♪二条(にじょう)行(あん)殿(でん) 大納言(だいなごん) 資(すけ)賢(かた)公(こう)の姫君は
いつぞや三井寺(みいでら) 御室(おむろ)の御所
月の宴(うたげ)の ありしその時に
敦(あつ)盛(もり)卿(きょう)は 笛の役 その姫君は琴の役
琴を弾ずる御姿(おんすがた) 一目御覧じ敦盛卿
深き思いが 恋となり……
県北東部の庄原地方に伝わっている。中国地方に広く分布する口説き形式の盆踊り唄と同系統のもの。正月になるとやってくる門付けの旅芸人たちが唄っていた。永江の里(庄原市)に隠れ住む平(たいら)敦(のあつ)盛(もり)(1169-1184)の妻が敦盛を想いつつ、平家再興を待ちわびる様子を唄っている。
平敦盛は平清盛(1118-1181)の異母弟・経(つね)盛(もり)(1125-1185)の子。兄に経正、経俊がいる。五位の身分で官職がなかったため、無官の大夫と呼ばれていた。父の経盛は笛の名手として知られ、長男の経正は琵琶の名手であった。敦盛も笛に巧みで、祖父の忠盛が鳥羽院から拝領した“小枝の笛”を父から譲り受けていた。敦盛の妻は玉織姫、清照姫、玉琴姫などと呼ばれ、古浄瑠璃の小敦盛では、二条大納言按察使(あぜち)資(すけ)賢(かた)の娘としている。源資(みなもとのすけ)賢(かた)(1113-1188)は宮廷楽師の名門の生まれで、後白河院の今様(いまよう)の師だ。
『平家物語』巻九に敦(あつ)盛(もり)の最期の様子が述べられている。時に敦盛、弱冠十六歳。一ノ谷の合戦で、源範頼(のりより)と義経の攻撃を受けて総崩れとなった平家軍は、我先に船に乗り込み沖へ逃げた。敦盛も船に向かって馬を進めていたが、源氏の熊谷(くまがい)次郎(じろう)直(なお)実(ざね)(1141-1207)に呼び返されて一騎打ちとなる。直実が、組み敷いた敦盛の首を取らんと兜(かぶと)を取れば、女と見まがう我が子ほどの若武者であった。直実は敦盛を逃がそうとするが、味方武者たちが近づいてきたため、泣く泣く敦盛の首を取る。懐(ふところ)には一管の見事な笛があった。
世阿弥(ぜあみ)はこの笛を“青葉”と命名。笛は神戸市須磨区にある須磨寺(すまでら)に保存されている。この後、熊谷直実は世の無常を感じ、京都大原の法(ほう)然(ねん)を訪ねて出家。弟子となって蓮生(れんしょう)と名乗った。
§○佐藤松子TFC-1205(99)上野正雄編曲。三味線/藤本e丈、藤本喜世美。渋い歌唱。粘りある発声。上野の編曲は爽快感に乏しく、曲の持つ味わいを引き出せていない。管弦楽伴奏。
「音戸の舟唄」(広島)
♪イヤーレーノ 船頭可愛や 音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺のヤーレノー 櫓がしわるヨー(ハァ ドッコイサッサト)
イヤーレーノ 泣いてくれるな 出船の時はヨー
沖で櫓櫂のヤーレーノ 手が渋るヨー(ハァ ドッコイサッサト)
中国地方の船頭唄はほとんどが同系統。舟唄としてだけでなく農作業にも唄われている。哀調を帯びた音戸の船唄は高山訓(のり)昌(まさ)(1919-?)の努力によって多くの人々に知られるようになった。
“一丈五尺の櫓がしなる”と唄われた音戸の瀬戸は呉市警固屋(けごや)と、倉橋島の音戸町に挟まれた細い海峡である。干潮時には陸続きになるほどの浅さだが、潮の流れが速く、瀬戸内の難所の一つであった。音戸はかつては御塔(おんとう)、穏渡ともいい、瀬戸内海の要港であった。倉橋島では古くから遣唐使(けんとうし)、百済(くだら)使の船が造られていた。現在では漁業中心の島となっている。
