。祖父の健吉が芸能の師匠であったため、五歳から芸事を始め、十一歳で村の演芸会の舞台を踏んだ。“うたきち”と呼ばれるほど唄好きの少年は、同三十五(1960)年、新潟放送の民謡大会で上位入賞を果たす。「新保広大寺」「魚沼松坂」「八海山唄」などを世に出し、魚沼の民謡伝承会を主宰して、郷土民謡の普及を図った。○木津しげりCOCF-9309(91)野趣があり、声量もあって元気な歌唱。三味線/木津かおり、尺八/木津竹嶺、鳴り物/木津茂理、囃子言葉/木津照子。
「選鉱場おけさ」(新潟)
♪ハァー朝もナー
(ハアリャサ)
早うからカンテラ提げてナーヨ
(ハアリャアリャアリャサ)
鉱内通いのほどのよさ
(ハァアリャササッサ)
選鉱場で唄われたおけさ節。鉱山で働く人々の心意気を唄う。たがねと槌で金山から掘り出した鉱石は、選鉱場で選別された。選鉱場おけさが単独で唄われることは少ない。
佐渡おけさのあとに「ぞめきおけさ」を唄い、終わりに選鉱場おけさを唄うのをきまりとしたのは立浪会であった。ぞめきおけさの出だしは、ハァでなく、唄い出しの文句を二度繰り返して唄い出す。
§○丹山範雄ZV-18(86)演唱巧者ぶりを発揮。うまくまとめて結構うまい。三味線/豊静、豊藤嘉、尺八/佐藤功、鳴り物/美波駒三郎社中、囃子言葉/豊藤京、高橋キヨ子。
「大の阪」(新潟)
♪大の坂ヤーレ
七曲がり駒をハーヤレソリャ
よく召せ旦那様 よく召せ駒を 南無西方
よく召せ旦那様
新潟県北魚沼郡堀之内町で行われる盆踊り唄。唄の文句のすべてに南無西方が入り、御詠歌風の節で唄われるところから、念仏踊りとも呼ばれる。唄は音頭方と踊り手が問答式に唄い継ぐもので、哀調を帯び、踊りは左回りの優雅なものである。当地方が、小千谷や十日町と共に縮(ちぢみ)布(ふ)の生産地として栄えた元禄(1688-1703)の頃、京阪と往復する縮(ちぢみ)の問屋衆が伝えたという。
毎年八月十三日夜から十六日夜までの四日間、堀之内町、八幡宮境内で唄い踊られる。詞型は五五七五調の古い形式である。堀之内は三国街道の宿場として栄えた町だ。魚沼地方特産の縮布の中心地で京阪地方と交流があった。大の阪の唄は、京阪方面では姿を消す。
§○本郷秀彦APCJ-5037(94)野趣、雅趣ある歌唱。お囃子方一括記載。
「寺泊おけさ」(新潟)
♪(ハヨイヨイヨイヨイ)
厚子ヤー(ヨイヨイ)イヤー縄帯腰には矢立てヨ
(ハヨイヨイヨイヨイ)
伝馬通いがヤーレやめらりょか
(ハヨイヨイヨイヨイ)
寺泊町(てらどまりまち)(長岡市)は、佐渡へ渡る港として古くから賑わいをみせていた。現在も四qにおよぶ街路村を形成している。寺泊が港町として栄えていた頃、船人相手の酒席の騒ぎ唄として唄われていた。熊本県牛深市(うしぶかし)で生まれたハイヤ節は、北前船で新潟県の各港に持ち込まれた。
新潟県の山間部に“おけさ”と唄い始める唄があったが、歌詞だけがハイヤ節と結び付き、おけさ節が生まれた。津軽民謡の名手・成田雲竹は、新潟で十二、三種類のおけさを習い覚えて研究したという。
§○月子COCF-9309(91)三味線/千代栄。低く太くて力ある声。藤ノ井月子(本名・藤井チセ)は、大正四(1915)年、新潟県三島郡寺泊に漁師の子として生まれた。チセは早くから地元の民謡に接し、芸を磨いて精進を重ねた結果、余人をもって代えがたい人気と実力を身に付けた。その後、寺泊民謡伝承会を主催。郷土の民謡の伝承と普及に努めた。TFC-1209(99)三味線/千代栄。△初代浜田喜一VZCG-1
34(97)三味線/大川佳子、市川紫、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/西田和枝、丸山正子。
「十日町小唄」(新潟)
