2022年03月04日

静岡県の民謡

「熱海節」(静岡)
♪伊豆の熱海か 伊豆の熱海か 熱海の伊豆か
(オーサヨイトサノセ)
熱海ゃ名どころ ヨイトサノセお湯どころ
(オーサヨイトサノセ)
熱海温泉組合が西條八十(1892-1970)と中山晋平(1887-1952)に委嘱して出来上がった。二人は熱海の老舗・古屋旅館に逗留してこの曲を作った。残念ながら、詩も曲ともに個性と品格のないものに仕上がっている。
中山晋平はこれが縁となり、昭和十(1935)年、熱海に別荘を構えて、同十九(1944)年から定住。ここで生涯を閉じた。
熱海は暖流が流れる相模湾を望み、扇状に連なる伊豆の山々を背にした風光明媚な所。日本で指折りの大温泉地だ。明治時代から多くの文豪たちが居を構え名作を執筆している。尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の舞台となり、大正六(1916)年、宮島郁芳と後藤紫雲が作った“熱海の海岸散歩する寛一お宮の二人連れ”で始まる演歌によって全国に知れ渡った。
海岸近くに“お宮の松”と“貫一お宮の像”がある。現在の松は二代目で昭和四十一(1966)年に植え替えられた。初代の切り株は同所と市役所にある。貫一お宮の像は昭和六十(1985)年、熱海ロータリークラブが建てたものだ。
§◎葭町二三吉VDR-5172(87)三味線/小静、秀葉、鳴り物入り。昭和六(1931)年発売のSP盤が音源。
「下田節」(静岡)
♪(ハヨイトサヨイトサーエ)
伊豆の下田に長居はエー(ハヨイヨーイ)およし
縞の財布が空になるエー(ヤンレ下田の沖に瀬が四つ)
エー思い切る瀬に切らぬ瀬に
(エー取る瀬にやる瀬がないわいなアエオオサヨタヨタ)
酒席の騒ぎ唄。千葉県の「安房節」や神奈川の「三崎甚句」などと一連のもので、二上り甚句が港の騒ぎ唄風になったものだ。
下田港は、江戸と上方を結ぶ東回り航路の要港として栄え、漁季になると諸国の漁船が寄港して大いに賑わった。毎年、三千艘もの千石船が出入りしたという。酒席では漁師や船頭相手に、女たちが騒ぎ唄を唄って座を盛り上げた。
§○佐藤松子KICH-2466(05)三味線/藤本e丈、藤本秀三枝、笛/米谷威和男、鳴り物/西泰維、囃子言葉/佐藤松重、白瀬春子、佐藤松千恵。お座敷唄はさすがに上手い。○高塚利子APCJ-5040(94)素朴さで唄う座敷唄。お囃子方は一括記載。
「次郎長音頭」(静岡)
♪ハァーお茶じゃ済ませぬ 次郎長音頭
(トコサラリトサ)
唄は粋なもの 手拍子そえてよドントキナ
清水港の アリャサ花じゃもの
野口雨情(1882-1945)作詞、藤井清水(1889-1944)作曲。曲調はあまりよくない。
清水次郎長(1820-1893)は文政三年一月一日、清水市の船待船頭・雲不見(くもみず)三右衛門(さんえもん)の子としてに生まれ、長五郎と名付けられた。元旦生まれの男は偉くなるか悪人になるか、どちらかであるという言い伝えがあったため、叔父の山本次郎八の養子に出された。次郎八の家の長五郎ということで次郎長と呼ばれる。
天保十(1839)年、旅の僧に人相を見られ、二十五歳まで生きられないと言われたことが、やくざ稼業になるきっかけとなった。甲斐、信濃、三河、伊勢路方面にまで縄張りを拡げ、東海道一の大親分と呼ばれた。
慶応四(1868)年三月、勝海舟(1823-1899)は江戸城無血明け渡しを決め、駿府(静岡市)にいる西郷隆盛(1827-1877)の元へ山岡鉄舟(1835-1867)を密使として送る。鉄舟の護衛をまかされたのが次郎長であった。これを機に始まった鉄舟と次郎長の交流は、次郎長の人生観を大きく変える。
明治七(1874)年、鉄舟は静岡県令・大迫(おおさこ)貞(さだ)清(きよ)にはかり、富士山麓開墾を次郎長に依頼する。次郎長は囚人を使い、自らも鍬をふるった。明治十七(1884)年には、現富士市(ふじし)大渕(おおぶち)次郎(じろ)長町(ちょうまち)の七十六町三反(約78f)の畑作地が、製茶、養蚕、陸稲、小麦などの土地となった。その後も清水地区の発展に貢献し、三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、蒸気船による海運会社の設立など、実業家としても成功を収め、明治二十六(1893)年、フランス行きを夢みつつその生涯を終える。七十三歳であった。遺言は朝野新聞によると「人生で得たものは傷あとだけ。若者は暴力に自省を」だったという。
浪曲や時代劇に登場する次郎長は、天田(あまだ)五郎(1854-1904)が書いた『東海遊侠伝』が原本。天田は磐(いわ)城(き)平(だいら)藩士の子。戊辰(ぼしん)戦争(1868)で両親と妹が行方不明になったため、全国を探し歩いていた。そのさなかに次郎長と出会い、人物を見込まれて養子となった。後に出家して愚庵(ぐあん)を名乗り、歌人、書家としても活躍。正岡子規(1867-1902)にも影響を与えた。
§△竹川智恵APCJ-5040(94)お囃子方は一括記載。お茶摘みの素人のおばさんが、若い子ぶりして唄っているようで聞き苦しい。
「駿河大漁節」(静岡)
♪(ヨーイヤサ ヨーイヤサ)
駿河よい国(コリャサ)
茶の香が匂うてサ(コリャサ)
沖は大漁の いつも大漁のナ かつお船 かつお船
(ヨーイヤサ ヨーイヤサ)
北原白秋作詞、町田佳聲作曲の新民謡。
