2022年04月03日

秋田県の民謡

「秋田馬方節」(秋田)

♪(ハイハイ)

ハァー(ハイ)朝の出掛けに(ハイ)

ハァー東を(ハイ)見ればヨー(ハイハイ)

ハァー黄金(ハイ)ハァーまじりの(ハイ)

霧が降る(ハイハイ)

馬を引き、夜道を行く博労が馬市の行き帰りに唄った。東北地方にはさまざまな馬方節があり、地名や県名を冠して区別している。唄の骨組みはいずれも同じで、南部馬方節が下地になっている。秋田県には異なった節回しの馬子唄と馬方節があり、馬子唄は昭和の初めごろ仙北郡中川村(角館町)の黒沢三一(1894-1967)

がレコードに吹き込んだものだ。馬方節は由利郡金浦町(にかほ市)の加納初代(1893-1966)がレコードに吹き込んだものをいう。

§◎加納初代TFC-1203(99)お囃子方不記載。音源はSP盤。明治二十六(1893)年、由利郡仁賀保町三森(にかほ市)に生まれた加納初代(1893-1966)は、鳥(とり)井森(いしん)鈴(れい)(1899-1979)との出会いによって本格的に民謡の道に進み、佐藤貞子に次ぐ秋田民謡の女王といわれた。持ち前の高音美声で、本荘追分、秋田臼挽き唄なども得意とした。○鳥井森鈴TFC-1207(90)尺八/川上蓮陽。音源がSP盤のため、かなりノイズが入る。○村岡一二三CRCM-1OO12(98)尺八/畠山浩蔵、掛声/浅野梅若。浪曲で鍛えたさびたのある渋い声で聴かせる。△佐藤清VZCG-131(97)尺八/渡辺輝憧、古谷兵治、掛声/浅野梅若。△佐藤信治APCJ-5034(94)お囃子方はCD一括記載。

「秋田追分」(秋田)

♪<前唄>

(ソイーソイ)

花が良けれど(ソイ)ちと木が若い キタサノサ(ソイ)

折らせぬ 心でなけれども(ハァーソイ)

蕾心で まだ恥ずかしやネ(ソイ)

咲いたら 折らんせ幾枝も

<本唄>

(ソイーソイ)

昇る(ソイ)朝日の(ソイ)誠に(ソイ)ほれてヨ(ソイーソイ)

笑い(ソイ)そめたる(ソイ)梅の花(ソイ)

<後唄>

春のやよいに 鳴く鶯はネ(ソイ)

梅の木恋しさで 鳴くじゃろう

中山道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ主要街道である。中山道の軽井沢、追分、沓掛の三宿で唄われていた追分節は、瞽女や検校、旅芸人や船乗りたちによって各地に伝えられ、その土地の追分節となった。

南秋田郡五城目町、旧馬川村上樋口字切通の農家に生まれた鳥井儀助(森鈴1899-1979)は、地元周辺で唄われていた在郷(じゃんご)追分を茶屋コ芸人・沢石キサから教わる。在郷追分は、揺りを引き延ばせるだけ引き延ばして唄う“あんあん節”とも呼ばれる追分節だった。鳥井はそれに江差追分の節回しを取り入れ、秋田の追分を作り上げる。唄の文句には、秋田の四季の風情や秋田女の愛と哀しみを詠み込んだ。

大正十五(1926)年三月、後藤桃水(1880-1960)が鳥井を訪ねる。桃水に促されて上京した森鈴は、秋田追分をレコードに吹き込んだ。昭和三(1928)年ごろから、鳥井森鈴の秋田追分は全国に知れ渡るようになる。森鈴の名は、美しい声で鳴く森山の鈴虫にちなんだものだ。昭和四十六(1971)年四月から六月にかけて、秋田魁新報に追分誕生のいきさつを連載寄稿している。

昭和四十三(1968)年、第19回NHKのど自慢コンクールで浅野和子が「秋田追分」を唄って優勝。平成二(1990)年から、秋田追分全国大会が五城目町で行われている。

§◎鳥井森鈴VDR-25152(88)「前唄、本唄、後唄」前唄のあとに尺八の送りが入る。尺八/菊池淡水。CF-3661(89)「前唄」お囃子方不記載。ソイ掛けは女声。COCF-12697(95)「本唄」お囃子方不記載。TFC-1207(99)「前唄、本唄、後唄」尺八/川上蓮陽。送りなし。ソイ掛けは女声。音源はSP盤。○黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)「前唄」「本唄」お囃子方不記載。音源はSP盤。○浅野和子「前唄、本唄」COCF-9303(91)尺八/鎌田筧水、ソイ掛け/浅野梅若。きちっと端正な唄い方をしている。浅野は昭和四十三(1968)年、師匠の浅野梅若が手を加えたこの唄で民謡日本一に輝いた。森鈴より息継ぎの個所が増え、その分、丁寧に小節が回され、曲の時間は長くなっている。○長谷川久子、佐々木常雄COCF-13283(96)「前唄」掛け合い。7分48秒の長い演唱。尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、ソイ掛け/佐々木実。長谷川、佐々木ともに、いたずらに声を誇らぬ味のある唄い方をしている。

「秋田おばこ」(秋田)

♪おばこナー(ハイハイ)何ぼになる(ハイハイ)

この年暮らせば 十と七つ(ハァ オイサカサッサ オバコデハイハイ)

十七ナー(ハイハイ)おばこなら(ハイハイ)

何しに花コなど 咲かねどナー(ハァ オイサカサッサ オバコデハイハイ)

おばことは若い娘のこと。馬喰が運び込んだ山形県庄内地方の“おばこ節”が秋田化した。仙北郡(せんぼくぐん)の南の地域に移入されたおばこ節は、各村落で節回しが変化していく。雄物川の支流、玉川沿いの上流地域から玉川おばこ、田沢おばこ、生保内おばこと下り、玉川支流の桧木内川沿いに桧木内おばこ、西明寺おばこ、などと呼ばれながら平野部に入って神代(じんだい)おばことなった。

仙北郡田沢湖町神代(仙北市)村に住む笛の名人・佐藤清賢(笛王斉1858-1928)は、角館のお祭りの飾山(おやま)囃子のためにおばこ節を編曲。新しい節づけをして娘の貞子(1886-1950)に唄わせた。これが大評判となり、仙北全体が貞子節一色になった。笛を中心に編曲したため、節が上へ上へと昇っていくところと、小節を多用するところが面白い。

おばこ伝説はいろいろあって、新羅との戦に従った武将・調伊企儺(つきのいきな)の妻・大葉子(おばこ)を賛嘆する催馬楽(さいばら)が変化したとか、田沢村には富農・源七の娘おばこと弥兵衛の悲恋などが伝えられている。今に残る源七屋敷跡やおばこ石、おばこ沢がその名残だ。

昭和十(1935)年代、鳥井森鈴あたりから、出だしの“おばこ”に“ナ”をつけるようになり、テンポも遅くなって、踊り用の唄から聴かせる唄に変わる。昭和三十(1955)年、千葉千枝子がこの唄でNHKのど自慢全国コンクールで優勝してから唄い方が定まった。同四十一(1966)年には川崎マサ子が優勝している。

