2022年03月04日

石川県の民謡

「加賀長持唄」(石川)
♪めでたナァーヨーめでたのヨー
若松さまはヨー
枝もナァーヨー栄えてヨ
アリャ葉も繁るナァーヨー
昭和の初め頃まで花嫁行列の箪笥や長持は、揃いの半天を着た近所の若衆たちが担いで運んだ。花嫁が家を出るとき、花嫁を引渡す村境、婿方の家に到着した時など、折り目折り目で双方が互いに唄い合った。それは全国各地に共通した風習だった。
§○杉山健男COCF-9310(91)尺八/広瀬胡憧。野趣があり、素朴で田舎くさい味がある。
「加賀はいや節」(石川)
♪はいや可愛いや いつ来てみてもヨ
(アラ ヨイヨイヨイヨイー)
たすき投げやる ソーレ暇がないヨ
(アラ ヨイヨイヨイヨイー)
酒席の騒ぎ唄。県東南部の白山(2702b)北麓に広がる石川郡白峰村(白山市)で唄われる。地元では笠を持って踊るところから、笠踊りはいや、白峰はいやなどと呼んでいた。昭和四十三(1968)年、金沢在住の中村晴悦が節回しに手を加え、曲名を白峰から加賀に変えた。早間の切れのよい踊りが人気を呼び、石川を代表する唄となる。
九州天草牛深育ちのハイヤ節は、北前船の船頭たちによって福井県の三国港に伝えられた。九頭竜川の川舟の船頭たちは、それを内陸部の福井県大野市方面に伝えた。大野市へ出稼ぎに行った白峰の人々は、その唄を覚えて故郷へ持ち帰ったのである。
§○加賀山昭VICG-5166(91)三味線/加賀山昭宝、加賀山昭宏、笛/平林火山、太鼓/一川明、鉦/美鵬駒三朗、囃子言葉/新津美恵子、加賀山昭子。○前田裕幸COCF-9310(91)三味線/中村紘子、加藤勝治、太鼓/駒井長吉、囃子言葉/杉山貞夫、北健。
「柏野(かしわの)じょんがら節」(石川)
♪ハァここは加賀国 柏野宿よ
(ハァドッコイ)
昔ゃ宿場で その名も知らるる
(アドッコイセドッコイセ)
毎年八月に行われる白山市柏野(かしわの)の盆踊り唄。かつて北陸街道の宿場として栄えた下柏野(しもかしわの)町(まち)で生まれた。かんこ踊りとともに、石川県の二大盆踊りといわれる。この踊りは通常の盆踊りとは趣きを異にして、細かい撥(ばち)さばきの三味線、抑揚の少ない尺八、単純な拍子を刻む太鼓、軽快さと悠長さを併せ持った囃子に合わせて甲高い声で唄われる。その唄に合わせ、手踊り、扇踊り、団七踊り、笠松踊りの四種が同時に踊られる。青森県の「津軽じょんから節」との関係は不明。
当初“宮城野しのぶ”などの物語を、七七七七の四句で一単位の口説きにして唄っていた。昭和三十八(1963)九年頃、土地の茶山十六が歌詞を作った。その時、口説きの文句を、七七七五調二十六文字の甚句形式に改変した。元の唄は四句目が七字でなければならないからアリャを補い、囃子言葉もヨイコラショからドッコイセに変えた。今日の形に仕上げたのは中村晴悦である。
§◎中村晴悦COCF-9310(91)三味線/中村紘子、加藤勝治、太鼓/駒井長吉、胡弓/江川稔、囃子言葉/杉山貞夫、北健。頭のてっぺんから抜けるような独特の発声。
「白峰(しらみね)かんこ踊り」(石川)
♪(ハァモウタリ モウタリ モウタリナ)
河内の奥は 朝寒いとこじゃ
御前の風を 吹き降ろす
ハァ御前のヨ風を 御前の風が
御前の風を 吹き下ろす
(ハァモウタリ モウタリ モウタリナ)