♪越後名物数々あれど 明石縮に雪の肌
着たら離せぬ 味の良さ
(テモサッテモ ソジャナイカ テモソジャナイカ)
娘ざかりをなじょして暮らす 雪にうもれて機仕事
花の咲く間じゃ小半年
(テモサッテモ ソジャナイカ テモソジャナイカ)
昭和三(1928)年、十日町市が委嘱。永井白湄(1895-1974)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲。しっとりと落ち着いた情緒ある旋律と唄の文句が美しい。翌四(1929)年、藤本二三吉(1897-1976)と十日町芸妓連がレコード吹き込み、全国に知られるようになった。
京都西陣と並ぶ日本有数の着物の産地としても知られる十日町は、信濃川中流域に位置し、なだらかな山並みに囲まれた、豊かな自然と歴史を残す町である。この町から、四千五百年前の縄文時代中期の火炎型土器が出土。その芸術性は世界から高く評価されている。十日町市を含む魚沼地方は、日本屈指の銘米の産地でもある。
§◎葭町二三吉VDR-5172(87)「サッテモ節」三味線/小静、鳴り物入り。音源は昭和四(1929)年発売のSP盤。○小その、文代COCF-13287(96)田舎芸者の味わい。三味線/咲弥、あさ子。○市丸VZCG-134(97)編曲/飯田信夫。三味線/静子、豊文。お色気、艶、節回し、発声、味わい、いずれも個性豊かな一級品だ。惜しむらくは編曲がよくない。△早坂光枝KICH-2015(91)若い頃の美声を聞かせている。三味線/藤本e丈、藤本秀花、太三味線/藤本秀輔、尺八/米谷威和男、鳴り物/山田鶴三、山田鶴喜美、囃子言葉/白瀬春子、山下栄子。
「長岡甚句」(新潟)
♪ハァーエーエヤァ長岡柏の御紋
(ア ヨシタヨシタヨシタ)
七万余石のアリャ城下町
イーヤサ余石のアリャ城下町
(ア ヨシタヨシタヨシタ)
毎年、盆になると町のあちこちで笛、太鼓、鉦の音も賑やかに唄い踊られる。人々が町の目抜き通りを流して歩く盆踊り唄と、芸妓衆が唄うお座敷唄の二通りある。新潟県から福島県会津地方にかけて広く分布する甚句の一種で、各地ともあまり変化はみせていない。新潟甚句、新発田甚句と同系統である。
長岡は信濃川左岸から見ると長い丘陵地域にあり、信濃川の水運の要所でもあった。元和二(1616)年七月、堀直竒(ほりなおより)(1577-1639)が蔵王堂城主に就く。直寄は蔵王堂城(長岡市西蔵王)が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあり、信濃川からやや離れた長岡(長岡駅周辺)に新たに城を築いて城下町を移す。元和四(1618)年、わずか二年で越後本庄(村上市)へ転封となり、新たに越後長峯から牧野忠成(ただしげ)(1581-1654)が初代長岡藩主として入封する。忠成は新潟の商人を保護して、河川交通・海上交通を発展させた。幕末維新の折、戊辰戦争(1868/1〜1869/6)に巻き込まれた長岡藩城下は灰燼に帰す。今次の大戦でも、昭和二十(1945)年八月一日の米軍機の空襲で、市街地のほとんどが焼失している。
§○小杉真貴子VZCG-134(97)笛/米谷威和男、三味線/藤本秀次、藤本秀花、藤本秀太郎、太鼓/西泰雄、鉦/鶴きみ、囃子言葉/小桜芳枝、綱本律子。元気で若々しい声に野趣があってよい。小杉は三島郡越路町(長岡市)出身。
「七浦甚句」(新潟)
♪ハァ沖の敷島 灯りがゆれる
可愛いあの娘の さざえ採り
コリャさざえ採り 可愛いあの娘の さざえ採り
(ハァドッコイドッコイドーントコイ)
