♪ハァちょいとやりましょうか(アラ ドッコイセ)
ハァちょいとやりますナー 私がやろか
(アラヤーハートナー ヤーハトナー)
ハァ私がやろか(アラ ドッコイセ)
ハァ私がやるのでナー 合わぬか知らぬ
(アラヤーハートナー ヤーハトナー)
ハァ石童丸は(アラ ドッコイセ)
ハァ父を尋ねてナー 高野にあがる
(アラヤーハートナー ヤーハトナー)
「ヤーハトナ」と呼ばれる口説形式の盆踊り唄。米子市(伯耆国)大崎で唄い踊られてきた。大崎出身の民謡歌手・黒田幸子(1930-1997)が母親から故郷の盆踊り唄を習い、これに手を加えて今日の節回しにまとめあげた。昭和三十三(1958)年頃、レコードに吹き込んだ際に「出雲音頭」と命名。石(いし)童(どう)丸(まる)、鈴木(すずき)主(もん)水(ど)、国定(くにさだ)忠(ちゅう)治(じ)などを題材にして口説かれる。
石動丸の物語は平安時代末の出来事である。筑紫国(福岡県)の領主・加藤左衛門繁(しげ)氏(うじ)は世をはかなんで出家。京に上って法然(1133-1212)の弟子となり、次いで高野山に入って苅(かる)萱(かや)道心(どうしん)と称して修行に励んでいた。繁氏出家の後に生まれた石動(いしどう)丸(まる)は、十四歳の時、父に会いたい一心で母と共に高野に上る。高野山は女人禁制であった。やむなく母を麓に残して山に登った石童丸は、御廟の橋で一人の僧と出会う。この僧こそ誰あろう石童丸の父・苅萱道心であった。苅萱は「そなたの父は死んだ」と石童丸に告げる。
泣く泣く山を降りた石童丸を待っていたのは、母の死であった。母を弔(とむら)った後、石童丸は再び高野山に上り、苅萱道心の弟子となる。父は生涯、親子の名乗りをすることはなかったという。この石童丸物語は、高野(こうや)聖(ひじり)によって全国に広められた。
江戸初期には身近な話題にことよせ、仏教教理が名調子で語られる説経節となり、謡曲、歌舞伎、浪花節などにも取り上げられた。なお、宮城県にも石動丸の伝説が残っている。男鹿(おしか)半島東北端にある城山には、加藤左衛門重氏が建久二(1191)年に築いたという「刈萱城」がある。
§◎黒田幸子COCF-13289(96)が定盤。三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、小鼓/黒田幸若、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若。野太い声、粘りのある歌唱、豊かな声量、味わい、雰囲気、いずれも申し分なし。二代目は黒田の長女が襲名している。
「石見舟唄」(島根)
♪ハァードンド ドンドトエー 浪高島でヨーソレホイー
お伊勢呼ぶ声 懐かしやヨー
(トコホーイ トノエー ナノエー ソーレソレ)
ハァードンド ドンドトエー呼ぶ瀬がござるヨーソレホイー
あれは網曳きの寄せ太鼓
(トコホーイ トノエー ナノエー ソーレソレ)
酒席の騒ぎ唄。岡山県の「下津井節」、広島県の櫓音頭と同系統でトコハイ系と呼ばれる。北前船の船頭によって港へ持ち込まれた。
島根県の西部に位置する石見国は、大化改新後まもなく設置された。島根県は全国三番目に港湾が多い県で九十もの港がある。石見地方のほぼ中央に位置する県内最大の浜田港は、山陰地方有数の漁港である。古くから日本海を行き交う定期船や、大陸貿易船の寄港地として栄えた。
§△松江徹VDR-25204(89)笛/老成参州、三味線/高橋祐次郎、高橋巌、太鼓/山田鶴助、囃子言葉/松江きみ子、山崎タイ。艶のある声だが、気取りがある。歌唱に渋さと素朴さが欲しいところ。