永万元(1165)年、平清盛は福原の大輪(おおわ)田(だの)泊(とまり)(兵庫港)から厳島神社に至る海路の確保のために音戸の瀬戸の開削を命じた。清盛は人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈め、難工事を完成したという。現在の音戸の瀬戸は長さ約650m、幅85m、深さ5m。昭和になってから開削したもの。
真紅に塗られた音戸大橋(全長172m)は、昭和三十六(1961)年に架けられた。同四十二(1967)年七月、警固屋にある音戸の瀬戸公園の高烏(たかがらす)台(だい)に、開削八百年を記念して平清盛日招像が建てられている。清盛が西海に沈もうとする夕日を金扇で招き返し、工事の進捗を図ったという伝説に基づくものだ。立(たち)烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)姿の銅像は、日没の方向に扇を開いて立ち、海洋交通の安全を見守っている。倉橋島側、音戸大橋東側の海中にある岩礁の上には清盛の供養塔がある。その宝篋印塔(ほうきょういんとう)は寿永三(1184)年に建立されたという。
音戸の瀬戸と平清盛との深い縁は、音戸町に伝わる清盛祭からも知られる。瀬戸開削後、清盛の遺徳を偲んで始まったと言われている念仏踊りは、天保十一(1840)年頃には行列による清盛祭となる。瀬戸の開削で恩恵を受けた漁業関係者が中心となって、坪井、引地(ひきじ)、鰯浜の各地区が伝承した。戦後しばらく途絶えていたが、各地区の清盛祭を統一して平成三(1991)年に復活。以後五年に一度、旧暦三月三日に音戸町の清盛祭と姿を変え、今日に至っている。
§◎高山訓昌COCF-13289(96)品のない演唱だが、技巧をこらさないところから生まれる味は申し分ない。尺八/安芸鯉遊、効果/藤岡護、花本方美。擬音と掛声が面白いKICH-2023(91)TFC-1206(99)。合いの手/中川安弘、擬音/花本方美、下垣内清。高山は大正八(1919)年、呉市出身。幼い頃に父を亡くし、母の実家がある音戸に移り住む。櫓を操りながら、波音と共に祖父が唄う舟唄を聴きながら育ったという。昭和三十六(1961)年、NHKの「民謡をたずねて」に出演してから、高山の舟唄が注目されるようになった。○初代浜田喜一VZCG-137(97)味わいと節回しが魅力の浜田節。尺八/斉藤参勇、松崎忠夫、掛声/鈴木清城。○佃一男FGS-6
08(98)尺八/陰山空山、掛け声/箕越武雄。船頭らしい歌唱が好感。△藤堂輝明CO
CJ-3039(99)尺八/渡辺輝憧。持ち味の軽い歌唱で、若い船頭の雰囲気がうまく出ている。
「西条酒造り唄」(広島)
♪ヤレ酒のヨー 神様(ア ドッコイサノセー)松尾の神はヨー
ヤレ造りヨー まします(ハ ドッコイ五万石)
ヤレ亀がヨー お庭で(ア ドッコイサノセー)何とゆうて遊ぶヨー
ヤレ西条酒ヨー ご繁昌と(ハ ドッコイゆうて遊ぶ)
酒造りは作業工程ごとに唄があって、熟練の杜氏は唄で時間を計った。西条(東広島市)では、灘にない独特の醸造法によって酒造りがなされている。四季を通じて高原特有の澄み切った大気におおわれ、冬は厳しく冷え込み、夏は涼しい。西条の水は兵庫県の灘が硬水であるのに対して中硬水である。
西条盆地は広島を代表する穀倉地帯だ。日本酒の醸造に適した「八(はっ)反(たん)」「雄(お)町(まち)」「山田(やまだ)錦(にしき)」といった最高級の酒米を産出する。この米と水が横山大観(たいかん)、棟方(むなかた)志(し)功(こう)など、多くの文人(ぶんじん)墨客(ぼっきゃく)に愛された安芸の銘酒を生み出したのであった。
