「浅間節(浅間温泉小唄)」(長野)
♪浅間湯の町ゃヨイショヨイショナ
サイショ松本平ヨイショヨイショナー
山や谷間の 山や谷間の蔭じゃないヨイショヨイショナー
ほんに浅間は湯の都ササヨイショヨイショナー
野口雨情(1882-1945)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の新民謡。城下町松本の奥座敷・浅間温泉の歴史は古い。その周辺から、天武天皇に仕えた有力氏族の古墳が数多く見つかっている。『日本書紀』には浅間温泉一帯のことを「束間の温湯」と記し『万葉集』には「浅葉の里」「麻葉の湯」と詠まれている。
§小杉真貴子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方は不記載。管弦楽伴奏。独特のクセのある晋平節を、唱歌的歌唱で唄われると不快感が残る。
「安曇(あずみ)節(ぶし)」(長野)
♪安曇六月 まだ風寒い
田植え布子に 田植え布子に雪袴
雪袴雪袴(チョコサイコラコイ)
二上りの手で、唄は音頭と返しからなり、音頭取りの終りの五文字が返しとなって“チョコサイコラコイ”で締めくくられる。曲の母体はチョコサイ節。安曇地方から越後の糸魚川(いといがわ)方面にかけて広く分布する盆踊り唄だ。古くから同地方で唄われていた仕事唄に、チョコサイ節を加味して榛(しん)葉(は)太生(ふとう)(?-1962)が作りあげた。榛葉は北安曇郡松川村の医師。大正十二(1923)年の夏のことであった。「正調安曇節」と呼ばれるものは、各文句の唄い出しに“サー”が入る素朴な安曇節だ。同十四(1925)年、同じく榛葉が世に出した。
§◎安曇節保存会「正調安曇節」VZCG-135(97)かなりの年配者が唄っているような雰囲気だ。民謡らしい作曲が効奏。お囃子方は不記載。○久保名津絵COCF
-13287(96)穏やかな歌唱。しっとりと唄う年増芸者さんの風情だが、少し声が濁る。三味線/久保田利子、垣内名津千世、尺八/矢下勇、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波成る駒、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽。安曇節保存会作詞、出原処士作曲。△豊科都小春COCJ-30338(99)合唱/近藤淡山社中。三味線/福の家小福、照の家福助、太鼓/分初音照美、笛/鳳晴雄。ちょっと下品な田舎の芸者さんの風情。
「伊那節」(長野)
♪ハァー天竜下れば 飛沫がかかる(ハァオヤ)
持たせやりたや 持たせやりたや桧笠(ハァヨサコイアバヨ)
ハァー木曽へ木曽へと付け出す米は(ハァオヤ)
伊那や高遠の 伊那や高遠のお倉米(ハァヨサコイアバヨ)
飯田市を中心に唄われる祝儀唄。元唄の御岳節は、木曽谷から伊那谷、飛騨、美濃、三河の山間部一帯で唄われていた。
明治四十一(1908)年春、上伊那郡西春近村の唐沢某は、長野市の権堂芸妓に御岳節を覚えさせ、唄の普及のために共進会を作った。やがて県下で広く唄われるようになると、御岳節は伊那の唄となった。昭和の初め、美人で美声の鶯芸者・市丸(1906-1997)が唄い、全国に知られるようになった。伊那市の与地地区では今も伊那節の正調を伝えている。