七浦は真野湾の北に突き出た大佐渡にある。二見、米郷、稲(いな)鯨(くじら)、橘、高瀬、大浦、虎伏の七集落の総称だ。善知鳥(うとう)七浦とも呼ばれる七浦海岸は、それぞれが特色ある美しい景観を形成している。ここで酒席の騒ぎ唄として唄われていた。もとは南部節と呼ばれていたが、それは岩手から青森の旧南部領へ出稼ぎに行った人々が持ち帰った唄だったからだ。曲は盆踊り唄の「なにゃとやら」が変化したもので「道南盆唄」などと同系統だが、唄の個性は弱い。
昭和三十(1955)年、新潟市の民謡家・岩崎文二は、この唄を町田佳聲に聴かせる機会を持った。町田は「七浦甚句」と呼ぶことを提案。当初、南部の唄や、おけさの文句をそのまま唄っていたが、昭和四十(1965)年、相川町(あいかわまち)稲(いな)鯨(くじら)出身の若松健三が七浦にちなんだ歌詞を作った。
§○早坂光枝KICH-8203(96)三味線/藤本e丈、藤本博久、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬成る駒、美鵬こま伎、囃子言葉/新津美恵子、新津幸子。高音で声が抜けないし、声量も落ちた。
「新潟おけさ」(新潟)
♪仇し 仇し仇波 寄せては返すヨ
寄せて返して ヤーレまた寄せる
信濃川河口に開けた港町新潟は北前船の寄港地であり、西の文化の受け入れ口であった。ここには、京の祇園と肩を並べるほどの伝統ある花柳界があった。酒席では、おけさが金屏風の前で華やかに唄い踊られた。ハイヤ節と酒盛り唄である“おけさ”が結び付き、花柳界で磨かれるうち、ハイヤ節的なところが消えて粋な「新潟おけさ」になる。
成田雲竹が幼少の頃に唄った津軽あいや節は、新潟おけさと全く同じ曲調であったという。雲竹は、佐渡のおけさ節が十三湖に入り「津軽あいや節」になったといっている。
§○小その、文代COCF-13287(96)三味線/咲弥、あさ子。素朴さが何より。田舎風の粋と味がよい。△浅草〆香APCJ-5037(94)泥臭い美声で、お座敷調をだしている。TFC-1215(99)。
「新潟小唄」(新潟)
♪水の新潟 八千八川
(ハーサハラショハラショノロンロン)
末は万代橋ゃ 長い橋ゃ長い
(トントと叩けよ 樽砧港に お船も寄ってきた
ハーサハラショハラショノロンロン)
新潟市の花柳界のお座敷唄。昭和三(1928)年八月、新潟毎日新聞社主催の歌舞の夕べで、野口雨情(1882-1945)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の「新潟港おどり」が発表された。しかし、あまり人気がでなかった。
翌年、信濃川にかかっていた木造橋が鉄筋の橋に架け替えられると、新潟毎日の対抗馬である新潟新聞社は、これを機に北原白秋(1885-1942)に詩を依頼。町田佳聲(1888-1981)が曲を付けてこの唄を発表した。
§○〆香TFC-1205(99)お囃子方不記載。味があり、色香を感じさせる上手い歌唱。○小その、文代COCF-9309(91)三味線/咲弥、あさ子。田舎芸者の粋さが出ている。
「新潟甚句」(新潟)
♪ハァ新潟恋しや 白山様の
(ハアリャサアリャサ)
松が見えます イヨほのぼのと
(ハ アリャサアリャサ)
“新潟盆唄”“樽たたき”とも呼ばれる盆踊り唄。今から二百年ほど前の文化文政の頃、日本十代港のひとつだった新潟港近辺で盛んに唄われ、花柳界でも、芸者衆が大きな樽をたたいて唄っていた。
新潟市は古くから八千八川といわれるほど川の多い町である。信濃川から七十二本もの堀が引かれ、掘の近くには花街が開けていた。堀端の柳に誘われた新潟美人がその下を行き交い、お盆の頃ともなると、橋の上で踊る踊り子たちの下駄の音が夜の更けるまで聞こえたという。