§◎加納初代TFC-1203(99)お囃子方不記載。本来、踊りを見せるための唄であり、テンポはかなり早い。古い音源のため音質は悪いが、声のよさ節回しの巧みさ、テンポのよさに味があり、土地の香りがいっぱい。加納(1893-1966)は、明治二十六(1893)年、由利郡金浦町堀切に生まれた。鳥井森鈴との出会いによって本格的に民謡の道に進み、佐藤貞子に次ぐ秋田民謡の女王とまで言われた。◎佐藤貞子COCF-12697(95)仙北郡田沢湖町で農業を営んでいた父・佐藤清賢は、神楽(かぐら)囃子の横笛の吹き手であった。貞子は二女。大正十一(1922)年五月、上野公園で行われた平和記念東京博覧会の全国芸能競演大会に出場、第一位になった。そのときから「秋田おばこ」と呼ばれる。貞子は大正末期から終戦後まで活躍したが、全盛期には秋田おばこ佐藤貞子一座を引き連れて全国を回った。◎千葉千枝子CF-2420(88)おばこの歳をはるかに過ぎた貫禄の歌唱。三味線/工藤菊枝、三股愛子、尺八/菊池淡水、鎌田筧水、太鼓/三浦華月、鉦/高橋信一、囃子言葉/河東田このみ、三浦喜美子、佐藤五月。COCJ-30333(99)婆様に近い声でゆったりと貫禄ある歌唱をしている。土地の匂いと野趣がある。三味線/永沢千恵子、長谷部梅忠、尺八/鎌田筧水、笛/川村金声、太鼓/粕谷信男、囃子言葉/浅野和子、佐藤サワヱ。◎黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。音源はSP盤。○浅野和子COCF-13283(96)三味線/浅野梅若、長谷部梅忠。笛、囃子言葉は不記載。声を誇らない自然体の歌唱で好感が持てる。○小野花子KICH-2463(05)三味線/藤本e丈、藤本秀次、尺八/鎌田筧水、鳴り物/山田鶴助、山田鶴志、囃子言葉/西田和枝、新津幸子。生命力あふれた姉コが唄う。

「秋田おはら節」(秋田)

♪ハァーサアサ 出したがよい

ハァー野越え 山越え深山越え

あの山越えれば もみじ山

もみじの下には 鹿がおる

鹿がほろほろ 泣いておる

鹿さん鹿さん なぜ泣くの

津軽小原節が秋田のおはら節になった。今では他県の者には真似できない津軽物も、かつては節回しもそれほど難しくなかった。職人や旅人が聞き覚えた唄を秋田に持ち帰っる。当時は今と比べるとテンポがかなり速かった。大正十五(1926)年、仙台市で開かれた民謡大会で鳥井森鈴がこの唄を披露している。現在のようなゆったりした曲調にして唄ったのは村岡一二三。戦後になってからであった。

§◎村岡一二三CRCM-1OO12(98)三味線/浅野梅若、尺八/畠山浩蔵、太鼓/竹内あや子。中音でさびのある声。津軽のおはら節を秋田のおはら節として唄い出した村岡には浪曲の素養があり、独特の語り口調が聞かせどころ。○小野花子KICH-8503(04)三味線/高橋祐次郎、尺八/矢下勇、鳴り物/中村正男。早目で唄い、若さあふれる超美声。○長谷川久子COCF-13283(96)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木常雄。中音の語り的で自然体。唄の実力を感じさせる。

「秋田音頭」(秋田)

♪ヤートセーコラ 秋田音頭です

(ハイ キタカサッサ コイサッサ コイナ)

コラいずれこれより 御免蒙り 音頭の無駄をいう

(アーハイハイ)

お気に障りも あろうけれども さっさと出しかける

(ハイ キタカサッサ コイサッサ コイナ)

寛文三(1663)年頃、久保田城下(秋田市内)で手踊りの御国(おくに)音頭(おんど)が流行していた。それは、京都で大人気を呼んでいた阿国歌舞伎の流れを汲んだものであった。それを佐竹(さたけ)義(よし)隆(たか)に上覧の際、家臣の一人が柔術の手を加えて藩の子女に習わせた。これが好評で、たちまち城下に広まったという。御国音頭は、賑やかな三味線、笛、太鼓と鉦に乗り、節なしの地口で即興的にユーモラスな文句を綴っていくものだ。いつしか囃子言葉だけが発達し、節の部分は忘れられた。角館(かくのだて)に伝えられたものは、賑やかな伴奏と節のない地口の語りが人気を集め、仙北(せんぼく)音頭(おんど)と呼ばれて仙北一円に広まる。後に秋田音頭と改名。

踊りは右手と右の足と一度に出す逆手の踊りで、秋田市の仁井田亀松(1856-19

16)と、その実弟・福松の亀ちゃ踊りを元にしたものである。秋田市では土崎地区を中心に伝承され、土崎港曳き山祭りの余興として欠かせない三段返しは、手踊り、花笠踊り、組音頭を連続して行い、ほとんどの町内で踊られている。

§◎黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。音源はSP盤。○小野花子、進藤義声、田中希代子、斎藤範夫COCJ-32319(03)素朴な味と野趣があって、秋田なまりが魅力的。三味線/長谷部梅忠、笛/鎌田修水、鉦/鎌田筧水、太鼓/永沢千恵子。斉藤範夫は昭和二十二(1947)年、秋田市生まれ。二十二歳で鎌田筧水主宰の筧水会に入会。○佐々木常雄、長谷川久子COCF-14304(97)おしどり夫婦の息もぴったり。三味線/佐々木実、笛/藤丸貞蔵、太鼓/千葉美子。佐々木実は常雄の実弟。○小野花子COCF-9303(91)三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、笛/川村金声、太鼓/進藤義雄、囃子言葉/川崎正子、佐藤サワヱ。KICH-2463(05)三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水、鳴り物/西泰維、美波駒若、囃子言葉/志村春美、湯浅光子。△地元歌手BY30-5017(85)なまりがよくて土地の匂いを感じさせ、好感を呼ぶ。

「秋田草刈り唄」(秋田)

♪朝の出掛けに どの山見ても

霧のかからぬ アリャ山はない

おれとお前は 草刈り仲間

草もないない アリャ七巡り

秋田県仙北地方の唄。草刈りは農家にとっては欠くことのできない季節作業だった。春から夏にかけて連日のように草を運ぶ馬と一緒に、草刈り場へと向かった。刈った草は牛馬の飼料にしたり、家畜小屋に敷いて推肥を作る。夏の朝、東の空が白む頃に馬を曵き、露に湿った朝草刈りに出かける。草刈りの往来で馬を曵きながら、あるいは草を刈り終わって、鳥海山を望みながら一休みしているときに口ずさんだ。作業時には木挽唄や馬方節などの節が転用され、唄も共通の文句で唄われている。

象潟町(きさかたまち)の今野建(1926-2003)は、由利地方の草刈り唄を秋田の草刈り唄にする。それを聴かせる節回しに改良したのは佐々木実だ。

§○羽柴重見COCJ-30333(99)土の匂いがする枯れた高音。尺八/矢下勇、松本虚山。○小野花子KICH-2023(91)青空に吸い込まれるように伸びて行き、野山に響き渡る美声。尺八/鎌田筧水、掛声/浅野梅若。掛声入り。エコー過多の録音。△渡辺悦子COCF-9303(91)尺八/鎌田筧水。もっとなまりを強く出せば、一層味のある歌唱となった。

「秋田草取り唄」(秋田)

♪草取りはナァエ 腰も痛かろ

痛かろ切なかろ(ホーイホイ)

