「岡崎五万石」(愛知)
♪五万石でも岡崎さまは
アヨイコノサンセー
お城下まで船が着くションガイナ
アヤレコノ船が着く お城下まで船が着くションガイナ
アヨーイヨーイヨイコノサンセー
マダマダハヤソー
ヨイコノ木遣り唄と呼ばれていた唄に三味線の手が付けられ、格調高いお座敷唄に仕上がった。大正の初め、吉原の芸妓〆治がレコードに吹き込んだ「五万石」をもとに地元で復活させたのが現在の唄である。
曲調は“ヨイコノサンセ”の木遣り唄を応用したという説と、矢作川の船頭唄が原調であるとする説がある。
徳川家康の生誕地・岡崎は、お城の下まで船が着く。船は知多湾から矢作(やはぎ)川(がわ)を上り、岡崎の手前で支流の大平川に入って、城の下まで乗り入れられた。大永四(1524)年、家康の祖父・松平清康(1510-1535)が安城から岡崎に拠点を移して城下町造りに力を注いだ。家康が江戸幕府を開いてからの岡崎は、神君出生の城として神聖視され、代々、譜代の大名が藩主となり、五万石の小藩ながら城下は大いに栄えた。
§○川崎滝雄VZCG-136(97)笛/老成参州、三味線/川崎愛子、川崎英世。枯れた声にしっとりとした味わい深い雅趣がある。TFC-1203(99)お囃子方不記載。○長屋光子COCF-9311(91)三味線/田中登貴枝、長屋光紀、笛/老成参州、鼓/美波駒三郎。野趣の中に粋があり、実力のある芸者さんの風情を醸している。
「岡崎の子守唄」(愛知)
♪ねんねんよ おころりよ
坊やは良い子だ ねんねんよ
まだ夜は明けぬ お目ざにゃ早い
良い子だ泣くなよ ねんねんよ
名古屋のNHK放送局が岡崎市で採集した唄の録音盤から町田佳聲(1888-1981)が復元。美しいメロディーの寝かせ唄だ。
§○三橋美智也KICH-2419(06)編曲/白石十四男。キングオーケストラ。
「神戸(ごうど)節(ぶし)」(愛知)
♪おかめ買う奴ゃ頭で知れる
油つけずの二つ折れ
ソイツハドイツダ ドドイツドイドイ
浮世はサクサク
熱田神宮の門前町熱田は東海道五十三次の宮の宿と呼ばれた。
天保十四(1843)年には旅篭(はたご)屋が二百四十八軒あり、五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)の中で最も多かった。寛政十二(1800)年、宮の宿に私娼を置くことが許される。神戸町(ごうどちょう)、伝馬町、築出の遊里にいた女性たちは“おかめ”と呼ばれた。彼女たちによって唄い始められた酒盛り唄である。明和(1764-1772)の頃から江戸で流行していた「潮来節」に似た曲調を持つ。
文句に付けられた調子のよい囃子言葉は、江戸や上方に流れて「神戸節」「名古屋節」と呼ばれたが、いつしかそこから「都々逸」が生まれる。江戸の寄席に出ていた、都々逸坊扇歌(?-1852)は、天保九(1833)年に「潮来節」を母体とした「よしこの節」を変化させ「名古屋節」の囃子言葉を加えて都々逸を作り出した。都々逸は七・七・七・五の四句二十六文字の詞型を基本として、人情の機微にふれる庶民感情が唄われる。
§○高塚利子APCJ-5041(94)お囃子方は一括記載。野趣もあり、しっかりした演唱。
「東雲節」⇒熊本県
「十四山(じゅうしやま)音頭(おんど)」(愛知)
♪ハァーエわたしの心と(ハイハイ)御岳山の
峰の氷は ああいつ溶ける
(トーカテンテントーカテンテン)
愛知と三重県境を流れ、伊勢湾に注ぐ木曽川の東側、海部郡(あまぐん)十四山(じゅうしやま)の盆踊り唄。もとは太鼓を叩きながら唄う素朴なものであった。昭和二十七(1953)八年頃、名古屋の川崎瀧雄(1904-1990)が二上りの陽気な三味線の手を付け、節回しも瀧雄節にまとめあげて普及を図った。
十四山村は、全域が木曽川河口に広がる浅瀬を干拓してつくられている。開発は正保四(1647)年、尾張藩の命により始まった。村全域が形成されたのは寛保元(1741)年のこと。村名の由来は、新田開発時、十四の新田があったためである。子宝地区に住む十四山という力士が、洪水の時、命を投げうって村を救い、その功績を後世に語り継ぐために、四股名(しこな)を村名にしたという伝説がある。
昭和三十四(1959)年、この地方を襲った伊勢湾台風によって村のありさまは一変した。堤防の決壊で約三か月間、泥海に沈んだのである。その後、大型機械を導入した集団営農に取り組み、現在では県下有数の稲作地域となっている。