§◎鈴木節美TFC-1206(99)三味線/永川千代松、荒谷八重子、樽/関正直。味ある声と歌唱。自然体。鈴木節美(1898-1989)は中蒲原郡村松村の出身。昭和四(1929)年、新潟民謡保存のために直江津(上越市)の追分会を振り出しに新潟節美会を結成。「新潟甚句」「越後追分」「新潟おけさ」の普及に努めた。新潟市中央区にある白山神社境内に「新潟甚句」の一節が刻まれた「鈴木節美会創立三十五周年記念」の民謡碑がある。○渡辺春吉COCF-9309(91)素朴な野趣と泥臭い渋さがある。三味線/高橋勝栄、宮村和子、笛/鈴木忠次、樽/宮村繁幸、囃子言葉/佐藤妙美、野沢幸子。△頓所声憲APCJ-5037(94)伴奏は一括データ。樽囃子に趣があり、三味がテンポよくからむ。△小杉真喜子「古調新潟甚句」KICH-8205(96)三味線/藤本e丈、藤本直秀、藤本博久、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬那る駒、美鵬成る駒、囃子言葉/西田和枝、西田紀子。
「新津松坂」(新潟)
♪イヤーハァー 秋葉山から吹き降ろす風は
(ハーイッチョ)
新津繁盛と吹き下ろす 吹き下ろす 吹き下ろす
(ハァイッチョ)
新津繁盛と吹き下ろす
(チョロリーチョロリ ハ返せや返せや)
新津市で古くから盆踊り唄として唄われてきた。秋田の「にかた節」や津軽の「謙良節」の元唄である「越後松坂」とは異なり、近畿地方を中心に中国地方、中部地方に分布する木遣り唄「松坂踊り」が県下に入って新津や加茂に定着。「新津松坂」や「加茂松坂」となった。新発田発祥の祝い唄「越後松坂」とは別系統。
天正、文禄の頃(1573-1595)、新津勝資は領民の心を和らげようとして歌舞を奨励。伊勢の松坂に優雅な踊りのあることを知って人を遣わし、唄と踊りを修得させた。これを改良して「新津松坂」と命名。領民に踊らせたという。典雅な踊りの足の運びに能の所作が見て取れる。
毎年八月には、編み笠を被って踊り流す「松坂流し」が行われ、勇壮な「屋台まつり」が開催されている。
§◎新津松坂協会TFC-1207(99)樽囃子、笛、囃子言葉などのお囃子方不記載。大正十四(1925)年、東京愛宕山にラジオ放送が開局した際、新津松峰会が出演。以後「新津松坂」の保存と振興に努めた。松坂協会はその後身。○小坂春治、小林健二COCF-9309(91)樽/上田三男次、笛/井浦利平、高野正雄。素朴で泥臭い土地の素人おじさんの雰囲気。二人とも発声はちょっと苦しそうだ。△岩崎久太FGS-6
05(98)三味線/高橋吉雄、高橋よしえ、笛/碓井守、樽/岩崎文二、囃子言葉/足立八重子。素朴な味わいを醸す。声に渋さがあり、樽囃子も面白い。
「野良(のら)三階(さんがい)節(ぶし)」(新潟)
♪ハァ明けたよ 夜が明けた寺の
(返し唄)鐘打つ坊主や お前のお蔭で夜が明けた
ハァおかげで夜が明けた寺の
(返し唄)鐘打つ坊主や お前のお蔭で夜が明けた
野で唄う三階節。野良とは戸外のこと。県中部の刈羽(かりわ)平野(へいや)西端の砂丘にある柏崎市は、港町であり北国街道の宿駅である。ここでは花柳界のお座敷唄を「三階節」、戸外の盆踊りで用いるものを「野良三階節」と呼んで区別している。中浜節、剣野節、四谷節など異なった節回しのものがあり、荒浜、鯨波、田尻、谷野(たんの)などの各村々で唄い方が違っている。広く知られているのは中浜節の唄い方である。
野良三階節は、柏崎市の桑山太市朗(太市、対池)(1891-1978)の努力で世に出る。桑山は自ら県内を踏査して『新潟県民俗芸能誌』を著している。初期歌舞伎踊りの姿を残す綾子舞を、世に紹介したのも桑山の功績である。桑山の旧友である鹿島鳴(かしまめい)秋(しゅう)(1891-1954)の叙情詩「浜千鳥」は、柏崎の番神岬で着想され桑山に贈られた。後に弘田龍太郎(1892-1952)が曲を付けている。