「隠岐磯節」(島根)
♪鮎は瀬に住む 鳥木の枝に
(ア サイショネー)
人は情の アノ下に住む
根のない浮き草 蛍に一夜の宿を貸す
関西から西では「磯節」を唄いやすく崩した「新磯節」に人気があった。それが各地に流行歌として定着する。この唄も「新磯節」が隠岐化したものである。
隠岐諸島は、島根半島の沖合い40〜60kmの日本海に浮かぶ180あまりの無人島と四つの有人島から成っている。人が住むのは島前(どうぜん)三島(西ノ島、知夫里島、中ノ島)と、一番大きな島後(どうご)と呼ばれる島。
承久三(1221)年、承久の乱で執権・北条(ほうじょう)義(よし)時(とき)との戦いに敗れた後鳥羽上皇は、中ノ島の海士町(あまちょう)に配流された。在島十九年、幕府の監視下で、側近の男女数名と望郷の念に身を焦がしながら日々を送り、無聊(ぶりょう)を慰めるために数多くの和歌を詠んだ。“われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け”これは隠岐配流に際して詠んだ歌である。延応元(1236)年、後鳥羽上皇は都への思いを残しつつ、海士町で悲運の生涯を閉じる。
§◎福浦くに子TFC-1208(99)掛け合い/銭谷さだ子、三味線、囃子言葉/森あさ子、太鼓/坂広三郎。福浦くに子は昭和四(1929)年八月、隠岐郡五箇村北方(隠岐の島町)に生まれた。掛け合いの銭谷さだ子と共に、隠岐を代表する民謡歌手。
「隠岐祝い音頭」(島根)
♪今日はナー 可愛いナー
我が子の門出 アリャナーソコナー
酒を注ぐ手もナー ヤンサー震えがち
(マダマダ ヤートコセーノヨーイヤナー
アリャナーコレワイナー 隠岐ナンデモセー)
隠岐島で、元服祝いなどの祝儀や、酒宴の席で唄われる隠岐の伊勢音頭。昭和四十(1965)年、隠岐の民謡研究家・近藤武(1931-)が囃子言葉の“伊勢なんでもせ”を“隠岐なんでもせ”と変え、新作の歌詞を加えて「隠岐祝い音頭」と命名。銭太鼓の伴奏で踊られる。
§○石橋レイ子KICH-120(97)野趣に富んだ歌唱。〇二代目遠藤お直KICH-201
7(91)力みのない唄い方で編曲もよいが、派手さがほしい。編曲/桜田誠一。三味線/藤本秀輔、直秀、囃子言葉/西田和枝、竹内まゆみ。△古賀速水COCF-12241(9
5)もう少し元気と派手さがほしいところだ。三味線/谷尻恒太郎、毛利寿人、尺八/岡部笙山、近藤武、竪琴/池田正信、太鼓/尾崎和男。
「隠岐追分」(島根)
♪元弘の アー昔偲ぶか黒木の御所にヨー
(ハ キタサイキタサイ)
波が寄せます ざわざわと
(あの娘に花やれ 椿の花でも)
沖じゃ アー寒かろ着て行かしゃんせヨー
(ハ キタサイキタサイ)
わしの部屋着の この小袖
(十日も二十日も しけ込めどっさり)
全国に追分を生み出した長野県の追分節「馬方三下り」が海路運ばれ、隠岐に持ち込まれたものが母体となっている。最初、島内に広まったときには、板山追分と呼ばれていたが、昭和に入って「隠岐追分」と呼ぶようになった。アップテンポの追分。
§◎福浦くに子KICH-2017(91)美声で野趣ある歌唱。三味線/森あさ子、鳴り物/山田鶴助、囃子言葉/西田和枝、美知枝。○吉田孝輝KICH-120(97)お囃子方は一括記載。尺八と三味線が伴奏に付く。初代浜田喜一に似た美声。
「隠岐おわら節」(島根)
♪実るナー 稲穂に鎌の手はずむ
(ハ キタサイコラサイ)
唄もナー はずむよ オワラ隠岐の唄
(ハ キタサイコラサイ)