毎年七月、白峰村落(白山市)の白山開山祭で踊られる。県の無形民俗文化財。数名の踊り子が、胸にかんこ(羯鼓)と呼ばれる締め太鼓を下げ、両手のバチで打ち鳴らしながら踊る。かんこ踊りは全国各地に散在していて、かぶりものや、大型で華やかなものを背にかついだり、笛、ほら貝、鉦、ささらなどを使う地方もある。養老元(717)年、白山の開基である越前の僧泰(たい)澄(ちょう)は御前(ごぜんが)峰(みね)(2702b)に登ったきり、何日たっても帰ってこなかった。村人たちが心配して迎えに行くと、大師は神々しい姿で皆の前に現れた。人々は神迎(かんこ)することを喜び、歓声をあげてカンコ(蚊遣火)を振り振り踊り回ったという。
蚊遣(かやり)火(び)のかんこは、ヨモギやイタドリなどを燃やして、蚊やブヨなどを追い払うために腰にさげる。
§○加戸桂子COCF-9310(91)三味線/中村紘子、加藤勝治、羯鼓/駒井長吉、前田裕幸、杉山貞夫。雅趣ある曲想。ほのかな野趣と粋さに加え、愛らしさがある歌唱。囃子言葉も面白い。
「珠洲(すず)酒屋もと摺り唄」(石川)
♪ハァー宵にもとすりゃヨーイ 夜中にナこしきイナ
(オイサオイサノサー)
ハァー朝の洗い場のイナ 水つらいナ
(ヨードッコイサノサッサ コラサノサ)
ハァー酒屋男にイナ 何よってナ迷うたイナ
(オイサオイサノサー)
ハァーわずか百日のイナ 辛抱だよイナ
(ヨードッコイサノサッサ コラサノサ)
(ヨオ桧の半切り櫂 玉欅できりっと回して しゃんにもしょうかい
おっしゃかしゃんの しゃんとこい)
珠洲市(すずし)は能登半島北東端にあり、珠洲瓦や能登(のと)杜氏(とうじ)などで知られている。石川県は全国に知られた銘酒のみならず、知られざる銘酒を数多く有する日本屈指の酒どころ。
§○加賀山昭VICG-5166(91)三味線/加賀山昭宝、加賀山昭宏、尺八/平林火山、鳴り物/美鵬駒三朗、美鵬那る駒、囃子言葉/新津美恵子、加賀山昭子。加賀山は珠洲出身。昭和四十六(1971)年に金沢市民謡会に入会し、民謡研究を始める。昭和五十(1975)年の初リサイタルで加賀山昭を名乗り、翌年「加賀山会」を結成。石川県の民謡を掘り出して紹介している。
「珠洲山曳(ひ)き唄」(石川)
♪ハァヤー 奥能登の 珠洲の岬の五所桜
枝は越後で 葉は佐渡へ ヨーイヤナー コレワイサーノサー
高砂や 高砂踊りの習いがけ
後へ二足 前三足
毎年七月、珠洲市飯田町で開催される飯田燈(と)籠山(ろやま)祭りは、珠洲市の無形民俗文化財だ。総漆塗(そううるしぬ)りの絢爛豪華な曳山(ひきやま)八基が、木遣り唄(きゃーらげ)のあと「ヤッサーヤッサー」の掛け声とともに町中を練り廻る。男衆や女衆は掛け声をあげ、跳びはねて祭りに酔いしれる。
燈籠山祭りの起源は寛永(1624-1643)初期。月は七月下旬の土用入り前後の最も暑い頃。春日神社の天児屋根命(あまのこやねのみこと)を初め、七柱の神々に夕涼みしていただくため、町内へお出まし願ったのが始まりだという。
文化文政(1840-1830)の頃、町の有志が、富山県氷見の山車(だし)を模して曳山を作った。北前船による各地との交流が、祭りに多くの影響を与えている。春日神社宮司・葛原秀藤の『秀藤日記』に、文政十一(1828)年の祭りには細長燈籠、小角燈籠、長燈籠、六月祭礼の燈籠などが出たと記されている。この記録はキリコ(能登の山車)に関する古い記録の一つだが、燈籠山はキリコと同じ頃、またはそれ以前に成立していたと考えられる。
