2022年03月04日

山口県の民謡

「岩国こぬか踊り」(山口)
♪神か仏か 岩国様は
扇子一つで 槍の中(テットーテン)
踊りゃ済んできた まだ夜は明けぬ
明けりゃ お寺の鐘が鳴る(テットーテン)
山口県東部に位置する岩国は、吉川(きっかわ)氏(し)六万石の城下町。城下町の町民が男は女、女は男の衣装で武士と共に踊ったのが伝統となり、現在に伝えられている。
長州藩の支藩である岩国藩の十二代藩主・吉川(きっかわ)経(つね)幹(まさ)(1829-1867)は、約百五十年間続いた長州藩毛利宗家との対立関係を修復し、攘夷(じょうい)運動の先頭に立った長州藩を補佐して幕末の激動期を乗り切った。
元治元(1864)年七月二十三日、禁門の変(蛤御門の変)を起こした長州藩に対して長州討伐(とうばつ)の勅命が下る(第一次長州征伐)。これを受けた幕府は、在京二十一藩に長州への出兵命令を下し、征長軍総督に尾張藩主・徳川慶(よし)勝(かつ)、征長軍参謀に薩摩藩の西郷隆盛などを任命した。
危機迫る中、吉川経幹は幕府と交渉のため、同年十一月六日、刀(とう)槍(そう)立ち並ぶ敵の本陣、征長総督府・広島国泰寺に扇子ひとつで参上する。経幹は成(なる)瀬(せ)隼人(はやと)、永井(ながい)主(もん)水(どの)正(しょう)らと対面して、長州藩主・毛利敬(たか)親(ちか)、定広父子のために弁明。その結果、長州を焦土から救った。
唄は国泰寺における泰然自若(たいぜんじじゃく)たる経幹の振る舞いを唄ったものだ。この時、禁門の変の責任を取らされ、長州藩の三家老、国司(くにし)信濃(しなの)(1842-1864)、福原越後(1815-1864)、益田(ますだ)右(う)衛門(えもん)介(のすけ)(1833-1864)が自刃(じじん)した。
§○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、藤本秀富音、笛/米谷威和男、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/佐藤松子社中。
「男なら」(山口)
♪男なら お槍かついで お仲間(ちゅうげん)となって
ついて行きたや 下関
国の大事と 聞くからは 女だてらに 武士の妻
まさかの時には 締め襷(だすき)
神宮(じんぐう)皇后(こうごう)さんの 雄々しき姿が 鑑(かがみ)じゃないかいな
オーシャーリシャーリ
萩(はぎ)の女の心意気を唄う。時は尊王接夷論が吹き荒れる幕末、文久三(1863)年五月。萩藩は下関の馬関(ばかん)砲台から、関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えた。しかし、猛反撃を受けて大損害を被(こうむ)る。藩はこれを機に外国船の襲来に備え、菊ヶ浜に土塁(どるい)を築くことを住民に命じた。萩の住民の間にも、自らの手で城下を守ろうとする機運が高まっていた。長州藩の武士は防備のため下関に集結。男たちは下関や三(み)田尻(たじり)へ警備に行って不在であった。このために土塁築造の中心は、萩藩士の妻などの女性たちだ。留守を守る女たちは襷(たすき)姿(すがた)も勇ましく、土木工事に従事する。このときばかりは、めったに外に出ることのなかった武士の妻たちが参加したことから、現在、高さ3m、幅12mの土塁が50mにわたって残っている菊ヶ浜土塁は、女台場と呼ばれている。「男なら」はこのときの作業唄として唄われたものだ。
曲は各地の花柳界で唄われている本調子(ほんちょうし)甚句(じんく)で「おてもやん」などと同系統の唄。
§○赤坂小梅COCF-9749(92)お囃子方不記載。GES-31317(02)三味線/豊藤、豊藤美、尺八/菊池淡水、小坂淡童。○福永キクエCOCF-9312(91)田舎のおばあさんの歌唱のようだ。素朴でどこか懐かしく野趣もある。△梅若TFC-1202(99)三味線/江川麻恵美、神山峰子、太鼓/山田鶴喜美。重厚なかすれた声に味がある。△佐藤松子K30X-221(87)味と技巧のある歌唱。三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/老成参州、鼓/望月太意次郎、鳴り物/美波駒三郎、曽我人子。