隠岐島で広く唄われる酒席の騒ぎ唄。近藤武の作詞。七七七五調の終わり五文字の前に“おわら”が挿入されるところから名がある。鹿児島、富山、青森に同名の唄があるため「隠岐」を冠する。北海道の桧山郡(ひやまぐん)江差町(えさしちょう)や津軽領で丹波節の名で唄われている「おわら節」と同系統か、あるいは富山県の「越中おわら」の古い形のものが隠岐に伝えられたものか詳細は不明。
隠岐は四つの主な島からなり、知夫里(ちぶり)島、西ノ島、中ノ島の三島を島前、最も大きい島を島後(どうご)と呼んでいる。島前、島後一郡三町四村の人口は二万七千五百人ほどである。最大の島である島後地区には西郷町、布施村、五箇村、都万村があり、平成十六(2004)年十月一日、四町村が合併して「隠岐の島町」となった。島前の海岸線は男性的な断崖絶壁が多く、島後は入江や岬の多い女性的な風景が広がっている。
江戸時代には日本海に西回り航路が開かれ、西郷・浦郷などの港は帆船の風待ち港として栄えた。近世には西廻りの海運の路が拓かれて、隠岐は北前船の風侍、避難港として脚光をあびるようになった。近年、水産業でも山陰有数の漁獲高をあげ、栽培漁業にも力を入れている。
§○吉井良夫KICH-120(97)お囃子方は一括記載。
「隠岐相撲甚句」(島根)
♪相撲はヨー 神代に始まりましてヨー
(ハー ドスコイドスコイ)
今じゃヨー 日本の国技になりてヨー
(ハー ドスコイドスコイ)
石見(いわみ)地方には古くから相撲取り唄があり、これが隠岐に伝わった。近藤武作詞、編曲。隠岐には、体重1d近い牛がぶつかり合う勇壮な牛の相撲「隠岐の牛突き」が伝わる。承久(じょうきゅう)の乱(らん)(1221)で隠岐へ流された後鳥羽上皇を慰めるために行われたことに始まり、日本で最も古い歴史を持っている。かつては全島で行われた牛突きも、現在は島後の隠岐の島町(旧西郷町)と五箇村、都万(つま)だけとなった。
牛突きの本場所は、引き分けのない真剣勝負だ。東西に分かれての土俵入りで開幕。清めの塩を撒く「塩振り」に先導され、芝切り、小結、関脇、大関、横綱の順に、突き牛がゆっくりと進む。出場するすべての牛が、鍛え抜かれた巨体を飾りたてられ、観客に披露される。純白の横綱を角に巻き、金糸銀糸で刺繍された見事な化粧着で正装した横綱牛は、堂々たる風格がある。
突き牛は、地元産の黒毛和牛を生後半年ぐらいから育て、大会に出るのは四歳牛が中心。頭取の合図で仕切りに入り、しばらく見合う。次の瞬間、突き牛の闘争心が爆発して、800〜900`の巨体がぶつかり合う。綱とりの勇ましい掛け声と、突き牛の激しい息遣いが交錯し、人牛一体の攻防戦は、どちらかの牛が逃げ出すまで数十分、ときには一時間近くも続く。会場となる「隠岐モーモードーム」は平成十一(1999)年に完成した。
§○古賀速水KICH-120(97)お囃子方は一括記載。
「隠岐相撲取り節」(島根)
♪ハァー私が自慢の相撲取り節をヨー
(ハ ドスコイドスコイ)
今日はこの家のお祝いに ひとつ唄うてみるほどに(ハヨイショ)
酒を飲む手を一休み 手拍子頼むよ皆さまよ(ハドッコイ)
めでたいこの家のお座敷に 始めて合わせる顔もある(ハヨイショ)
縁がありゃこそ気も溶けて 笑顔で交わす杯に(ハドッコイ)
話がはずむ人もある 両手を結ぶ人もある(ハヨイショ)
交わす人情もほのぼのと 祝い座敷に実を結びゃ(ハドッコイ)
笑顔で見ている床の間の 七福神がノーホホイ飛び出して踊るヨー
(ハ ドスコイドスコイ)
近藤武作詞。石見地方に古くからある相撲取り唄が隠岐に伝わった。
