「祇園小唄」(京都)
♪月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
長田幹彦(ながたみきひこ)作詞、佐々(さっさ)紅(こう)華(か)作曲。金森(かなもり)万象(ばんしょう)(1893-1982)監督のマキノ映画、祇園小唄絵日傘第一話「舞ひの袖」主題歌。昭和五(1930)年一月、藤本(ふじもと)二三(ふみ)吉(きち)の唄で日本ビクターから発売された。金森監督は、祇園界隈、甲部(こうぶ)歌舞(かぶ)練場(れんじょう)、一力(いちりき)の座敷などをロケ地として使い、無声映画だったために、画面に合わせて舞妓姿の女優がスクリーン脇で唄った。作詞の長田幹彦(1887-1964)は東京麹町(こうじまち)に生まれの作家、作詞家。作曲の佐々(さっさ)紅(こう)華(か)(1886-1961)は東京北上野(台東区)の生まれ。上方弁の言葉の抑揚に通じていないことから、関東なまりの抑揚で譜が付けられている。「舞ひの袖」のフィルムは、昭和五十一(1976)年、祇園ヤサカ会館の倉庫から発見された。
§○大月みやこKICX-321(94)白石十四男編曲。△藤本二三吉VZCG-103(97)。
「京都ハイヤ節」(京都)
♪ハイヤエー ハンヤ可愛や 今朝出た船は
どこの港へ ソーレ着いたやら
宮津の花柳界で「宮津節」「松坂踊り」と共に組唄として唄われる。松坂踊りは嫋々(じょうじょう)とした地唄調。
ハイヤ節は九州天草の沿岸で生まれた騒ぎ唄。日本海を北上する北前船の船頭衆によって各地の港に運ばれ、その地でさまざまな唄を生み出した。ハイヤ節は追分、新保広大寺と共に日本民謡の源流とされている。
京都府北部に位置する宮津市は、良港を控え、古代から大陸との交流があった。藩の年貢米積み出し港、北前船が寄港する港町として繁栄した。かつてここには宮津湾を望む近世城郭があった。大手橋から西に行くと商人町の本町があり、海側には魚屋町、新浜町、山側には万町、北西に向かって白(しら)柏(かせ)町がある。新浜町には昔、花街があった。藩は文化年間(1804〜1818)に宮津に遊廓を置くことを許可。天保十三(1842)年、新浜に廓(くるわ)が開かれる。新浜通りの廓には、京都の祇園と肩を並べるほど多くの芸妓がいた。北前船が港に入ると、船乗り達はこぞって出かけて行き、縞の財布が空になるまで遊んだ。
§○高塚利子APCJ-5042(94)野趣あり。お囃子方は一括記載。
「京の四季」(京都)
♪春は花 いざ見にごんせ 東山 色香あらそう 夜桜や
浮かれ浮かれて 粋も不粋も 物堅い
二本差しても 柔らこう 祇園豆腐の 二軒茶屋
みそぎぞ夏は 打ち連れて 河原に集う 夕涼み
ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ
明治二十八(1895)年に開催された「京都大博覧会」記念した端唄(はうた)。舞妓はんが最初に覚える舞いが「祇園小唄」と「京の四季」だ。不粋なお客のお座敷では、この二つを知っておれば十分なのである。
§〇藤本二三吉COCJ-32449(03)三味線/小静、はな子、鳴り物連中。関東訛りで唄う京の四季。関東と上方では言葉のイントネーションが全く異なっているが、上方言葉を使いこなせない東京の者が唄うと、このような唄になる。
「竹田の子守唄」(京都)
♪守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし
京都市伏見区竹田方面で唄われていた。虐げられていた子守たちの心情を歌う。昭和四十四(1969)年、高田恭子(1946-)が「大塚孝彦と彼のグループ」名義の自主製作盤に最初の録音を残す。高田は同四十七(1967)年「みんな夢の中」で歌謡界デビュー。同四十六(1971)年、シンガソングライターの山本潤子が歌って注目される。山本はこの曲で新しいフォークの世界を切り拓いた。
§◎山本潤子DYCL-1306(06)赤い鳥。梅若晶子COCJ-36930(11)三味線/梅若朝邦、梅若朝由記、笛/梅若朝秀幸、鳴物/美波駒和美。朝崎郁恵TOCT-25659(05)。
「福知山音頭」(京都)
♪ドッコイセ ドッコイセ
チョイチョイノ チョイノチョイノチョイ
トコドッコイ ドッコイドッコイセ
福知山出て 長田野越えて チョイチョイ
駒を早めて 亀山へ
福知山は由(ゆ)良川(らがわ)の西側に発達した城下町である。周囲を大江山(833m)、三岳(793m)などの山々に囲まれた福知山盆地の中心に位置し、城下は碁盤の目のように整然と区画されている。幕末の頃、亀山藩では家臣に外国式の訓練をするための調練場を作った。その落成祝いに、以前からあった三下りのお座敷唄を土台にして、海原某と江戸から来た花子という唄のお師匠さんが現在の二上りの賑やかな唄にしたという。
天正七(1579)年、織田信長の命を受けた明智光秀(1528-1582)が、横山城の塩見(横山)大膳信房、八上城の波多野氏を降して丹波一国を平定した。光秀は翌八(1580)年、由良川と土師(はじ)川(がわ)の合流点にある横山の地を新たに福智山と命名。そこにあった横山城を大改修する。領民たちは「ドッコイセドッコイセ」と面白く唄い囃しながら、石材や木材を城に運び込んだという。