§○梅津栄「しこみ二番櫂」VICG-2040(90)三味線/藤本秀一、藤本秀一華、尺八/下谷博康、太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬那る駒、囃子言葉/荒田尚美、森山奈保美。悠揚(ゆうよう)迫(せま)らず、力強い声で唄う。○西本良治「広島酒造り唄」COCF-13289(96)尺八/安芸鯉遊、囃子言葉/末吉正敏、竹田陪之。作業唄らしい渋さがあり、一管の尺八が野趣を醸している。○鎌田英一CRCM-4OO41(95)三味線/藤本博久、藤本秀禎、尺八/米谷龍男、米谷智、鳴り物/美波駒三朗、美鵬那る駒、囃子言葉/鎌田会。仕事唄らしい雰囲気をうまく出している。
「西条酒造り酛(もと)摺り唄」(広島)
♪ハァーめでた ヨーホイヨーホイ
めでたがナー ヨーホイ(ハァ ヨイヤナーヨイヤナー)
三つかさヤレなりてヨーホイ
ハァー末は ヨーホイ鶴亀ノーヨーホイ
(鶴亀ノーヨーホイ)
ヤレ五葉の松(ヤレサノセー ションガーエー)
JR山陽本線西条駅の南側は、線路と平行して東西に延びる西国街道(旧山陽道)である。そこは酒蔵(さかぐら)通(どお)りと呼ばれ、なまこ壁、鎧(よろい)格子(ごうし)、赤(あか)瓦(がわら)の幾つもの酒蔵が立ち並ぶ。西条に冷気が満ちて酒造りの季節になると、朝早くから仕込みが行なわれ、あちこちの酒蔵からは米を蒸す真っ白な蒸気が立ち上り、酒造りの唄が響いてくる。
§○鎌田英一CRCM-40005(90)福田正編曲。好編曲。気分よく唄っている。囃子言葉/鎌田会。管弦楽伴奏。
「鞆(とも)の大漁節」(広島)
♪備後サーヨーエ 鞆の津はその名も高い
(ハァー ヨイショ ヨイショ)
踊る銀鱗コリャ 網戻しヨーイトナー
(エーイホ エーイホ ヨイトマカセノ エーコリャ大漁大漁)
鞆は潮待ち、風待ちの港として栄えた。東は紀伊水道から西は豊後(ぶんご)水道(すいどう)から流れる潮がぶつかり合い、東西からやってきた船は次の潮に変わるまで港に入って待った。
鞆の浦の鯛網(たいあみ)漁(りょう)は旧暦の三月上旬から行われる。外洋の深海で冬を過ごした桜(さくら)鯛(だい)は、豊後水道、紀伊水道を抜け、瀬戸内の中央部、燧灘(ひうちなだ)一帯へ産卵のために集まってくる。仙酔(せんすい)島(じま)の浜辺から船団を組んで桜鯛の群を追い、文字通りこれを一網打尽(いちもうだじん)にする漁法が採(と)られた。かつて鯛漁に従事する船団が瀬戸内海の各地にいくつかあった。大漁になると親方から酒が出て、祝宴では大漁節が唄われる。瀬戸内海の鯛漁に従事する地域に共通する唄だ。唄の発祥地は不明。
鯛は乱獲(らんかく)がたたって姿を消す。一網千両といわれた時代は昔日のこととなり、唄も忘れられた。鞆の港がある福山市は山陽本線のほぼ中央に位置し、人口は約三十八万人で広島市に次ぐ。鞆の海は万葉歌人の大伴(おおとも)旅人(のたびと)が歌に詠み、宮城(みやぎ)道雄(みちお)(1894-1956)は「春の海」の構想をここから得た。鞆では鯛網漁と唄を観光用に残し、毎年五月に行われる観光鯛網は、三百七十年前から伝わる勇壮な伝統漁法を再現している。太鼓の音と共に大漁節が歌われ、乙姫(おとひめ)に扮した女性が大漁祈願を舞う。弁天島で大漁祈願の後、叶(かのう)大漁(たいりょう)の幟(のぼり)を立てた鯛網船団が沖合いを目指して出漁。指揮船からの合図で、親船が左右に分かれながら長さ1500m、幅100mの網を海中深く下ろしていく。網は掛け声勇ましく、力を合わせて巻き上げられ、徐々にしぼられて行く。網の中では鯛が跳(と)びはねる。