出雲地方と相撲の関係は深い。相撲の起源は「日本書紀」の神話時代までさかのぼる。第十一代垂仁天皇の頃、大和の国で自らを無双の力士(優れた力を持った人)と誇っていた當麻蹶速(たいまのけはや)の噂を聞いた天皇が、これに勝つ者はおらぬかと下問する。ある臣下が、出雲の国の野見宿禰(のみのすくね)の名を挙げると、天皇は対戦を所望する。早速、宿禰が出雲から召され、勝負の場が設けられた。対戦の日、互いに足を上げて蹴り合ったが、野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を折り、腰を踏み折って勝負がついた。勝った野見宿禰は天皇に仕え、その頃の慣例となっていた天皇殉死のしきたりを廃止して、埴輪(はにわ)で代替することを提案する。以後、殉死は廃止されたという。
§○石橋レイ子KICH-120(97)お囃子方は一括記載。野趣に富む歌唱。
「きんにゃもにゃ」(島根)
♪きよが機織りゃキンニャモニャ あぜ竹へ竹
殿に来いとのキンニャモニャ 招き竹
きくらげチャカポンモテコイヨ
(キクラゲチャカポン モテコイヨ)
熊本市の花柳界の騒ぎ唄「きんにょむにょ」が、隠岐島の西郷に持ち込まれた。隠岐の祝いの座では欠かせない民謡である。“キクラゲチャカポン持って来いよ”の囃子言葉は「キクさんもチカさんも、みんな来いよ」の意味だという。
この唄を、嘉永五(1582)年生まれの杉山松太郎が唄ったという説が、土地の古老達の口伝えで残っている。
杉山松太郎は西南戦争に従軍。九州の「キンニョムニョ」を覚えて、故郷の菱浦へ持ち帰った。山高帽子をかぶり、ステッキをスナイドル銃に模して腰に構え、自作の「キンニャモニャ」を唄いながら、面白い格好でひょっこりひょっこり、おどけながら踊って満座を沸かしたという。
松太郎亡き後は、踊る姿も変わり、羽織を着て、キセルをふかしながら、パッチ姿で、こうもり傘を持って踊ったり、鍋のふた、しゃもじ、吸い物椀のふたを持ったりして、即興的に踊る。
なお、長野県上伊那郡長谷村に伝わる「キンニョンニョ」は「キクラカチャカポンまたおいで」と囃している。
§◎銭谷さだ子COCF-13289(96)三味線/谷尻恒太郎、毛利寿人、尺八/岡部笙山、近藤武、竪琴/池田正信、太鼓/尾崎和男。竪琴伴奏入り。粘り声で、素朴な老婆声が郷愁を呼ぶ。TFC-1206(99)三味線/森あさ子、太鼓/坂広三郎、囃子言葉/福浦くに子。○福浦くに子VDR-25204(89)三味線/森あさ子、吉田かつ子、太鼓/坂広三郎、囃子言葉/藤田千鶴子。○古賀速水KICH-120(97)お囃子方は一括記載。
「銭太鼓」⇒「さんこ節」(鳥取)
「しげさ節」(島根)
♪隠岐は絵の島 花の島 磯にゃ
波の花咲く 里にゃ 人情の花が咲く
(ハ ヤッショメヤッショメ)
旅の情けに ほだされて 島に
泊を重ねりゃ いつしか覚える しげさ節
(ハヤッショメヤッショメ)
隠岐を代表する民謡。リズム、旋律ともに、中国地方の民謡の中では屈指の佳曲。船乗りにとって寄港地での楽しみは、酒席でお国自慢の唄を披露しあうことであった。船が出た後も唄は島に置き土産として残り、島の人情にふさわしい文句に変えられて、やがて島の人々のものとなっていった。隠岐の民謡に、全国の唄のなごりがある所以だ。
「しげさ節」の古い形である“島前しゅげさ節”は、新潟県魚沼郡川西町仙田(十日町市)の“仙台しゅげさ”が、北前船によって隠岐に運ばれ、変化したものだという。柏崎の美男の出家を称賛した“出家(しゅげ)さん節”が「三階節」となり、文政十一(1828)年頃、江戸、京都、大阪あたりで流行した“やっしょめ節”が、新潟県下に持ち込まれて定着。曲名は元唄の“出家(しげ)さん、出家さんと声がする”という唄い出しの文句から取られて「しげさ節」となった。
