2022年03月04日

愛媛県の民謡

「伊予節」(愛媛)
♪伊予の松山 名物名所 三津(みつ)の朝市 道後の湯
音に名高き 五色素麺(そうめん) 十六日の初桜
吉田挿(さ)し桃 小杜若(こかきつばた) 高井の里の ていれぎや
紫井戸や片目(かため)鮒(ふな) 薄墨(うすずみ)桜(さくら)や 緋(ひ)の蕪(かぶら)チョイト伊予(いよ)絣(がすり)
松山市方面に古くから唄われているお座敷唄。江戸の老妓おいよが唄い始めたという。文化年間(1804-1817)、備前池田候の趣味で作り出した伊予染めの流行と共に発生した唄だとの説もある。関西で古くから唄われていたらしく、明治以後も東京、大阪で周期的に流行をみせた。都会で唄われていただけに、垢抜けしていて端唄的だ。農漁村にも普及して各地に替え唄を生んだ。唄の文句は松山の名物名所を連ねたものだが、それがかえって唄いこなすには難しい。
三津の朝市は元和二(1616)年、藩主・加藤(かとう)嘉(よし)明(あきら)(1563-1631)の許可を得て、地元の下松屋善左衛門が魚問屋を開いたことに始まる。道後(どうご)の湯は古くは熟(にぎ)田津(たづ)の湯といわれ、日本最古の歴史を誇る温泉である。
道後の名称は、大化の改新(645)による国府の設置で、国府を中心に道前・道中・道後の名称が生まれた。道中は国府のある地域を指し、京に向かって国府の前にあるのが道前、後ろを道後と呼んだ。
寛永十二(1635)年、桑名藩主・松平(久松)定行(1587-1668)が松山に国替えとなり、伊予松山藩の初代藩主となる。素麺作りの長門屋市左衛門も、定行に随行して松山に入る。五色素麺の名は、享保七(1722)年に天皇家からその美しさを賞賛されたのを機に、八代目市左衛門が命名。赤は紅花、黄は梔子(くちなし)、濃紺は高菜(たかな)、緑は梔子と高菜で色付ける。
十六日桜は松山市内の山越の桜谷にあり、毎年、旧正月十六日に咲く。一名“考子桜”ともいう。吉田挿し桃は宝暦年間、高潮で砂に埋没した松山市吉田の桃の木が春に花を咲かせた。その様子が、あたかも砂に桃の花を挿(さ)したように見えたことに由来する。
小杜若(こかきつばた)は北条市(ほうじょうし)腰折山(こしおりやま)に自生するエヒメアヤメのこと。四月初旬に花が咲く。絶滅(ぜつめつ)危惧(きぐ)種(しゅ)で国の天然記念物に指定されている。ていれぎは、松山市高井の里に自生する水草。松山市指定天然記念物だ。清流の底に生え、摂氏15度くらいの冷たい水に適している。爽やかな辛味は刺し身のツマに用いられる。
紫井戸は松山市木屋町にある井戸。今では枯れているが、かつては一日に水の色が紫などに七回変わったという。片目(かため)鮒(ぶな)は紫井戸の近くにある泉に棲(す)んでいる。弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)(774-835)が山越の里を通りかかると、農婦が鮒を焼いていた。すでに片目は焼けていたが、大師は哀れに思ってもらい受け、近くの泉に放すと生き返った。以来この池で育つ鮒はみな片目であるという。
薄墨桜は、松山市下伊台の西法寺にある桜だ。天平の昔、行幸中の天武天皇の皇后が病気になった時、一山あげての祈祷で平癒(へいゆ)した。そのために、薄墨の綸旨(りんじ)に添えて下賜された桜を境内に植えたのである。緋(ひ)の蕪(かぶら)は日野蕪のこと。初代藩主・松平定行の頃、家臣の岡治平衛吉定が、出身地の近江(滋賀県)日野から種子をとり寄せ、雄郡村(おぐりむら)と竹原村に植えた。
