「伊勢音頭」(三重)
♪伊勢はナー 津で持つ 津は伊勢で持つ
(ハ ヨーイヨーイ)
尾張名古屋は ヤンレ城で持つ
ヤートコセー ヨイヤナー アリャリャ コレワイナ コノナンデモセー
伊勢神宮では二十年に一度、遷宮式が行われる。千数百年の昔から伊勢の領民たちは御用材の運搬奉仕をしてきた。氏子たちは木遣り唄を唄いながら御用材を運んだ。お木曳きの際、労働唄として唄う木遣り唄から伊勢音頭が生まれた。唄われる木遣りは時代によって異なるが、木遣りと伊勢音頭の囃子言葉はほぼ同じであり、曲節も良く似ている。
戦国時代、各地で土木工事や築城が盛んになり、労作業時に石曳き唄や木材曳き唄が唄われた。長らく中断していた遷宮が再興された永禄六(1564)年、この頃より次第に伊勢木遣りが盛んになってくる。
座敷唄として三味線伴奏で唄う「伊勢音頭」は、七七七五の二十六字の文句で唄われ、二上りのものは音曲入り伊勢音頭、二上り伊勢音頭と呼ばれる。三下りのものは“さわぎ”で、主に関東地方で唄われ関東節とも呼ばれる。七五調を反復する口説き形式の伊勢道中唄は哀音嫋々(あいおんじょうじょう)として、本来は手拍子だけで唄うものである。これは祝儀唄として土地の風土と同化して、棟上げ式、井戸掘りの完成時、結婚の披露宴といった慶事の際に唄われた。伊勢音頭は北は北海道、南は沖縄まで広く各地で唄い継がれている。
口々に唄い囃しながら「お蔭まいり」の群集が伊勢神宮参拝への街道を行く。江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、中でもある特定の年に熱狂的に行われ、多くの民衆が伊勢へと押し寄せた。慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、明和八(1771)年、文政十三(1830)年が代表的な年であった。ほぼ六十年周期で起こっている。
明和八年の群参のときから「おかげまいり」といわれるようになり、それ以前の群参は「ぬけまいり」と呼ばれていた。皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが各地で始まったという噂が立つと、子は親に断りなく、妻は夫の許可もなく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けた。諸国の農民や商家の奉公人や、若い女房たちが突然仕事を投げ出し、子どもたちまでが神隠しにあったかのように、家を抜け出してお伊勢参りにでかけたために「ぬけまいり」と呼ばれた。
白衣に菅笠で、手に手に「おかげさま」と書いた柄杓を持ち、これに銭や食べ物の施しを受けて道中を続けた。旅行費用がなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれた。それをさまたげると神罰が下るとされた。彼らは多く集団を作って旅し、のぼりや万灯を押し立て「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩いた。
§◎伊勢音頭保存会TFC-1201(99)お囃子方不記載。囃子言葉は“弥長世(やーとこせー)の恰弥成(よーいやな)安楽楽(あらら)是者伊勢(これはいせ)コノ善所(よいとこ)伊勢(いせー)”と、めでたい漢字で綴られる。◎長屋光子COCF-9311(91)三味線/田中登貴枝、長屋光亜矢、笛/松永孝明、太鼓/山田鶴輝久、鉦/山田鶴輝寿、囃子言葉/長屋光瑶、長屋光甫。どっしりとした貫禄と野趣。華やかさは少ない。鉦が活躍。○高橋キヨ子CRCM-40067(05)「正調伊勢音頭〜別れの唄」三味線/本條秀太郎、本條宏、笛/望月太八、鳴り物/堅田啓輝、黒坂昇、小倉敏夫、囃子言葉/高塚利子、小橋よしえ、曽我人子。○桧山さくらCOCJ-30339(99)三味線/藤本直久、藤本秀花、笛/米谷威和男、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴助、囃子言葉/柏倉ますえ、添田和子。可愛らしいお色気がある粋な年増芸者の雰囲気。
「尾鷲のチョンガレ節」(三重)
♪(ヤサホラエー ヤサホラエー)
あの娘可愛や 玉子に目鼻 嫁に行くのか 婿とりか
襷(たすき)姿(すがた)が 愛らしや 月も十五夜で 気にかかる
(ヤサホラエー ヤサホラエー)