「福智」が「福知」になるのは享保十三(1723)年のこと。唄の文句は、光秀との連絡に使者が福知山から長田野を越えて、亀山までを往来した当時の情景を伝えている。
毎年、お盆の八月十五日を中心に「福知山ドッコイセまつり」が行われる。広小路通りにやぐらが組まれて、連日、町中が夜のふけるのも忘れて賑やかな踊りが繰り広げられている。福知山城は明治の初めに取り壊され、石垣と銅門(あかがねもん)番所を残すのみであった。昭和六十一(1986)十一月、市民の熱意により三層四階の天守閣が再建された。
§○成世昌平CRCM-4OO23(94)三味線。胡弓/本條秀太郎、三味線/本條秀若、本條秀和、笛/室田秀風、鼓/望月初寿三、太鼓/樫田喜久祐、囃子言葉/波多野悦子、波多野なか、加藤房子。成世昌平、本名堀辺茂樹。昭和二十六(1951)年、広島県三次市生まれ。サンケイ民謡大賞青年の部で、同五十二(1977)、三年と連続優勝。同六十(1985)年「博多節」「福知山音頭」でレコードデビュー。高校在学中、テレビ朝日の「素人名人会」に出場して名人賞を取った。桂米朝に弟子入りを志願したが、母ひとり、子ひとりの生活だから会社に入れといわれ、同四十五(1970)年、島津製作所に入社。大阪営業部で九年間のサラリーマン生活を送るうち、母・澄恵が通う民謡教室で三味線に触れ、民謡の世界に入ったという変り種。○酒井とし子FGS-607(98)三味線/大月花枝、太鼓/浅野寛美、囃子言葉/井隼早苗。野趣があり、田舎のお婆さん芸者の味。
「府中大漁節」(京都)
♪丹後名所はナー 朝日を受けて
(あいの入り風ナー そよそよとヨ)
沖を見やんせ 白波が立つ
(これに出らりょか 馳せらりょか)
宮津市旧府中村の漁師たちが、金(きん)樽(たる)鰯(いわし)(真鰯)の大漁を知らせるために、あるいは海の神に大漁を祈願するために唄った。次第に櫓漕ぎ唄や祝宴の唄に変化する。
和銅六(713)年、丹波国から別れて丹後国が置かれ、宮津の府中地区に丹後国府が置かれた。以後、その付近一帯は丹後の政治、文化の中心地として栄えてきた。丹後は丹波の背後にあるという意味である。
江戸時代、京極(きょうごく)高知(たかとも)(1572-1622)が丹後に入り、元和八(1622)、その子・高広が町の本格的な建設を始めた。京極氏のあと永井、阿部、奥平、青山氏と藩主がかわり、最後は宝暦九(1759)から本庄氏が幕末まで続いた。
§○鎌田英一CRCM-4OO05(90)囃子言葉/鎌田会、笛/米谷智、鳴り物/美鵬駒三郎、美鵬那る駒。鎌田(1940-)は北海道函館出身。ありったけの声を張り上げ、元気一杯に唄う。労働唄としての民謡の気分をよく出している半面、微妙で味のある小節の使い方や、語呂回しに工夫がなく、土地の香りと情緒、味わいに欠ける。
「宮津節」(京都)
♪二度と行こまい 丹後の宮津
縞の財布が 空となる
丹後の宮津で ぴんと出した
(丹後ちりめん加賀の絹 仙台平には南部縞
陸奥の米沢糸小倉 丹後の宮津でぴんと出した)
宮津港は、蝦夷地(えぞち)通いの北前船の寄港地として賑わい、江戸吉原を模した立派な遊廓もたくさんあった。そこの女たちが酒席の騒ぎ唄として唄った。七七七五調二十六文字の本唄と、七五調の囃し風のものとから成っている。曲は各地にある本調子甚句の一種で「おてもやん」や「名古屋甚句」「金沢なまり」などと同種のもの。
天正八(1580)年、細川藤孝(1534-1610)忠興(1563-1645)父子が城を築き、慶長六(1601)年、京極高広の代に城下町が完成。万町(よろずまち)の糸縮緬問屋、白(しら)柏(かせ)の醤油醸造店、河原(かわら)の廻船問屋、糸問屋などが、古い昔の構えを今に伝えている。町の中心部には大手川(宮津川)が流れ、宮津湾に注ぐ。市内にある天(あま)の橋立(はしだて)は、日本三景のひとつで、八千本の松の緑に彩られ、砂と潮の流れが幾千年の歳月をかけて造り上げた。
§○黒田幸子COCJ-30339(99)三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若。黒田(1930-1997)の野太くて粘りがある個性的な歌唱は、野趣に満ち、文句は極めて明瞭、明晰だ。○酒井とし子FGS-607(98)三味線/大月花枝、太鼓/浅野寛美、囃子言葉/井隼早苗。野趣ある田舎のお婆さん芸者の味。△三橋美智也KICH-2187(96)山崎正作詞、山口俊郎編曲。三味線/藤本秀夫、藤本直久。△地元歌手BY30-5018(85)味のある歌唱で好感が持てる。
2022年03月04日
京都府の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:01| Comment(0)
| 近畿の民謡
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