2022年03月04日

和歌山県の民謡

「勝浦節」(和歌山)
♪勝浦町から 那智山見ればノーシ
霞から出る まったく一の滝ノーシ
蓬莱エエー ヨイヤサノサアー ヨイヤサノサ
(アーヨイヨイ ヨイヤサ)
お座敷唄。昭和二(1927)年、勝浦町に勝浦検番が発足したのを記念して作られた。ノシはこの地方の丁寧語で、勝浦では今でも言葉尻に付けて使われている。
紀伊半島の南東端に位置する東牟婁郡那智勝浦町は、那智の滝で知られる那智町、温泉と漁業の勝浦町、宇久井村、色川村の四町村が合併して昭和三十(1955)年四月に誕生した。
那智の滝は高さ133b、幅13b。勝浦の海上や那智山へ向かう山道からも見える。那智勝浦町の築地は日本有数の漁業基地であり、近海まぐろの水揚げ高は日本一を誇っている。
§○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、佐藤松笙、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬駒三朗、美鵬那る駒、囃子言葉/佐藤松久、佐藤松音、佐藤松栄。
「枯木灘(かれきなだ)の子守唄」(和歌山)
♪この子大事な子じゃ お飯(めし)の種じゃ
この子お(落)といたら まま上がり
西牟婁郡(にしむろぐん)すさみ町の子守唄。枯木灘はすさみ町の太平洋沿岸一帯を指す。すさみ町は黒潮の恵みを受け、伊勢えび、かつお、スルメイカは全国有数の漁獲高を誇る。日本最初のひらがな町だ。
往古、街道に植えられた木々の木陰は、旅人に休息と安らぎを提供する場所であった。枯た木の下では、一息入れられないから近づかない。串本袋港から周参(すさ)見港(みこう)までの間には、風を避けたり、一時寄港するための良港がなかった。だから、紀州の海を航行する船乗りたちは、その海上を枯木灘と呼んだのであった。
串本は陸地部と潮岬を串刺しにした位置にあるため、その名がある。紀伊半島の南端、太平洋に面した町は長細い砂州の上に乗っている。もともと漁師町であり、かつてはブラジル、オーストラリアなど、海外への出稼ぎや移民が多かった。緯度は東京の八丈島とほぼ同じである。東西に延びたリアス式海岸は奇岩・怪石の自然美に恵まれ、黒潮の恵みを受けて年間平均気温は17度前後。冬季でも平均気温は6〜8度で、ほとんど雪を見ることがない。
§○中村みかえFGS-607(98)無伴奏。美声の子守婆さん。雰囲気をよく出している。○太田きのえ「串本の子守唄」KICH-2023(91)伴奏なしの素唄。素朴さと野趣が漂う。いかにも子守唄らしい歌唱だが、迫力があり、寝た子を起こしてしまうかもしれない。
「紀州万才」(和歌山)
♪紀州紀の川 安楽川(あらかわ) 粉河(こかわ)
饅頭(おまん)マタ包むは 竹の皮
エーエーエエエイエーン ソリャイエンナー コリャコリャコリャー
唄の文句は子守唄としても唄われている。佐賀県の「万才くずし」と同じ節。正月になると、家々の戸口に万歳芸人がやってきて、鼓を打ち、祝いの言葉を述べて、太夫と才蔵が掛け合い問答をする万歳は、鎌倉、室町時代に既にあった。京の宮廷や公卿から支援を受けて大和万歳が発展する。
徳川の世になってからは三河万歳が大きな力を持った。諸国で万歳がみられるようになったのは江戸時代からである。尾張、越前、加賀、会津、秋田、伊予、豊後など、各地に起こった万歳集団は新年早々から村々を巡り歩いた。演目や祝いの言葉は各集団によって異なるが、めでたい文句を次々に並べ、リズミカルに語っていくのが特徴だ。