仏教の教えを庶民の中に広めるために、僧侶が平易な物語を語ったものが音曲化し、寺院から出て説教節となった。江戸時代には三味線を取り入れた説経浄瑠璃、歌浄瑠璃という形が生まれ、やがて文化文政期になると関西で浮かれ節となる。神仏を祀るときに奏上する祝詞や祭文が、法螺貝(ほらがい)と錫(しゃく)杖(じょう)を用いた芸能の祭文節となり、三味線を取り入れて、心中事件などを物語風に語って聞かせる歌祭文になった。こうしたものが幕末になると、チョンガレ、チョボクレといわれる大道芸に変化する。これがやがて浪曲、浪花節となっていく。
§△森田圭一VICG-2041(90)三味線/沖光華、梅乃井伴枝、笛/梅乃井楽洞、太鼓/西川南洲、鉦/梅乃井歌路、囃子言葉/吉能雅子、吉田素々。長谷川凡人採譜、補作詞、梅乃井伯鸞編曲。大道芸の味を巧みに出して唄う。もともと民謡は庶民大衆の命の発露だから、卑俗な曲調や、品格のない唄い方があって当然だ。しかし、民謡に対する印象を悪くするのは残念なこと。
「尾鷲節」(三重)
♪(ヤサホラエー ヤサホラエー)
尾鷲よいとこ 朝日を受けてヨイソレ
浦で五丈の 網を引く ノンノコサイサイ
(ヤサホラエー ヤサホラエー)
中村山の お灯明あげ
国市さまの 夜篭り
熊野灘に面した尾鷲港で、船人相手の女たちが酒席の騒ぎ唄として唄っていた。当時は、なしょま節と呼ばれていた。大正六(1917)年頃から「尾鷲節」となった。江戸で大流行した“こちゃえ節”が、この地の御輿かつぎ唄となり、これに幕末の流行唄“のんのこ節”の囃子言葉が結び付いたもの。こうしてできた「尾鷲節」に、さらに同地に伝わる獅子舞神楽の道中囃子を、前奏に加えたのが今日の「尾鷲節」である。
一説に、大坂夏の陣に敗れた真田一族が尾鷲に逃れ、敗者の悲哀をこの唄に託したともいわれている。昭和三十(1955)年頃から、川崎瀧雄の唄で全国に知られるようになった。
東に開く港の沖合にある佐波留(さばる)島と、桃頭(とが)島(しま)の間から昇る朝日は尾鷲の誇りであり、漁に出ていく船を導くように昇る。浦々には天然の良港があり、古くから尾鷲港を初め、九つの漁港を中心に漁業が営まれてきた。中村山は市の中央にある小高い丘。尾鷲は全国有数の多雨地域で、しかも雨粒が大きく、ガラス玉のようだといわれている。普通の傘ではすぐに壊れてしまうので、尾鷲の傘は骨が十二本ある。
同三十年代の初め、矢浜の相賀徳一は、唄の文句に悲恋物語が秘められていることを明らかにした。それは、八(や)鬼山(きやま)を隔てた三木里浦の庄屋の娘と、矢浜村の宮大工の悲恋である。
今から百数十年前、尾鷲の八鬼山北麓に矢浜村落があり、そこに宮大工として格式の高い高芝佐衛門之丞という名工がいた。この棟梁が依頼を受け、弟子十人を連れて八鬼山南麓三木里村の宮普請に出掛ける。棟梁以下、精進潔斎して、毎朝冷水で身を清めて仕事を進めた。ところが愛弟子の喜久八が、三木里村の庄屋の娘・お柳と深い仲になってしまう。喜久八は棟梁や兄弟子の眼をかすめ、逢い引きを重ねていた。
あとひと月で普請が完成するという晩、三木里海岸の松林での逢瀬から帰ってくると、怒りに燃えた棟梁が待ちかまえていた。色恋はお家の御法度。宮普請には絶対禁物とされていた。棟梁は喜久八の左の小指を切り落とし、庄屋に弟子の過ちを詫びる。喜久八は大工小屋を出て、一人寂しく西国一の難所と言われた八鬼山を越え、矢浜村へと帰っていく。棟梁はその後ろ姿を見送りながら“ままになるならあの八鬼山を、鍬でならして通わせる”と唄うのであった。
§◎初代川崎滝雄TFC-1203(99)三味線/川崎愛子、宮本繁、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴助、囃子言葉/白瀬春子。○山崎定道COCF-9311(91)三味線/山崎定美乃、山崎定寿美、笛/犬飼金二郎、太鼓/山田鶴輝久、美波鼓山、囃子言葉/山崎千登勢、山崎定美帆。泥臭くて野趣があり、いかにも民謡らしい。△下谷二三子KICH-240
4(03)若々しく、元気がよい。編曲/木内紀久生。三味線/藤本e丈社中、囃子言葉/西田和枝、西田和美。
「桑名の殿様」(三重)
♪桑名の殿様 ヤンレー ヤットコセー ヨイヤナ
桑名の殿様 時雨で茶々漬け ヨイトナ
あれは(アリャリャンリャン)ヨイトコ ヨイトコナ