新潟県の「三階節」と隠岐の「しげさ節」で節回しが異なるのは、大正の初め、西郷の朝日新聞の支局に勤める吉田竜男が中心となり、隠岐の観光用に改良したためである。平戸の「田助ハイヤ節」、長崎の「のんのこ節」のような皿踊りが付いている。
§◎福浦くに子COCF-13289(96)三味線/谷尻恒太郎、毛利寿人、尺八/岡部笙山、近藤武、竪琴/池田正信、太鼓/尾崎和男。島の女性らしさと素朴さが表現されていて、竪琴がエキゾチックな雰囲気を漂わせる。VZCG-137(97)三味線/森あさ子、吉田かつ子、太鼓/坂広三郎、囃子言葉/藤田千鶴子。囃子言葉は素朴で味わい深い。FGS-608(98)三味線/森アサ子、太鼓/波多総一。TFC-1208(99)三味線/森あさ子、太鼓/坂広三郎。KICH-2467(05)三味線/森あさ子、鳴り物/山田鶴助、囃子言葉/西田和枝、竹内まゆみ。囃子言葉が洗練されすぎている感がある。○佐々木しずえKICH-120(97)お囃子方CD一括記載。△地元歌手BY30-5018(85)演唱者名、お囃子方不記載。
「関の五本松」(島根)
♪ハァー関の五本松(ハ ドッコイショ)
一本切りゃ四本 あとは切られぬ夫婦松
ショコオ ショコホイノ マツホイ
ハァー関はよいとこ(ハ ドッコイショ)
朝日を受けて 大山おろしが そよそよと
ショコオ ショコホイノ マツホイ
島根半島の東端部に位置する八束郡美保関町(みほのせきちょう)(松江市)は、古くは北前船の西廻り航路の要港として栄え、今も町並みは古き良き時代の香りを残している。
かつて美保関漁港西の丘陵に、樹齢三百年という五本の松があった。港に出入りする漁船や、日本海を行き交う船の目印であった。そこは美保関と松江を結ぶ松江街道が通っていて、あるとき松江藩主は街道沿いに並ぶ五本松の一本を、眺望の邪魔になるとの理由から伐れとを命じた。この命令を悲しんだ人たちが、あとの四本は何とかして残したいという気持ちを込めて唄ったという。
曲は“ショコバのお井戸”とか“りきや節”と呼ばれる土手踏みの“地固め唄”がお座敷唄化したものだ。地固め唄は大阪から香川にかけて広く分布している。唄の文句の中には、仕事唄らしく卑猥なものもあった。ショコホイ、マツホイは“しに来い、待ってる”の意味だとの説もある。
現在、関の五本松は台風や松食い虫の被害を受け、初代、二代とも枯れてしまったが、二代目の種で自生した松が三代目に代替わりしている。
§○黒田幸子COCJ-30339(99)名調子黒田節。三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若。COCF-9312(91)三味線/黒田清子、尺八/渡辺輝憧、太鼓/黒田力、鉦/美波駒世、囃子言葉/黒田幸若。○三代目出雲愛之助FGS-608(98)三味線/名人二代目安達順吉、準名人野坂亮利、太鼓/出雲正之助。△高山保子COCF-13289(96)三味線/二代目富田徳之助、太鼓/疋田浅次郎。お婆さんの迫力ある歌唱。
「津和野音頭」(島根)
♪渡る大橋 春雨晴れて 萌る柳の緑は煙り
仰ぐ石垣 三本松の 城におぼろの
ソレ 月が出る 月が出る
鈬川兼光作詞、佐藤春夫校閲、加藤三雄作曲の新民謡。
山陰の小京都と呼ばれる鹿足郡(かのあしぐん)津和野町(つわのちょう)は県南西部にあり、可憐な花と高雅な風情を持つ“つわぶきが群生する野”からその名が起こった。森鴎外(1862-192