§◎川崎滝雄VZCG-136(97)笛/老成参州、尺八/久保田燿峰、三味線/川崎愛子、川崎英世、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴香、囃子言葉/川崎滝雄社中。川崎(1904-1990)は三重県大安町出身。昭和二十五(1950)年、NHK素人のど自慢全国大会俗曲の部で優勝。弟子に滝道がいる。
「津具(つぐ)馬車曳き唄」(愛知)
♪馬車の車も 心棒で回る
辛抱する気にゃ 花が咲く
服部鋭夫作詞、松永孝明編曲。奥三河の北設楽郡(きたしたらぐん)津具村(つぐむら)は県北部の山奥にある小さな山村である。北は長野県に接している。
津具から長野県の根羽村までの伊那街道、飯田市までの三州街道は、大名や武士があまり通らない未整備の街道であった。道幅は二間(3.6b)程。山奥になると一間(1.8b)くらいであった。物資の運搬には牛や馬が使われ、街道を往還する馬車曳きが唄っていた。
津具川では、六月下旬〜七月上旬にかけて源氏螢が乱舞する。天下御免の向こう傷でおなじみの旗本退屈男・早乙女主水之(さおとめもんどの)介(すけ)の生みの親である時代小説作家の佐々木味津(ささきみみつ)三(ぞう)はこの村の栄誉村民だ。
§△伊藤陽扇COCF-9311(91)尺八/松永孝明。声が弱々しいために野趣に乏しく、綺麗にまとめすぎたことが味わいを薄くしている。
「名古屋甚句」(愛知)
(前唄)
♪ハァーエエ 鯉のヤア 鯉の鯉の
鯉の滝のぼりア 何というてのぼるエー
山をヤア 川にしようと コリャ いうてのぼるエー
(本唄)
♪アー宮の熱田の二十五丁橋でエー
アー西行法師が腰を掛け 東西南北見渡して
これほど涼しいこの宮を たれが熱田とヨーオホホ
アー名を付けた エートコドッコイドッコイショ
熱田の花柳界で酒席の騒ぎ唄として唄われた。各地に分布する本調子甚句が名古屋に根を下ろしたもの。同系統は山口の「男なら」熊本の「おてもやん」山形の「酒田甚句」金沢の「金沢なまり」などがある。
小唄ふうの節回しで唄う前唄に続いて唄われる。これが唄われた後、一転して早い調子で名古屋の方言を面白おかしく唄い込んだ「名古屋名物」となる。
明治初期、名古屋在住の新内語り・岡本美根太夫が源氏芝居を興行。各地を回った折り、その幕間に「名古屋甚句」を訛(なま)りも面白く唄って大流行させた。今日の「名古屋甚句」は明治の中頃、名古屋花柳界に現れた“かぎ”と呼ぶ美声の名妓の唄い方が受け継がれている。
唄の文句にある熱田の二十五丁橋は、神宮東参道を進むと三叉路になり、その左の木立の中にある。
§○長屋光子30CF-1753(87)三味線/秀若、尺八/金子文雄、鳴り物/美波駒三朗、美波成る駒。COCF-12241(95)「前唄」「本唄」三味線/甚登代、甚登貴枝、笛/老成参州、太鼓/美波三駒、鉦/美波駒次。COCF-14302(97)「ご祝儀名古屋甚句」三味線/田中登貴枝、長屋光寿々、笛/松永孝明、太鼓/山田鶴輝久。COCJ-32320(03)「本唄」三味線/田中登貴枝、長屋光亜矢、笛/松永孝明、太鼓/山田鶴輝久。声よし、節よし、味わいよし。△川崎愛子「前唄」「本唄」COCJ-30338(99)三味線/川崎英世。
「名古屋名物」
♪名古屋名物 おいて頂戴ぁもに
好がたらんに おきゃぁせ
ちょっとも だちゃかんと くざるぜえも
そうきゃも そうきゃも何でゃぁも
行きゃすか おきゃすか どうしゃぁす
おみゃはま この頃どうしゃぁた
どこぞに姫でも 出来てんか
出来たら出来たら 言やぁせも
私もかん(勘考)こが あるわゃぁも
おそ(恐)ぎゃぁぜぇも
§○光本佳し子KICH-8406(00)「名古屋名物」元唄と服部鋭夫作詞の名古屋名物三連。三味線/藤本e丈、藤本秀花、鳴り物/望月長左久、望月彦東治。作詞/服部鋭夫。「名古屋へいりゃーせ」KICH-127(98)。△高橋キヨ子「前唄」「本唄」「名古屋名物」CRCM-1OO23(98)三味線/本條秀太郎、本條秀若、尺八/金子文雄、鳴り物/美波駒三朗、美波成る駒。
「名古屋囃し」(愛知)
♪名古屋囃しで ヨッサヨサ
踊れや踊れ 祭り提灯ともる頃
(イリャーセ オドリャーセ)
嬉し名古屋のハ 夏祭ヨイヨイヨイ
(ソレ囃せやヨッサヨサ ハ踊れやヨッサヨサ)
岸時一作詞、長田幹彦補作、町田嘉章作曲の新民謡。三島一声(?-1974)が唄った。§△小橋よし江APCJ-5041(94)お囃子方は一括記載。田舎臭い歌唱で、囃子言葉は子供っぽい声。
2022年03月04日
愛知県の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:02| Comment(0)
| 中部の民謡
この記事へのコメント
コメントを書く