♪サァー 大黒舞いを見っさいな
さてめでたいな 大黒舞い
サァー 始まる月の 元日に
孫子に伝える ならいとて(ハァ ドッコイ)
扇に紙を相添えて 末広がりと 祝いますとや
さてめでたいな 大黒舞い
正月になると、大黒天の装束をして打ち出の小槌を持った人々が、三味線と胡弓の鳴り物入りで唄い踊り、門付けをして歩いた。旧岩美群倉田村円通寺(鳥取市)の人々であった。唄は、めでたづくしになっている。
大黒天はもともとヒンズー教の神である。それが仏教に取り入れられ「マハーカーラ(摩訶迦羅)」と呼ばれるようになった。大いなる黒い神という意味である。大黒を寺院の厨房(ちゅうぼう)の神として祀ることは、インドだけでなく中国でも行われていた。日本に大黒天をもたらしたのは最澄(さいちょう)か空海(くうかい)のどちらかだといわれている。平安時代から、天台と真言宗寺院の厨房で祀られた。
大黒の音と、紀記神話に登場する大国主(おおくにぬし)命(のみこと)の大国の音が共通するところから、本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)、神仏(しんぶつ)習合説(しゅうごうせつ)と重なり、一般民家でも信仰されるようになる。狩(かり)衣(ぎぬ)姿(すがた)に大黒(だいこく)頭巾(ずきん)をかぶり、右手に打ち出の小槌を持ち、袋を背負って米俵の上に乗る福徳円満の大黒は、五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)、招(しょう)福(ふく)開運(かいうん)の神として農家や商家で喜ばれ、恵比寿(えびす)と共に親しまれた。
この大黒信仰を民間に流布したのは、大黒舞いで全国を巡り歩いた出雲(いずも)大社(たいしゃ)の下級神人や、京都の東山区にある悲田院に所属する垣外(かいと)(乞食)たちであった。
§○岩井きよ子KICH-2017(91)迫力のある中音の声。三味線/藤本e丈、藤本秀輔、笛/米谷龍男、鳴り物/美波駒三郎、美波奈る駒、囃子言葉/西田和枝、西田和美。KICH-2467(05)小町昭編曲。三味線/藤本博久、藤本秀輔、笛/米谷威和男、囃子言葉/西田和枝、西田和美。△成世昌平CRCM-4OO23(94)三味線・胡弓・本條秀太郎、三味線・本條秀若、鳴り物・田中佐幸、望月喜美、囃子言葉/武田昌宏・本條秀彦・武田ヒロ子・本條美代子。胡弓入り。繊細な声の歌唱では、門付けの唄としてはいささか弱い。
「貝殻節」(鳥取)
♪ヤンサノエー イヤサカサッサ
やれ漕(こ)げ(そら漕げ)やれ漕げ(そら漕げ)
久松山から 沖合い見れば(アアソコダガノー ソコダガノー)
あれが賀(か)露(ろ)かや コラ鳥ケ島
(ヤサホーエーヤ ホーエヤエー イヤサカサッサ ヤンサノエー イヤサカサッサ)
やれ漕げ(そら漕げ)やれ漕げ(そら漕げ)
なんの因果で 貝殻漕ぎなさる(アアソコダガノー ソコダガノー)
<追分>
波のしぶきをヨー(ソイ)朝から(ソイ)浴びてヨー(ソイーソイ)
色は黒うなるコラ身は痩せる
(ヤサホーエーヤ ホーエヤエー イヤサカサッサ ヤンサノエー イヤサカサッサ)
海底に沈めた鋤簾(じょれん)を使い、帆立(ほたて)貝(がい)を採る時の艪(ろ)漕(こ)ぎ唄。
その昔、鳥取県東部、気高郡(けたかぐん)の海岸一帯は。板屋(いたや)貝(がい)の漁場であった。およそ二十年周期で板屋貝が大発生。地元では大漁年を貝殻年と呼ぶ。貝殻は、身の入っていない貝の殻ではなく、貝そのものを指している。貝採りは、箱に串状の歯を付けた鋤簾を船で曵き、砂を掻いて貝を採る。重い鋤簾を引く櫓こぎは大変な労作業で、苦しさをまぎらわせるために、櫓に合わせた唄が生まれた。
地元で帆立貝と呼ぶ貝は板屋貝のこと。帆立貝の分布南限は、太平洋側が東京湾、日本海側が能登半島の周辺までだが、板屋貝は南西日本を中心とした海域から、暖流の影響を受ける北海道の南部にまで及んでいる。板屋貝の通称は杓子(しゃくし)貝(がい)だ。帆立貝のような円盤状でなく、扇形をしている。右殻は深く、左殻はほとんど平らだ。深い右殻の端に割り箸を付け、貝杓子として使われた。