2)、西周(にしあまね)(1829-1897)の生誕地で知られている。
町の中心部には白壁と格子窓の残る武家屋敷跡があり、水量豊かな掘割には色とりどりの鯉が群れ遊んでいる。この殿町一帯の町割りの骨格は約四百年前、千姫を大阪城から救出した坂崎出羽守が造ったといわれ、その後、十一代にわたって津和野の町を治めた亀井氏が、本格的な城下町を完成させた。
§○鹿島久美子VDR-25204(89)小沢直与志編曲。上品な歌唱。
「どっさり節」(島根)
♪大山お山から 隠岐の国見れば
島が四島に 大満寺 サーノーエー
中のコレワイドウジャナー 小島にナー
チョイト長者ある サーノーエー
元唄的な唄の文句に“お客望みなら出してみましょう、当世はやりの広大寺を”とあり、越後の「新保広大寺」と同系の唄である。
新保広大寺は、新潟県中魚沼郡下条村新保(十日町市)にある禅寺。その広大寺の十四世・白岩亮瑞和尚を追い出すために、農民たちが唄い囃したザレ唄だ。この唄を越後の瞽女(ごぜ)や座頭が好んで唄い歩き、次第に広く唄われるようになった。江戸では天明(1781-1788)の頃、大流行する。神楽師なども神楽の幕間に、新保広大寺の手踊りなどを演じるようになり、いつしかこれが中国方面にも伝播。元は七七七五調の二十六字だったが、囃子言葉を挿入し、複雑な返しを付けて「どっさり節」が生まれた。
隠岐なまりが強く、美しい唄でありながら、隠岐以外の人には唄いこなせない難曲である。青森県の「津軽じょんから節」も「新保(しんぽ)広大寺(こうだいじ)」から生み出された唄だが、隠岐と津軽の土地柄の違いで、これほど違った唄になってしまうところが面白い。
知夫里(ちぶり)島(じま)には「どっさり節」にまつわる“お松”の悲恋物語が語り継がれている。昔、島の中央部、隠岐郡知夫村(ちぶむら)仁夫(にぶ)の漁師の家に、お松という娘がいた。お松は、島に錨を下ろした越後生まれの若い船乗りと恋に落ちる。その若者は、お松に甘い美声で追分節をよく唄って聴かせた。やがて船出の時が来て若者は去り、再びお松のもとへは帰って来なかった。お松は、いつまで待っても帰らない男を偲びつつ、聴き覚えた追分節を口ずさんでいた。節回しは、若者のものとはずい分違っていたが、島の人々にそれを指摘されると、お松は「どっさりくっさり似ています」と言って寂しそうに笑うだけであったという。「どっさりくっさり」は隠岐の方言で「どうにかこうにか」という意味だ。お松の唄は不思議と人々の心を打ち、いつしか隠岐の「どっさり節」となった。今、渡津(わたす)の入江にある島津島の磯(そ)馴(な)れの松に囲まれて、お松の碑が立っている。昭和三十五(1960)年十一月に建立されたものだ。
§○福浦くに子VDR-25204(89)三味線/森あさ子、吉田かつ子、太鼓/坂広三郎。野趣、素朴。△白田雅志APCJ-5043(94)お囃子方CD一括記載。△石橋レイ子KIC
H-120(97)お囃子方CD一括記載。
「白島(しらしま)音頭(おんど)」(島根)
♪ハ ドッコイ コラサノ ドッコイショ
粋な白島 エーいなせな姿
(ハ スッチョイ スッチョイ スッチョイナー)
いつも絵になる サー唄になる
(ハ ドッコイコラサノ ドッコイショ)