§○地元歌手BY30-5017(85)お囃子方は一括記載。泥臭い伊那節。野趣があってよい。笛、三味線、太鼓、鉦、囃子言葉は女声。○市丸VICG-15025(92)三味線/静子、豊藤、編曲/小沢直与志。味、艶、お色気はさすが。三味線の静子は市丸の実妹。COCF-12698(95)市丸は昭和七(1932)年からビクターに籍を置いていたから、コロムビア盤は貴重な音源だ。お囃子方不記載。市丸は十九歳で長野県の松本から上京、浅草で芸者に出る。昭和六(1931)年、歌謡界にデビュー。同八(1933)年、中山晋平作曲の「天竜下れば」が大ヒットして、小唄勝太郎と共に市勝時代を築いた。晩年は小唄中村流の家元として後進の指導にあたった。四十七年に紫綬褒章、五十六年には勲四等宝冠章を受けている。△小川淡流COCF-13287(96)少ししゃがれた野趣ある婆声。味あり。泥臭い伊那節も面白い。三味線/古沢ケイ、高田はつ子、尺八/菊池淡水、太鼓/江ヶ崎高峰、囃子言葉/立木宏。
「江島節」(長野)
♪サーエノヤーレ絵島ゆえにこそ門に立ち暮らすエー
サー見せてたもれよ面影を
サーエノヤーレ花の江島が唐糸なればエー
サーたぐり寄せたやこの島を
信州遠山郷は天竜川の支流・遠山川の上流にあり、上村と南信濃村を合わせた地域には杖突街道と秋葉街道が通っている。遠山郷には民俗芸能が数多く残され、盆踊り唄もかなり伝えられている。
絵(江)島踊りは、扇子を持って唄い踊る雅やかで静かな踊りである。唄は徳川七代将軍・家(いえ)継(つぐ)(1709-1716)の頃、高遠藩にお預けになった奥女中・絵島(1681-1741)を偲ぶもの。初めは高遠で唄われたが、杖突と秋葉街道を往来する馬子達によって上村へ伝わった。今では地元の高遠にこの唄は残っていないという。
絵島と生島の事件は、江戸城大奥の江島と歌舞伎役者・生島新五郎(1671-1742)との間の不行跡事件のことだ。絵島は家(いえ)継(つぐ)の生母・月光院(1685-1752)に仕えていた。正徳四(1714)年一月、月光院の名代で、前六代将軍家宣(1662-1712)の墓参のために芝増上寺に行った江島が、帰路、山村座の人気役者・生島新五郎の舞台を見て一目惚れ。舞台がはねた後、絵島は生島と時を過ごし、大奥の門限に遅れてしまう。当時、大奥では、家宣の正室・天英院(1666-1741)を中心とする勢力と、月光院を中心とする勢力が対立していた。この事件は、天英院派の利用するところとなり、月光院派は死罪二人、流罪十人を含む約千五百人が処分されたという。生島は三宅島に遠島となり、絵島には死罪が下るが月光院の嘆願により、高遠(たかとお)藩内藤家お預けとなった。時に絵島二十三歳。寛(かん)保(ぼう)元年にその生涯を終えるまで高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことはなかった。
§○江村貞一VDR-25202(89)尺八/錦次郎。哀調ある声で、情感込めて唄っている。
「エーヨー節(糸繰り唄)」(長野)
♪ハァ諏訪の湖水を鏡に立てて(アヨイソレ)
化粧するがのエーヨー富士の山(アヨイソレ)
諏訪・伊那地方に古くから伝わる盆踊り唄。繭(まゆ)を煮て生糸を採る座繰(ざぐ)り作業で唄った。座繰り機の取っ手(把手)をまわして木枠を回し、そこに糸を巻きつける作業を座繰りという。座繰り機は全国各地で使われていた。絹は豪華な美しさと着心地で、古くから珍重されてきた。
生糸は蚕の繭から採糸する。蚕は桑の葉を食べて成長し、体内の絹糸腺から絹の成分を空気中に吐き出す。吐糸の全長は約1,200bにおよび、八字形を描きながら二昼夜、不眠不休で吐糸して繭を作る。蚕は繭を作り終わると蛹(さなぎ)となり、十日程で蛾(が)になる。蛾になると繭に穴を開けて外に出てくるので、その前に天日干しにして乾燥、蛹を殺す。乾燥した繭を煮て柔らかくし、数十個の繭からほぐし出した繭糸を箸で摘まみ出す。それを左手で撚り合わせながら、右手で糸繰り機を廻し、木枠に巻き付けて生糸を採る。