§○大久保君子FGS-607(98)三味線/太田徳子、藤田よしゑ、尺八/岩本介山、太鼓/高木きよ、囃子言葉/福岡セツ子。だみ声女性の渋さと素朴さが面白い。
「紀州夜節」(和歌山)
♪月の影かよ 森木の影かよ
忍び夜妻の 立つ影か
ンサテ キナドン
偲ぶ恋はゆらゆら揺れて、橋のたもとに灯(とも)る明かりのように、淡く切ないもの。こんもりと茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜三層の天守閣がそびえる。
和歌山城は御三家の威容にふさわしい風格を醸している。天正十三(1585)年、紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させた。築城の担当は藤堂(とうどう)高虎(たかとら)だった。秀長の城代として桑山重晴(しげはる)が入り、慶長五(1600)年には関ヶ原の戦いで勲功をたてた浅野幸長が入城。元和五年(1619)には、徳川家康の第十子・頼宣(よりのぶ)が入城する。紀州五十五万五千石の城は、水戸、尾張と並んで徳川御三家として十四代。二百五十三年の歴史を刻んできた。石垣に紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、天守閣は昭和十(1935)年、国宝に指定された。
同二十(1945)年七月九日の夜、米軍機が来襲。城は市内の建物68lと共に灰燼に帰した。現在の天守閣は戦後再建のものだ。
§○成世昌平CRCM-40023(94)三味線/本條秀太郎、本條秀志、笛/望月太八、鳴り物/鼓月嘉翁、鼓月嘉晶。
「串本節」(和歌山)
♪(ハ オチャヤレ)
ここは串本 向かいは大島 中を取り持つ巡航船
エジャナーイカ エジャナーイカ ナイカ(ハ オチャヤレ)
潮岬に灯台あれど 恋の闇路は照らしゃせぬ
エジャナーイカ エジャナーイカナイカ(ハ オチャヤレ)
県最南端、潮岬の港町で船人相手の女達が酒席の騒ぎ唄として唄っていた。門付け芸人が伝えた御輿(みこし)かつぎ唄がお座敷化。同系の唄が富山県や石川県では祭礼唄として唄われている。各地域ごとに多少違った「串本節」が唄われていた。同系統の唄に「古座節」「大島節」「みさき節」などがある。
大正十三(1924)年六月、世界一周中の米国機が串本に飛来するというので、大阪から記者やカメラマンが串本に集まった。飛行機は荒天のために到着が遅れ、出発日程も延びる。当時の町長・田島四郎は、記者を慰労するために宴会を催した。その時、お座敷で芸者衆が唄った「串本節」が大いに受け、記者達は習い覚えて大阪でPR。上方漫才の砂川捨丸は、ご贔屓(ひいき)の旦那さんから教えてもらった「串本節」を九州などの巡業地で唄った。
えーじゃないかは江戸時代の民衆運動で、人々が口々に囃した言葉が囃子言葉となったものだ。串本節に歌われている潮岬は、もともと島だったものが砂洲で紀伊半島と繋がった。潮岬灯台は高さが19.6b。明治六(1873)年九月点灯。光の到達距離は35qに及ぶ。
§○平松節子(正調串本節保存会)CD-R(05)「正調串本節」三味線/山中千佳、北野のり子、笛/藪雅弘、太鼓/平松俟二、囃子言葉/山本ふみゑ、新田光代。○浜より子、宮城邦子COCJ-30339(99)おばさんと娘が唄っているような雰囲気だが、浜の声に若いお色気がある。三味線/浜田勢津子、大川佳子、笛/老成参州、太鼓/浜田八重子、鉦/佐々木菊野、囃子言葉/白瀬春子、飯田優子。△藤山進KICW-8828