近藤武が作曲。白島の風光を唄う。隠岐諸島で一番大きな島・島後(どうご)の北に、松島、沖ノ島、白島(しらしま)などの島が散在する。西郷町(さいごうちょう)(隠岐の島町)の白島は、全島が白色の石英(せきえい)粗面岩(そめんがん)からできていることからその名がある。島前を代表する海岸が国賀(くにが)海岸(かいがん)なら、島後を代表するのが白島海岸。島の北側に突き出た白島崎と、沖ノ島、白島、松島、小白島などの島々を総称して白島海岸と呼ぶ。白島崎は、高さ50〜200mの断崖が続く海岸美が自慢で、国の名勝・天然記念物に指定され、沖に浮かぶ沖ノ島は、天然記念物オオミズナギドリの貴重な繁殖地である。
§○高梨安子KICH-120(97)お囃子方は一括記載。
「浜田節」(島根)
♪浜田エー 浜田港から 向こうを見れば
大豆畑が サーマ百万町
浜田エー 浜田育ちは 気立てが違う
烈女お初が サーマ出たところ
浜田は北前船の寄港地だ。米や和紙、干鰯(ほしか)などの特産品を大阪へ輸送する積み出し港として栄えた。大正十(1921)年頃、浜田町あげての護岸築港運動が興った。その一環として築港促進歌の募集が行われる。錦町の長唄三味線の師匠・谷キチ(1858-1935)は港の騒ぎ唄「ハイヤ節」をもとにして曲を作る。曲節は三原やっさ節と同じである。当初は築港節、漁港節と呼ばれていたが、昭和二十七(1952)年、保存会結成の折「浜田節」と改められ現在に至っている。浜田港の発展とともに郷土に根付き、親しまれてきた。
唄の文句に登場する浜田育ちの“烈女(れつじょ)お初”は歌舞伎や浄瑠璃で有名だ。享保九(1724)年四月、江戸の浜田藩邸で大事件が起きる。浜田藩六代藩主・松平康(やす)豊(とよ)の奥方お付のお局・落合(おちあい)沢野(さわの)が中老格の道女をいじめたおして自害させる。道女は奥方から寵愛され、奥女中達からも慕われる心優しい女性であった。道女の女中・松田察(まつださつ)は浜田育ちで体格もよく、色浅黒き武芸に秀でた女丈夫であった。察は直ちに主人の仇討ちを決意。見事、沢野を自害の懐剣で討つ。察は取調べを受けたが、女ながらも主人の仇を討った忠節を称えられる。晩年は浜田に戻り、七十一歳の天寿を全うしたという。
天明二(1728)年、劇作家・容(よう)楊(よう)黛(たい)が脚色。沢野を岩藤(いわふじ)、道女を尾上(おのえ)、察をお初(はつ)として浄瑠璃「加賀見山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)」を作りあげ、歌舞伎にも取り上げられて評判を呼んだ。
§◎岩竹節子COCF-13289(96)三味線/滝本ヨシ子、平野良子、太鼓/池岡エイ子、鉦/清水まゆみ。声が細い。太棹と大太鼓が効果を上げている。岩竹(1933-1999)は出雲市御幸町出身。子供の頃から唄自慢で、家事を手伝いながら、いつも「浜田節」を口ずさんでいた。TFC1202(99)三味線/滝本ヨシコ、平野広子、太鼓/岩本幸子。△松江徹VDR-25204(89)尺八/米谷威和男、三味線/藤本社中他。
「安来(やすぎ)節(ぶし)」(島根)
<どじょう掬い>
♪親爺(おやじ)どこ行く 腰に篭(かご)下げて
前の小川に 泥鰌(どじょう)とりに
♪(ハイキタサー)
安来千軒(ハイキタサー)
名の出たところ(アラキタサー)
社日桜に 十(と)神山(かみやま)(アラキタサー)
天然の良港である安来港は北前船で大いに賑った。諸国を巡る船頭たちは、酒席で「佐渡おけさ」や「追分節」などを唄い合い、大いに盛り上がっていた。安来の美声芸妓・おさんは、こうした民謡を元にして、節回しも面白い独自の「さんこ節」を唄っていた。これが「安来節」の元唄となる。音曲をよくした安来の鍼灸医(しんきゅうい)・大塚順仙が、天保から嘉永(1830-1853)の頃「安来節」の原型を作り、今市屋伝来が伴奏を整えたという。