§〇三橋美智也KICH-2419(06)三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/米谷威和男、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、唄囃子/昆勝一郎、秋山善孝。
「ちゃっきり節」(静岡)
♪唄はちやつきりぶし、男は次郎長、
花はたちばな、夏はたちばな、茶のかをり
ちやつきりゝ、ちやつきりよ
きやアるが啼くんて雨づらよ
北原白秋作詞、町田嘉章(佳聲)作曲。昭和二(1927)年四月、静岡電気鉄道(静岡鉄道)は、沿線に孤ヶ崎遊園を開園。その中に人工温泉つきの料亭旅館・翠紅園を建てた。開園の記念と沿線の観光と物産を広く紹介するための唄を作ることとなり、北原白秋(1885-1942)に作詞を依頼する。
白秋は明治十八(1885)年、福岡県山門郡沖端村(柳川市)の酒造業・油屋に生まれる。本名・隆吉。同四十二(1909)年、処女詩集「邪宗門」を出版して文壇に登場。昭和元(1926)年頃には、すでに押しも押されもせぬ詩文学の重鎮として、積極的な活動を続けていた。
静岡電気鉄道の長谷川貞一郎は、東京谷中にあった白秋宅を訪ねる。数回にわたって白秋宅を訪れたが、そのたびに面会を断られた。半年後、たまたま正宗白鳥(1879-1962)と親しい彫刻家と巡り合い、白鳥から白秋への紹介状を書いてもらう。ようやく会ってくれた白秋だが、肝心の用件については許諾しなかった。長谷川はねばり強く白秋を説得。地域開発と発展のために、地方の一私鉄である静岡電気鉄道が、社運を賭けて遊園施設の建設に踏み切ったこと、園内の料亭旅館は、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々に広く利用されるように願っていること、その利用客や入園者に愛唱される唄がどうしても必要であること、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうことなどを懸命に説いた。
白秋は長谷川の熱意に打たれ、作詞を快諾。白秋は早速、現地に泊まりこんで作詞に取り掛かった。
しかし、曲のイメージがなかなかつかめず、創作は大幅に遅れた。酒の座を立って障子を開けたお福というお婆さん芸妓の“蛙(きゃーる)がなくんて雨づらよ”の言葉にひらめいた白秋が、一気に詞を書き上げたのは半年も過ぎた頃であったという。
当初、白秋は“なくから”と書いたが、地元の詩人・長田恒雄(1902-1977)から、当地では“なくんて”だと指摘されると、すぐに改めた。ちゃっきりは鋏の音。詞に曲をつけたのは町田佳聲(1888-1981)である。
町田は群馬県伊勢崎出身。三味線音楽と日本民謡研究の第一人者だ。全国を踏査して民謡を発掘収集し、その保存と伝承に生涯を賭けた。藤本e丈の三味線で町田が唄った「ちゃっきり節」は、人柄がにじみ出ていて味わい深い。
§◎市丸VZCG-136(97)日本ビクター和洋合奏団の三味線、尺八、笛、太鼓、琴の伴奏で賑やかに唄う。初々しい市丸の声が聴ける。○VZCG-136(97)TFC-1202(99)三味線/静子、豊藤、佐野雅美編曲。現代風にアレンジ。その美声は衰えを見せていない。△下谷二三子K30X-220(87)元気一杯のお座敷調。三味線/藤本e丈、藤本直久、藤本喜世美、笛/藤柴秀月、鳴り物/望月孝太郎社中。△早坂光枝KICH-2016(91)編曲/上野正雄。若い頃の端正な歌唱。三味線/藤本e丈、藤本秀次、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽。△地元歌手BY30-5017(85)尺八伴奏が珍しい。
「ノーエ節」(静岡)
♪富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ
白雪ゃァ朝日で溶ける
幕末の嘉永年間(1848-1853)、西洋式砲術家として知られた伊豆韮山(にらやま)の代官・江川太郎左衛門(1801-1855)は、早くから沿岸防備の重要性を唱えていた。三島に調練場を作り、近郷の青年たちを集めて軍事訓練を行い、近代用兵の方法を積極的に取り入れていた。現在も用いられている“まわれ右”の号令はここで誕生する。
そんな時、海外の技術を学び、長崎から戻ってきた江川の家臣・柏木総蔵が珍しい音律の唄を持ち帰る。江川はそれに“富士の白雪朝日で解けて”の歌詞をつけて青年たちに唄わせ、鼓笛隊を組織したという。その唄は「農兵節」と呼ばれ、三島の花柳界で「ノーエ節」となった。ノーエは農兵、あるいはNo,Yesの転化とされる。
実際は横浜で唄われていた「野毛山節」が三島あたりでも唄われ“ノーエ”に農平の文字を当てたらしく、農兵の訓練唄ではないというのが真相のようである。三島農兵節普及会が唄の保存と継承に努めている。
§○内田すゑFGS-606(98)三味線/岩崎成春、石川昌子、笛/森井晴美、水口政一、太鼓/杉山源作、鉦/遠藤恒治。△吉沢浩K30X-220(87)三味線/藤本e丈、藤本秀久、笛/米谷威和男、囃子言葉/尚美会。△豆千代「農兵節」CF-3459(89)風邪気味の芸者さんの雰囲気で、けだるく唄っている。三味線/藤本直久、藤本秀寿々、笛/米谷威和男、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/添田和子、柏倉ますえ。
posted by 暁洲舎 at 07:03| Comment(0) | 中部の民謡
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