(07)しっとりとした味を出している。編曲/小町昭、三味線/藤本博久、藤本秀心、笛/米谷智、囃子言葉/西田和枝、西田和弥。管弦楽伴奏。△お鯉TFC-1203(99)三味線/加代。音源はSP盤。市丸に似た美声。管弦楽伴奏。
「熊野川筏(いかだ)節(ぶし)」(和歌山)
♪和歌山と 奈良と三重との境を流れ
景色優(すぐ)れし アラ熊野川ヨイショ
瀞(どろ)の流れもヨー アノ九里峡もヨー
流してマタ 行きます筏節
(チョイチョイー)
三重県と和歌山県を分ける熊野川は、地図の上では新宮川と表記されていた。流域では木材の生産が盛んであり、伐られた木材は筏に組まれて川を下って行った。現在は観光用の筏下りが行われている。
熊野川は大峰山脈の八剣山(1915m)付近を源流にして、新宮市で熊野灘に注ぐ。険しい山々の間を流れて、さまざまな渓谷美を作り出し、瀞(どろ)八丁(はっちょう)が特に有名である。遠く平安の昔から、貴族や武士たちは熊野詣をした。京の都から大坂を経て熊野を結ぶ紀伊(きい)路(じ)には、海岸をたどる大辺(おおへ)路(ち)と、山中を東に分け入る中辺路があり、熊野三山と呼ばれる熊野本宮大社に詣でた後は、底の平たい笹舟のような平田舟で熊野川を下り、新宮の熊野速(はや)玉(たま)大社、那智の熊野那智大社を巡拝したのである。
§○大川ひろえFGS-607(98)三味線/太田徳子、藤田よしゑ、尺八/岩本介山、太鼓/高木きよ、囃子言葉/福岡セツ子。粋な芸者さんのお座敷唄風。
「新宮節」(和歌山)
♪(エッサーエッサー ヤレコノセ ヒーヤーリ ハリハリセー)
新宮よいとこ 十二社様の(セノヨイヤサノセー)
神のまします 良いところ
(エッサーエッサー ヤレコノセ ヒーヤーリ ハリハリセー)
新宮の花柳界の酒席の騒ぎ唄。前奏は「名古屋甚句」の前弾き、唄は「五万石」、囃子言葉は熊野神社への道中唄の扱いで、この地の花柳界で作られたものと思われ、粋な情趣を盛り上げる。
新宮市は紀伊半島の南端に位置し、昔から木の国といわれる熊野地方の木材の集散地である。熊野川が熊野灘に注ぐ河口に開け、熊野神社参詣人の交通の要所だ。関ケ原役後は紀州徳川家付(つけ)家老(がろう)水野三万五千石の城下町として栄えた。今から約二千年前の景行天皇五十八(128)年、熊野三所権現が最初に降臨した神倉山から現在の地に遷ったことで、神倉神社の旧宮に対して新宮の名がある。熊野速(くまのはや)玉(たま)大社(たいしゃ)は、本宮、那智とともに熊野三山のひとつに数えられ、全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮。古来から新宮十二社大権現として崇敬を集めていた。参道の中ほどにある梛(なぎ)の木は、平清盛の嫡男・重盛(1137-1179)の手植えといわれ、幹周り6b、高さ20bを超え、国の天然記念物となっている。作家の佐藤春夫や中上健次はこの町に生まれた。
§○小橋よし江APCJ-5042(94)お色気と粋さをうまく出したお座敷調。囃子言葉も面白い。お囃子方は一括記載。○ふきこFGS-607(98)三味線/満さ喜、鈴奴、笛/つね子、太鼓/奈々子、鉦/美鈴。年増芸者。スローテンポ。野趣あり。
「根来の子守唄」(和歌山)
♪ねんね根来の 覚鑁(かくばん)山でヨー
としょうじ来いよと 鳩が鳴くヨー
江戸時代の頃から唄われていたといわれている。根来寺(ねごろじ)を中心に、紀の川筋一帯と、南の有田地方にまで唄い継がれてきた。唄の文句も根来寺にかかわるものが多い。覚鑁山という名の山はないが、覚鑁(かくばん)(1095-1143)が住んだ山という意味で、根来山一帯を指している。覚鑁は新義真言宗の開祖。一時、高野山金剛(こんごう)峰寺(ぶじ)の座主であったが、一山の者たちが覚鑁の義に異を唱えたため、根来に移った。