§○鳴海重光VDR-25202(89)笛/米谷威和男、三味線/本條秀太郎、本條実、太鼓/高田クニ子、鉦/日景玲子、囃子言葉/新津幸子、江村貞一、渡部勝史。作業唄らしく唄っている。派手さを狙った歌謡曲まがいの民謡を唄う人気民謡歌手が多い昨今、こうした唄に取り組む歌手の存在は貴重。ただ、声がよすぎて、もっとさびた声であってほしいところ。
「追分馬子唄」(長野)
♪追分枡形のエ茶屋でヨー
ほろと泣いたは アリャ忘らりょか(ハイーハイー)
浅間山さんエ なぜ焼けしゃんすヨー
裾に三宿 アリャ持ちながら(ハイーハイー)
馬方たちが唄う博労(ばくろう)節(ぶし)は馬方節、夜曳き唄と呼ばれ、追分宿では追分節と呼ばれる。三下りの伴奏が好まれると“馬方三下り”と呼ばれた。この唄が北国街道を北上し、新潟港あたりでは“蝦夷や松前やらずの雨が……”といった文句で唄われ、松前節と呼ばれた。北前船の船乗りや、越後の瞽女、座頭といった人々が北海道の江差に伝え、江差追分となる。
追分宿にある油屋の小川誠一郎は、飯盛女の“おのぶ”から習った追分を覚えていた。三味線が付いたお座敷用の唄であったが、追分の宿から遊郭が岩村田へ集団移転して、三味線を弾く人がいなくなると、馬方の鈴と徳利の袴を伏せて出す蹄(ひづめ)の音で唄った。
§◎小川誠一郎FGS-605(98)鳴り物/小川貢、佐藤今朝信。蹄の擬音が面白い。
「大町小唄」(長野)
♪山に登ろかヨーホホホイ 登ろよ山にヤレコノサ
みそら十里は岳の町 コノヤレコノ大町ゃヨ
山を下ろかヨーホホホイ 下ろよ山をヤレコノサ
夜の安曇野光る町 コノヤレコノ大町ゃヨ
昭和三(1928)年、劇作家で小説家の伊藤松雄(1895-1947)が作詞、中山晋平(1887-1952)が曲を付けた新民謡。
大町市は県の北西部、松本平の北に位置する高瀬川扇状地に開けた町である。北の五竜岳から、南の槍ヶ岳頂上までを収める全国屈指の広さを持ち、豊富な温泉にも恵まれた山岳観光都市だ。鎌倉時代は仁科(にしな)氏の城下町であり、近世以降は千国(ちくに)街道に沿う市場町として発展。通称“北アルプス一番街”といわれ、西部一帯に北アルプスの山岳が峰を連ねている。
§○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方は不記載。鹿島の清澄で明朗(めいろう)闊達(かったつ)な歌唱は、聴く者の心を和ませる。
「お諏訪節」(長野)
♪ハァー峰はナ(ハァドッコイ)
峰は白雪 諏訪湖は茜
溶けて見初めてトコドッコイドッコイセ
エー溶けて見初めて 出湯の町(ソレ)
アラヨイトヨーイトヨイトトコドッコイドッコイセ
北原義張作詞、中山晋平(1887-1952)作曲の新民謡。諏訪温泉周辺の名所を織り込んだ調子の良い唄に仕上がっている。
天竜川の水源である諏訪湖は水面海抜高度759b、周囲17`。湖畔に上下の諏訪温泉街がある。諏訪盆地は諏訪神社を中心にして古くから開け、近世には中山道と甲州街道が交差する下諏訪宿として栄えた。
§○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方不記載。管弦楽伴奏。鹿島は、かつてビクター少年民謡会のメンバーとして活躍。陽性の澄んだ声と明晰な節回しに、ほのかなお色気がある。輝きのある小沢の編曲もよい。
「親沢追分」(長野)
♪追分唄えばエエー 茂来のエー鬼もヨ
目元やさしく エー笑い出す
(行くよだ来るよだ 千里も先から足音するよだオーサヨイヨイ)
