2022年03月04日

兵庫県の民謡

「明石音頭」(兵庫)
♪されば この場の皆様方よ(ハァドッコイドッコイ)
ちょいと出ました 三角野郎が
(コリャ ヤチョロマカセ ドッコイサーノセ)
四角四面の 櫓の上で(ハァドッコイドッコイ)
赤い顔して 黄色な声で
(コリャ ヤチョロマカセ ドッコイサーノセ)
音頭とるとは お恐れながら(ハァドッコイドッコイ)
私ゃ未熟で ちっともうまくも 読めないが
(コリャ ヤチョロマカセ ドッコイサーノセ)
合うか合わぬか 合わせておくれ(ハァドッコイドッコイ)
さてはここらで 数えてみます
(コリャ ヤチョロマカセ ドッコイサーノセ)
明石地方の盆踊り唄。数ある「播州音頭」のひとつである。基本的には単調な動作を繰り返し、リズムに乗って踊り続ける。石童丸、紙づくし、暦づくしなどの口説き文句があり、近年は囃し言葉から“やっちょろまかせ”とも呼んでいる。盆踊りは、本来、亡くなった人への供養のためのものだ。音頭取りの声は、渋さの中に明るさがある声がよく似合う。
§△吾妻栄二郎CRCM-4OO06(90)鳴り物/山田遥喜美、囃子言葉/吾妻栄継、西田とみ枝、西田とみ鈴。吾妻栄二郎(1943-)は、福島県安達郡安達町(二本松市)出身。福島県民謡はもとより、全国の珍しい唄を積極的に取り上げて紹介している。
「酒造り祝い唄」(兵庫)
♪心清めて 柏手打って
臼の抜けるほど 搗いて搗いておくれ
ハア ドッコイドッコイ
米が白けりゃ お酒もうまい
あとは親方さんのヨ 腕次第
ハア ドッコイドッコイ
正月門にはナ 松が立つヨ
二月初午ナ 馬が立つヨ
ハア ドッコイドッコイ
第十五回芸術祭レコード部門に大衆歌謡として参加した。星野哲郎(1925-2015)作詩、遠藤実(1932-2008)作曲、村田英雄(1929-2002)が唄った。原題は「酒造りの歌」。昭和三十五(1960)年十一月発売。
いかにも民謡らしい旋律に陽気な囃子言葉が付けられ、関西の民謡愛好家の間で祝い唄として唄われている。この唄が発売された頃、星野、遠藤、村田いずれも新進気鋭。上り坂の途上にあった。
§◎村田英雄「酒造りの歌」CACA-71086(06)村田は佐賀県相知町(おうちちょう)(唐津市)生まれ。幼い頃から浪曲師の父と、曲師の母の巡業に同行。京山茶目丸と名乗って五歳で初舞台を踏む。七歳で浪曲師・酒井雲(1898-1973)に弟子入りして酒井雲坊を名乗り、天才少年浪曲師と騒がれた。作曲家・古賀政男(1904-1978)に見い出され、同三十三(1958)年八月「無法松の一生」で歌謡界にデビュー。「王将」「人生劇場」「皆の衆」などで不動の人気を獲得した。浪曲で鍛えた低音で義理、人情、男の生き様を豪快に唄い上げ、亡くなるまでトップスターの座にあった。「ばんば踊」「黒田節」「一合蒔いた」「福山トンド」「江州音頭」などの民謡もレコーディングしている。○さいとう武若KICH-2467(05)編曲/鈴木英明。三味線/藤本秀三、藤本博久、囃子言葉/西田和美、西田和菜。鈴木英明の編曲もよく、いかにも陽気で酒好き男が、ユーモラスな声で唄っている雰囲気を出している。
「篠山(ささやま)節(ぶし)」
♪丹波与作は 馬追いなれど(キタサー)
今じゃ お江戸で二本差し
(コリャコーリャ コーリャコリャ)
わたしゃ丹波の 搗栗(かちぐり)育ち(キタサー)
中に甘味も 渋もある
(コリャコーリャ コーリャコリャ)
全国的に知られる「デカンショ節」と地元でいう「篠山節(後藤節)」は異なった唄である。丹波与作の歌詞で知られる“後藤節”を当地で「篠山節」と呼ぶようになったのは昭和二十三(1948)年以後のこと。前川悦太郎の提言によるものだという。「篠山さわぎ」の「よしこの」と後藤某の唄った「本調子甚句」がうまく合体して生まれた。これが篠山でいう「篠山節」である。曲調に雅趣があり、かつて若い篠山藩士たちは、鼓と三味線でゆったりと唄っていたという。