力強い祭り唄を、盆踊り風にアレンジしたのは当地の民謡歌手・加賀山昭。
§○加賀山紋VZCG-565(05)三味線/加賀山昭、加賀山昭宝、笛/平林火山、太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬那る駒、囃子言葉/加賀山昭千歌、加賀山昭絵。採譜・編曲/加賀山昭。父親・昭譲りの名調子。
「鶴来(つるぎ)節」(石川)
♪チョイチョイチョイチョイー
ハァー踊りますぞえ編み笠山が
花の白山(はくさん) 見にござれ チョイチョイチョイチョイー
ハァー縁は異なもの 能美石川の
仲を手取りの 天狗様 チョイチョイチョイチョイー
白山信仰で登山する人々によって、古くから唄われてきたお座敷唄。白山市の鶴来(つるぎ)地区は、白山に源を発する手取(てどり)川(がわ)が形成した扇状地だ。白山山麓と金沢を結ぶ交通の要衝にあり、白山比(はくさんひめ)神社の門前町として賑わった。
地元の人々から“しらやまさん”と呼ばれて親しまれている白山(はくさん)は、古くから雪のしらやまと謳われ、富士、立山と共に日本三名山として知られている。御前峰(2702m)、大汝峰(2684m)、剣ヶ峰(2677m)の三峰を中心にして2000m級の山々が連なり、養老元(717)年、越前の僧泰(たい)澄(ちょう)が信仰の山として開山したという。
§○早坂光枝KICH-8406(00)三味線/藤本博久、藤本秀禎、笛/米谷威和男、囃子言葉/新津美恵子、新津幸子。
「七尾まだら」(石川)
♪目(め)出度(でた)目(め)出(で)ヨエーエエーエエーエエーエエー度(た)のオーオーヨー
(イヤヨーオオーオオーエヨエーエエヨエエヨエエヨエー)
若まーア
(アーツウイヨオホイコノイヤアアイ様アーアーヨーヨ
オーエヨエーエヨエーエヨエーハーエイヨオホホイ
アーヨイコノサーイヨオホーイエヨーイサー)
イヤエー枝アーア
(アーもオオーイヨオホイコノイヤ栄えるヨオーエヨエーエ
エヨエエヨエアーエーイヨホイアーヨイコノサー
アノ葉もしィーイ(ハ)ヨーエヨエーエヨエーエヨエーサげるヨイサエー)
“まだら”は、秋田、富山、長崎の三県と、能登半島海岸部に点々と伝わる海の唄である。名のいわれは、真言宗の曼荼羅(まんだら)のなまりであるとか、佐賀県東松浦半島の西北に浮かぶ馬(ま)渡島(だらしま)(唐津市鎮西町)から伝わった唄だからだという。
七尾は能登半島の付け根部分にあり、東側に開けて“口能登”と呼ばれた港町だ。北前船の寄港地として栄えてきた。七尾の漁師たちが、正月の仕事始めに網元の家に集まった時や、新造船の船おろし祝いなどで、手拍子に合わせて豪壮に唄う。
曲は九州方面を中心に広く祝い唄として唄われている“よいやな”で、能登半島の“まだら”は七尾と輪島のものが有名だ。
お座敷では紋付(もんつき)袴(はかま)姿で格調高く、手拍子のみで朗々と唄われる。能登を代表する五月の七尾(ななお)青(せい)柏(はく)祭(さい)では、でか山と呼ばれる山車(だし)の前で、手拍子だけで唄い踊られる。藩政時代には、廻船問屋が正月十一日の“起(き)舟(しゅう)”に船頭や水夫を招待して祝宴を催し、その折りに厳粛に唄った。こうした唄が各地に運ばれ、富山県の魚津では布施(ふせ)谷(たん)節(ぶし)を生んだ。