伊予絣は久留米絣、備後絣と並ぶ日本三大絣。享和年間、今出(いまず)生まれの鍵谷カナ(1782-1864)が絣の綛(かせ)絞(しぼ)りを発見。伊予絣をより美しいものとした。
§◎吉佐TFC-1204(99)三味線/一平、千代。明治四十四(1911)年生まれ。藤間伊勢安を名乗り、伊予民謡界に君臨。○佐藤松千恵OODG-70(86)お座敷調で端正な歌唱。三味線/藤本秀輔、藤本博久、笛/米谷威和男、鼓/堅田啓輝。○久保名津絵COCF-13289(96)三味線/久保由利子、正木名津定、太鼓/白瀬孝子、鉦/高田名津明。年輩芸者の渋い歌唱。
「伊予の酒造り唄」(愛媛)
♪ハァー酒屋ヨー 男はノーヨホイ
(ヨイトナーレ ヨイトナー)
エー花なら ヤレつぼみヨイトナー
朝も酒々 酒々ノーヨーホイ ヤレ晩も酒
(ハ ヨイトナーレ ヨイトナー)
§さいとう武若KICH-2468(05)三味線/小山竜浩、小山浩秀、尺八/篁竜男、鳴り物/山田鶴祐、山田祐昌、囃子言葉/武花烈子、武花紫緒希。
「伊予万歳」(愛媛)
♪(ハイー)
郷土芸術 伊予万歳よ(ハヨッサイヨッサイー)
さて名も高き 松山の(ハヨッサイー)
勝山城に そびゆるは(ハヨッサイヨッサイー)昔偲ばす 天守閣
(ハキタコラサッサイー)
ほとりに近き 出湯町(ハヨッサイー)道後温泉と 人も知る
(ハヨッサイー)
氷溶けない 山越えの(ハキタコラサッサイー)十六日の 初桜
(ハヨッサイー)
孝子の誉れ 世に高し(ハヨッサイヨッサイー)伊台の里の 御寺に
(ハヨッサイー)薄墨桜も 咲き染めて(ハヨッサイヨッサイー)
紫井戸の 片目鮒(ハキタコラサッサイー)高井の里の ていれぎや
(ハヨッサイー)小杜若も 咲き匂う(ハヨッサイヨッサイー)
五色素麺(そうめん) 緋の蕪(ハキタコラサッサイー)三津の朝市 これ名所
(ハヨッサイー)
菅公出船の 御時に(ハヨッサイー)ここに今出と 残されて
(ハヨッサイー)
鍵屋かな女の 功績は(ハヨッサイヨッサイー)伊予の絣と 名も高い
(ハキタコラサッサイー)
郷土芸術 伊予万歳よ ハイまずこれと 目出度う候いける
伊予万歳の歴史は古く、寛永十二(1635)年、徳川家康の異父弟である桑名城主松平定勝(1560-1624)の次男定行(1587-1668)が桑名から松山に移封された時から始まった。定行が知多(愛知県)の尾張万歳の太夫を招き、新年を祝って万歳を演じさせたのが始まりという。
文化年間(1804-1817)には「松山名所づくし」の出し物が村の祭礼などで演じられ、天保(1830-43)に入ってから、人形浄瑠璃や芝居の影響で万歳が舞踊化され、現在の形式となった。
伊予万歳の一座を率いるのは、紋付き羽織(はおり)、袴(はかま)の太夫で、一座は踊り子四人に、才蔵と滑稽に踊る次郎松から構成される。三味線と太鼓は太夫と同じ衣装で登場し、ともに舞台の後方に並んで立って伴奏。伝統的な舞台では、女の装束をまとった青年が太夫、才蔵、次郎松となる。
明治維新後、わずかにこの芸を伝えたのが沢田亀吉である。現在では子供中心の踊りとなり、舞台の上手に太鼓・三味線・拍子木が座って唄い、軽快なリズムと唄に合わせて十人前後で踊る。昔は門付けもやっていたが現在は舞台で見せる芸能に変わった。
伊予万歳で演じられる演目には、松づくし、柱揃へ、三番叟、立山節、芸題づくし、名所づくし、阿波巡礼小唄、忠臣蔵などがある。最もよく知られている松づくしは、前付と中踊りからなり、名所の松を数え唄で踊り、松の数に応じて、扇を巧みに配置して松の風情を表現する。