“としょうじ”については、大正四年の「俚(り)謡集(ようしゅう)拾遺(しゅうい)」には“としより来いよの鳩が鳴く”とあり、根来寺に住む鳩の鳴き声が“年寄来い、年寄来い”と聞こえたことから、大正から昭和の初期には“年寄りこいよ”と唄われていた。
豊臣秀吉が根来を攻めた天正十三(1585)年、援軍を旧山東村にある東照寺に求めたことや、東照神君・家康に援軍を求めて、根来寺の鳩が鳴いたためだとする説もある。根来の子守唄保存会がこの唄を継承、保存に努めている。
§○平松稔FGS-607(98)無伴奏。みじめな哀調をうまく出しているが、男声に子守唄は似合わない。
「日高川筏流し唄」(和歌山)
♪(イヨーイヨー)
ヨーエ清き流れの 日高の川で(ヨーイヨーイ)
筏流しをよー(ヨイヤラコラヨー)して暮らすヨー(イヨーイヨー)
日高郡中津村(日高川町)に伝えられてきた。中津村は面積の90lが森林の村で、住民のほとんどが山仕事に就き、なかでも筏師は花形職業であった。日高川の急流に棹差し、筏を操りながら御坊まで三日。筏師は自らを励まし、仕事に励むよすがに唄った。筏の先頭(鼻先)に弟子を乗せ、親方が舵を取って川を下り、急流を乗り切ったのち、流れが緩やかになって唄う投げ節(鼻乗り祝いの唄)もある。
日高川は県最高峰の護摩壇山(1372m)から流れ、山間を縫って西流。丹生ノ川、寒川(そうがわ)、初湯川(うぶゆがわ)、江川などの支流と合流しつつ田辺市北部、日高川町、御坊市を経て太平洋に注ぐ。かつて木材は一本一本ばらばらに流す“狩り川(ばら狩り)”の流し方で御坊まで運んでいたが、海へ流出してしまう木が多く、筏流しが考案された。筏は長さ二間(約4m)の材木を、藤蔓や捻(ねじ)木(き)(人力で捻った木)で結び、横幅七尺(約2m)になるように揃える。それを15連結にすると全長が60mになり、それを二人から三人で操る。流域には数多くの滝があり、桧皮(ひわだ)滝、鎌滝、大滝、鳴滝、黒島滝の五つが筏流しの難所とされた。これを乗りこなすことができれば一人前の筏師である。
昭和二十八(1953)年七月十八日、南紀を豪雨が襲い、日高川は大氾濫して大被害をもたらした。筏を流す水路も壊滅して、以後、筏流しができなくなり、木材の運搬はトラック輸送となった。同五十(1975)年、かつての筏師が中心となり、中津筏流し唄保存会が結成されている。
§○広田長次郎FGS-607(98)尺八/岩本介山、掛け声/戸上寿喜代、南沢利一。
「日高川甚句」(和歌山)
♪あのま安珍さん 清姫嫌うて(コラショイ)
お逃げなされし マァー日高川
(蛇になってもこの川を 渡らにゃならんと ざんぶざんぶ)
道(どう)成寺(じょうじ)に伝わる安珍(あんちん)・清(きよ)姫(ひめ)の物語を唄っている。甚句は「七・七・七・五」の詞形を元に、軽快に唄う騒ぎ唄だ。かつて花街や酒席で盛んに唄い踊られた。本調子と軽快な二上がりがある。
道成寺は大宝元(701)年、文武天皇勅願寺として紀(きの)道(みち)成(なり)が建立。発掘調査によって、県下で現存する最古の寺であることが確認された。
安珍・清姫の伝説には悲恋を主題にしたものと、再興した鐘の供養に現れた清姫の怨霊を題材にしたものとがある。清姫に思いをかけられた熊野詣での修行僧・安珍は、恋の道と修行の道とを秤にかけて、きっぱりと恋を捨てた。