§○鎌田英一CRCM-4OO05(90)福田正編曲。囃子言葉/鎌田会。勇壮な鯛網漁の雰囲気を出し、うまく唄っている。○林竹嘉則COCF-13289(96)三味線/藤本秀喜久、藤本秀喜千、藤本秀喜紗、笛/安芸鯉遊、太鼓/竹田陪之、囃子言葉/末吉正敏、中本光樹。野趣はあるが爽快感は薄い。録音もよくない。
「袴踊(はかまおど)り」(広島)
♪安芸の宮島 まわれば七里
浦は七浦 七えびす
みぞれ降る降る 因幡(いなば)の浜で
白い兎が 跳んでいる
広島の芸妓が両手に燗(かん)徳利(どっくり)の袴(はかま)を持ち、馬のひずめがわりにパカパカ鳴らして唄い踊る。長野県の追分宿で生まれた「馬方三下り」が元唄(追分節)である。
宮島のものは市内の節回しとは少し異なり、松前節や江差追分の節回しが混(ま)じっている。近年では、袴の代わりに杓子(しゃくし)を持って踊っている。宮島では飯をよそう杓文字(しゃもじ)を杓子と呼ぶ。
宮島杓子は寛政の頃(1789-1800)、宮島光明院の修行僧・誓真が作り、島民に教えたのが始まりで、形は弁財天(べんざいてん)が持つ琵琶(びわ)に似せ、朴(ほお)の木などが使われる。表参道の商店街に、長さ7.7m、最大幅2.7m、重さ2.5dの大杓子が、厳(いつく)島(しま)神社(じんじゃ)の世界遺産に登録されたことを機に展示された。
宮島は周囲が約30q。島を右手に見ながら船で一周し、七浦七恵比寿を巡る“お島巡り”の祭礼は、厳島神社に祀られている三柱の姫神が鎮座(ちんざ)の場所を探して宮島の浦々を巡幸したという伝説に由来する。
七浦は島を囲む杉乃浦、鷹巣(たかのす)浦、腰細(こしぼそ)浦、青海苔(あおのり)浦、山(やま)白浜(しろはま)、須屋浦、御床(みとこ)浦で、それぞれの浦にある神社の祭神が七恵比寿と呼ばれる。早朝、神職が乗った御師船が厳島神社前の御笠の浜から出航。最後は網之浦から上陸して大元神社に参拝。厳島神社で御神酒をいただいて御島巡りは終了する。二月から十一月まで、この儀式は随時行われている。
§○高塚利子APCJ-5043(94)お囃子方は一括記載。杓子を打ち合わす音入り。
「広島木遣り音頭」(広島)
♪イーヤーハァー めでためでたが三つ重なりて
ヤレ庭にゃ鶴亀 五葉の松
ソリャ ヤートコセー ヨーイヤナーア
アレワイセー コレワイセー サーナンデモセー
古くから広島に伝わる木遣り唄を参考にして藤本e(ひで)丈(お)(1923-2006)が作曲。藤本は昭和二十六(1951)七年ごろから、広島の検番に三味線の稽古にきていた。広島に民謡が少ないこともあり、賑やかな感じの民謡を作って欲しいとの依頼を受ける。この曲が藤本の作曲であるかどうか、疑われたこともあったが、日本音楽著作権協会の調査で、同四十五(1970)年、藤本の作曲として確定。
藤本は、同四十(1965)年、秀夫からe丈に改名。藤本の作曲は三味線の旋法でなされているために、音から音への移動に独自の風合いがある。
藤本は俗曲、端唄、小唄、民謡と三味線を弾き分ける名手。町田佳聲(まちだかしょう)(1888-1981)が三味線音楽を考察したレコードでその技を聴くことができる。日本民謡歌謡学院を主宰。著書に「みすじひとすじ」(1988)がある。