§◎浅香静夫TFC-1201(99)「古調」三味線/松本マサコ、太鼓/浅香百合子、囃子言葉/藤原節子、高橋万知子。古調の伊予漫才。伊予市松前町に生まれた浅香(1895-1980)は、少年の頃から土地に残る「伊予万歳」を唄い続け、その唄声は近隣一帯に知れ渡っていた。◎黒田幸子COCF-12241(95)今風の伊予万歳。味と渋さ、迫力ある声と節の名調子。申し分なし。三味線/黒田清子、高田松枝、太鼓/美波三駒、ちょぼくれ/美波駒世、囃子言葉/黒田幸若、白瀬春子。
「宇和島さんさ」(愛媛)
♪竹に雀の仙台さまも ションガイナ
今じゃこなたと エーもろともによ
しかと誓いし宇和島武士は ションガイナ
死ぬも生きるも エーもろともによ
中国から四国地方にかけて広く分布する「さんさ踊り」と呼ばれる盆踊り唄が宇和島化した。宇和島藩五代藩主村候(むらとき)(1723-1794)の頃、仙台藩と宇和島藩の間で本家と分家の争いが起こった。その折、仙台の「さんさ時雨」に対抗して作られたのが始まりといわれ、以来、宇和島藩士の間で士気を鼓舞するために唄い継がれてきた。
東宇和郡城川町(しろかわちょう)窪野(くぼの)(西伊予市)に宮城県仙台方面の八つ(や)鹿(しか)踊り(おど)が伝わっているところから、この唄も仙台の「さんさ時雨」と同系と思われているが、八つ鹿踊りは文政十年(1827)頃、庄屋の矢野惣左衛門が本場の仙台まで出向いて踊りの師匠を迎え、それまでの七鹿踊りを約半年かけて現在の八つ鹿踊りに仕上げたという。
東宇和郡の三滝神社(西予市城川町窪野)の祭礼、宇和津彦神社(宇和島市野川新)の祭礼、和霊神社(宇和島市和霊町)の祭礼などで奉納されてきた。踊り手の人数によって五(いつ)鹿(しか)踊(おどり)、六(むつ)鹿(しか)踊(おどり)、四(よつ)鹿(しか)踊(おどり)などとも呼ぶ。
宇和島伊達家の藩祖は独眼竜政宗の長男秀宗(ひでむね)(1591-1658)である。秀宗は伊達家の長子であったが、豊臣秀吉の元で育った側室の子であったため、政宗は仙台の伊達本家を正室の子の次男忠宗(ただむね)に継がせた。慶長十九(1614)年、秀宗は徳川家から伊予の国宇和郡に十万石を賜り、元和元(1615)年、宇和郡板島(宇和島市)に入国する。当時、疲弊しきっていた宇和島藩を建て直すために、政宗は六万両の大金を貸し出し、山家(やんべ)清兵衛という経理手腕に優れた人物を秀宗に付けた。
時代は下って第八代藩主・宗城(むねなり)は、殖産興業と富国強兵策を藩内に実施する。蘭学者・高野長英を匿い、長州の大村益次郎を招聘して蒸気船の建造や砲台の設置にあたらせるなど、西洋知識を藩内に積極的に導入した。小藩ながら、大藩に伍して維新政府成立に大きな働きを示した。
この唄の持つ雅趣と品格を表現した演唱が少ないのが惜しまれる。
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本篤秀、藤本秀禎、尺八/笛/米谷幸太、太鼓/山田鶴三、鼓/鉦/山田鶴祐、囃子言葉/西田美和、西田和子。唄に力があり、野趣のあるお座敷唄に仕上がっている。○原田直之COCF-12241(95)三味線/原田真木、斎藤徳雄、尺八/佃一生、囃子言葉/西田よし枝、堀征子。艶(つや)と癖(くせ)のある原田節だが、表現力と迫力はさすが。△佐藤桃仙COCF-13289(96)素朴だが元気がなく、田舎臭くて素人臭い。三味線/斎藤正子、佐藤秀仙、尺八/西村淡笙。
「新崖(しんがい)節(ぶし)」(愛媛)