切なかろナァエ 長い煙草で

煙草で腰を伸す(ホーイホイ)

井川町井内周辺で歌い継がれてきた。その唄を全県へ発信したのが同町の三浦吉五郎(1916-2004)。町田佳聲(1888-1981)は詞型から岩手、宮城方面の「鋳銭坂」が変化したものではないかと考えた。これが鹿角や仙北地方に入り込み「姉こもさ」となった。八森町、峰浜村、二ツ井町、八竜町、男鹿市、八郎潟町、井川町、秋田市で唄われている。

農作業の中で最も辛い仕事が除草作業だ。田植えの後、稲が成長するにつれて雑草も伸びてくる。炎天下の泥田で始まる草取りは、十日から十四、五日間隔で三、四回行う。稲の葉より顔を高くすると、目や顔を葉で切る。だから泥田を這うように腰をかがめなければならない。この姿勢で終日、草を取る作業は大変な重労働であった。それは唄で辛さを紛らせることができるほど生易しいものではなかった。

八郎潟の周辺で唄われていたものを、昭和二十年代に秋田の名を冠して整えた。主に田植えは女仕事、田打ちや代掻きは男仕事であったが、草取りは男女共同の作業であるため、田植え唄とはまた違った唄の文句も作られた。

§○小野花子KICH-8116(93)笛/米谷威和男、米谷和修、掛け声/西田和枝。

「秋田駒引き唄」(秋田)

♪(ハーイハイ)エーデアハーエ 十五(ハイ)七が ハエー(ハイ)

エー馬屋にナーハーエー(ハイ)ソーリャエーデ アハェー(ハイ)

立てたる鹿毛の 駒ハーアエー(ハイ)

エー心ナーハーエー(ハイ)ソーリャエーデア ハェー(ハイ)

知らねで 乗りかねだハエー(ハイ)

エー男ナーハーエー(ハイ)ソーリャエーデア ハェー(ハイ)

一代の(ハイ)名を流すハエー(ハーイハイ)

馬が飛んだり跳ねたりする姿に似た駒踊りは東北各地にある。この唄は二ツ井町(ふたついまち)仁(に)鮒(ぶな)(能代市)の唄で、駒踊りが勢揃いして出てくる前座として唄われる。青森県の「東通り津軽山唄」と同系。

§○佐々木実COCF-14304(97)尺八/藤丸東風、掛け声/佐々木常雄。○小野花子KICH-8204(96)尺八/米谷威和男、掛け声/西田和美。掛け声は男声か。

「秋田酒屋唄」(秋田)

♪ハァーさんさ 酒屋のヤーエ

始まる時は ノーヤーエ(ア ドッコイ)

へらも杓子も ヤーエ手に付かぬヨー

(ア ドッコイドッコイ)

現在唄われている酒屋唄の節回しは、昭和十五(1940)六年頃、五城目町の鳥井森鈴が杜氏たちのもと摺り唄に手を加え、鳥井流の唄い方にしたものだ。終戦後、雄和町の永沢定治(1902-1953)は、湯沢の酒屋唄と五城目のもと摺り唄を合わせて唄っていた。

酒屋唄には工程別に、仕込み桶を洗う桶洗い唄、米とぎ唄、床もみ唄、もと摺り唄、櫂入れ唄などがある。唄は作業時間を測る目安となり、互いの呼吸を合わせるために唄われた。身を切るような寒さや、疲れを吹き飛ばし、士気を高める意味もあった。蔵元は蔵から聞こえる唄によって、仕事の進み具合が把握できた。

酒造りが機械化されるにつれて、唄は廃れて行く。今では仕込み、仕舞いなどの節目で唄われるぐらいになっている。

§○成田与治郎TFC-1207(99)お囃子方不記載。味のある歌唱。成田は明治四十(1907)年一月、山本郡二ツ井町(能代市)出身。初代大船繁三郎に師事して唄を鍛えた。△二代目藤田周次郎COCF-13283(96)尺八/米谷威和男、掛声/沢田勝秋。

「秋田酒屋仕込み唄」(秋田)

♪ハァー酒屋杜氏衆を ヤーエ

なじみに持たば ノーヤーエ

水屋の窓から ヤーエ粕貰たヨー

(水屋の窓からヤーエ 粕貰たヨー)

秋田酒屋唄を元に藤本e丈が作編曲。秋田銘酒のPRソング。秋田は日本屈指の酒どころ。高清水、新政、飛良泉、八重寿、両関、爛漫、まんさくの花など、五十もの銘柄がある

§○大塚文雄KICH-2463(05)三味線/藤本e丈、藤本秀茂、尺八/米谷智、鳴り物/美波駒三郎、美波成る駒、囃子言葉/大塚文茂、大塚文秀、大塚文国。男衆の囃子言葉が仕事唄らしい雰囲気をだしている。○小野花子KICH-8116(93)三味線/沢田勝秋、沢田勝仁、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬駒三郎、美鵬那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田美枝。△小川茂COCJ-31889(02)三味線/高橋脩次郎、高橋茂美希、尺八/佐々木淙山、鳴り物/美鵬成る駒、美鵬直三朗、囃子言葉/西田和好、西田りさ。

「秋田酒屋もとすり唄」(秋田)

♪ハァーもとすりはサーヨイ 楽だと見せて

楽じゃない(オヤ何仕事も)

サーヨイ 仕事に楽はあるものか

(コラヨイサーニ ソーラエサーノーナーヨーイ)

青森県南部地方の酒屋唄が秋田に移入された。日本酒は米のでんぷんを酵素で分解して糖分にし、それに酵母を増殖させて発酵させる。昔は精米度がよくなかったから、桶に入れた蒸し米、麹、水を櫂で摺り、もと(酒母)を造って酵母の栄養にした。

酒母造りは、もろみの発酵を促す酵母を育てる作業である。摺るときに、お互いの櫂が当たらないように調子を揃えて唄った。戦後、精米技術の向上とともに、もと摺りもなくなり、唄も忘れられつつある。

伝統的な仕込方法による“生もと造り”の酒は乳酸やアミノ酸が多く、香りも複雑で、こくのある味わいが特徴。近代的な速醸もとに比べて、細かい温度管理に格段の手間暇がかかり、杜氏の高い技術が要求される。

§○小野花子276A-5005(89)若々しい声で端正に唄っている。三味線/沢田勝秋、沢田勝仁、尺八/米谷威和男、鳴り物/美鵬駒三郎、美鵬那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田和菜。

「秋田竹刀打ち唄」(秋田)

♪ハァ揃た揃たよ 竹刀打ち揃たよ

稲の(ハイ)出穂より よく揃たよ

ハァ力出せ出せ 若いときゃ二度ない

汗と(ハイ)力の ある限りよ

県南部、由利郡を流れる子(ね)吉川(よしがわ)付近の堤防や、蔵を修理する際に唄った。粘土と土を交互に積み重ね、竹刀と呼ばれる棒や板で搗き固めて修理する。音頭取りの唄に合わせ、皆が囃しながら唄う一種の地固め唄。竹刀の字が当てられているが、綺麗に仕上げる、整える意味の“しなえる”“しなごく”が秋田の方言にあり“撓う”という意味も含んでいる。