冠婚葬祭の宴席で唄い継がれてきた。「信濃追分」ほど洗練されておらず、素朴な味わいを残している。追分の宿にいた飯盛女が身請けされ、親沢にやってきて追分節を土地の人たちに教えた。
§○松江徹VDR-25202(89)三味線/高橋脩次郎、高橋巌、尺八/矢下勇、太鼓/日景玲子、囃子言葉/丸山正子、西田和枝。声に艶がありすぎて、味わいに乏しい。さびた渋さがほしいところ。
「木曽節」(長野)
♪木曽のナー仲乗りさん 木曽の御岳ナンチャラホイ
(夏でも寒いヨイヨイヨイ)
袷ショナー仲乗りさん 袷ショやりたやナンチャラホイ
(足袋ヨを添えてヨイヨイヨイ)
ゆったりとしたテンポで、唄と踊りと手拍子が一体となった上品で涼やかな唄だ。木曽谷一帯の村々で踊られていた木曽踊りには、数十種の唄と踊りがあった。木曽川で材木を流し出す王滝川の木流し人夫は、鳶口を使いながら木遣り唄を唄っていた。それがいつしか、お座敷唄の御岳山節になったものらしく、囃子言葉にその名残りがある。“中乗り”は木曽川で木材を運搬する筏の真ん中に乗った筏師だが、その昔、馬に三宝荒神という鞍を置き、その真ん中に乗った人を中乗りさんと呼んでいた。御岳教で神のお告げを信者に伝える人も“なかのり(中座)”と呼んでいる。囃子言葉のナンチャラホイは“なんじゃやらほい”が詰まったもの。梵語に由来するといった説もある。
永享六(1434)年、木曽家十二代・木曽信道が福島に城を築き、興禅寺を復旧して木曽義仲の菩提寺とする。そのとき倶(く)利(り)伽羅(から)峠(とうげ)の戦勝を記念した霊祭が行われ、風流陣の踊りがなされた。このときの武者踊りが木曽踊りの起こりであり、その後、盆踊りとして定着したという。室町時代の『閑吟集』に記載されるほど、古くから都にまで知られていた。
大正四(1915)年、木曽福島町長の伊東(いとう)淳(すなお)(1876-1942)は、木曽踊りの復活を図り、御岳山節を元唄にして木曽節を作った。自ら“木曽踊り司(つかさ)”を名乗り、振興策として観光客に免許状を発行して唄の普及に努めた。木曽郡(きそぐん)木曽町(きそまち)福島(ふくしま)では「相許候事木曽踊(相許し候事の木曽踊り)」という免許状を発行している。
三味線、太鼓の鳴り物入りで、賑やかに唄われるお座敷唄の木曽節は、地元のものと節回しが違う。
§○奥原行雄、八木広助、小田国雄COCJ-30338(99)三味線/清香、太鼓/安田赳夫、笛/大橋澄雄。○加藤幹雄、塩原武光、森下政吉、八木広助FGS-605(98)三味線/清香、笛/棚橋喜一、太鼓/安田赳夫(木曽踊り保存会)。△地元歌手BY30-5017(85)土地の匂いを感じさせて心地よい演唱。
「熊ひき唄」(長野)
♪ハァ苗場(なえば)山頂で熊とったぞ
(ヨーエートナーヨーイトナー)
ハァ引けや押せやの大力で
(ヨーエートナーヨーイトナー)
新潟との県境に近い秋山郷の熊狩り唄。熊を仕留め、雪道に熊を滑らせながら捕獲の喜びを唄った。熊は木穴、岩穴、土穴で冬眠する。穴熊狩りは、冬眠穴居中の熊を晩冬から初春にかけて。穴の中の熊を挑発して、熊が穴口からほぼ半身を乗り出した頃合いを見計らい、頭を狙って撃つ。秋田県のイタズ、マタギと呼ばれる熊撃ち猟師も、長野県までやってきて熊を撃った。
§○山田長治KICH-2023(91)囃子言葉/安部智法、福原直市。
「小諸(こもろ)馬子(まご)唄(うた)」(長野)
♪小諸でて見ろ 浅間の山に
今朝も煙りが 三筋立つ
あおよ泣くなよ もう家ゃ近い
森の中から 灯が見える
昭和十二(1937)年、赤坂小梅の流行歌「浅間の煙」に挿入された。それがいつしか「小諸馬子唄」の名で独立させて唄うようになり、小梅の十八番となる。碓氷峠を越えた群馬県碓氷郡松井田町坂本の宿を中心に唄われていた坂本節に節回しが似ている。坂本節は中山道と北国街道の分岐点・追分の宿小室(こむろ)で、飯盛り女たちが酒席の騒ぎ唄として唄っていた。小室は小諸の旧名。