§○杉山貞夫COCF-14301(97)三味線/中村紘子、尺八/広瀬胡憧、合唱/加藤勝治、北健、前田裕幸、駒井長吉。端正な歌唱。雅趣があり木遣り調の曲想もよい。手拍子は祝いの座敷に品格を醸す。
「能登茅刈(のとかやかり)唄(うた)」(石川)
♪寒い朝だヨー 丸山の風ヤーエ
岳(だけ)の背なから エー吹き下ろす
どんどどんどと ー馬追いかけてヤーエ
岳の背なまで エー茅刈りに
茅(ちがや)刈り作業唄。能登半島の中央に位置する鳳(ほう)珠(す)郡(ぐん)穴水町(あなみずまち)で唄われていた。秋の収穫が終わると、その年の最後の仕事に茅を刈る。茅は屋根の葺き替えに使い、寒い冬の寒さ防ぎに家のまわりや入り口を囲った。
§○加賀山紋VZCG-565(05)尺八/平林火山。
「能登の舟漕ぎ唄」(石川)
♪アアー殿まのノイナ 殿まの櫓を押す姿
早稲の出顔でサァ ようようと
ハー押せ押せ 船頭さんも舟子(かこ)も
押せば港がサー 近くなる
櫓(ろ)を押す漁師たちの唄。籾(もみ)すり唄が舟唄に転用されたようだ。七尾の前浜信太郎が、昭和三十八(1963)九年頃から電波に乗せて紹介。広く知られるようになった。
七尾市を中心とする内浦は波が靜かである。捕った魚を売り歩く漁師は、陸路を選ばず、沿岸に添って小舟で回った。夫が櫓を漕ぎ、妻は何度も陸(おか)に上がって小商(こあきな)いをした。
§◎前浜信太郎TFC-1209(99)お囃子方不記載。前浜は明治三十三(1900)年、石川県七尾市石崎町生まれ。若い頃から詩吟を得意としていた。そのかたわら地元民謡の発掘に努め、戦後、石崎の船漕ぎ唄を元唄にしてこれに手を加え、能登船漕ぎ唄としてレコードに吹き込んだ。○橋本芳雄CF-3459(89)服部竜太郎採譜、補曲。尺八/石高琴風。掛声なしで唄い、しみじみとした哀調がある。△中村晴悦COCF-13288(96)船頭的な声と歌唱に好感が持てる。尺八/広瀬胡憧、掛声/駒井長吉。橋本と同じく服部竜太郎の採譜、補曲。△南部松磐APCJ-5038(94)櫓、水音の擬音が入る。掛け声にも雅趣が漂う。
「能登麦屋節」(石川)
♪麦や小麦はイナー 二年でイナ(チョイト)はらむヤイナ
米屋お六はイナ (チョイト)年さヤイナばらみヤー
(あらチョイト年ばらみヤイナ
米屋おろくはイナ 年さヤイナばらみヤー)
麦屋で働く粉ひき職人が、石臼(いしうす)を回しながら唄っていた。能登半島の西側、日本海に面する旧鳳至(ふげし)郡(ぐん)(鳳(ほう)珠(す)郡(ぐん))門前町(もんぜんまち)皆月や溜池の大百姓は、近郷でとれる小麦を集め、石臼で粉にして能登(のと)素麺(そうめん)の原料として出荷した。こうした豪農を麦屋と呼ぶ。臼ひき唄に農作業唄を流用しているうち、粉ひき唄として定着した。内陸部から粉ひき仕事に行った農民が、この唄を輪島の名で故郷に持ち帰る。それがしだいに広まり、いつしか北陸一円で広く唄われるようになった。唄の名は出だしの文句から。