地固めの唄には土搗き唄があるが、これを唄う作業は広い場所で円形になって行い、しない打ち唄は小規模の作業や、並列に長くなって行う場合に唄われる。本来は三味線などの伴奏は付かないが、戦後、ステージで唄われるようになると、この地方の臼挽き唄とよく似た三味線の手が付けられるようになった。曲想もよく、優雅な唄である。

§○青木重子APCJ-5034(94)端正で清澄な声での歌唱だが、幼さが残る。お囃子方の名は一括記載。

「秋田甚句」(秋田)

♪甚句(ハイハイ)踊らば(ソレ)三十が盛り

(ハァ オイサカッサ キタサカサイサイ

キタカソリャソリャ キタサカサッサ)

三十(ハイハイ)過ぎれば(ソレ)その子が踊る

(ハァ オイサカッサ キタサカサイサイ

キタカソリャソリャ キタサカサッサ)

唄の母体は旧南部領の「なにゃとやら」。初めは上の句と下の句が同じの“甚句”とか“サイサイ”と呼ばれる素朴なものだった。これが角館の神明社の祭礼で演じられる桟敷踊りに取り上げられると、賑やかなお囃子と娘の手踊りで唄われるようになる。大正期、秋田おばこの名人・佐藤貞子の一座が各地で唄い歩くうち、神へ供える神供踊りの“神供”に甚句の文字を当てて曲名とした。

永禄九(1566)年、安東(あんとう)愛(ちか)季(すえ)(1539-1587)が南部領の鹿角郡に侵入。翌年再び襲うが、南部晴政(1517-1582)に撃退され、同十一(1568)年三月の戦いで破れ去る。晴政は毛馬内で戦勝の遊興踊りを催し、将卒の労をねぎらった。その折りの“陣後踊り”が甚句の名のおこりだという。

踊り手の衣装は、男は紋付きに水色の蹴出し、女は襦袢に鴇(とき)色(いろ)(淡紅色)の蹴出しが標準的。近年になって江戸褄、訪問着、小紋を用いるようになった。

大湯、花輪、八幡平地区の盆踊りでは、踊りの所作の中に手拍子が二つ入る“二つ甚句”。毛馬内や小坂町などでは手拍子一つの“一つ甚句”が見られる。鹿角の盆踊りの原形が残っているのが八幡平の水沢地区で、三戸(さんのへ)のものは、旧南部で踊られているナニャトヤラの特徴を色濃く残している。

§◎黒沢三一TFC-1204(99)お囃子方不記載。音源はSP盤。○太田町史資料特別版CD(05)お囃子方不記載。音源はSP盤。かなりノイズが入る。○佐々木常雄CRCM-1OO11(98)三味線/浅野梅若、尺八/畠山浩蔵、掛声/浅野テル子、浅野和子。渋い味のあるいい声で、格調高く唄っている。○田中アエ子VZCG-131(97)笛/加藤昇風、三味線/永沢千恵子、長谷部梅忠、太鼓/千葉千枝子、鉦/浅野梅若、囃子言葉/小野花子、浅野和子。笛が大活躍。野趣があり、明朗闊達な歌唱。田中は昭和十七(1942)年、鹿角郡花輪生まれ。昭和三十五(1960)年、土崎港の成田与治郎に入門。昭和三十八(1963)年、NHKのど自慢コンクールで秋田船方節を唄って民謡日本一。○小野花子KICH-8116(93)初々しいおばこの声。三味線/高橋祐次郎、高橋修次郎、尺八/矢下勇、鳴り物/中村正男、浅賀友子、囃子言葉/西田和枝、山道依子。△藤井ケン子CF-3454(89)三味線/浅野梅若、笛/加藤昇風、太鼓/浅野孝子、鉦/村岡一二三、囃子言葉/浅野和子、川崎正子。藤井は二歳のとき眼病で失明した。桶樽職人で尺八の名手だった父から厳しい稽古を付けられ昭和十六(1941)年、地元ののど自慢大会で二位に入賞、翌年一位に。同二十八(1953)年、NHKのど自慢全国大会に出場して二位になった。

「秋田大黒舞い」(秋田)

♪明(あ)きの方から 福大黒舞い込んだナー

サアサ舞い込んだ 舞い込んだナー

何が先に立って 舞い込んだナー

コラ御聖天が先に立つ 若大黒が舞い込んだナー

四方の棚を 渡せばナー

鏡の餅も十二重ね 神のお膳も十二膳

コラ代としょう 代々と飾られたや

サー何よりも めでたいとナー

正月になると、頭に頭巾、手に小槌を持って農家を門付けをして歩く大黒舞いが現れる。大黒舞いは全国各地にあり、いずれも地口風のもので大同小異だった。庄内のものは大泉さだよの手によって現在の「山形大黒舞い」となり、秋田県では鳥井森鈴のものが標準となる。三味線の手は浅野梅若が秋田万才から流用した。昭和四十一(1966)年頃から流行し始め、同四十三(1968)年、秋田五星会の佐々木常雄と長谷川久子の掛け合いでレコード化されると、たちまち秋田を代表する唄になった。佐々木は、アコーディオン奏者の鈴木富雄の協力を得て、由利地方に伝わっていた大黒舞を練り直し、節回しを完成させた。

「明きの方」とは、正月にやってきて、その年の福をつかさどる歳(とし)徳(とく)神(じん)のいる方角のこと。恵方(えほう)ともいい、この方角は万事に吉となる。方角は年によって移動する。“コラ代としょう”は大と小、大徳聖、“代々”には橙の文字が宛てられることもあり、意味は不明。

§◎佐々木常雄、長谷川久子COCJ-30333(99)「あきのほう」。二人とも自然体で、しかも端正、上品に唄っている。土の匂いがそこはかとなくあって、春風と共に、冬明けの喜びを運んでくるような大黒舞いである。尺八/藤丸貞蔵、三味線/佐々木実、太鼓/千葉美子、効果/鈴木金雄。GES-31312(02)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、渡辺輝憧、太鼓/千葉美子、効果/鈴木金雄。○小野花子KICH-8204

(96)「あけのほう」。秋田の風土感、空気感を感じさせ、秋田物は何を唄ってもうまい。三味線/高橋祐次郎、高橋脩次郎、尺八/矢下勇、鳴り物/中村正男、浅賀友子。△佐々木常雄COCF-13283(96)「あきのほう」。いかにも民謡らしく味のある歌唱。尺八/藤丸貞蔵、三味線/佐々木実、太鼓/千葉美子。FGS-603(98)三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、尺八/畠山浩蔵、太鼓/竹内あや子、鉦/鈴木富雄、掛け声/浅野和子、浅野多枝子。△伊庭末雄OODG-70(86)「あけのほう」。声量はないが素朴な味がある。控え目の三味線でテンポを遅めに唄う。三味線/小山貢若、尺八/外山玉風、太鼓/美波駒三郎、鈴/美波祐三郎。

「秋田タント節」(秋田)

♪ハァー 一つ人目の 関所を破り

連れて行くのが 現れた 現れた

コラ お江戸へ行くとて 津軽へさ(ハイ)

津軽にお江戸が あるものか(ソレ)

大恥さらして タントタント

あいこの上作 そのわけだんよ

(そのわけだんよ そのわけだんよ)

別名は藁打ちタント節。藁打ち作業の仕事唄のように考えられているが、仙北地方の郷土芸能である番楽の中に、藁を打つ振りで踊る部分があり、そこからできた唄である。昭和十一(1936)年頃、黒沢三一がレコード化して知られるようになった。津軽の影響を受けて次第に津軽化して、当初の秋田らしい軽妙さが失われてきている。