昭和四(1929)年ごろから貝が採れなくなると、唄は次第に忘れられる。
昭和七(1932)年に「浜村温泉小唄」(松本穣葉子作詞、三上留(みかみとめ)吉(きち)作曲)が制作されたのを機に、三上留吉(1897-1962)が貝殻節を採譜、松本(まつもと)穣(じょう)葉子(ようし)が詞を作った。
穣葉子(1900-?)は昭和八(1933)年から野口雨情に師事して、作詞家としての活動を始めている。本名は松本儀範。採譜の三上留吉は、八頭郡(やずぐん)八頭町(やずちょう)郡家(こおげ)の生まれで、鳥取県の師範学校附属小学校在職中に「小学校唱歌教授細目の理論と実際」の編集発行や、音楽教育講習会の開催などにより、県下の音楽教員に大きな影響を与えた人物である。
同二十七(1952)年「貝殻節」がラジオの電波に乗り、朝日放送の人気投票で「貝殻節」が第一位となり、初代鈴木正夫、黒田幸子がレコードに吹き込んで、全国的にその名を知られることとなった。
松本穣葉子は、唄と囃子言葉は判然と区別すべきであり、一緒に唄ってしまうと情緒が半減されると言う。「何の因果で貝殻漕ぎ習うた」と一人が音頭を取れば「可愛いやノー可愛いやノー」の囃子言葉が入り「色は黒うなる身はやせる」と音頭取りが唄えば「ヤサホーエーヤ」と囃子言葉が受け、「ホーエヤエーエ」から最後までは、音頭取りと囃子手全員の唄で終わるのが正しい唄い方だと言っている。
§◎浜沢長三郎COCF-13289(96)追分入り。野趣に富んだ塩辛声。いかにも仕事唄らしい。三味線/岸本文雄、太鼓/鈴木健一、囃子言葉/吉田喜正、中西梅月。浜沢は明治四十一(1908)年十一月に鳥取市賀(か)露(ろ)町(ちょう)で生まれ。少年の頃から地元の老漁師たちが唄う貝殻節を覚え、祭の舞台などでよく唄っていた。昭和三十二(1957)年「元唄・貝殻節保存会」を立ち上げ、櫓漕ぎ唄としての「正調貝がら節」を発表。本格的な民謡活動を開始する。TFC-1208(99)三味線/西山一男、囃子言葉/浜沢長三郎社中。○初代鈴木正夫VDR-25153(88)小沢直与志編曲。三味線/豊吉。民謡の楽しさを無理なく体現した品格ある名唱。心に染み入るような声と節は天下一品。編曲もよい。△梅若朝啄KICH-2467(05)三味線/藤本e丈、藤本梅朝、尺八/井上整山、鳴り物/美波駒輔、美波駒世、囃子言葉/白瀬春子、白瀬孝子。
「皆生(かいけ)小唄(こうた)」(鳥取)
♪海に湯が湧く 米子(よなご)の皆生
波の音さえ 寝てて聞く
ヤレサホーイホイ ヤットサノセー
野口雨情(1882-1945)作詞、竹香博美作曲の新民謡。原詩は「米子の皆生」ではなく「伯耆の皆生」。皆生温泉は、三朝(みささ)、(、)玉造(たまつくり)とともに山陰の三大温泉のひとつである。その昔、出雲稲佐の浜から、泡となって流れた多くの魂がこの海岸に流れ着き、新しい心身を持って、皆、生まれ変わったことから皆生と呼ぶようになったという。
明治三十三(1900)年、地元の漁師が海中に噴出する熱い泡を発見。泡の湯と名付けたのが始まりで、大正期になって開発が進められ、昭和期に現在のような大温泉地に発展した。泉質は弱アルカリ泉で、海水が混じった全国でも珍しい塩湯温泉である。
§○鹿島久美子VDR-25204(89)小沢直与志編曲。透明感のある歌唱。その中にほのかなお色気を醸し出している。
「きなんせ節」(鳥取)
♪街にいで湯が しゃんしゃん湧いて
ここは鳥取 いで湯鳥取 君を待つ
キナンセキナンセ踊りゃんせ
サッテモヤレコノ ヨイトコセー
松本穣葉子が詞を作り、小幡義之が作曲した。
鳥取市街が舞台の「鳥取しゃんしゃん祭」は、毎年八月十六日に行われる。昭和四十(1965)年にスタートした。町は、金銀の短冊や鈴で装飾された“しゃんしゃん傘”を持った、およそ三千五百人の踊りで埋め尽くされ「きなんせ節」と「しゃんしゃん傘踊り」に合わせて踊る。一斉に傘を回すところは圧巻だ。
