2022年03月04日

山梨県の民謡

「市川文殊」(山梨)
♪身延の者は 声がよい よいはずだ(ソレ)
南天山の水を飲む
ドッコイ南天 山の水飲む
旧西八代郡市川大門町(市川三郷町)周辺の盆踊り唄。別名・甲府盆唄。旧三珠町(みたまちょう)(市川三郷町)にある表門(うわと)神社の文殊さんを唄っているところから名がある。曲は江戸の流行唄“コチャエ節”と類似している。こちゃえ節が市川大門化したのではなく、逆にこの種の唄が江戸で流行して“こちゃえ節”になったのではないか。
表門神社は、元禄八(1695)年建立、祭神は市川文殊と呼ばれる知恵の神様だ。毎年二月の第一日曜日に開かれる一之酉祭典は、峡南地方に春の訪れを告げる祭りである。神楽殿では、神楽保存会の会員が、須佐之男(すさのおの)命(みこと)などの木彫りの面を付けて太々(だいだい)神楽(かぐら)を披露する。太太神楽は岩戸開きを中心にした神話を仕組んだ神楽。大蛇退治の舞や奉剣鍛造の舞いなどがある。
§○岡田敏美COCF-13287(96)南雲一広編曲。三味線/宮木繁、宮木繁文、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽、佐藤節栄美。○甲府登喜子APCJ-5040(94)お囃子方は一括記載。沢登初義作詞。年増の田舎芸者の雰囲気。盆踊りには向かないお座敷調。
「縁故節」(山梨)
♪縁で添うとも 縁で添うとも 柳沢はいやだよ
(アリャセーコリャセー)
女子ぁ木を切る 女子ぁ木を切る 茅を刈るションガイナ
(アリャセーコリャセー)
甲斐駒ケ岳東山麓にある旧武川村(むかわむら)(北杜市)を中心に唄われた盆踊り唄。座興唄。険しい山々に囲まれた厳しい山村の生活が、地味な旋律の中に表現されている。昭和三(1928)年、韮崎市の小屋(こや)忠子(ただし)と旧穂坂村(韮崎市)の平賀文男(1895-195
5)が、尺八の植松和一の協力を得て「えぐえぐ節」を改作。縁故節と命名して土地の芸妓に唄わせた。元唄になったえぐえぐ節は、じゃが芋の青い部分がえぐいので、これを皮肉って唄ったもの。甲州の地に、じゃが芋の栽培技術を伝えたのは中井清太夫である。明和年間(1763-1772)のことであった。曲節は島原地方の子守唄にそのまま使われている。
§◎望月真光TFC-1210(99)三味線/河合茂子、岡田義男、尺八/植松和一、囃子言葉/柳本健造。望月は大正六(1917)年六月、甲府市湯田生まれ。山梨県民謡同好会を発足させ、同五十九(1984)年、県民謡協会を設立。甲府盆地の生活の中から生まれた民謡を広く世に知らせた。○大塚美春VZCG-135(97)尺八/菊池淡水、三味線/藤本秀次、藤本秀澄次、太鼓/山田鶴香、鉦/山田鶴助、囃子言葉/中村好菊、丸山正子。丁寧に唄いあげている。
「甲斐の金山節」(山梨)
♪ハァ雁が来るのに 主ゃ金山へ
稼ぎよいいうて お出なさった
ハァ登りゃ瑞垣 下れば出湯
ここは金山 水晶原
県に分布する草刈り唄を元にして作られた新民謡。鉱夫たちの家を偲び、残してきた妻子を思う気持ちを唄う。
甲斐の国(山梨県)には金山(かなやま)という地名が各所にあり、金山衆と呼ばれる高麗からの渡来人が古くから居住する集落があった。金山衆は、鉱石発掘から錬金、治水、土木の技術に優れていた。
武田信玄(1521-1573)は、彼等を金山開発だけでなく、戦時には坑道を掘らせることで武功を立てさせた。武田氏滅亡の後、金山衆は塩山付近に帰住して郷士的存在となる。あるいは諸国を廻り、伊豆、秩父などの鉱山開発や関東地方の用水路工事などに貢献した。各地の鉱山開発には必ずといってよいほど甲州人が関与している。佐渡金山で業績をあげ、伊豆や石見(いわみ)(鳥取県)の金銀山開発に携わった大久保(おおくぼ)長安(ながやす)(1545-1612)も甲斐の出身だ。現在、三十近くの中世の歴史的金山遺跡が残っているが、中でも湯之(ゆの)奥(おく)金山(きんざん)(南巨摩郡身延町)は、戦国時代に採掘された甲斐の代表的金山である。