§◎黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)音源はSP盤。たぐいまれなる美声を最新の技術でノイズを消し、復刻してもらいたいものだ。お囃子方不記載。○藤山進K30X-217(87)きっちりと唄っているところに好感が持てる。三味線/高橋脩次郎、尺八/米谷威和男、鳴り物/美波那る駒、美波成る駒、囃子言葉/曽我人子、曽我マミ。○長谷川久子COCF-9303(91)美声を誇り、技巧に流れる人気ステージ歌手の歌唱とは異なり、土地に根付き、唄うことを楽しむ味ある演唱。三味線/浅野梅若、尺八/畠山浩蔵、太鼓/成田与治郎、掛声/浅野千鶴子。△千葉千枝子COCJ-30333(99)力まず、素朴な味。懐かしいおばあちゃんの土の匂いがする。三味線/浅野梅若、尺八/渡辺輝憧、井上整山、太鼓/美波三駒、鉦/美波駒輔、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽。

「秋田長持唄」(秋田)

♪蝶よナーヨ 花よとヨ(ハァーヤレヤレー)育てた娘

今日はナーヨ 他人のヨ オヤ手に渡すナァエ

今宵ナーヨ めでたいヨ(ハァヤレヤレー)花嫁衣装

親もナーヨ 見とれてヨ オヤ嬉し泣き

秋田三味線の名手・浅野梅若が秋田市雄和町大正寺に伝わる唄に手を加え、弟子の浅野千鶴子に教える。浅野が昭和三十六(1961)度NHKのど自慢全国コンクールでこの唄で日本一になると、一躍全国に知られるようになった。

長持唄は、ほぼ全国で唄われている。大名の参勤交代などで、荷物を運ぶ雲助が唄った雲助節が転用されたものだ。花嫁が家を出るとき、次に帰ってくるときは孫を連れてこいという親の気持ちを唄う。長くお世話になりましたと嫁の気持ちを代弁して仲人が唄い出発する。道の途中では花嫁をほめる。村境まで来ると、婿方の長持ち担ぎを連れた仲人が待っている。荷の受け渡し唄の後は婿方をほめる唄となる。花嫁行列が家に着くと、花嫁と荷の引き渡しを唄で行う。主に前棒担ぎが唄い、後棒担ぎが囃子言葉を掛けた。由利地方では、道中の中間点あたりに花嫁に引き返すかどうかの決断を迫る橋があり、橋を越える前の囃子言葉“やれやれ”は橋を境にして“やらんやらん”に変わる。その場その場の雰囲気に合わせ、即興で唄われたので、哀調一色で唄うことは唄の趣旨からはずれている。こうしたしきたりを重んじた花嫁道中は昭和三十(1955)年ごろを境に姿を消した。

§○伊藤旭峰COCJ-30333(99)娘を嫁がせる父の喜びと哀しみがあふれている。尺八/矢下勇、石井紘珠、掛声/佐々木一夫。○佐々木実COCF-6547(90)尺八/藤丸東風、藤丸重雄、掛声/佐々木常雄。婚儀挙行の厳粛な雰囲気がよく現れた歌唱。○浅野和子VZCG-131(97)尺八/渡辺輝憧、古谷兵治、囃子言葉/佐藤サワヱ。綺麗なお姉さんが唄っているような雰囲気で爽快感があふれる。○小野花子KICH-2463(05)尺八/鎌田筧水、掛け合い/西田和枝。節回し声量、申し分なし。すっきりした美声で秋晴れの空に抜けていくような歌唱。○初代渡辺悦子COCF-1

3283(96)尺八/藤丸重雄、掛声/二代目渡辺悦子。自然体で素朴な味がでている。

「秋田にかた節」(秋田)

♪新潟アー ハァ寺町の花売り婆さま

花も売らずに 油売る

高いお山の 御殿の桜

枝は七枝 ハァ八重に咲く

新潟節がなまって“にかた節”になった。新潟節の節回しは、越後新発田の検校・松波謙良の作といわれる“松坂”である。“新潟寺町……”との唄い出しから命名され、越後の瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)たちが諸国各地に伝えた。七七七五型の文句で、唄を途中で伸ばすことができることから、即興の文句を返し合う掛け唄として用いられ、唄の中に“おくに浄瑠璃(じょうるり)”の文句を入れたものを“なかおくに”と呼ぶ。松坂の元唄は伊勢松坂で生まれた祝い唄。

北海道に持ち込まれた松坂はお座敷唄として唄われていた。北海道巡業に行った永沢定治が習い覚え、浅野梅若に伴奏を付けることを依頼する。

§◎浅野和子FGS603(98)三味線/浅野梅若、尺八/加藤昇風。○小野花子KICH-

2463(05)三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水。秋田三味線の名手・梅若の華麗な前弾きが66秒。若々しい秋田おばこの野趣豊かな歌唱。豊かな声量と高音の伸びが素晴らしい。△浅野千鶴子COCJ-30333(99)三味線/浅野梅若、尺八/渡辺輝憧。梅若の繊細な三の糸使いは絶品。前弾きは小野より長い。

「秋田人形甚句」(秋田)

♪(キタカサッサーイー)

囃子弾めば(ハイハイ)アリャ浮かれて踊る(キタカサッサーイー)

踊る人形の(ハイハイ)キタカサッサ 品の良さ(キタカサッサーイー)

黄金花咲く(ハイハイ)アリャ秋田の里の(キタカサッサーイー)

人形甚句の(ハイハイ)キタカサッサ 程のよさ(キタカサッサーイー)

指人形芝居で演じられる“鑑鉄坊さん傘踊り”で唄われていた。唄は踊りの伴奏的な役割をする程度で、唄だけを切り離して演ずることはなかった。舞台に出てくる僧形の鑑鉄坊主に美人を配し、初めは手ぬぐいの引き合い、投げ合いで踊り、次に唐傘を持って、からみ合いの踊りを演ずる。キタカサッサーイと弾む囃子言葉を合いの手に、畳み込むように唄って観客を沸かせた。

出し物は鑑鉄踊りで始まり、岩見重太郎のヒヒ退治、鬼人お松の殺人などが演じられ、人形芝居の巡業は交通不便な山奥などでは特に歓迎された。

四十五(1970)年頃、浅野梅若が三味線の手を整え、浅野和子がレコードに吹き込むと、囃子言葉に人気が集まった。

§○長谷川久子COCF-13283(96)三味線/佐々木実、小田島徳実、尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、太鼓/佐々木幸雄、鉦/佐々木陽子、囃子言葉/檜森養子、山田恵子。△武花烈子KICH-2463(05)三味線/小山貢竜、小山竜幸、武花浩幸、尺八/武花栄風、鳴り物/美波駒三郎、美波成る駒、囃子言葉/高野武美、武花紫緒香。土の匂いと野趣があってよい。

「秋田馬喰節」(秋田)

♪(ハイーハイ)

ハァー二両で(ハーイ)ハァ買った馬(ハーイ)

ハァー十両でハァ売れたヨ(ハーイハイ)

ハァー八両エ(ハーイ)ハァ儲けたよ

ハァ初馬喰(ハーイハイ)