傘踊りは、県東部に古くから伝わる雨乞い祈願の“因幡の傘踊り”を現代風にアレンジしたものである。傘を持って踊る祭としては、日本最大級のもの。若者には、アレンジ曲の「きなんせサンバ」が好評だ。“しゃんしゃん”は、温泉の湯が沸く様子と、踊り傘についている鈴の音から命名された。
§△神谷美和子APCJ-5043(94)裏声を多用しないほうがよい。お囃子方の名は一括記載。
「さんこ節(銭太鼓)」(鳥取)
♪さんこ さんこと 名は高けれど
さんこ さほどの 器量じゃない
アリャ瓢箪(ひょうたん)ばかりが 浮きものか
私もいささか 浮いてきた
サーサ浮いた 浮いた
松江に伝わり、座敷唄として“伊勢宮ざんこ”“早ざんこ”“出雲節”の名で知られている。この唄は、安来節とほぼ同じ時期に生まれたようだ。能義(のぎ)郡(安来市)出身の美声の女性“おさん”が唄った民謡は、幕末から明治の頃に流行し、山陰地方の民謡に大きな影響を与えた。
唄を盛り上げる銭太鼓は、銭の触れ合う音を利用した楽器の一種。タンバリン型のものと、竹筒型のものがあり、竹筒型のものは、30cm余りの竹筒の中に銭を取り付け、両端は紅白の房などで飾りつける。両手に持ってくるくる回したり、左右持ち換えて交差させ、床を叩いたりしてリズムを取る。良く乾燥した竹ほど音がよく、煤(すす)竹(だけ)が最も良い。出雲地方の銭太鼓の歴史はかなり古く、全国各地にある銭太鼓は、出雲方面から流れ出たものと考えられている。
境港市の“境さんこ節”が最も有名で、現在も保存会が継承している。
§○米倉慶子APCJ-5043(94)お囃子方は一括記載。声にほのかなお色気があり、お囃子の面々も頑張ってる。△武村静子COCF-13289(96)三味線/石倉寿郎、太鼓/阪部孝子。田舎くさいお婆さんの声に情緒あり。
「三朝(みささ)小唄(こうた)」(鳥取)
♪泣いて別れりゃサイショ空までエ ヨイトヨイトサノサ曇る
曇りゃ三朝がヨ ヤレ三朝がヨ 雨となるヨー
三朝三朝とサイショ皆さまエ ヨイトヨイトサノサいいやる
恋の架け橋ヨヤレ 架け橋ヨ あればこそヨー
ハ出雲の帰りにゃまたおいで 寄らずに帰るはふた心
その時きゃ 私が追ってくよ
三朝温泉は県中部の東伯郡三朝町にあり、人口約八千人の小さな町だ。大正三(1914)年、温泉水中に含まれる放射能物質「ラドン」の含有量が、世界一であることが判明した。
大正の末、鳥取県下を旅行していた野口雨情(1882-1945)と中山晋平(1887-1952)は、三朝温泉の岩崎旅館に投宿した。宿の主がこの二人を知っていたから宿は大騒ぎとなり、急遽、町の名士たちが集まって、歓迎の宴が催された。二人は興の趣くまま、お礼の意味を込めて即興の詩と曲を披露したという。しかし、この伝承は誤りで、昭和二年八月八日の鳥取新報に、雨情が詩作の所感を述べていて、来鳥までに作謡を依頼されていたことが真相のようだ。
長寛二(1164)年、源義朝の家来・大久保左馬之(おおくぼさまの)祐(すけ)は、主家再興祈願のために三(み)徳山(とくさん)へ参詣。その途中、年老いた白い狼を見つけた。弓で射殺そうとしたが思いとどまり逃がしてやる。その夜、左馬之祐の夢枕に妙見菩薩が現れ、白狼を助けた礼に、湯が湧き出ている場所を教えてくれた。その湯は“救いのお湯”として、多くの村人の病を治したのであった。楠の古木の根元から湧く湯は三朝温泉の源泉として、今にいたるまで滾々(こんこん)と湧き出している。
§◎葭町二三吉VDR-5172(87)三味線/小静。鳴り物入り。SP復刻盤。古色蒼然で味わいが薄い。○市丸VDR-25204(89)三味線/静子、豊寿、今岡真三編曲。静かに唄うが、ほのかな艶と味がよい。
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