「信濃追分」の元唄となる小室節は、近松門左衛門の『丹波の与作待(まつ)夜(よ)の小室節』や井原(いはら)西鶴(さいかく)の『好色一代男』にその名が見える。馬子唄が追分の宿で三味線唄となった小室節は、越後に向かって北前船に乗り、日本海を北上して各地に伝播していった。
§◎赤坂小梅COCJ-30338(99)定盤。尺八/菊池淡水、小坂淡童、鈴/山田鶴三、笛/老成参洲。COCF-9749(92)SP盤が音源。尺八を吹く小坂淡童は昭和七(1932)年、北海道に生まれ。同二十六(1951)年、菊池淡水に師事。同三十二(1957)年「淡童」の号を受けた。同六十(1985)年、名管二葉園を譲渡されて二葉園六代目を継承。二葉園の銘がある尺八は佐藤淡水、小梨錦水、後藤桃水、菊池淡水などの尺八名人が継承してきた由緒ある名管だ。約百八十年前、新発田藩の久米孝太郎が父の敵を探し求めて諸国を巡った時に持ち歩いたものだという。○鳴海重光VZCG-135(97)尺八/菊池淡水。飾らない。気取らない。技巧を排した歌唱。
「信濃追分」(長野)
♪(ハキタホイ)
浅間根越しの(ハキタホイ)エ焼野の中にヨ(ハキタホイホイ)
あやめ(ハキタホイ)エ咲くとは(ハキタホイ)しおらしや
(来たよで来ぬよで 面影さすよだオーサドンドン)
中山道と北国街道の分岐点である追分宿(北佐久郡軽井沢町)の飯盛り女たちは、馬方節に三下りの手を付けた唄を酒席の騒ぎ唄としていた。
馬方三下りが追分の名物になると曲の名前も追分と変わり、それを習い覚えた旅人や遊芸人が諸国に広めていった。秋田に入って「本荘追分」、北海道に渡って「江差追分」「江差三下り」となった。明治二十六(1893)年、信越本線が開通すると追分宿はさびれ、唄も忘れられていく。
大正の初期、佐久市南大井の渡辺善吾(1847-?)は、追分にあった永楽屋の芸妓・おさのから教わった追分を岩村田の芸妓達に教えた。岩村田の簾(みす)田(だ)じょう(1901-?)はその唄を引き継ぎ、賑やかなオーサドンドンの囃子言葉を入れて唄い、人気を呼んだ。
追分は、馬を追い分けるという意味がある。北国街道と中山道の分岐点である追分は、東へ沓掛、軽井沢と三つの宿場が続き、俗に浅間根越の三宿と称された。
§○吉沢浩KICH-2015(91)若い頃の歌唱。三味線/藤本e丈、藤本直久、鳴り物/美波三参、囃子言葉/白瀬春子、平林愛子。○鎌田英一「正調信濃追分」CRCM-
4OO20(93)三味線/柏木実、柏木崇、尺八/米谷龍男、米谷守、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波駒千江、囃子言葉/西田和枝、西田和美。三味線がやや早間。○関本登美子APCJ-5040(94)少々ぶっきらぼうな歌唱で、変に品を作らないがあだっぽい。
「信濃よいとこ」(長野)
♪おらが善光寺さんは 常夜燈の明かり
末世衆生の 涙を照らす
一夜泊りに 後生願込めりゃ 鐘が後ひく 後ろ髪
信濃よいとこ 弥陀の国 弥陀の国
小林邦夫作詞、西條八十(1892-1970)補作詞、町田佳聲(1888-1981)作曲の新民謡。昭和九(1934)年、信濃毎日新聞が歌詞を募集した。長野県各地の名所、名物が読み込まれている。長野県は海のない内陸県である。周囲を十ヵ国(上野、武蔵、甲斐、駿河、遠江、三河、美濃、飛騨、越中、越後)と山々に囲まれ、往来は峠を通じてなされた。中信(松本)南信(諏訪・伊那)東信(上田・佐久)北信(長野・善光寺)の四つの盆地に人が集中し、それぞれ異なった文化・気質を形成している。