桑名宿の騒ぎ唄。伊勢神宮遷宮式に用いる御用材を曵くときに唄う木遣り唄がお座敷唄化した。二十年ごとに行われる遷宮に使われる用材は、初めは美濃の用材が使われ、後に木曽の用材が使われるようになる。その材木は全て、桑名の港を通って伊勢に運ばれた。明治末、米相場や木曽の檜(ひのき)で儲けた商人達は、桑名の地酒を東京や上方の料亭に運ばせ、盛大に遊んだ。その宴席で芸者たちは、成金の旦那衆を桑名の殿様とまつりあげ、唄い囃した。
桑名名物の時雨(しぐれ)蛤(はまぐり)は、生姜(しょうが)を加えた佃煮(つくだに)で、芭蕉十哲の一人・各務(かがみ)支(し)考(こう)が命名。伊勢平野の味覚は、溜(た)まり醤油の味覚文化圏にあり、伊勢詣での人々は、この味に触れることによって、伊勢に来た実感を味わったという。“…の殿様…で茶々(ちゃちゃ)漬(づ)け”の文句は、各地で名物名産を読み込んだ替え唄になっている。
§○桧山さくらCOCF-9311(91)三味線/藤本直久、藤本秀花、笛/米谷威和男、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴助、囃子言葉/柏倉ますえ、添田和子。高からず低からず、お座敷の風情を感じさせる。桧山さくらは本名・荒木ウメ子。大正十四(1925)年、東京都台東区出身。大津お万を師匠にして俗曲を修め、昭和十六(1941)年、三味線・唄・踊りの女性たちの一座に入って芸を磨く。同二十(1945)年、一座が解散したために独り立ちした。○川崎滝雄VZCG-136(97)笛/老成参州、三味線/川崎愛子、宮木繁、太鼓/山田鶴助、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/白瀬春子、飯田優子。細く枯れた独特の高音。
「新久居音頭」(三重)
♪伊勢の夜明けを 鴎が告げりゃ
久居は緑の 光で明ける
恵み豊かな 彩り見せて
今日も平和の 花が咲く 花が咲く
奥田慶一作詞、猪俣公章作曲のご当地ソング。久居市は平成十八(2006)年、他の市町村とともに津市に併合された。久居の名は寛文十(1670)年、津藩主・藤堂(とうどう)高虎(たかとら)の孫・高通(たかみち)が久居藩を立てた際“永久鎮居”の意義から久居と命名されたという。
§都はるみCOCA-11780(94)。
「鈴鹿馬子唄」(三重)
♪(ハイハイ)
坂は (ハイ) 照る照る (ハイ)
鈴鹿は曇るヨーイ (ハイハイ)
間の (ハイ) 土山エー 雨が降るヨーイ (ハイハイ)
鈴鹿峠は東海道の伊勢の坂下宿と、近江の土山の宿の間にある。仁和二(886)年、標高357bの鈴鹿峠越えの道が開かれた。東の箱根峠と並ぶ西の難所として知られ、峠にさしかかると八町二十七曲がりの急坂となる。鈴鹿峠一帯は気候の変化が激しく、坂下宿では照っていても、鈴鹿峠や土山では雨が降っていることが多かった。節は駄賃付け馬子唄だが、現在の節まわしは多田晴三が同地の加納屋アサから習い覚えたものだ。
現在、土山町では、唄の伝承保存と普及を図るための鈴鹿馬子唄全国大会が開催されている。
§◎多田夏代COCJ-30339(99)尺八/米谷威和男、掛声・鈴/藤本秀三。低音で迫力のある歌唱。加納屋アサの節を伝えている。勝ち気な女馬子が唄っているような雰囲気。○川崎滝雄「正調鈴鹿馬子唄」VZCG-136(97)尺八/菊池淡水、鈴/山田鶴助、掛声/白瀬春子。枯れた渋さと味のある歌唱。TFC-1203(99)お囃子方不記載。
「千本搗き唄」(三重)
♪(ハラ ヤートコセー ヨーイヤナ)
ハァ山のナーヨー 中でもホイナ
三間のヨ家でもヨ (ハラ ヨーオイセー)
ハラ住めば都じゃ ソレサハラコリャトノサ
(ハラ ヤートコセー ヨーイヤナ)
味があり曲想もよい。民謡は本来、仕事唄である。時代が下るにつれ労作業は急速に変化をとげて、土木作業もその多くが機械化された。現在では、まず見られなくなった土搗き作業と共に、こうした唄が消滅していくことは、もはや避けられないこととなった。
時折、TVで民謡番組が放映されている。振り袖を着たり、裾に浪模様の着物を着て民謡を唄い、舞台では振り付け師による抽象化された舞踊が見た目に美しく繰り広げられている。それは、民謡が本来持つ仕事唄の性格から離れた歌謡ショーであり、伝統的な音楽文化としての日本民謡ではない。番組制作者は、我が国の音楽文化を正しく継承するために、唄と不可分な作業の様子や、その土地、土地の風景を紹介するといった工夫を凝らして欲しいものだ。
§○小橋よし江APCJ-5041(94)お囃子方は一括記載。野趣があり、仕事唄の感じをよく出している。