♪ハーラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
阿波の殿様 蜂須賀(はちすか)公(こう)が 今に残せし 阿波踊り
踊る阿呆(あほう)に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ損損(そんそん)
ハーラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
毎年八月十一日から五日間、徳島市内のあちこちで観られる。最大級のものは藍場浜演舞場でのもの。徳島市以外でも鳴門市、吉野川市、つるぎ町、三好市(みよしし)などで阿波踊りが行われている。
天正十四(1586)年、蜂須賀小六(1526-1586)の嫡男・家政が徳島城を築いたとき、落成祝いの酒宴の席で踊り始めたのが始まりという。踊りの手や三味線は奄美大島の八月踊りとそっくりで、九州のハイヤ節が黒潮に乗って伝わったようだ。唄は「よしこの節」と呼ばれるものである。「よしこの節」は江戸時代後期、明和(1764-1772)から寛政(1789-1801)にかけて、茨城県潮来(いたこ)地方からはやり出した「潮来(いたこ)節(ぶし)」が変化した酒盛り唄。東海から関西にかけて流行した。これが名古屋の「神戸(ごうど)節(ぶし)」、江戸の「都々逸(どどいつ)」の母体となる。
「阿波踊り」の命名は、徳島市安宅(あたけ)生まれの風俗画家で風流人の林(はやし)鼓(こ)浪(ろう)(1887-1965)である。鼓浪は郷土史はもとより芸能音曲(おんぎょく)にも通じ、富街(ふうがい)と呼ばれた花街の富田町検番で、芸妓の指導に当たっていた。大正五(1916)年、父に連れられたお鯉(こい)が鼓浪のもとにやってくる。お鯉の唄は、鼓浪が歌詞を作り、鼓浪の内妻である延喜久が曲を付けたものが多い。
§◎お鯉CF-3661(89)「阿波風景」音源はSP盤。お囃子方不記載。COCF-126
98(95)「徳島盆踊り唄」三味線/加代、ひでじ。鼓、太鼓、笛入り。TFC-912(00)伴奏者不記載。○高田美佐子KICH-2405(03)婆様声、かすれ声で野趣、迫力あり。三味線/左同艶子、尺八/吉岡展山、フルート/清水祥恵、鳴り物/囃子言葉/蜂須賀連。前伴奏が長く、唄はワンフレーズ。△入村ゆきCOCF-13289(96)葵連(あおいれん)の賑やかな囃子方がよい。葵連総指揮/小野正巳、三味線/坂野静子、笛/日下宣光、鼓/村上一雄、大太鼓/阿部俊昭、太鼓/浜田次男、樽/浜田高蔵、鉦/新田喜市。入村の声は細く、ときどき声が割れる。男声には取るべきものがない。△地元歌手BY30-5018
(85)お囃子方CD一括記載。
「阿波麦打ち唄」(徳島)
♪阿波の藍なら ヨーヨホホーヤ 昔を今に
染まる色香は 変わりゃせぬヨ ホホーヤトヨエー
(ハ ウットケウットケ)
鳥もはらはら ヨーヨホホーヤ 夜はほのぼのと
鐘が鳴ります 寺々にヨ ホホーヤトヨエー
(ハ ウットケウットケ)
農家の庭で五〜十人ぐらいが互いに向き合い、莚(むしろ)の上に広げた麦の穂を唐(から)竿(さお)で叩きながら唄う。麦は刈り取りが終わると、麦束を交互に積み上げて畑で二、三日乾燥する。鉄の櫛部分に穂先を入れて引き抜く千(せん)歯(ば)扱(こ)きや、足踏み脱穀機で麦の穂を扱(しご)くと、莚の上で天日(てんぴ)干(ぼ)しをする。その後、穂を唐(から)竿(さお)で叩いて中の粒を取る。麦打ちは隣近所や本家、分家同士など、多いときは十人以上が集まって行う。一人ができる一日の作業量は大麦で1.5〜2石(1石=180リットル)、大豆で1石くらいであった。
四国三郎の異名を持つ吉野川流域は、古来から藍(あい)の産地であった。もともとこの唄は藍葉を唐竿で叩くときに唄われていた。中国地方に広く分布する麦打ち唄が徳島に入り、藍打ち唄に転用されていたものだ。藍が科学染料に押されてだめになると、もとの麦打ち唄に戻った。現在では麦打ち作業もなくなり、作業唄が花柳界のお座敷唄に変わっている。
唐竿は1.5b程の竿や棒の先に、回転するように取り付けた90pくらいの打木を回転させながら使う。麦打ちのほか、米や豆類などの脱穀(だっこく)にも用いる。この道具は全国に分布していて、唐(から)竿(さお)、クルリ棒、振り棒、連(れん)枷(が)などと呼ばれている。
§○浅野実COCF-13289(96)素朴さがあり、うまく味を出している。控え目な尺八は大西孝利。○高橋キヨ子RCM-4OO42(95)お座敷調で小粋な唄い方。三味線/本條秀太郎、本條秀長、尺八/金子文雄、鳴り物/美波那る駒、美波成る駒、囃子言葉/木津しげり、清水美代子。