§○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。△神谷美和子APCJ-5040
(94)お囃子方不記載。
「須坂小唄」(長野)
♪山の上から ちょいと出たお月
誰を待つのか 待たれるか
(ヤ カッタカタノタ ソリャ カッタカタノタ)
野口雨情作詞、中山晋平作曲。大正末期から昭和の初年にかけて起こった新民謡運動の口火を切った唄。須坂町の山丸製糸工場が、女子工員のレクリエーション用として委嘱した。大正十一(1922)年、野口雨情は須坂の町を歩きまわって詩想を練ったという。製糸工場の糸繰り器の音を囃子言葉に用いて、翌十二年に完成。大勢で一緒に唄うことができ、唄いながら踊れるように作られている。須坂は中山晋平の郷里・下高井郡日野村(中野市)に近い。
§○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。三味線/静子、豊藤。囃子言葉方は不記載。透明感のある声で明るく軽快に唄っている。
「須原ばねそ」(長野)
♪ハァーヨーイコレ
須原ばねそは お十六ばねそ(ホイ)
足で九つ手で七つ ハァ手で七つ
足で九つ 手で七つ
中山道木曽十一宿の須原宿に古くから伝わり、周辺の村々では、盆踊り、祭礼、祝宴等で唄い踊られている。ばねそは“跳ね踊る衆”の意で、はねるように踊られるのが特徴だ。「民謡須原ばねその里」の石碑がある定勝寺を建てた大工の棟梁が京都から伝えたという。「よいこれ」「竹の切り株」「須原甚句」の三つがあり、いずれも楽器を使わない地唄のみで踊られる。
§△小杉真貴子KICH-8504(04)尺八/米谷威和男、囃子言葉/米谷美枝子、米谷美智子。清澄な声で、しっとりと唄っているが、土の匂いに乏しく、声の個性が乏しいため、どれを唄っても同じような歌唱となってしまう。
「千曲小唄」(長野)
♪岩間逃げ水 ひそひそ小道ヨ
木の根 草の根わけて来て
さざめき合えばヨ 噂末広 千曲川
(ホイノホイノホイノヨサホイノホイショコホイホイホイ)
昭和三(1928)年、正木(まさき)不(ふ)如(じょ)丘(きゅう)作詞、中山晋平作曲の新民謡。千曲川は山梨、埼玉、長野県にまたがる甲(こ)武(ぶ)信ヶ岳(しがたけ)に源を発して、佐久、小諸、上田を流れ、長野市で松本方面から流れてくる犀川(さいがわ)と合流。新潟県へ入って信濃川と名を変える。源流から県境までの長さは約214km。信濃川は、日本で一番長い川として知られているが、信濃川部分よりも千曲川と呼ばれる流域の方が長い。
正木不如(まさきふじょ)丘(きゅう)(1887-1962)は長野市出身。本名・正木俊二。医学博士で小説家。“高原のサナトリウム”で知られる富士見高原療養所所長でもあった。富士見高原療養所は大正十四(1925)年に開所され、堀辰雄(1904-1953)の『風立ちぬ』の舞台となり、竹久夢二(1884-1934)はここで孤独の最期の時を迎えている。
§○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。三味線/静子、豊藤。囃子言葉は不記載。軽快で清澄な声と節回しが心地よい。
「天竜下れば」(長野)
♪ハァ天竜下ればヨーホホホイノサッサ
しぶきがかかるヨ
咲いた皐(さつき)に エー咲いた皐に虹の橋
ホンニアレワサーノ虹の橋
天竜峡の宣伝歌。長田幹彦(1887-1964)作詞、中山晋平作曲。昭和九(1934)年、松本市出身の市丸(1906-1997)が唄って大ヒットした。