男の心変わりを知った清姫は、凄まじい妄執(もうしゅう)の虜(とりこ)となって安珍のあとを追う。髪振り乱して走りに走り、履物はいつしか脱げて裸足となり、着物の裾をはだけて、ひたすら安珍を追いかける。日高川のほとりで、流れに行く手を阻まれた清姫の目に映ったのは、川を渡る小舟の中の安珍の姿であった。激流をものともせず、川に入って安珍を捕えようとする清姫は、いつしか蛇体となっていた。
向こう岸にようやく辿り着いた安珍は、恐ろしさのあまり道成寺に逃げ込み助けを求める。道成寺の住職は釣鐘を降ろし、その中に安珍を隠した。大蛇と化した清姫は、怒りにまかせて釣り鐘を巻き込み、愛の業火と怨(おん)念(ねん)の炎で安珍もろともに己が身を焼き尽くし命終えたという。延長六(928)年のことであった。
長唄「京(きょう)鹿子娘(がのこむすめ)道(どう)成寺(じょうじ)」では、焼けた梵鐘の再建が成り、桜満開の道成寺の鐘供養の日に、美しい白拍子・花子が現れる。烏帽子を付けた花子は、恋する娘の姿をあでやかに舞い踊る。隙を見て花子は鐘の中に消えたが、鐘を引き上げてみると、そこから出てきたのは恐ろしい蛇であった。この白拍子は、かつて鐘の中に隠れた安珍を恨んで蛇体となり、鐘ごと男を焼き殺した清姫の亡霊であった。
§○佐々木育代「日高川」FGS-607(98)三味線/市部佳代、江川雪枝、吉本鈴代、尺八/岩本介山、太鼓/林八重、鉦/石田文子。田舎の年増芸者の味。○渡辺日出子TFC-911(00)お囃子方不記載。
「みかん取り唄」(和歌山)
♪(ハァ 詰めたか詰めたか 詰めたら篭出せ)
ハァ紀州みかんの(ハァ キッチョン)
あの光沢(てり)のよさヨ(ハァ キッチョン)
わしのすーちゃんヨーイヤーレ 品の良さヨ(ヤーレ品の良さヨ)
(ハァ 詰めたか詰めたか 詰めたら篭出せ)
有田市、海草郡、伊都郡に伝わるみかん採りの作業唄。紀州有田みかんは、天正二(1574)年、有田郡(ありだぐん)糸(いと)我(が)庄(しょう)(有田市)の伊藤孫(仙)右衛門が、肥後八代(やつしろ)(熊本県八代市)からみかんの木を移植したことに始まる。当時、各藩の特産物は門外不出であり、右衛門は持ち出しに大変苦労したが、二株のみかんの木を手に入れて村に植えた。木はやがて甘酸っぱい実を付け、その後も工夫を重ねた結果、慶長(1596)の初め頃には、宮原、保田、藤並の各庄で増殖した。
寛永十一(1634)年、江戸の市場に有田みかんが登場。一籠半が金子一両という高値で取り引きされた。有田みかんの名声が高まると、紀伊国屋(きのくにや)文(ぶん)左(ざ)衛門(えもん)(1669-1734)が活躍する。文左衛門は有田郡湯浅町別所に生まれた。身の危険を顧みることなく、荒天を突いて下津港から船出。海路、江戸にみかんを運んだ。一(いっ)獲(かく)千金(せんきん)、その後、一代で豪商の名をなし、その男気は江戸で大評判となった。
中国浙江省(せっこうしょう)にある温州(うんしゅう)の名を冠したみかんは、日本の独自種で、中国から持ち帰った橘(たちばな)が九州で突然変異して誕生したものだ。柑橘類(かんきつるい)の原産地はインド、タイ、ビルマといわれる。
§○海老塚宏APCJ-5042(94)かすれた高音で軽調な歌唱。囃子言葉が陽気で面白い。お囃子方は一括記載。
posted by 暁洲舎 at 07:00| Comment(0) | 近畿の民謡
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