§○大島常吉FGS-605(98)返し唄/片桐勝夫、赤川イシ子、上村百合子、太鼓/横村英雄。素朴で野趣。返しも素朴で田舎くさい。○泉マキCOCF-9309(91)返し唄/星野保治、田村幸太郎、川崎春雄、川野かおる、渡辺文絵、太鼓/片桐勝夫。野趣、素朴。ステージ用になった民謡が、いかに浅薄で民俗性の背景を欠いたものかがよく分かる。○赤川イシ子「野調」KMH-07923(95)柏崎民謡保存会。あと唄/春日美寿、片桐勝夫、太鼓/内山正三郎。
「はねおけさ」(新潟)
♪(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
おけさ(ハ ヨシタナ)おけさおけさと 数々あれどヨ
(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
昔ながらのソーレ(ハイ)はねおけさ
(ハ ヨシタヨシタヨシタナ ヨシタヨシタヨシタナ)
父様(ハ ヨシタナ)父様どこ行きゃる
ちょいと小鎌を腰に差し(ハ ドウシタ)
荷縄にばんどり めんぱにかて飯 ぱちり詰め込み(イヤ)
親の代から三代伝わる(コレ)
桐の木ずんぎり ぶらぶらと提げてヨ
(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
孫子笑うな 私ゃ馬の飼い葉のソーレ(ハイ)草刈りに
(ハ ヨシタヨシタヨシタナ)
祭りの一番終わりに唄われる。“はね”とは座がはねることで終わりを意味する。南魚沼郡塩沢町から堀之内あたりの秋祭りに唄われ、酒席では唄われることがないおけさ節。
§○木津かおりCOCF-9309(91)野趣と迫力があり、リズム感もよい。三味線/森山俊一、吉田雄治、太鼓/小林佳典、鉦/高橋徹男、囃子言葉/吉田義三郎。
「三国馬子唄」(新潟)
♪わたしゃ三宿(ハイ)ハァ浅貝ハァ育ちヨ(ハイハイ)
米のハァなる木は(ハイ)ハまだ知らぬヨー(ハイハイ)
三国街道を往き来する馬子の唄。三国街道は関東と越後を結ぶ主要街道である。中山道の高崎から分岐する。江戸から佐渡への最短距離であることもあって、諸大名や佐渡奉行が利用した。上越国境にある三国峠は街道最大の難所であった。峠を越えると三国三宿といわれる浅貝、二居、三俣の宿場がある。明治四十二(1902)年に信越本線が開通してから、宿場町は衰微していく。
§○水落忠夫APCJ-5037(94)お囃子方は一括記載。素人っぽくて声量も乏しいが、なんともいえない味がある。
「米山甚句」(新潟)
♪サーサ参らんしょうよ 米山薬師
ひとつ身のため ササ主のため
サーサ頸城見納め 米山三里
峠越ゆれば ササ柏崎
柏崎の西方、中頸城郡と刈羽郡の境にそびえる米山(993m)は、越後富士と呼ばれる。頂上に泰(たい)澄(ちょう)大師(だいし)創立と伝える薬師堂がある。雨乞いに霊験があるといわれ、五穀豊穣を祈る農民たちの信仰を集めている。江戸時代末、刈羽郡荒浜村出身の力士・登龍山は、相撲よりも甚句を得意としていた。登龍山は後に米山と改名する。いつしかこの米山が唄う甚句は、米山甚句と呼ばれるようになったという。米山の名は力士としての記録はないが、米山甚句の古い踊りは、力士が四股を踏むような野暮ったいものであった。日清戦争(1894〜1895)後から大正にかけて、俗謡として広く愛唱された。
§◎初代峰村利子TFC-909(00)声に力があり、軽快な節回しで実にうまい。お囃子方不記載。明治二十九(1896)年、新潟県三島郡雲崎町に生まれた峰村は小学校卒業後、親戚の長岡芸者の置き屋に養女として入る。十八歳で芸者小仙を名乗り、結婚を機に上京。春日とよ照の名で大塚に小唄教授の看板を掲げた。その指導ぶりが評判でNHKから声がかかり、お囃子方として活躍した。米山甚句は、峰村と小唄勝太郎の唄によって県を代表する民謡となった。◎椿正昭VICG-204