春になると、馬喰(ばくろう)(博労)たちが山向こうの馬産地から、馬を引き連れてやってくる。馬が高く売れると、喜びいっぱいの唄声が空に響く。馬主や馬喰にとって、馬の良し悪しを確実に見分けることが最も重要であり、それがそのまま生活を左右する。“美顔にくず馬なし”“濡れ馬千両”は、全体に見栄えがよく、岩に濡れた和紙を貼り付けたような、しっとりとした皮膚をもった馬が良馬の条件であることを示す格言だ。

§◎石綿清耕APCJ-5034(94)枯れた高音に味があり、雰囲気もよい。

「秋田節」(秋田)

♪おらが秋田は 美人の出どこ お米にお酒 秋田杉(ソイソイ)

それに名のある おばこ節 こけし人形に 蕗みやげ

(ハァイヤサカサッサ)

作詞初代藤田周次郎、作曲小野峰月。

土崎港は、雄物川が日本海に注ぐ河口にあり、港で北海道通いの北前船の船頭たちが唄っていた。もとは山形県酒田あたりの唄であったことから、船頭たちは酒田節と呼んで櫓漕ぎ唄や酒盛り唄にしていた。それもいつしか唄われることも少なくなり、忘れられていく。

昭和二十八(1953)年頃、藤田周次郎(1925-1998)は、秋田市下浜桂根に住む小野峰月(1903-1974)が覚えていた唄を習う。藤田と小野が新しく唄の文句を作り、藤田が三味線の手をつけた。昭和三十三(1958)年にレコードに吹き込む。その際、「秋田節」と命名した。

§◎初代藤田周次郎COCF-13283(96)三味線/藤田光男、原山さよ、尺八/松田主嶺、笛/日景寛悦、太鼓/山田三鶴、鉦/高橋節子、囃子言葉/藤田八重子、三五美津子。ステージ民謡歌手には出せない素朴な味わい。声も良し節も良し。○小野花子COCF-9303(91)いかにも秋田の女性らしく、明朗闊達で元気いっぱい。三味線/浅野梅若、永沢千恵子、尺八/鎌田筧水、太鼓/柏谷信男、笛/老成参州、鉦/山田鶴助、囃子言葉/浅野和子。

「秋田船方節」(秋田)

♪(ハァヤッショーヤッショ)

ハァー(ハァヤッショーヤッショ)三十五反の

(ハァヤッショーヤッショ)

帆を巻き上げて(ハァヤッショーヤッショ)

鳥も通わぬ沖走る その時時化(しけ)に 遭うたなら

(ハァヤッショーヤッショ)

綱も碇(いかり)も手に付かぬ 今度 船乗り止めよかと

(ハァヤッショーヤッショ)

とはいうものの 港入り 上がりて妻や子の 顔みれば

(ハァヤッショーヤッショ)

辛い船乗り 一生末代 孫子の代まで 止められぬ

(ハァヤッショーヤッショ)

男鹿市(おがし)船川港あたりで、船人相手の女性達が唄った酒席の騒ぎ唄。一時、日本中で唄われた島根県の出雲節が諸国の港へ持ち回られ、秋田に入ると船唄や船方節となって定着する。同系の唄に安来節、越後船方節、酒田船方節、船川節、能代舟唄などがあり“三十五反の帆を巻き上げて……”の文句が共通している。この大きさの帆を持つ船は、およそ千四百石積みの船だ。北前船の西回り航路が制度化したのは寛文十二(1672)年であった。三月から十月ごろにかけて大坂、松前間を不定期に往き来した。北前船が隆盛を誇ったのは明治二十(1887)年代までである。

船川町に残されていた船川節は素朴なものであったが、大正の末から昭和ごろ、船川八竜町の森八千代(本名リワ1905-1962)が独特の節回しで唄い始めた。三味線の手を派手に改めた浅野梅若は、節回しにも工夫を加える。昭和三十三(1958)年、NHKのど自慢全国コンクールで、佐々木常雄が浅野梅若の伴奏で唄って優勝。同三十八(1963)年、田中アエ子が同じく日本一になると、秋田を代表する民謡として全国に知られた。その後は守屋純子(1977)、小野花子(1978)、奈良のり子(1979)と連続して日本一になっている。

梅若会では「三十五反ーー」、五星会では「五たあーんー」、五星会式は「鳥もおー」と伸ばし、梅若会式は「鳥もー」をあまり伸ばさず「通わぬ」につなぐ。梅若会が「通わぬ」の「ぬ」から音を上げるのに対し、五星会は「通わぬう」の「う」から音を上げていく。

§◎佐々木常雄COCF-13283(96)三味線/佐々木実、小田島暢、尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、太鼓/長谷川久子、囃子言葉/加藤悦子、佐々木陽子、守屋純子。五星会式。やたらに声を張り上げることなく、自然体で唄い、しかも味わいがあり渋さもある。○小野花子00DG-70(86)若い豊かな声量で、ゆったりと唄っている。梅若式の唄い方。鎌田の尺八が心地よい。三味線/永沢千恵子、尺八/鎌田筧水、太鼓/長沢梅子、囃子言葉/加藤貞子、武藤加代子。○KICH-2463(05)迫力ある見事な美声。声は最高の楽器である。三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水、鳴り物/山田鶴助、山田鶴喜美、囃子言葉/西田和枝、山道依子。CRCM-1OO11(98)三味線/浅野梅若、持主梅晴、長谷部梅忠、尺八/川上蓮陽、太鼓/竹内あや子、囃子言葉/浅野和子、浅野テル子。△FGS-603(98)は語尾を伸ばし過ぎて唄い流している。○川崎千恵子VDR

-25127(88)三味線/高橋祐次郎、尺八/米谷威和男、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴喜美、囃子/白瀬春子、山道依子。

「秋田馬子唄」(秋田)

♪(ハーイハイ)

ハァあべや(ハイ)ハァこの馬(ハイ)

急げやからげ(ハーイハイ)

ハァ西の(ハイ)ハァお山に(ハイ)

アリャ日が暮れる(ハーイハイ)

秋田は藩政時代から馬産地として知られ、農耕や荷物の運搬はもちろん、軍馬としても重用された。ひづめの音に合わせるように、のどかなテンポで唄う。「あべや」は「行こう」という意味。「からげ」は唐毛、川原毛とも書き、栗毛より薄い狐色の馬のこと。

馬市への往来は、通行人の邪魔にならないように、もっぱら夜間であった。博労たちは馬の子守唄代わりにしたり、あるいは孤独な淋しさを紛らわせるため、さらには狐に騙されないように唄った。

黒沢三一が歌っていた馬方節が、秋田馬子唄と呼ばれるようになったのは昭和の初め頃のこと。金浦町出身の加納初代が唄った“朝の出掛けに”で始まる馬方節と区別するために命名された。馬方は親方で飼い主、馬子は子方で雇われる側をいう。秋田の馬方節は曲調、文句ともにほとんど南部馬方節と同じである。旧南部を中心に道中唄は東北一円に広まり、いく通りかの節回しが生まれた。黒沢の馬方節は、岩手県の馬方節と山形の馬方節が仙北地方で一緒になったもの。