丹波与作の名は、寛文十一(1671)年の「松平大和守日記」が初見に近い。宝永五(1708)年、近松門左衛門が世話浄瑠璃『丹波与作待(まつ)夜(よの)小室(こむろ)節(ぶし)』を書き、吉田冠子(人形遣い吉田文三郎)と三好松洛が全十三段の人形浄瑠璃『恋女房染分(そめわけ)手綱(たづな)』に仕立てた。その十段目が、馬子となったわが子に対して、母と名乗れぬ悲哀を描いた『重の井の子別れ』である。
§○成世昌平CRCM-40047(96)三味線/本條秀太郎、本條秀典、北村法志津、笛/宝田秀風、鳴り物/田中佐幸、鼓友美代子、囃子言葉/武山志津栄、時本志津智恵。
「菅笠節」(兵庫)
♪向こう通るは 清十郎じゃないか
笠が良う似た 菅笠が
お夏いとしや こっち向け清十郎
(あちら向いても清十郎)
姫路市を中心に、お座敷唄として唄われている。お夏、清十郎の恋物語は、姫路で実際にあった事件だ。それをもとにした井原西鶴(1642-1693)の『好色五人女』第一話「姿姫路清十郎物語」、近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃『五十年忌歌念仏』、坪内逍遙(1859-1935)の舞踏劇『お夏狂乱』などによって全国に知られた。
「菅笠節」がいつ頃出来たがは不明だが、常磐津(ときわず)の素養のある土地の好事家の手によるものとされている。
室津の造り酒屋・和泉清左衛門の息子・清十郎は、生まれついての美青年。馴染みの遊女と心中しそこね、姫路本町の米問屋・但馬屋九右衛門の店に奉公する身となる。そこで、主人の妹・お夏と激しい恋に落ちるが、二人の恋は許されず、大坂へ駆け落ちする。追っ手に捕えられて連れ戻され、盗みの濡れ衣まで着せられて、寛文二(1662)年四月十八日、二十五歳の若さで処刑された。残されたお夏は悲しみのあまり気がふれ、清十郎の姿を求めて町をさまよい歩く。市内にいくつか史跡が残る。
毎年八月九日「お夏清十郎まつり」が行われ、二人の供養に続いて、商店街の踊り流しなどが賑やかに繰り広げられる。
§○曽我了子APCJ-5042(94)お座敷調で、きっちりと唄っている。上品な歌唱で、ほのかな色気もある。お囃子方は一括記載。
「デカンショ節」(兵庫)
♪丹波(たんば)篠山(ささやま) 山家の猿が(ア ヨイヨイ)
花の都で 芝居する
(ヨーオイヤレコリャ デッカンショ)
丹波篠山 鳳鳴の塾で(アヨイヨイ)
文武きたえし 美少年
(ヨーオイヤレコリャ デッカンショ)
明治の中頃から全国で愛唱されるようになった。県東部の旧多紀郡篠山方面の盆踊り唄。江戸時代から唄われていた「みつ節」が変形したものである。「みつ節」は、江戸時代中期、篠山藩の儒学者が篠山の盆踊り唄として改作した。テンポは緩やかで、囃子言葉は地域によって多少異なっていた。篠山城下あたりの「みつ節」の囃子言葉は「ヨーオイヤレコノ(またはヤレコリャ、ヤレコラ)デッコンショ」。最近の盆踊りで唄われるのは「祭文(さいもん)口説(くど)き」「播州踊り」「黒井踊り」などだが、日露戦争前までは囃子言葉が「ヤットコセ」の「みつ節踊り」が圧倒的であった。節はデカンショと同じである。「みつ節」は「祭文口説き」の踊りに圧倒されて影をひそめ、その手振りも跡を断ってしまった。
千葉県館山市に「学生歌デカンショ節発祥の地」の記念碑が建っている。廃藩置県(1871)の後、篠山藩主・青山忠誠(ただしげ)は、鳳鳴(ほうめい)塾(じゅく)で学ぶ俊才を東京の自邸に招いて文武を奨励。彼らは会するといつも、郷土の盆踊り唄を唄った。明治三十一(1898)年夏、館山の江戸屋旅館に、藩主の子息・忠(ただ)允(こと)ら篠山出身の若者達が合宿。蛮声を張り上げて丹波篠山の盆踊り唄であるデッコンショを唄っていた。
同宿していた旧制一高水泳部の塩谷(しおのや)温(おん)らがこれを聴き、節廻し、リズムの面白さ、野性味を気に入って習い覚え、東京に帰って大いに唄った。これが旧制高校生らを通して、全国に書生節として広がる。塩谷温は後に漢学者として大成するが、晩年、自らこの思い出を語ったという。