0(90)端正で雅趣と味がある。三味線/藤本秀心、尺八/米谷智。○初代浜田喜一COCF-12697(95)戦時下に唄う浪曲風。浜田が一座を組んで巡業していたとき、得意のレパートリーにしていた。○小重、高橋睦子COCF-9309(91)お婆さんに近い田舎芸者さんのようだ。味も野趣もある。三味線/勝田信子。○赤川イシ子KMH-0
7923(95)柏崎民謡保存会。三味線/田辺伊勢松、間島正明、内山正三郎、尺八/桑原秀雄。△市丸VICG-2064(89)三味線/静子、豊文、鳴り物/堅田喜三久、藤舎呂誠、堅田啓光、笛/鳳声晴郷。市丸の粋でお色気がある歌唱は、他の追随を許さない。△湯浅弘子CF-3458(89)三味線/豊静、豊藤美、尺八/石高琴風、佐藤崋山。田舎芸者の雰囲気できっちりと唄っている。
「両津甚句」(新潟)
♪ハァーエエ両津欄干橋ゃエーエ
真ん中から折りょうと(コリャサッサ)
船で通うてもヨンヤ止めりゃせぬ
(ハァ リャントー リャントー リャントー)
曲想もよく、雅趣ある名曲。かつて、加茂湖の水が海に注ぐ狭い水路に欄干橋がかかり、この水路を境にして夷と湊の二つの村落に分かれていた。明治三十四(1901)年、両村落が合併して両津となる。湊、夷が合併する前、この唄は湊甚句、夷甚句と呼ばれていた。甚句流しとも呼ばれ、お盆になると町の人々は鼓を打ちながら、路地から路地へと唄いながら踊り歩いた。
大正十四(1925)年頃、両津の芸妓連中が三味線を加え、同時に踊りも振り付けた。当初、上の句と下の句を一息で唄う難曲だったが、後に佐渡の民謡家・松本丈一が、上の句を二息で唄うように工夫した。
昭和二十七(1952)年十月二十五日、日本民謡協会主催第2回日本民謡大会が仙台公会堂で行われた。優勝した小木の中川千代(唄)、フサ(鼓)姉妹の演唱は、白鳥省吾や武田忠一郎、高橋掬太郎などに絶賛されている。
今から百五十年も前のことであっただろうか、近くの村に尾松という美しい娘がいた。尾松は吉井の木崎にある旧家の次男坊に、心密かに思いを寄せていた。誰にも打ち明けられない想いを胸にして、毎日、両津橋の上にたたずみ、対岸の木崎の森を眺めていたという。結ばれなかった悲しい恋が唄の文句にもなっている。
§◎松本丈一TFC-1209(99)味のある美声。音源はSP盤から。三味線/竹葉、荒谷八重子、尺八/渡部嘉章。明治三十四(1901)年、佐渡の畑野町に生まれた松本は、佐渡初期の民謡家として知られている。師と仰ぐ山本為蔵から追分を習い、安来節にも興味を持って佐渡民謡に工夫と研究をこらす。立浪会設立にも一役買った。昭和の初期、東京愛宕山のNHK放送局から、村田文蔵と共に全国に新潟民謡を放送した。○佐藤千弘COCF-13287(96)三味線/村木多津夫、小林ミヨ子、尺八/大脇春海、鼓/高橋富之助、囃子言葉/高橋よしえ。発声は少々苦しいが、微妙な節回しが絶品。昭和三十八(1963)年、NHKのど自慢全国大会で唄い、両津甚句のよさを全国に知らしめた。○佐藤ミヤ子COCF-9309(91)泥臭い声と野趣ある歌唱。三味線/佐藤次男、太鼓/宮村繁幸、囃子言葉/佐藤妙美、野村幸子。△橋本芳雄CF-3458(89)三味線/豊静、豊藤美、尺八/石高琴風、佐藤崋山、太鼓/美波駒三郎、鉦/下山早苗、囃子言葉/西田和枝、丸山正子。折り目正しく、きっちりと唄っている。
posted by 暁洲舎 at 07:06| Comment(0) | 中部の民謡
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