「南蛮(なんば)音頭(踊り唄)」(山口)
♪ハァー南蛮押せ押せ 押しゃこそ揚がる
揚がる五平太の ヤットコセ立抗掘りヨ
(サノあと山さき山 お前はバンコかギッコラサ)
揚がる五平太の ヤットコセ立坑堀ヨ
野口雨情(1882-1945)作詞、藤井清水(きよみ)(1889-1944)作曲の新民謡。
五平太とは石炭のこと。宝永七(1710)年、平戸島出身の五平(ごへい)太(た)が長崎県の西彼町(せいひちょう)高島で石炭を発見したことにちなんで石炭の異名となった。あと山は、採掘の補助員。さき山は熟練者。バンコは石炭運搬員のこと。
中国地方最大の石炭産出地・宇部市での操業開始は天保(1830-1843)の末頃といわれている。かつて、炭坑では掘り出した炭(たん)塊(かい)を背負いカゴに入れ、坑夫が担いで運び出していた。江戸時代の末期ごろから、地上に八本ぐらいの放射状の横木を回して綱を引き上げる人力巻揚機で、綱の先に付けた石炭箱を上げ下ろしするようになる。この装置は、宇部の亀浦に住む向田九十郎が、地下の湧き水処理のために考え出したといわれる。当時としては珍しい新工夫のものであったから、南蛮渡りのものという意味で、南蛮(なんば)車と呼ばれた。巻き上げの足取りに併せて唄われた仕事唄が「南蛮音頭」の元形である。昭和四(1929)年、藤井清水が宇部を訪れたとき、この唄を聞き、それをもとに作曲した。
南蛮車は宇部炭田の発展に貢献したばかりでなく、長州南蛮として全国で使用された。明治元(1868)年、船木の石炭局が設置され、洋式の技術が取り入れらてから、宇部の採炭は本格化する。瀬戸内の塩田用の燃料として需用を伸ばし、明治になると、宇部村は人口の急速な拡大と飛躍的な発展を遂げ、大正十(1921)年十一月には、県内二番目の市制が施行された。昭和九(1934)年から始まった炭都祭は、同三十七(1962)年に市民総参加の宇部まつりと改称。毎年十一月三日には、市の中心部の常盤通りと平和通り周辺で「南蛮音頭」の総踊りや、勇壮な曳山パレードが繰り広げられ、宇部の風物詩として定着した。
§○米倉慶子「南蛮踊り唄」APCJ-5043(94)美声でほのかな色香を感じさせる。お座敷調を出しているが、粋と技巧は少々不足。お囃子方は一括記載。
「よいしょこしょ節」(山口)
♪磨きあげたる 剣の光 雪か氷か下関
ヨイショコショーデ ヨサノサー下関
これのお背戸(せど)に 茗荷(みょうが)と蕗(ふき)と 冥加目(みょうがめ)出度(でた)や 富貴(ふうき)繁昌(はんじょう)
ヨイショコショーデ ヨサノサー富貴繁昌
県内各地で唄われている祝い唄。七七七五の詞型のあとに“ヨイショコショーデヨサノサー”の囃子言葉が付く。もとは周防の大島方面で、新夫婦が仲間を招いて祝宴を張る時に唄われたもの。高杉晋作が座興で唄ったともいわれている。
県東南部の瀬戸内海に位置する周防(すおう)大島(おおしま)(屋代島)は、昭和五十一(1976)年七月、全長1kmの大島大橋の開通で陸続きとなった。平成十六(2004)年十月、久賀町、大島町、橘町、東和町の四町が合併して周防大島町となった。毎年八月一日から三日まで行われる萩市の萩夏まつりでは、二日目に「よいしょこしょ節」の踊りパレードが繰り広げられている。最近ではサンバにアレンジされた「サンバよいしょこしょ」も加わり、祭りは大いに盛り上がりを見せている。
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本秀心、笛/斉藤参勇、太鼓/美鵬那る駒、美鵬奈る駒。
posted by 暁洲舎 at 06:57| Comment(0) | 中国地方の民謡
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