§○山岸勇、竹本秀雄(能登麦屋節保存会)COCF-9310(91)三味線/山岸光華、尺八/寺二稔、太鼓/永草良策。おとなしい歌唱だが、素朴さがよい。○田中武悦K30X-220(87)元気がよく、味も匂いもある。三味線/高橋祐次郎、高橋脩次郎、尺八/武花栄風、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田よし枝。○井上孝雄VZCG-136(97)尺八/永草良策、笛/宮田登、三味線/山岸光幸、太鼓/徳木慎一、囃子言葉/筒井勉、川島渡、踊り合せ/山岸勇。おとなしく優雅に唄っている。声はちょっとバタ臭い。
「野々市(ののいち)じょんから」(石川)
♪ハァ未熟ながらも 拍子を取りて
唄いまするは 富樫(とがし)の略史
“じょんから”は“自安(じあん)和楽(わらく)”の訛りともいわれる。石川県全域に広がる盆踊り唄。七七七五の短い歌詞から、口説き段物と呼ばれる長編のものまである。
県のほぼ中央に位置し、古くから交通の要衝として栄えてきた野々市(野々市市)は、手取川の扇状地北東端の宿場町であった。階級制度の厳しい封建時代、武士も町人も百姓もともに手を取り、一つ輪になって踊り明かした祭事から生まれた。幾多の政変戦乱の渦中でも、この唄は民衆とともに生き、受け継がれてきたのである。
§○南多門APCJ-5038(94)味も渋さもある名唱。お囃子方は一括記載。
「山中節」(石川)
♪ハァー忘れしゃんすな 山中道を
東ゃ松山 西ぁ薬師チョイチョイチョイ
ハァー送りましょうか 送られましょか
せめて二天の 橋までもチョイチョイチョイ
福井県寄りの県南には、奈良時代からの歴史を持つ粟津、片山津、山代、山中の加賀温泉郷がある。山中温泉の芸者たちがお座敷唄として唄っていた。この地方の盆踊り唄が元になっている。北海道帰りの船頭や漁師たちが湯治に訪れ、伝え残した江差追分が変化したとの伝承も残る。米八などの名人が出て今日の洗練された唄となった。同じ温泉唄でも、関東の草津節が、無粋な書生節風であるのに対して、山中節は花柳界の纏綿(てんめん)とした情緒がある。
山中温泉は大聖寺川の左岸にあり、千二百年年ほど前に僧行基(ぎょうき)が発見したという。温泉の入り口に二天の橋があり、西には薬師山がある。宿の中へ湯を引くことができなかった頃には、湯座敷と呼ぶ共同風呂に、ユカタベーヤと呼ばれる小女が客を案内し、着物を持って外で待っていた。大勢のお客を間違えることなく、浴衣を着せるのが小娘たちの自慢であった。彼女たちも十六歳を過ぎると“しし”と呼ばれる。“しし”は山中温泉特有の湯女(ゆな)のことで、四四十六を洒落(しゃれ)たもの。
§◎初代米八TFC-1210(99)弾き語り。音源はSP盤。力のある歌唱で、唄い方も現代的。COCF-12698(95)お囃子方不記載。米八(本名・安実清子)は福井県吉田郡金津町の出身。明治四十二(1909)年生まれ。縁あって石川県の山中温泉の芸妓となり、北陸きっての名妓といわれた。金津家米八の名で京都、大阪、神戸など各地を廻って山中節を宣伝。その声は旅情を誘うといわれ、米八一代で山中節を日本民謡屈指のものとした。○三代目米八VZCG-136(97)三味線/松美、菊五郎。声に力があり、唄もうまいが、発声に強弱をつけるのが気障り。○地元歌手BY30-501
8(85)古い芸者さん。野太い声で素朴な味がある。
posted by 暁洲舎 at 07:05| Comment(0) | 中部の民謡
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