「大阪の子守唄」(大阪)
♪ねんねころいち 天満の市で
大根揃えて 舟に積む
舟に積んだら どこまで行きゃる
水や難波の 橋の下
天満の子守唄ともいう。
溝口健二(1898-1956)の死去により、吉村公三郎(1911-2000)が替わってメガホンをとった大映作品「大坂物語」(1957)の中で、香川京子(1931-)がお茶干し作業をしながら唄っていた情景が思い出される。
§△三橋美智也KICH2419(06)編曲/川上英一。
「河内音頭」(大阪)
♪ヨイショ ドッコイショ
エーンさては一座の アノ皆様へヨーホイホイ
(ヨイトコショー ドッコイショ)
エーまかり出ました未熟者 お見かけ通りの若輩で
お気に召すよに読めねども その儀御免をいただきまして
伺い述べますおそまつは 浪花の女任侠と
昭和の御代の今日までも 残りましたる物語
一生懸命に努めましょう
(ソーラヨイトコサーッサノ ヨイヤサーッサ)
大阪府の南北河内郡一帯で広く唄い踊られた音頭。木遣り唄が盆踊り唄化した。中国地方の口説(くどき)が次第に東進。河内風となった。いずれも読物的な長編のものばかりで、唄うというよりは読みあげる感が強い。この種の唄が祭文と結びついて浪花節となる。1960年代、鉄砲光三郎が「河内音頭」の変形である「鉄砲節」を唄い、その影響で「河内音頭」は大きく変化した。
§○初音家賢次KICH-2022(91)三味線/小野忠雄、太鼓/初音家菊三郎、ギター/初音家太三郎、初音家克太郎、囃子言葉/初音家社中。VZCG-137(97)三味線/小野忠雄、太鼓/初音家晴美、囃子言葉/初音家社中。「アーヨイトコセドッコイショ」と囃す。COCJ-30339(99)品格と情緒を感じさせる唄い方を工夫してほしいものだ。三味線/小野忠雄、太鼓/初音家のぼる、囃子言葉/近藤淡山社中。小野は鉄砲光三郎のバックを務めたこともあった。
「堺住吉」(大阪)
♪堺住吉 反橋(そりばし)渡る 奥の天神 五大力
おもと社(やしろ)や 神明穴から 大神宮さんを 伏し拝む
誕生石には 石を積む 赤(あか)前垂(まえだ)れが 出て招ぐ
ごろごろ煎餅(せんべい) 竹馬に 麦わら細工 やつなぎ貝
買わしゃんせ
天保年間(1830〜1844)、江戸の寄席では都々逸坊(どどいつぼう)扇歌(せんか)(?-1852)が人々の人気をさらっていた。扇歌は都々逸だけでなく、江戸の老妓おいよが唄い始めたという「いよ節」を得意としていた。江戸の粋を象徴する扇歌の芸は、全国の農漁村の隅々までも普及して、各地の名所、風物を詠み込んだ替え唄を生み出した。大阪では「堺住吉」の名で唄われ、愛媛では「伊予節」となった。
住吉大社は全国二千余の住吉社の総本宮。大阪の人たちは親しみを込めて“すみよっさん”と呼んでいる。本殿の住吉造りは最古の神社建築様式だ。
上町線のチンチン電車に揺られて天王寺駅前駅から約20分。住吉鳥居前駅で下車すると、目の前に大きな鳥居がある。鳥居を抜けると朱色の反(そり)橋(ばし)があり、勾配が急なため、下りるときは欄干に手をかけ、からだを反らせながら下りたのでその名がついた。反橋は淀君(1567-1615)が奉納したと伝えられている。
§○成世昌平CRCM-40023(94)三味線/本條秀太郎、笛/望月太八、鳴り物/鼓月嘉翁、鼓月嘉晶。上方の端唄らしい粋を出して唄っている。
「三十石船舟唄」(大阪)
♪ヤレサー ヨイーヨーイヨー
ヤレサー 伏見下ればイナー 淀とはいやじゃエ
ヤレ いやな小橋を とも下げにエ
三十石船の船頭たちや、茶船、肥船の船頭が櫓を押しながら唄った。唄は下り舟のときに唄う。淀川舟唄とも呼ぶべきものだ。
江戸時代、三十石舟は大坂八軒家(中央区の京阪天満橋駅北側)から京都伏見まで、荷物と旅客を乗せて約十里(40km)の淀川を上り下りした。長さ17m、幅2.5m余り。京・大坂間の所要時間は上りで一日、一晩、下りでその半分といったところであった。朝に大阪を出て、夕方に伏見に着く上り舟を昼舟、夕方から翌朝まで乗るのを夜舟という。天保十(1839)年には百七十一艘あり、三十人前後の客が乗り、水主(かこ)は四人ほどで運行した。三十石船は米三十石相当の積載能力を持った船だ。本三十石船は全長56尺(18.5b)、巾9.7尺(3.2b)、深さ2尺(66a)。淀川は浅いために主に棹が使われた。上りは川岸から水主が船を曳いた。曳き手は船頭だけを残して堤に上がり、綱引き人足とともに曳く。