§◎黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。音源はSP盤。黒沢三一は仙北郡長信田(ながしだ)村(むら)東今泉(大仙市)の農家に生まれ、大工を生業としていた。日(ひ)三市(さいち)鉱山の祭りなどで民謡を唄っていたのが小玉(こだま)暁村(ぎょうそん)の目にとまり、昭和七(1932)年、暁村が主宰する仙北歌謡団に加わる。黒沢は人々が素朴に唄い継いできた民謡を労働と生活の場から引き出し、人々の心に語りかける唄にした。にかた節、飴売り唄、たんと節、ひでこ節、生保内節、長者の山など、黒沢が唄う明るく伸びやかな旋律を持った仙北民謡の数々は人々の心を捉えた。生活感にあふれた素朴で温かい味わいが三一節の魅力だ。○小野花子VZCG-131(97)尺八/鎌田筧水、鈴/浅野梅若、掛声/永沢千恵子。KICH-8605(07)尺八/鎌田筧水、鳴り物/山田鶴助、掛声/浅野梅若。華やかで豊かな声量。伸びやかで澄んだ高音。迫力ある小野の美声は、秋田の大地に咲く大輪の花。○千葉美子COCF-13283(96)声を誇らず自然体でうまい。尺八/藤丸貞蔵、掛声/佐々木実。

「秋田万歳」(秋田)

♪鶴は上にて舞い遊ぶ 亀は下にて友を呼ぶ

鶴亀合うて 才蔵つれておるかな

「連れまして 連れまして候なり」

「何事も太夫の下声に ついてしっかり囃してまいれ」

「いざ太夫さんより 秋田万歳 お始め候」アードッコイ

お万歳とや お国も栄えて おわします

お城造りの傾向は コラドッコイ

御門は九つ 櫓櫓とその数は 珠を連ねし如くなり

極楽浄土に 異ならでコラドッコイ

かほど目出度き御城下に 名のある町は

アララト三十と六町 コラドッコイ

そのほか数知れず 寺の数は三百三十三寺なれば

北にあたりて天徳寺 香の煙は雲に上がりて

いつも絶やせぬ 御灯明光 輝くおんたまや

コラドッコイ……

秋田地方の万歳で御国万歳ともいう。毎年の正月、江戸城内に入ることが許された三河万歳にならい、正月五日、佐竹候は久保田城に城下の万歳師を招き入れた。御国は歌舞伎の創始者とされる出雲の阿国(おくに)(1572?-?)の名に由来すると考えられ、淵源は安土桃山時代にまで遡る。

昭和五(1930)年、鳥井森鈴が苦心の作を発表。秋田万歳をひとりで演じながら、その合い間にこっけいな話や手踊りを織り交ぜ人々を楽しませた。かつて鳥井森鈴は、内川村の秋田五郎から民謡歌手が持っていない芸を学んでいた。こうした芸が身を助け、昭和二十二(1947)年からは一座をつくり、東北、北海道を巡業。秋田民謡の人気を高めたのである。

§◎鳥井森鈴CRCM-1OO11(98)三味線/浅野梅若、太鼓/竹内あや子。

「秋田港の唄」(秋田)

♪(ホーラホーサノサ エンヤラホー エーンヤーラ ホーラホ

サーノサー エンヤラホー エンヤー)

男鹿の山だよ 港の浜だヨー 春を迎える鰊(にしん)船(ぶね)

沖のかもめに 父(とと)さん聞けばョー 私しゃ立つ鳥波に聞け

遠くはなれて 母(かか)さん思ってョー うらの浜なす花が咲く

昭和十四(1939)年、古くから秋田の海の玄関口として栄えた土崎港古川町出身の劇作家・金子洋文(1894-1985)が作詞作曲。追分の節回しと、船漕ぎや網を引く掛け声を一体にした形でまとめあげた。北の海へ鰊漁に出かけた漁師たちが春風と共に大漁旗を掲げ、獲物を積んで帰港してくる港の風景が描かれている。

同三十七(1962)年、男鹿市観光協会がレコードを制作。金子の友人で禅僧の藤田渓山が渋い声で吹き込み、観光バスのガイドさんたちに唄われて次第に知られるようになった。“春を待たるる”と唄う歌手がいるが“迎える”が正しい。

§○小野花子COCF-13283(96)三味線/浅野梅若、永沢千恵子、尺八/鎌田筧水、太鼓/粕谷信男、鉦/山田鶴助、囃子言葉/浅野和子。

「姉こもさ」(秋田)

♪姉こもさヤーエ 誇らば誇れ 若いうち

桜花ヤーエ 咲いての後に 誰折らば

折りたくばヤーエ 訪ねてござれ 沢雨に

別れるにヤーエ 糸より細く 別れます

戦前は黒沢三一が得意にしていた。戦後、初代浜田喜一門下の佐々木実が唄って秋田の代表的民謡になった。仙北郡の鉱山で、ふいごを踏む人たちによって唄われていた“たたら唄”がいつしか祝い唄となる。五七五の文句をふたつ連ねて一節とし、数節を連ねて唄う格調高い唄である。もとは岩手県の祝い唄である「気仙坂」が秋田に入り、鋳銭場などで炉に風を送るたたら作業で唄う“たたら唄”に転用されて銭吹き唄となる。仙北方面の鉱山などで広く唄われ、二上りの三味線の手が付いてお座敷唄となった。角館町周辺で唄い継がれたものは、唄い出しの文句の違いから、白岩節、西根山などとも呼ばれた。宮城県の斎太郎節、福島県の原釜大漁節の元唄である。

名詞に接尾語の“コ”は言語学上「指小辞(ししょうじ)」と呼ばれ、東北方言の特徴の一つ。そのものより小さいもの、親愛の情を示す言葉である。

§○長谷川久子COCF-13283(96)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木常雄。自然体で素朴。声を誇らない歌唱。○TFC-1208(99)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、笛/老成参州。○小野花子COCF-14301(97)三味線/浅野梅若、永沢千恵子、尺八/鎌田筧水、太鼓/粕谷信男。未洗練の野趣があり、土の香りと秋田おばこの生命力を感じさせる歌唱。△KICH-8116(93)編曲/桜田誠一。三味線/藤本e丈、藤本秀輔。管弦楽の編曲は必ずしも成功したといえない。

「飴売り唄」(秋田)

♪ハァーわたしゃ商売 飴売り商売

鉦コたたいて 毎日回る

ハァー神宮寺新町 日暮れに通たば

姉と妹が 門立ちなさる

飴売りは飴箱を肩から提げ、摺り鉦を叩きながらやってくる。町の辻や神社の境内で飴を売り、手踊りなども見せた。新潟県下の新保広大寺が秋田に移入。飴売りたちは七七七五調二十六文字のものでなく、字余りの長編化された口説き節を東北各地に持ち回った。飴売り唄は全国各地にあり、山形県では最上口説、宮城県では黒川口説などと呼ばれて残っている。

黒沢三一が昭和八(1933)九年頃、レコードに吹き込む。新保広大寺は安永年間(1772-1780)の末、新潟県十日町市で起こった広大寺和尚追い出し事件のザレ唄だ。それが流行り唄となって遊芸人たちの唄になっていく。飴売りたちはその唄を利用して、その土地土地の伝説や物語を読み込んで唄った。飴売りや、動物や金太郎などをハサミを使って巧みに作り上げる飴細工師も、今ではほとんど見られなくなった。

§◎黒沢三一「本場飴売節」太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。音源はSP盤。○小野花子276A-5005(89)藤本直久、藤本直富久、尺八/鎌田筧水、鳴り物/山田鶴助、山田鶴喜美。○千葉美子「秋田飴売り唄」COCF-13283(96)三味線/佐々木実、小田島暢、尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、太鼓/佐野政子、鉦/佐々木陽子。鉦、太鼓が大活躍して賑やに囃す。△加藤悦子「秋田飴売り唄」APCJ-5034(94)土の匂いがするめんこい声。