§◎初代藤田周次郎CF-3661(89)渋い味わいがあり、竪琴(たてごと)の伴奏が厳(おごそ)かな雰囲気を醸(かも)している。お囃子方不記載。○大塚文雄KICH-2467(05)三味線/藤本e丈、秀三、直秀、笛・米谷市郎、鳴り物/山田鶴助、鶴志、囃子言葉/志村春美、木村康子、矢口みち子。声に強弱があり、苦しそうな息使いは歌詞の明晰さを欠く。民謡は声ではなく言葉が大事だ。大塚(1940-)は山形県河北町から上京、働きながら民謡歌手を目指す。昭和三十四(1959)年、初代鈴木正夫(1900-1961)が主宰する民謡会に入門。同三十六(1961)年、日本民謡協会全国大会で「新相馬節」を唄って優勝した。
「広島木挽き唄」(広島)
♪さぁさ皆さんよ(ヨーイヤショ)ハァこの木はのヨーイヤショ)
ハァ奥山の(ヨーイヤショ)ハァ大木が(ヨーイヤショ)
ハァのえり出た(ヨーイヤショ)
ヤーレ朝間とうから ヨーイ奥山小屋で
とっつぁん譲りのヨイ木挽き唄
ハァ シャリンコパッサリ
木挽き唄は全国いたるところにあり、曲調は同じようなものが多い。
木挽が使う鋸(のこぎり)は古代から鎌倉、南北朝時代まで直角に挽く横挽き鋸が全盛であった。板材は、楔(くさび)や鏨(たがね)で木目に沿って割り裂いて作り、板の表面は槍(やり)鉋(がんな)や手斧(ちょうな)で仕上げていた。中世後期に現れた縦挽き鋸の大鋸(おが)と台(だい)鉋(がんな)は、その後の木工技術を飛躍的に発展させる。大鋸の使用によって天井板や壁面板などの大量供給が可能となり、台鉋は大鋸で挽かれた板材の仕上げに力を発揮した。
近世の建築様式は武家屋敷の書院造りや、茶室建築に影響を受けた数奇屋(すきや)造(づく)りが一般的であった。大店(おおだな)や地方の豪農、造酒屋の裏手に大きく立派な住まいが造られていった。この頃の木挽きは、間取りの決定から材木選びまでかかわり、家(いえ)普請(ぶしん)に重要な役割を担っていたのである。
明治以降、木材の代替物が台頭したことで、木挽きは銘木(めいぼく)専門、船材専門、桧(ひのき)専門、内装の化粧材専門というように分業化した。
さらに戦後、精度の高い製材木の登場で、木挽きの手に掛かる材木が少なくなり、船材も木から鉄やガラス樹脂へと代わって、木挽きは減少の一途を辿(たど)る。今では外国輸入材が増加し、木挽きの手を必要とするのは大径木や、天井、床の間、廊下などに使われる特殊な高級銘木材に限られてきた。こうした流れの中で、樹種を選ばず木材を最大有効に挽き上げる技と、樹木について精通した知識を持つ木挽き職は、全国でも数えるほどとなってしまった。
§○成世昌平CRCM-4OO23(94)(木出し唄入り)尺八/室多秀風、掛声/本條秀彦、高松敏明。成世(1951-)は三次(みよし)市(し)出身。野趣に乏しい繊細な歌唱。
「広島酒造り唄」⇒「西条酒造り唄」
「広島節」(広島)
♪別れ悲しむ 障子の内を
憎や雀が 朝機嫌
安芸の広島 七つの川に
流す小唄の 屋形船
藤本e丈作曲の新民謡。広島市には猿猴(えんこう)川(がわ)、京橋川、元安川(もとやすがわ)、太田川(本川)、天(てん)満川(まがわ)、福島川、山手川の七つの川が流れている。その川を詠(よ)んだ三行詩が残されていた。題名もないものだったが、藤本がそれに曲を付けて「広島節」と命名。現在は福島川と山手川が改修され、放水路が完成したために、川は六つとなっている。
§○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、藤本博久、笛/米谷威和男、鳴り物/美波駒三郎、美波成る駒。味のある渋い声。加齢のせいか高音部が苦しい。
「福山とんど」(広島)
♪とんど とんどと
吉津のとんど(ハ ヨーイヨーイ)
上は鶴亀 チョイト五葉の松
(ハー ヨーイヨーイ ヨーイヤナ
アラリャー コラリャー ハア ヤーハトエー)