歌詞はそのとき館山に同行した亘理章三郎の作が多い。デカンショの意味については諸説があり、篠山藩士たちが飲み明かし、唄い明かした“徹(てつ)今宵(こんしょう)”、郷土出身者が“天下の将”たらんとする心意気。有名な哲学者のカント、ショウペンハウエルの頭文字。昔から有名な丹波杜氏が、灘に半年出稼ぎに出る“出稼ぎしょう”。地元の方言“デゴザンショ”といったものだが、掛け声の「ドッコイショ」が変化したものと見るのが妥当だ。
現在、地元で唄われているものは早調で、後半の歌詞は繰り返さない。囃子言葉はさまざまだが、学生たちが酒席で唄い囃した唄とすれば「ヨーイヨーイデッカンショー」がよく似合う。なお「デカンショ節」を「篠山節」と表記するのは誤りで「篠山節」とは別物である。
§◎成世昌平CRCM-4OO23(94)「正調デカンショ節」三味線/本條秀太郎、本條秀若、本條秀香津、笛/竹井誠、鳴り物/望月久恵、望月太喜之丞、囃子言葉/時本志津智恵、武山志津光。篠山町と篠山デカンショ節保存会推薦。北村法志津が、平成二(1990)年に編曲した元唄を前唄に置く。「元唄」は本来の元唄である「みつ節」系の篠山節であり、遅い調子で後半の歌詞を繰り返す“返し”が付いている。囃子言葉は「ハヨーオイヤレコノデェコンショー」。続いて唄われる「デカンショ節」は、早調で返しがつかない。囃子言葉は「ハヨーイヨーイデカンショー」。これが全国的に知られる「デカンショ節」のこと。○野垣一郎TGS-607(98)「デカンショ節」「ヨーオイヨーイデッカンショー」じじむさい百姓親爺の雰囲気。○黒田幸子COCJ-30339(99)「丹波篠山節」後半の歌詞を繰り返す返し付きの「デカンショ節」は、崎山健之助が編み出し、前川悦太郎がはやらせたものを尺八の渡辺嘉章が黒田に教えたという。囃子言葉は「ヨーオイヤレコリャデッカンショ」。味のある独特の節と声で黒田幸子(1930-1997)の定盤となった。三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若。
「灘酒屋唄」(兵庫)
♪ソリャヨーイトコ…アリャーリャン…ヨーイトコ…
アーソリャエー
酒屋 酒屋でヤーレン
酒屋 酒屋に 変わりはないが
なんでこの所の 酒よかれトエー
灘五郷(西宮、今津、御影、西、灘魚崎)で唄われる酒造り唄。この地方の酒造りの歴史は古く、室町時代の永享、嘉吉、応仁から文禄、慶長の頃にかけて盛んになり、徳川時代になって江戸で銘酒の評判をとった。杜氏は丹波、播磨、但馬の農民で、農閑期を利用して出稼ぎに出た。彼らは十二月から三月までの百日間、酒造に従事する。そこから“百日”とも呼ばれた。
酒造りの工程によって唄があり、杜氏たちの慰安のほか、作業時間の計測にも用いられた。唄は十一月下旬、前の年に使用した桶などを洗うときの「桶洗い唄」、もとを作るために蒸し米に麹を加えて桶に入れ、長い櫂で掻きまわしながら唄う「もと摺り唄」、もとから醪(もろみ)を造るときにの「仕込み唄」などがある。
§○大場淳APCJ-5042(94)お囃子方は一括記載。素人的で生真面目な歌唱。掛声が作業唄らしい味を出している。
「美方秋節」
♪秋は遅うてヨー 春は早よ戻れヨー
(ヤーレナー コーラショー)
冬の寒(さ)ぶさを 寝て忘りょ
(冬の寒ぶさを)寝て忘りょ
西の民謡を得意とする成世昌平が唄って広く知られるようになった。
美方町(みかたちょう)(美方郡香美町)は古くから小代(おじろ)庄と呼ばれ、平安時代には但馬(たじま)平氏(へいし)の統治を受け、南北朝時代以降、山名氏の統治が明治時代まで続いた。大小さまざまな滝と渓谷があり、ツチノコ、谷間に点在する棚田、但馬ビーフの原産地として知られている。
§◎成世昌平CRCN-20296笛/鳳声晴光、室多秀風、鳴り物/田中佐幸、囃子言葉/高松敏明。
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{奈良県}