明治の初期、完成の域にあった「安来節」は出雲地方で大流行。今も毎年八月十四日から十七日まで行われる「月の輪まつり」では、幾百組の男女が編笠、頬かぶりで身ぶりも面白く、夜を徹して全町内を練り歩いたという。
明治の中頃、安来の料理屋の主人・渡辺佐兵衛と娘のお糸(1875-1954)が上品で洗練された形に改良。明治四十二(1909)年、横山大観(1868-1958)がこの唄を聴いて惚れ込み、保存と普及を勧めた。
同四十四(1911)年「正調安来節保存会」が創設。初代会長の福島豊市ら安来の名士たちの尽力で、正調の復元保存が進んだ。大正五(1916)年、東京蓄音機の鷲印レコードがお糸の「安来節」を吹込み、全国に知られるようになる。大阪の吉本興業の林正之助(1899-1991)が、道頓堀で安来節興行を打って大成功を収めると、東京の浅草にも専門館が誕生。米子の森山興業部は、お糸と富田徳之助の一座を組織して、全国各地はもとより朝鮮・台湾・満州までも巡業して「安来節」の黄金時代を築く。
渡部お糸は昭和二十九(1954)年、七十九歳で他界するまで後進の指導にあたり、没後三十五年の平成元(1989)年、安来市の名誉市民となった。現在は四代目がお糸の名を継ぎ、平成十三(2001)年四月には日米親善公演のために渡米。ニューヨークのカーネギーホールで正調「安来節」を唄い上げて気を吐いた。
「安来節」と共に生きてきたのが「アラエッサッサー」の掛け声とともに始まる「泥鰌(どじょう)すくい」である。この踊りは、江戸時代末期、安来近郷の若者たちが、近くの川で捕ってきた泥鰌を肴にしての酒盛りで、泥鰌獲りの仕草を唄に合わせ即興的に踊ったのが始まりである。奥出雲のたたら製鉄の原料となる砂鉄を採る姿をまねたものとの説もあるが、泥鰌すくいは安来節のリズムとよく合う。安来節のあるところ泥鰌すくいの踊りがあり、安来節の発展と共に大衆の中に浸透していった。
踊りは本来上品なユーモアに包まれた踊りである。鼻に銭をあててユーモラスな顔にするのは、権力者によって理不尽に鼻削ぎの刑にされたことに対する民衆のひそかな抵抗であるともいう。
明治から大正にかけて、安来節の大きな飛躍と共に泥鰌すくいもさらに改良と工夫がなされ、踊りも男踊りと女踊りに分けられた。女踊りは大正五(1916)六年頃、安来検番の師匠で西川流の小川静子が振り付けたという。
§◎二代目渡部お糸COCF-12698(95)「正調安来節」鼓/二岡清三郎、絃/富田令寿。◎三代目出雲愛之助FGS-608(98)三味線/名人二代目安達順吉、準名人野坂亮利、太鼓/出雲正之助。KICH-2467(05)早調の泥鰌すくい。三味線/安達順吉、野坂亮利、鳴り物/出雲友武、出雲和子、囃子言葉/出雲巨代、出雲和子。甲高い声。早調の男踊りの後、合いの手が入り、遅調の女踊りが始まる。甲高い声に野趣を感じさせる。◎黒田幸子TFC-1204(99)三味線/黒田清子、藤本秀夫、尺八/渡辺輝憧、太鼓/黒田すみ子、小鼓/森下とし子。COCJ-32320(03)三味線/黒田清子、高田松枝、尺八/渡辺輝憧、太鼓/美波三駒、囃子言葉/白瀬春子、黒田幸若。声質が二代目渡辺お糸に似ている。独特の粘り声に強い説得力がある。伴奏陣も控えめな演奏で唄を支えている。△地元歌手BY30-5018(85)お婆さんの美声にスピード感があり、泥臭さもよい。どじょう掬い付き。
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