“とんど”は“どんど”ともいう。宮中で、魔払いの儀式として伝わっていた左(さ)義(ぎ)長(ちょう)(三毬打(さぎちょう))行事が民間に伝わった。宮中では一月十五日と十八日に行う。青竹を束ねて立て、毬(まり)を打つ長柄の槌(つち)である毬打(ぎっちょう)を三個結び、それに扇子、短冊、吉書などを添えて焼いた。吉書とは吉日を選んで奏聞する政治上の文書のことである。
民間では、一年の初めの満月の夜(小正月)、正月の注連飾(しめかざ)りを集めて焼き払い、一年の無事(ぶじ)息災(そくさい)を祈る祭事になった。
元和八(1622)年秋、水野(みずの)勝(かつ)成(なり)(1564-1651)は、芦田川が形成した三角州に福山城を築城する。現在の市街地の中心部は、かつては葦(よし)の茂る干潟であった。勝成はこれを干拓して城下町として整備した。とんど祭りは、領民たちが城の完成を祝ってとんどを作り、それを担いで城主の御覧に供したことに始まる。以後、一月四日の朝は、城下の各町から四方に長い竹を立てて先端を結び、その頂に飾りを付けたとんどを担いで東堀端に整列。市中を担ぎ回った後、三吉町板橋の東で、とんどを焼いた。
勝成は東堀端に集結したとんどを見て、吉津町の鶴亀、上魚屋町の懸(かけ)鯛(だい)、下魚屋町の伊勢えび、笠岡町の諌(かん)鼓(こ)鶏(どり)、船町の宝船を特に褒めたたえた。その後、この五町は毎年同じ飾りを作って伝統とした。現在では福山市のとんどは中断され、一部地域で細々と行われるのみである。
瀬戸内海に突き出た半島の町・福山市沼隈町(ぬまくまちょう)の無形民俗文化財「能登(のと)原(はら)とんど」は、毎年一月の第二日曜日に行われている。竹や藁(わら)、松などで組み上げられ、紅白の花や紙の帯で飾られた巨大なとんどが“そりゃとんどじゃよい”という掛け声と、とんどの中で子供が打ち鳴らす太鼓に合わせて勢い良く回される。沼隈町と福山市の合併によって、とんど復活への機運が盛り上がることを期待したい。
§○中本光樹COCF-13289(96)三味線/藤本秀喜久、藤本秀喜紗、尺八/安芸鯉遊、太鼓/小野キミコ、鉦/西本良治、囃子言葉/谷本英子、大畑律子。
「三原やっさ節」(広島)
♪見たか 聞いたか エーエ(ハ ヤッサヤッサ)
見たか 聞いたか 三原の城は
(アーアラ ヨイヨイヨイヤナー ヨイヤナー)
地から生えたか サーマヨ(ハ ヤッサヤッサ)ハ浮き城かヨー
(ヤッサ ヤッサ ヤッサモッチャ ソッチャセー)
城下町三原の盆踊り唄。徳島県には「三原やっさ」と同系統の「阿波踊り」が伝わっている。三原やっさと阿波踊りは唄の部分だけが異なり、踊りも伴奏もよく似ていて、共に九州の「ハイヤ節」が変化したものだ。
永禄十(1567)年、毛利元就の三男・小早川隆景は、沼田川口、三原湾内に浮かぶ小島と陸を繋ぎ、そこに海城を築いて水運交通と防衛の要とした。城は満潮時、海に浮んだように見え、浮城と呼ばれた。築城には阿波の蜂須賀家から土木人足の手を借りた。やっさ踊りは三原城の築城を祝い、老若男女が三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って唄い踊ったのが始まりだ。それ以来、祝い事は“やっさ”に始まり“やっさ”に終わる習わしとなった。
歌詞も時代と共に変わり、近郷の地唄や流行唄などの影響を受け、踊りも型にとらわれず、賑やかなお囃子をとり入れて踊るようになった。囃子言葉が“やっさやっさやっさもっちゃそっちゃせ”と掛けられるところから、いつしかこの踊りをやっさ踊りと呼ぶようになる。「そっちゃせ」は「尊重せい、尊重しなさい」の意味だ。やっさ踊りの基本は笑顔にある。