「鎌倉節」(奈良)
♪(アラヨイサ ヨイサ)
鎌倉殿は(コラショイ)アリャ良い男
(アラヨーイサ ヨイサー)
白木に鉋を(コラショイ)アリャ掛けたよな
(アラヨーイサ ヨイサー)
色の白さや アリャ絵にない様え
(トコセイ トコセイ)
兄の源頼朝と不和となった弟・義経は、一時、北山郷付近に身を潜めていた。吉野郡北山郷に伝えられる古風な酒盛り唄。曲名は唄の出だしから命名された。
関東全域に、はつうせ、これさま、鎌倉節、花見、芋の種と呼ばれる一連の祝い唄がある。神奈川県三浦市に伝わる「チャッキラコ」では「鎌倉節」が踊られ、茨城県ひたちなか市の那珂湊では、祭囃子の曲目に「鎌倉」がある。鳶(とび)が大工の棟梁を送るときの木遣りでよく唄われた「本町二丁目」は、別名「鎌倉節」。紀伊半島南部で行われる祭りに必ず出てくる囃子唄の「高い山から」は、串本市大島地区の水門(みなと)祭りでは「鎌倉節」と呼ばれていて、祭り終盤の屋台練りの際に唄われている。江戸時代の飴売りの唄は「鎌倉節」と呼ばれていた。
§○江村昌宏APCJ-5042(94)間の抜けたような声だが、肩肘張らないところがよい。お囃子方は一括記載。囃子言葉は女声。「鉋」は地元では「かな」と発音する。
「阪本踊り」(奈良)
<なんちき踊り>
♪大和阪本 一度はござれ 高野大峯 アノ中の宿
(ヤー ナンチキドッコイ ナンチキドッコイ)
春は駒鳥 裏山近く 里の乙女に あの恋を鳴く
(ヤー ナンチキドッコイ ナンチキドッコイ)
<政吉踊り>
♪エー小代 阪本ヨ 昼寝はヨできぬ
(エー淡路文蔵が殺されたショーガヨー)
エー月は十月ヨ 日はヨ二十七ヨ
(エーみんな政吉さんに救われたショーガヨー)
五條市大塔町(おおとうちょう)阪本(さかもと)にある天神社の盆踊り唄。政吉踊り、なんちきどっこい、やってきさ、やっちょんまかせ、など二十種以上の踊りがある。奥吉野の風流踊りの代表的なものであり、県の無形民俗文化財に指定されている。なかでも政吉踊りは、この地域のみに伝えられてきたものだ。
昔、中村屋政吉は、村の人々の罪を一身に引き受けて身代わりとなり、村の危機を救ったという。その政吉を弔うために踊り継がれてきた。盆踊りは、ほとんどが手踊りだが、扇を持って踊る政吉踊りは、そのなかに扇を閉じて拝むようなしぐさが取り入れられ、一種、哀調がある。天神社では中央の櫓(やぐら)太鼓(だいこ)を取り囲み、輪踊りが深夜まで繰り広げられる。
§○泉井菊一郎「なんちき踊り・政吉踊り」FGS-607(98)太鼓/田中力、囃子言葉/酒井ツマ子、迫時子、追矢生子、田中初美。
「奈良の子守唄」(奈良)
♪ねんね寝てくれ この子がかわい
起きて泣く子は わしゃ嫌い
わしゃ嫌い
音楽が持つ力は多様である。子守唄はそれを聴く者の心を癒し、安らかな眠りの世界へと誘う効果がある。子守娘たちが唄う日本の子守唄の多くは、彼女たちの境遇に対する悲哀、不満、妬み、呪い、差別される側からの怒りなどが底流にある。唄を聴く赤子に、その内容は理解できないから、子守娘たちは自分の心情をそのまま唄の文句にして即興の旋律で唄った。子守唄は仕事唄としての民謡そのものであり、人間らしい生活を送ることができない現実に対する告発である。現代の子供には考えられない世界がそこにあり、こうした唄を現代の子供たちが覚え、唄の意味と時代背景を学んで欲しいものだ。
§○三橋美智也KICH-2419(06)編曲/白石十四男。三橋の声は、絶頂期を過ぎた昭和四十(1965)年代から濁りを見せ、歌唱の爽快感は急速に減衰するが、郷愁をさそう独特の節回しはさすが。昭和三十六(1961)年七月、藤間哲郎作詞、山口俊郎作編曲「美智也子守唄」として発売されている。
「初瀬(はせ)追分(おいわけ)」(奈良)
♪(キタコラコラショ)
初瀬の追分 桝形の茶屋でヨ
(キタコラコラショ)
泣いて別れた こともある
(キタコラコラショ)