§○村松直則KICH-2015(91)尺八/米谷龍男。美声だが、労働者の野趣と仕事唄としての雰囲気に欠ける。
「甲州音頭」(山梨)
♪富士は東に アリャ御嶽は西に
音頭とるなら真ん中に ヨイトナヤレヨイトナ
音頭とるなら真ん中に
(スッチョコスッチョンスッチョンナ
ヤンレスッチョンスッチョンチョン)
山梨県には「粘土節」「縁故節」を初め、麦打ち唄、綿打ち唄など、素朴でいかにも土着の民謡といった特色ある優れた民謡が多い。しかし、全国的になじみが薄いものばかりである。そこで県は、宣伝になる民謡を野口雨情、中山晋平に依頼する。出来上がった曲は山梨県の特色が描かれていて、素朴で親しみやすいものとなっている。
甲府市街は武田信玄の父・信虎(1494-1574)が永正十六(1519)年、石和から移り、躑躅ヶ崎(甲府市古府中町)に居館を構えて地名を甲府(甲斐府中)と改める。天正九(1581)年、武田勝頼が韮崎の新府城に移り、翌年、武田家が滅亡すると城下町の繁栄は南側に移った。躑躅ヶ崎の館跡は武田神社に残っている。
§◎甲州芸妓連VDR-5172(87)鳴り物入り。音源は昭和三(1928)年発売のSP盤。土俗的で素朴な味。
「こちゃかまやせぬ」(山梨)
♪お江戸日本橋 七つ立ち 八つ山へ
行列揃えて アレワイサート こちゃかまやせぬ
山梨県鳴沢村に伝わる座興歌。曲節は「下山甚句」や「市川文殊」に似ていているが、それよりもさらに素朴な曲調である。端唄や、わらべ歌の「お江戸日本橋」の節回しとは少し異なる。町田佳聲は、県内で広く唄われている七五五七四型の詞型を、天保年間以後、全国的に流行したコチャエ節の原型ではないかと見ていた。
お江戸「日本橋」は、隅田川と江戸城の外壕とを結ぶ日本橋川に架かる橋だ。当時の橋は長さが四十三間(78.2b)あり、慶長八(1603)年、徳川家康が架橋を命じた。七つ立ちとは朝の4時頃、日本橋を出発したことをいう。橋の袂に里程標があり、ここから日本の主要地までの距離が刻まれている。甲府まで131q、京都まで503q、鹿児島までは1469qとある。
§○曽我了子APCJ-5040(94)雅趣がある曲調にのせて穏やかな美声で唄う。お囃子方は一括記載。
「下部小唄」(山梨)
♪朝の下部(しもべ)は権現(ごんげん)様(さま)の 杉の木にまで霧が立つ 霧が立つ
(ヨイヨイヨイショコリャ霧が立つ)
鳴くな蜩(ひぐらし)今日来たばかり 明日も下部にわしゃ泊まる わしゃ泊まる
(ヨイヨイヨイショコリャ霧が立つ)
野口雨情作詞、中山晋平作曲の新民謡。南巨摩郡(こまぐん)身延町(みのぶちょう)にある下部温泉は、武田信玄の隠し湯として知られ、戦で傷ついた信玄が傷を癒したという。江戸時代に湯治場(とうじば)となり、身延山久遠寺(くおんじ)参詣者も多く利用した。
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、尺八/米谷和修、米谷雄廣、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。
「武田節」(山梨)
♪甲斐の山々日に映えて 我出陣に憂いなし
各々馬は飼いたるや 妻子につつがあらざるや あらざるや
米山愛紫作詞、明本京静作曲。昭和三十(1955)年、県社会教育主事の沢登初義は、親しみやすい新民謡の創作を米山愛紫(?-1973)に依頼した。米山は若い頃から詩歌に巧みで、県師範学校(山梨大学教育学部)在学中から北原白秋に師事し、同人雑誌に頻繁に投稿していた。歌詞は同三十二(1957)年秋に出来上がる。同三十六(1961)年五月、三橋美智也(1930-1996)が唄ってたちまち評判となった。信玄の旗印・風林火山の典拠である孫子の一節が詩吟で挿入されている。