昭和四(1929)年八月、秩父宮ご夫妻が県下を訪たのを記念してNHKが歓迎番組を放送。この中に地元の奥迫鉄治が唄う「三原やっさ」があった。
毎年八月に行われている三原やっさ祭りには、二十数万人の人出があり、晴れやかな笑顔いっぱいに、三味線、鉦、太鼓、笛、四つ竹などの賑やかなお囃子と唄に合わせ、各人が自由奔放に踊り歩く。三原の名城は、JR山陽本線が城の本丸を貫くという乱暴な工事のために、今では天主台とそれをめぐる濠と、五番櫓、船入り跡が残るのみとなっている。
§◎奥迫鉄治COCJ-30339(99)規範的演唱であるが、品格に欠け、声量の乏しい素人爺さんの唄。三味線/内藤かず子、竹本艶子、笛/田中良一、太鼓/吉本末男、囃子言葉/佐藤松重、網師本律子。○野上滋子KICH-2022(91)三味線/藤本喜紫花、藤本喜紫和、笛/武田天雅、鳴り物/西泰乃輔、角泰二、囃子言葉/宮野喜美枝、中西りえ子。○岩本名津喜美APCJ-5043(94)少々下品な歌唱で粋さはない。お囃子方は一括データ。
「宮島音頭」(広島)
♪(ハァヨーイヤサ)
我は(ア サノサイ)筑紫の者なるが(ヨイトコナ)
今年(ア サノサノ)初めて宮島の(ハァー ヤレサーテナー)
山の(ア サノサイ)景色を見渡せば(ヨイトコナ)
聞きしに(ア サノサイ)勝る厳島(ハァー ヤレサーテナー)
宮島にある厳島神社の境内・御笠(みかさの)浜(はま)で行われる盆踊り唄。歌詞は名所や宮島までの道中を唄った七五調の反復型。こうした盆踊り口説きは中国地方で広く唄われているが、厳島神社の影響でかなり洗練されたものとなっている。
今からおよそ四百年前のこと、伊予水軍に属する多賀谷(たがや)(多賀江)一族が宮島に来て、神事の舞いを侮辱して帰途についた。帰途、嵐に遭遇。全員が海に沈んだ。その後、彼らの霊が付近を航行する船や島民に祟(たた)りをもたらす。そこで毎年七月十六日、慰霊のための唄と踊りを奉納するようになったという。
千八百年代に作られた御笠浜の参道には、百八基の石燈籠が浜辺に並ぶ。夜になると点灯され、海上から見ると幻想的な光景となる。
宮島は長さ約9q、幅約6qのほぼ長方形の島である。周囲は30km。全体が緑に覆われ、特別史跡、特別名勝に指定されている。平成八(1996)年十二月、世界文化遺産に登録された。土産物店、飲食店、旅館が軒を連ね、かつての港町の面影を偲ぶことができる。宮のある島、宮島と呼ばれるようになったのは昭和二十五(1950)年頃からで、古くは島そのものが神として崇拝され、厳島と呼ばれていた。厳島の名は、市杵島姫(いちきしまひめ)ら三女神を祭る島、神をいつき(厳)まつる(祀)島に由来する。
厳島神社の社殿創建は推古天皇の頃と伝えるが、現在の規模となったのは仁安三(1168)年。平清盛の安芸守任官を機に、平氏一門の援助で大修築された。社前の屋根のない平舞台から、海に向かって火焼前(したさき)が張り出している。
海に浮かぶ朱塗りの大鳥居は、拝殿から約200m沖にある。四脚造りで楠の自然木が用いられ、現在のものは明治八(1875)年に建てられた八代目。主柱の楠材は宮崎県西都市と香川県丸亀市から選ばれた。総高16.8m、主柱の高さ13.4m、主柱の周り9.9m、棟の長さが23.3m。沖側に厳島神社、神社側に伊都岐島神社の扁額が掲げられ、柱は海中に埋めずに鳥居自体の重みで立っている。
§○高田新司APCJ-5043(94)雅趣ある歌唱だが、囃子言葉が稚拙。お囃子方は一括記載。
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