「江州音頭」(滋賀)
♪ヤーコリャ ドッコイショ(ソリャ シッカリセー)
エイ皆さま頼みます(イザショ)これからヨーイヤーセの コレ掛声を
(ソリャ ヨイトヨイヤマッカ ドッコイサノセ)
アーさてはこの場の皆さんへ(ア ドシタイ)
お馴染み深き大津絵は ドモの又平のひと下り
これじゃからとて皆さまよ ことや細かに
こんな難声で 程よく読めねどもイエーエ
とかく時間の来るまでは 一生と懸命に 口演奉るわいなアー
(アーデンデレレン デンデレレン デレンデレデン
デンデレレン デレレンデン デレレンデレレン
デレレン デンデレレン デレレンレデンレ)
幕末の頃、八日市の住人・西沢寅吉(1809-1890)は、祭文語りの万宝院桜(さくら)川(がわ)雛山(すうざん)から祭文を習う。寅吉は歌念仏踊り、口説き念仏踊りを歌祭文に取り入れ、それを盆踊り唄に挿入して八日市祭文音頭を考案した。寅吉は美声をもってならし、各地を巡業。お座敷からもお呼びが掛かるようになって、芸名を桜川大龍とした。この音頭は犬上郡(いぬかみぐん)豊郷町(とよさとちょう)、八日市(東近江市)を中心に近江路一帯に広がり、美濃や伊勢などにも伝わって「江州音頭」として定着する。
寅吉の良き協力者で、真鍮(しんちゅう)鋳物(いもの)細工を稼業とする奥村文左衛門も桜川好文を名乗り、桜川、真鍮家の二つの家元によって「江州音頭」は人々の中に溶け込んでいった。
祭文は山伏がホラ貝を吹き、錫杖を鳴らしたりしながら、独特の節でもって神前で唱える祝詞の一種だ。これが俗化するにつれ、旅芸人や願人坊主の遊芸となり、題材も事件や情話が取り上げられ、歌祭文、デロレン祭文と呼ばれるようになる。デロレンはホラ貝の音を表している。
やがてこれがチョンガレ、アホダラ経となり、関西で興った芸能が江戸に入ると、浪花節と呼ばれるようになった。
明治末期、大津市石山に生まれた桜川梅勇は、寅吉を初代とし、自らは二代目を名乗って「江州音頭」の売り出しに生涯を賭けた。関西の各方面で「江州音頭」が盛んに唄われ、そのために近畿地方の盆踊り唄の多くが廃ってしまった。近年、祭文の掛け声が時代遅れとして嫌われ、昭和三十二(1957)年、八日市の商工会議所が観光宣伝用の歌詞を作り、祭文の“でろれん”の合いの手をなくして、三味線入りのものに改作。このため、旧来のものは唄われることがなくなった。
§◎二代目桜川梅勇「吃(ども)りの又平」TFC-1205(99)太鼓/桜川真流、拍子木/小林義夫、囃子言葉/桜川光晃。近松門左衛門の「傾城反魂香」に登場する大津絵師・又平を唄う。◎三代目桜川梅勇「忠臣義士銘々伝」「神崎與五郎東下り」TFC-9
11(00)デロレン抜きの新江州音頭。約十分の長編。太鼓、鉦、拍子木、お囃子方不記載。○桜川捨丸「どもの又平」FGS-607(98)真鍮家の江州音頭。あまり元気がない。三味線/真鍮家文好、尺八/小西寿山、太鼓/真鍮家美津藤、鉦/真鍮家好若。
「淡(たん)海(かい)節(ぶし)」(滋賀)
♪船を引き上げ 漁師は帰る
後に残るのは 櫓と櫂
波の音 ヨイショコショ
浜の松風
志賀廼家(しがのや)淡海(たんかい)(1883-1956)は、大正から昭和の初期にかけて活躍した喜劇役者である。大正三(1914)年頃に結成した彼の一座で盛んに唄っていた。唄の文句も淡海作であるところから「淡海節」とよばれ、花柳界でも盛んに唄われるようになった。淡海は大津市堅田町出身。芸名は故郷の琵琶湖にちなんだものだ。淡海は、鹿児島県串木野での公演中に亡くなっている。
唄の母体は幕末に流行した俗謡“よいしょこしょ”で、それもじって唄っていた。よいしょこしょは、山口県下で今なお唄われている。
§◎志賀廼家淡海TFC-1205(99)お囃子方不記載。音源はSP盤。鳥の鳴き声が入っている。COCF-12698(95)お囃子方不記載。○道谷勉28CF-2276(88)渋さと強さがあり、俗曲風に流れず民謡調を残している。三味線/久保名津江、垣内名津千代、尺八/井上整山。○佐藤松子KICH-8114(93)馬子唄入り。最盛期の歌唱。声量、艶、迫力があり、独特の松子節を聴かせている。三味線/藤本e丈、藤本直久、尺八/米谷威和男、鈴/西泰維。K30X-221(87)裏声を巧みに使う。三味線/藤本e丈、藤本喜世美。△川崎滝雄VZCG-137(97)笛/老成参州、浅利定市、三味線/川崎愛子、川崎英世。繊細な歌唱。田舎芝居役者の雰囲気を出している。△地元歌手BY30-5018(85)野性味があり、泥臭い年寄り芸者の味。
2022年03月04日
滋賀県の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:01| Comment(0)
| 近畿の民謡
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