長谷寺から西の方向にある桜井市慈恩寺が発祥の地。昭和の初期、大阪の民謡家・井野(いの)天籟(てんらい)が復活させたといわれる。初瀬街道沿いの長谷寺には、全国から多くの修行僧たちが集まった。そこに持ち込まれた「馬方三下り」から生まれた民謡である。
長谷寺は、飛鳥時代(686)に天武天皇(?-686)の病気平癒を祈願して、西の岡に三重塔が建立され、奈良時代に十一面観音を安置した堂が東の岡に建立されたことに始まる。
初瀬街道は奈良、京都方面と伊勢を結ぶ街道で、初瀬から名張、青山峠を越え、松阪市六軒で東海道から分岐した伊勢街道へ通じる。桜井から初瀬までの谷が細くて長いことから長谷の名がある。急流の初瀬川が長谷寺のところで緩やかになり、初めて瀬を作ることから初瀬という。泊瀬の字が当てられることもある。
§○佐藤桃仙COCF-9311(91)華々しいところがない穏やかな歌唱。三味線/藤本秀三、佐藤鳳仙、尺八/菊池淡水、囃子言葉/斎藤正子、西田和枝、阿部栄子。△江村昌宏APCJ-5042(94)低い声で唄っているため、味と渋さが感じられる。太棹の伴奏も味を出している。
「吉野筏(いかだ)流し唄」(奈良)
♪吉野川にはヨ 筏を流す
流す筏に のぼる鮎 ホーイホーイ
わたしゃ吉野のヨ 川上育ち
色も香もよい 吉野杉 ホーイホーイ
筏師たちが筏に乗って川を下るとき、農作業唄から転用した唄を唄いながら下って行った。曲調からすると、なだらかな下流で唄ったようである。筏流しは秋から春にかけての仕事であった。吉野川では寛文年間(1661-1672)から、良質の吉野杉を筏に組んで川を下る木材輸送が行われていた。真円、無節、均一の年輪幅といった特徴を持つ吉野杉は平均樹高約43b、胸高直径約1b、樹齢二百年を超えるものは一本がおよそ四百万円で取り引きされている。伐採された木材は半年ほど山中で自然乾燥され、吉野杉独特の色になったところで出荷。筏乗りは、上流の入之波(しおのは)から東川(うのがわ)までが上乗り、東川から飯貝までが中乗り、和歌山までが下乗りと呼ばれ、入之波から和歌山まで五、六日で着いた。
吉野川は大台ケ原に源を発し、和歌山県に入ると紀ノ川と名前が変わる。吉野杉を育てる林業は室町時代に川上村で始められた。川上村は日本林業発祥の地とされる。
§○梅若朝啄KICH-2467(05)尺八/米谷威和男。
「吉野木挽き唄」(奈良)
♪アー木挽き根挽き 根気さえ良けりゃ
(アシッチン シッチン)
ア嬶や子供はヨ 苦にヨならぬ
(ア 一間挽いたらお方のもんだよ ア 二間コ挽いたらこっちのもんだよ
シッチンシッチン)
かつての木挽き仕事は山から山へと渡り歩き、山小屋に泊まり込んで、何日かの労働に従事するものであった。妻子と別れ、人里離れた山奥ので生活は寂しく侘しいものであった。広島の木挽きは力が強く腕も確かで、冬の出稼ぎに西日本各地へ出かけた。このために各地の木挽き唄は、広島の木挽き唄がもとになっている。昭和四十七(1972)年頃、大阪の佐藤桃仙が吉野川郡村上の木挽き唄を復元。西村淡笙の尺八でレコードに吹き込んだ。
吉野山は、県の61lを占める吉野郡吉野町にある。県の可住地面積の割合は23lで残り77lは林野が占めている。奈良県は人が住める面積が日本最下位の狭さである。
なお、東大阪市の尺八家・井上整山は、昭和四十(1965)年に吉野川の筏唄、岩手県の南部木挽き唄、宮城県の夏の山唄をもとにして、新民謡の吉野木挽き唄を作詞、作曲している。
§◎佐藤桃仙GES-31317(02)尺八/西村淡笙、囃子言葉/佐藤秀仙。仕事唄らしく唄う。囃子言葉が面白い。○小松祐二「新吉野木挽き唄」APCJ-5042(94)雰囲気が出ていてなかなか上手い。味ある美声。尺八二管の伴奏。囃子言葉なし。△小佐野修治「新吉野木挽き唄」K30X-221(87)尺八/井上整山。野卑た美声。
posted by 暁洲舎 at 07:00| Comment(0) | 近畿の民謡
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