天竜川は諏訪湖を源にして中央、南アルプスの間を南下、さらに奥三河(愛知県)北遠(静岡県)の山岳地帯から、遠州平野(静岡県)を流れて太平洋に注ぐ。江戸時代の中期から昭和の初め頃まで、山間の村と河口の町を結ぶ重要な水上交通路だった。筏や帆船が行き交い、多くの物資が運ばれた。戦後の住宅復興時には天竜木材の需要が増し、木材を組んだ筏(いかだ)が盛んに急流を下った。天竜川はたびたび氾濫(はんらん)して“暴れ天竜”と恐れられた。
§◎市丸VDR-5172(87)三味線/千代、日本ビクター管弦楽団。昭和八年に発売されたSP盤が音源。VDR-25202(89)編曲/寺岡真三。三味線/静子、豊藤。ほのかなお色気と円熟の味わいがあり、声、節、雰囲気は申し分なし。市丸(1906-1997)は、江戸小唄中村流を継いで多くの弟子を育てた。上の歯と下の歯を見せず、口を動かさないで唄う芸者歌手の正統派。長野県松本市出身。本名・後藤満津枝。○新橋千代菊KICH-2015(91)編曲/細川潤一。軽やかな調子で自信にあふれて唄う。迫力ある美声で好感が持てる。三味線/藤本e丈、藤本直秀。KICH-2465(05)三味線/藤本e丈、藤本秀輔。
「長久保甚句」(長野)
♪長久保よいとこ いつ来て見ても
(アエッサー)
かかあ天下に 屋根の石
(アエッサッサー)
本調子甚句。かつては「長窪甚句」と書かれていた。中山道有数の宿場である長久保(小県郡長門町)の騒ぎ唄。長久保は江戸から二十七番目の宿場であった。つい最近まで、板(いた)葺(ぶ)きの屋根に石を載せ、屋根が風で飛ばされないようにしていた家が見受けられた。安藤(あんどう)広重(ひろしげ)(1797-1858)が描く木曽街道六拾九次の長久保は、夕景が美しく、橋上を行く旅人や遠くの山はシェルエットで描かれている。町域の大半は、霧ヶ峰北東麓の広大な裾野で、千曲川の支流・依田(よだ)川(がわ)の扇状地に、わずかに水田が広がる。
§○鈴木正夫VDR-25202(89)三味線/市川紫、小沢千月、尺八/矢下勇、太鼓/美波三駒、鉦/美波駒三郎、囃子言葉/鹿島久美子、西田和枝。味を出すのが難しい曲。喉をしめた発声が耳障り。
「中野小唄」(長野)
♪信州広くも 中野がなけりゃ
(ヨイトコラドッコイサノセッセ)
何処に日の照る 何処に日の照る 町がある 町がある
(カナカナカノカナンセカンセドッコイサノセッセッセ)
野口雨情作詞、中山晋平作曲。長野盆地北東の夜(よ)間(ま)瀬川(せがわ)扇状地に開けた中野市は、山ノ内温泉郷、志賀高原の玄関口。昭和二(1927)年の発表会には、藤間静枝の振り付けで発表され、会場は沸きに沸いたという。中山晋平は、下高井郡日野村(中野市)生まれ。
§◎信州中野芸妓連VDR-5172(87)笛、太鼓入り。SP盤が音源。素朴で泥臭い田舎の年増芸者が団体で唄っている。聴いているお客が逃げ出すような演唱。○小杉真貴子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方は不記載。初心な女学生が芸者になったような風情で唄っている。全国にあまり知られてない唄を紹介することは大変に好ましことだが、洗練された歌唱と美声に頼らず、郷土の匂いをそこはかと醸し出す民謡歌手としての工夫と技巧が欲しいところ。
「野沢温泉小唄」(長野)
♪ハァ千曲渡ればナ 野沢の出湯ヨ
渡り鳥さえ 知らぬ鳥さえ寄るものをヤレサノサ
ソレゆらゆら揺らりは 湯の煙
ちゃらちゃらちゃらりは 水の音 ササチャラリトナ