三十石船に、くらわんか舟が夜昼なく近づき、鉤のついた棒をひっかけて、大声で中の乗客に食べ物を売りつける。乱暴な“くらわんか”という言葉の使用は幕府お墨付きであった。
明治二(1869)年、淀川に蒸気船が就航するようになると、三十石船も次第に少なくなり、明治十(1877)年、京都〜大阪間を鉄道が走り、明治四十三(1910)年、京阪電車が五条〜天満橋間に開通すると三十石舟は休舟。鉄道貨物の利用が急増して混雑したため、再び船運が活況を呈したこともあったが、昭和三十七(1962)年になくなる。
淀川は琵琶湖を水源とする一級河川で、始めは瀬田川、京都の天瀬ダムあたりから宇治川と呼ばれ、山崎(大阪と京都の間)で桂川と木津川と合流。大阪平野を流れて大阪湾に注ぐ。三川合流点あたりから大阪湾までが淀川である。平安中期頃から王侯貴族が熊野・高野、四天王寺、住吉大社などへ参詣する際にも使われた。
§◎市川九平次TFC-1202(99)明治四十一(1908)年生まれの市川九平次は大阪府高槻市出身。実父の船頭・奥野久吉を師匠として生涯この唄を唄い通した。FGS-607(98)無伴奏。櫓の擬音入り。○竹田利吉COCJ-30339(99)長閑な船唄の雰囲気が出ている。歳取った船頭さんのような野趣もある。囃子言葉/米谷威和男、西泰維。○梅若朝啄KICH-2016(91)きれいにまとめている。船頭さんの迫力もある。尺八/井上整山、鳴り物/西正晃。KICH-2467(05)尺八/林佑喜雄、擬音/梅若朝丈。○小松祐二APCJ-5042(94)味のある美声の若々しい船頭さん。尺八だけの伴奏。
「鉄砲節」(大阪)
♪エーさてはこの場の 皆さま方へ
ちょいと出ました私は お見かけ通りの若輩でヨーホーイホイ
(アー イヤコラセー ドッコイセ)
七百年の昔から 歌い続けた河内音頭に乗せまして
精魂込めて歌いましょう
聴いてください 荷物にゃならない 鉄砲節だよヨーホーイ
聴けば 聴けば心も ちょいと浮き浮きしゃんせ
気から病が出るわいな
歌の文句は小粋でも 私ゃ未熟で とってもうまくも
きっちり実際 誠に見事に読めないけれど
八千八声の時鳥 血を吐くまでも 血を吐くまでも努めましょう
(ソーラヨイトコサッサノヨイヤーサッサ)
軽快なテンポの新河内音頭。「河内音頭」をベースに、楽器編成、メロディー、リズム、テンポに斬新な手を加えて創り出された。進化する民謡のひとつの型を示す。鉄砲光三郎は管弦楽を取り入れ、ミュージカル構成にした鉄砲節で全国公演を実現。さらに海外公演も行うなど、大衆芸能史の一時代を画した。現在、後継者を名乗る唄い手たちがいるが、いずれもスター性に乏しく、唄にも技巧と創意工夫が見られない。
§◎鉄砲光三郎KTC-6005(02)太鼓/鉄砲光子、三味線/佐々木壯明。鉄砲光三郎(1929-2002)は、小学生のころから河内音頭の名人として近隣の注目を集めていた。昭和三十六(1961)年、シングル盤で「鉄砲節河内音頭」を発売。ミリオンセラーを記録する。太鼓を受け持つ妻・光子とのコンビで、関西の寄席や劇場に出演。やがて東京の舞台に立ち、海外にも進出して河内音頭を世界に知らしめた。その存在はあまりにも大きく、惜しむらくは一代芸か。
「浪速の四季」(大阪)
♪春の遊びは 門に門松 注連飾(しめかざ)り
羽根や手鞠(てまり)で 拍子よく
笑う門には七福神のお礼者
頼もう通れ
地唄「京の四季」の大阪版。江戸時代、京阪地方の唄は、江戸の唄に対して上方唄と言われ、舞いの地(伴奏)となる唄であり、土地の唄という意味で地唄と呼ばれた。本来、盲人演奏家が座敷で弾き語りをする。歌詞は四季折々を彩る花鳥風月の風情に、優雅な美の世界と、市井の人情の機微が込められ、柔らかい大和言葉で綴られている。