§◎三橋美智也KICH-2186(96)編曲/山口俊郎。三味線/藤本e丈、藤本直秀。三橋は北海道出身。幼い頃より民謡に親しみ、九歳で全道民謡コンクールに優勝。昭和二十九(1954)年に「酒の苦さよ」でデビュー。翌年「おんな船頭唄」が大ヒットを記録する。民謡で鍛えたハリのある歌声と限りなく郷愁を誘う歌唱で「リンゴ村から」「哀愁列車」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などのヒット曲を連発。七十年代後半には、深夜ラジオをきっかけに“ミッチー・ブーム”が起こり、若年層にまでその影響を及ぼした。昭和五十八(1983)年、史上初めてレコード総売上げが一億枚を突破。民謡三橋流の家元として、細川たかし、石川さゆりらを教えた。△鈴木正夫「正調武田節」VZCG-135(97)作曲者の明本京静が編曲。味わい薄い歌唱で、詩吟が民謡調になっている。
「奈良田追分」(山梨)
♪ハァーヨー追分唄えば奈良田が恋しヨー
(ハー ドッコイドッコイ ドッコイサット)
昔馴染みの里じゃもの
(里じゃ鶏 山には郭公 あの子は歌姫)
南巨摩郡(みなみこまぐん)早川町奈良田に伝わる。単調な繰り返しの三味線伴奏で唄われ、宴席が盛り上がると自然に唄い出される。長野県の「信濃追分」が元唄のようだ。
奈良田は県の南西部、白根山脈と巨摩山地に挟まれた早川に沿って、南北に延びた早川町の北端にある。標高が810〜850bであるため、平坦地はごく僅かしかない。昭和三十(1955)年代まで焼畑が行われていた。作家の岩崎正吾は、奈良田が武田信玄直属の隠密村だったと推測している。ここでは、甲州弁とはかなり異なった方言が話されていたため、他国に入っても甲斐者と見られず都合が良かったからである。
奈良田温泉は第四十六代・孝謙天皇(718-770)がここで病を癒したという伝説から、女帝の湯とも呼ばれている。
§○澤瀉秋子VZCG-616(06)三味線/藤本博久、藤本秀統、尺八/米谷智、太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬那る駒、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。伸びのある声で気持ちよく唄う。単調な三味線伴奏に特色がある。
「粘土節」(山梨)
♪ハァー粘土お高(こう)やんが 来ないんて言えば(コラコラ)
広い河原も真の闇(コラ)
広い河原も真の闇(ハァゴッションゴッション)
甲府市を中心に唄われる花柳界のお座敷唄。天文十一(1542)年、信玄の釜(かま)無川(なしがわ)築堤工事の際に唄われた唄が元唄とされている。付近の農村では仕事唄や盆踊り唄、酒席の騒ぎ唄になった。この種の唄は、一時、かなり広い地域で唄われたらしく、長野県下にも地固め唄として残っている。
釜無川は雨が降れば氾濫を繰り返し、武田信玄も手を焼いていた。明治十八(1885)年、流域が大洪水に見舞われ、同二十年から堤防の大改修工事が始まった。堤防造りは石を並べ、その上に粘土を敷き詰めて砂を撒き、掛矢や突き棒で搗き固める。美声の女作業員・お高(児玉たか)が唄う土手搗き唄は作業を円滑に進め、お高やんは土方(どかた)(土木工事従事労働者)たちの憧れの的であった。お高やんはトロッコ押しの藤巻茂作と所帯を持ち、昭和七(1932)八年頃、大月市猿橋(さるはし)町(まち)で亡くなったと伝えられている。
佐賀と長崎県で唄われる新地節に登場する“お春”も、お高と同じような存在だった。
§○森田よし子FGS-605(98)三味線/矢崎乙女、机かつ子、尺八/杉田瑞雲、太鼓/山崎明美、囃子言葉/内藤郁子。仕事唄らしい素朴さがある。
posted by 暁洲舎 at 07:05| Comment(0) | 中部の民謡
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