「祖(い)谷(や)の粉(こ)ひき唄」(徳島)
♪祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛(くも)の巣(ゆ)のごとく
風も吹かんのに ゆらゆらと
吹かんのに 吹かんのに風も
風も吹かんのに ゆらゆらと
西祖谷山辺に伝わる石臼(いしうす)作業の「粉ひき唄」。江戸末期、素朴な元唄に、田ノ内集落の松爺と呼ばれた人が今日(こんにち)の返しを付け、節回しも哀調あるものとしたという。
祖谷は四国山脈の山深い懐に抱かれた徳島県西部にあり、四国の秘境といわれる旧三好郡西祖谷山村(やまそん)、東祖谷山村方面(三好市)を指す。剣山(つるぎさん)(1,955m)に源を発する祖谷川の、V字の深い渓谷に張り付くように家々が点在し、手つかずの自然が多く残る。緑豊かな秘境の地は、平家の落人(おちうど)伝説の里とも言われ、平家の赤旗や安徳(あんとく)天皇が祀(まつ)られた社(やしろ)が残っている。東祖谷山村の役場のある地名も京上(きょうじょう)と、京の字が使われている。
かずら橋は、高山に自生しているシラクチカズラの蔓(つる)を冬場に採取して火であぶり、柔らかくしてから編(あ)んで谷に架(か)ける吊り橋だ。かつて祖(い)谷(や)谷(だに)には十三の橋があった。現在では奥祖谷の男橋と女橋の二重かずら橋と、西祖谷山村の善徳のかずら橋だけとなっている。どちらもワイヤーで補強されているが、昔の橋は揺れが激しく、慣れない者は渡ることが出来なかった。八百年前、平家の落人が追っ手から逃れるために、すぐに切って落とせる橋を作ったと言われ、揺れる橋を渡る身のこなしで、偵察に来た外部の者かどうかを判別したという。
祖谷にはこの唄のほかにも、祖谷甚句、酒盛り、花採り、木おい節、木挽き唄、茶摘の唄、祖谷地搗き、草刈節といった、素朴で味のある民謡が伝えられている。
§◎宇田キク子FGS-608(98)無伴奏。臼を回しながら唄っているようで、素朴でなんともいえない味があり、生活感が漂う。○浅野実TFC-1201(99)尺八/大西孝利。素朴で野趣があり、雰囲気も出ている。浅野は昭和五(1930)年八月、徳島市北田宮(きたたみや)生まれ。縁故を頼り、秋田の浅野梅若に入門。精進を重ねて同四十七(1972)年、祖谷の粉挽き唄をレコーディングした。同四十九(1974)年には「阿波民謡会」を結成。△村上とみ子APCJ-5044(94)尺八だけの伴奏。声の良い素人娘が唄っているようで好感が持てる。◎島倉千代子COCP-35326(08)昭和三十四(195
9)年、服部竜太郎が西祖谷の豊永かずえの唄を採譜して島倉千代子の声でレコード化。その後、広く唄われるようになった。
「東祖谷の粉ひき唄」(徳島)
♪嫁じゃ嫁じゃと 嫁のなしゅ立てなヨー
可愛い我が子も 人の嫁ヨサーヨイヨイヨー
臼よ早(はよ)まえ はよ回(もう)てしまえヨー
門に立つ殿 待ち兼ねるヨサーヨイヨイヨー
§澤瀉秋子VZCG-616(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、笛/米谷和修、太鼓/美鵬駒三朗、四ツ竹/美鵬那る駒。しみじみとした哀調で唄いあげている。
「盆の流し唄」(徳島)
♪秋の千草はサァー 夜露にぬれる
踊りゃ 浴衣に露がつく
あの舞い上がり
ヨーイヤサー ヨーイヤサー
軒に雪洞サァー 色街ゃ宵よ
踊り手拭い皆揃うた
あの吹き流し ヨーイヤサー ヨーイヤサー
お盆になると、徳島市富田町の芸妓たちが深(ふか)編(あ)み笠をかぶり、鉦(かね)、三味線で唄いつつ流し歩いた。林鼓浪(はやしころう)と今藤長三郎が、徳島のお盆にふさわしい唄を作詞作曲。昭和初期に流行したが、現在では唄う人も少なくなっている。お鯉(こい)の弾き語りが絶品だった。
§○光本佳し子KICH-127(98)三味線/藤本秀輔、藤本e也、笛/米谷威和男、鳴り物/福原由次郎社中。○富田房枝VZCG-618(06)「盆の流し唄〜阿波踊り」三味線/藤本博久、藤本篤秀、笛/米谷幸太、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/西田美和、西田和子。△原田直之30CF-2172(88)三味線/原田真木、斉藤徳雄、尺八(笛)/佃一生、鳴り物/山田鶴喜美、山田鶴司、木津かおり、囃子言葉/西田よし枝、堀征子。
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