上方舞いは、地唄舞、座敷舞とも呼ばれ、能の流れを汲んでいる。江戸時代後期、十九世紀前半に京都の御殿舞いから生まれた。江戸で発展した華やかな歌舞伎舞踊とは異なり、しっとりと落ち着いた繊細な動きで、心の内面を浮かび上がらせて舞う。目の肥えた上方の粋人に育てられ、一畳の空間で、埃をたてないように舞える配慮がなされていて、目の動き、指の先まで美しく洗練されている。屏風を立て、舞台の左右に火が点された燭(しょく)台(だい)を置き、音と音との間を余韻嫋々(よいんじょうじょう)と舞う。現在、上方舞の主要流儀は井上、楳(うめ)茂(も)都(と)、山村、吉村の四つがある。
§○成世昌平CRCM-40023(94)三味線/本條秀太郎、本條秀邦、笛/望月太八、鳴り物/鼓月嘉翁、鼓月嘉晶、鼓月嘉扇。繊細で艶っぽい演唱。平成十四(2002)年、もず唱平作詞、聖川湧作曲の「はぐれコキリコ」が大ヒットした。
「幟(のぼり)上げ音頭」(大阪)
♪(ヨーイセーソーリャセー)
ヤレナーエ 槙の尾開帳で (ヨーイセ)
横山繁盛 (ヨーイセー ソーリャセー)
手持ちナーエ 蜜柑はソーレサ 皆売れた
(ソーリャ ヨートコセー)ヨーイヤナー
(アレワイナー コレワイナー ソリャーヨーイトセー)
近畿一円で唄われている道中伊勢音頭系の唄。別名「槙尾(まきのお)山(さん)幟上(のぼりあ)げ音頭」。曲調もよく、もっと膾炙(かいしゃ)されてよい唄である。
和泉(いずみ)国(のくに)と呼ばれた大阪府南部の泉州地域では、貴重な農業用水を確保するための溜め池が多く作られている。この唄も水に関わる唄で、祈雨と槇尾川の水の恵みに感謝し、川の上流にある槇尾山(601b)の槙尾寺(施福寺)観音に感謝する唄である。現在では、和泉市福瀬の人々が中心となって保存伝承に努めている。
§◎田中義男COCF-14302(97)三味線/吉川秀太郎、京極利則、尺八/渡辺輝憧、太鼓/森政男、囃子言葉/森武信、西口ハル子、西口操子。上品でおとなしい歌唱。力強さと派手さが欲しいところ。
「堀江の盆唄」(大阪)
♪ソレエー ソレエーのヤーットヤ (ヨーイ ヨイヨイ)
かんてき割った 擂鉢(すりばち)割ったエーノ 叱られた
(おかしゅてたまらん)
竹にサーエ ヤッチキドウシタイナ オサ
竹に雀は しなよくとまる (ヨーイヨイ)
止めてサーエ ヤッチキドウシタイナ オサ
止めて止まらぬ こいつぁまた色の道 (ヨーイヨイ)
西区北堀江にある尼寺・和光寺では、毎年夏の地蔵盆になると、堀江の花街芸妓衆が手に手に団扇(うちわ)を持ち、盆踊りに興ずる。昭和五(1930)年、花街の不景気を打破しようとして催した盆踊りが大当たりした。盆踊りは新町や住吉など、他の遊廓にも広がった。盆踊りには珍しく、義太夫三味線が使われ、笛、太鼓、摺り鉦入りで、あでやかに踊られる。
庶民の町・大阪らしい野暮ったい文句と節だが曲想は面白い。夕闇が濃くなった午後六時頃から盆踊りが始まる。盆踊りには老若男女が入り混じり、楽しく踊られる。かんてきは七輪のこと。かんてき、擂鉢は、ともに女陰の異称であり、唄の文句には処女喪失の意味が込められている。
小学校の運動会などでも踊りの指導があって、父兄も参加していたが、遊郭の踊りであるとの批判が出て取りやめになった。その背景には、愛郷心を喪失させ、文化、伝統に対する無知を助長させる教育の欠陥と弊害があるようだ。盆踊りは、盂蘭盆にこの世に戻ってくる祖先の精霊を迎え、また送り返すための風習に発したものだ。道徳性を論ずる前に、祖先を敬う情緒性、叙情性の涵養(かんよう)こそが大切であろう。
§○高塚利子APCJ-5042(94)お囃子方は一括記載。きまじめに唄い、お座敷調を出している。粋、味、渋さある演唱。△光本佳し子KICH-2467(05)きどりがあり、軽い。野趣に欠ける。土俗的な味が欲しいところだ。三味線/藤本e丈、秀輔、笛/米谷威和男、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、福居起子。
2022年03月04日
大阪府の民謡
posted by 暁洲舎 at 07:01| Comment(0)
| 近畿の民謡
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