時雨音羽作詞、中山晋平(1887-1952)作曲。昭和五(1930)年、野沢芸妓連によってレコーディングされた。野沢温泉は信州と越後の県境近くにある毛無山(1650m)の裾に広がり、三方を高い尾根に囲まれている。まさに自然の要害であり、かつて武田軍も上杉軍も、ここで隠れるようにして軍馬を休めた。豪雪、寒冷、単作、傾斜地というこの地は、決して豊かではなかったが、農閑期を過ごす湯治場として人気があった。
野沢温泉の起源は古く、聖武天皇のころ(724〜748)僧行基によって発見され、寛永年間(1624〜1643)には飯山藩主の松平氏が浴場や宿を整備して湯治場とした。野沢温泉の名物・野沢菜が栽培されるようになったのは宝歴六(1756)年のこと。健命寺の住職・晃天園瑞和尚が、京都遊学の土産に天王寺蕪の種を持ち帰ったことに始まる。種を寺内の畑にまいたところ、野沢温泉の気候と土質の影響で蕪は育たず、代わりに葉や茎の部分が成長して野沢菜が誕生した。独特の歯ざわりと鮮やかな緑は、一度温泉の湯でゆがいて洗い、氷点下の外気のなかで漬け込むと生まれる。
§◎葭町二三吉VDR-5172(87)三味線/小静、秀葉、鳴り物入り。音源は昭和五(1930)年発売のSP盤。△榎本美佐江(1924-1998)VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。三味線/静子、豊寿。線が細く、かぼそげな榎本節。
「望月小唄」(長野)
♪わたしゃ信州 ヤレ望月の生まれ
山家育ちでも 実がある
ヤンレ スッチョコ ションガイナ
ヤレコノ スッチョコ ションガイナ
甘利英男作詞、中山晋平作曲。昭和三(1928)年、望月芸妓連がレコーディングした。長野県東部の北佐久郡望月町は、蓼科山北麓にある旧街道の面影を残す町だ。中心の望月は千曲川支流の鹿曲(かくま)川西岸にあり、古くから中山道の宿場として発展してきた。古来、付近一帯は官牧地で、紀貫之が「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒」と詠んだところである。
§◎信州望月芸妓連VDR-5172(87)音源は昭和三(1928)年のSP盤。○鈴木正夫、若宮桂子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方不記載。
「龍峡小唄」(長野)
♪ハァ天竜流れて 稲穂は黄金
繭は白金 お国自慢の天竜峡ヨ
(ハヨイトヨイトヨイトサノヤレコノセ)
白鳥省吾(1890-1973)作詞、中山晋平(1887-1952)作曲。
昭和三(1928)年、下伊那郡川路村の青年団が、天竜峡の小唄制作を白鳥に委嘱。白鳥は飯田市郊外の時(とき)又(また)から、天竜川を下る数十キロの天竜峡の景観を詠った。白鳥は宮城県築館町出身。農民の魂をもって民衆詩を歌いあげ、一時代を画した民衆派を代表する詩人だ。
昭和四(1929)年、葭(よし)町(ちょう)二三(ふみ)吉(きち)(1897-1976)がレコーディング。二三吉は東京浅草の出身。祇園小唄などの流行小唄で一世を風靡。昭和八(1933)年に、藤本二三吉と改名している。
§◎葭町二三吉VDR-5172(87)三味線/高橋恵津子、小静。鳴り物入り。音源は昭和四(1929)年発売のSP盤。素朴で泥臭い声と歌唱だが、小節の使い方は絶妙。○鹿島久美子VDR-25202(89)編曲/小沢直与志。お囃子方不記載。
2022年03月04日
長野県の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:04| Comment(0)
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