♪唄いますぞえ 踊っておくれ
(ソーレ サーモヤートセー)
年に一度の 盆踊り
(ソリャ ヨーイヨーイヤートセー)
松山藩城下町の郊外、周桑郡(しゅうそうぐん)小松、丹原、壬生川一帯は後進の開発地域であった。ここに入植した人々は険しい山を切り開き、荒れ地を開墾して農地にしていった。苦しい労働を慰めてくれるのが年に一度の盆踊りであった。盆踊りは重要な年中行事であり、古くは男女の出会いと求婚の場であったりした。
お盆は陰暦の七月十五日を中心に行われる祖(そ)霊(れい)供養(くよう)の法会(ほうえ)で、その歴史は飛鳥時代にまでさかのぼる。推古十四(606)年七月十五日に斎会があり、斉明三(657)年には、須弥山像を飛鳥寺の西に作って盂(う)蘭(ら)盆会(ぼんえ)を設けた。後に朝廷の恒例仏事となり、諸大寺から民間の各寺院へ普及していく。平安時代になると空海など渡(と)唐(とう)僧(そう)が施餓鬼(せがき)の法を伝え、鎌倉時代にはこれが諸宗派に取り入れられた。室町時代には、盆中または盆の前後に施餓鬼会が行われるようになる。民間では盆と称して祖霊や死霊の祭祀が行われた。寺院の盂蘭盆会も、戻ってきた霊魂を迎え、これを祀るという民俗信仰の上に成立している。時代とともに宗教的意識は薄くなり、踊りを楽しむ祭りとして各地で催されるようになった。
お盆の時期は旧暦のほか、新暦七月や月遅れの八月で行われる場合があり、同一地方でも一定しない。旧暦で行うところは東北、関東北部、中国、四国、九州地方に多く、関東南部から中部、近畿地方にかけては少ない。新暦七月に行うところは、東京周辺や東北地方に多く見られ、八月盆は北海道や新潟、群馬、埼玉、千葉の諸県を結ぶ線より以西の地方に顕著である。お盆に迎える霊は、祖霊(本仏)、新仏(前年の盆から当年の盆までの死者)、無縁仏(餓鬼仏)とされている。
§○横川正美APCJ-5044(94)哀調と味があり曲想もよい。囃子言葉は稚拙。
「三坂馬子唄」(愛媛)
♪三坂越えすりゃ(ハイ)雪降りかかる(ハイ)
戻りゃエー妻子がエー(ハイ)泣きかかる(ハイハイ)
愛媛県中部、久万(くま)高原(こうげん)の久万盆地にある上浮穴郡(かみうけなぐん)久万町(くまちょう)は、土佐街道に沿う旧宿場町。木材の町としても知られている。木材は、江戸時代から馬車に積まれて松山に運ばれた。旧三坂街道時代(荏原〜久谷〜三坂峠)の貨物輸送は、首に鈴をつけた駄馬による輸送が最良の方法であった。道幅が狭いため、荷物を満載した馬の行き違いは困難を極めた。馬の首に鈴をつけ、その音によって手前の広い場所で待った。
松山から高知へ抜ける国道33号線が明治二十五(1892)年に開通するまで、久万(くま)街道は四国霊場八十八ヶ所の四十五番と四十六番の打ち返しの遍路道として重要な街道だった。この道中に三坂峠がある。標高720b。狭くて険しい道が谷底を縫い、人は徒歩か牛馬に助けられ、直線的に登るしかなかった。下りは東明神の里を抜け、高殿神社の手前を右折する。三坂峠は往復に一昼夜かかり、久万街道最大の難所であった。三坂峠越えの久万山馬子、明神馬子と呼ばれる馬子達の唄は、七七七五調。道中の行き帰りに唄われた。西日本では数少ない馬子唄で、美しい旋律を持っている。
§○横川正美APCJ-5044(94)初代浜田喜一に似た唄いかた。
posted by 暁洲舎 at 06:54| Comment(0) | 四国の民謡
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