「いもの子(祝奉節)」(秋田)

♪めでたいものは 芋の子の種ナァエ

茎長く 葉も広くナァエ

孫子栄える ナヨエー(ハァ爺様も婆様も)

祝い唄“いもの子の種”は全国に分布している。古くから唄われていた“芋の種”を秋田五星会が節を改め「祝奉節」として唄い出した。五星会は、佐々木常雄、長谷川久子、千葉美子、鈴木実、藤丸貞蔵の五人がメンバー。

慶長七(1602)年、佐竹義宣(よしのぶ)(1346-1389)は水戸から秋田へ移封された。その途次、湯沢に泊まったときに、家臣が水戸方面で唄われていた祝い唄を披露したのが唄い継がれ、今日まで残っているという。

山に自生する山芋(自然(じねん)薯(じょ))に対し、里で栽培される芋を里芋と呼ぶ。原産地はインド東部からインドシナ半島で、日本への渡来は稲作が始まった縄文時代後期よりも古い。北海道を除く全国で栽培され、子芋を食べる品種、親芋を食べる品種、子も親も食べる品種に大別される。

§○村上とみ子APCJ-5034(94)幼さが残るが端正な歌唱。曲は雅趣に富む。△光本佳し子KICH-127(98)三味線/藤本e丈、藤本秀禎、尺八/米谷和修、琴/山内喜美子、鳴り物/美鵬奈る駒、美鵬成る駒。琴が優雅な雰囲気を醸し出す。

「臼ひき唄」(秋田)

♪臼ひき頼んだば 婆どこ頼んだ エー婆も(ハイ)

若い時ゃ なんぼよがたエー

臼のろくろサ 小豆餅上げて エー回す(ハイ)

たんびに ひとかじりエー

県南部の由利郡地方で唄われていた籾摺り唄。籾摺りは籾殻を摺って玄米にする作業だ。雨が降って戸外で仕事が出来ないときや、夜なべ仕事が主であった。三、四人が唐臼を回しながら唄う。戦前、由利郡金浦町(にかほ市)の加納初代(1893-1966)が十八番としていて、四句目に他の民謡に見られない素晴らしい落としを加えた。今日では三味線の手が付き、唄いやすくなっている。

旧由利郡仁賀保(にかほ市)の冬師(とうし)、釜ヶ台、伊勢(いせ)居地(いじ)の三集落には、三百五十年間以上昔から伝わる番楽がある。釜ヶ台番楽の最後に演じられる空(そら)臼(うす)舞(まい)では、四人が臼の縁や胴を棒でたたいたり、二人が対になって棒を交差させながら打ち合うなどして、リズミカルに舞う。その伴奏のひとつに臼挽き唄が唄われる。

§○外崎正一APCJ-5034(94)少し枯れた味のある高い声。お囃子方不記載。○浅野和子CF-3454(89)三味線/浅野梅若、尺八/渡辺輝憧。幼さを残すが、しっとりとした情緒がよい。

「岡本新内」(秋田)

♪せめて一夜サ 仮寝にも 妻と一言(いちごん) 言われたら

この一念も 晴れべきに どうした因果で 片思い

嫌がらしゃんす 顔見れば わたしゃ愚痴ゆえ エなお可愛い

洗練されたお座敷唄。明治の頃までは“岡本っコ”と呼んでいたが、中央の舞台で紹介された大正年代、新内と名付けて売り出した。安政の頃、七代目市川団十郎(1791-1859)の弟子・団之丞が、師匠の愛人と駆け落ちして平鹿郡今宿村(雄物川町今宿)に身を寄せた。この団之丞が土地の人々に教えた唄が元唄であるという。明治の頃、太夫と呼ばれる語り手の唄に、太棹三味線の伴奏と優雅な振りが付けられていた。

横手の岡本一寸(ちょっ)平(ぺい)(柿崎シヨ1897-1982)は、この唄が時代と共に失われていくのを惜しみ、大正の初め頃、その復元を志す。歌詞を拾い集め、調子を尋ねて新内振りの岡本新内を完成させた。

洗練された中にも纏綿(てんめん)たる情緒と哀愁を帯びた唄は県の伝統芸能として、横手市や雄物川町(おものがわまち)などの保存会が継承している。

§○成世昌平CRCM-4OO23(94)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鳴り物/堅田啓輝。繊細な声で品よくまとめている。成世は広島県三次市出身。西の民謡を唄いこなす数少ない民謡歌手。

「おこさ節」(秋田)

♪鳴くな鶏 まだ夜が明けぬヨ アラオコサノサ

明けりゃ お寺のコーラヤ コラ鐘が鳴るヨ

オコサデ オコサデ ホントダネ

お前来るかと 一升買って待ってたヨ アラオコサノサ

あんまり 来ないのでコラヤノヤ 飲んで待ってたヨ

オコサデ オコサデ ホントダネ

太平洋戦争の直前、群馬県の草津温泉に逗留していた成田雲竹(1888-1974)が作詞作曲。湯揉み作業で唄われていた草津節にヒントを得たという。その時、雲竹は湯揉み作業に興味を引かれ、自らも湯揉みを試みた。

当時は戦意高揚のために、精神を奮い立たせるという意味の“精神(せいしん)作興(さっこう)”が盛んに唱えられていたが、その作興をひっくり返して“おこさ”を曲名としたのである。唄の文句には、対米戦争の時が来れば、天皇陛下から開戦の詔が発せられるから、今は動揺してはならないという意味を込めたという。

親しみやすい節回しで酒席で唄うには調子がよく、洒落っ気のある唄の文句も即興で唄われる。

おこさ節を広めたのは、尾去沢鉱山の労働者たちであった。唄は山から山へと渡り歩く男たちによって、各地へ広まったのである。

§◎成田雲竹COCJ-30670(99)三味線/高橋竹山。青森放送が電波に乗せた雲竹の唄と語りのCDで、唄の勘所や民謡に対する雲竹の思い入れを語っている。○佐藤サワヱK30X-217(87)素朴さと野趣がある。三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、尺八/加藤昇風、鳴り物/竹内あや子、囃子言葉/秋声会。COCF-13283(96)あまり品のよくない唄い方だが、自信に満ちている。尺八/鎌田筧水、太鼓/柏谷信男、三味線/永沢千恵子、長谷部梅忠、囃子言葉/小野花子、浅野和子。佐藤は昭和十五(1940)年、由利郡仁賀保町(にかほ市)生まれ。土崎港の成田与治郎の門下のひとり。○三浦寒月COCF-12697(95)昭和二十三(1948)年、三浦寒月がレコードに吹き込み、秋田を中心に北海道、東北地方、関東一円で愛好された。同二十五(1950)年、西条八十の詞で久保幸江(1938-2010)が歌い、続いて林伊佐緒(1912-1993)がルンバ調で唄ってヒットした。

「生保内節」(秋田)

♪吹けや生保内(おぼね)東風(だし) 七日も八日も(ハイハイ)

吹けば宝風 ノオ稲実る(ハイキターサッサ キターサ)

わしとお前は 田沢の潟よ(ハイハイ)

深さ知れない ノオ御座の石(ハイキターサッサ キターサ)

唄い出しの文句を取って生保内だしとか、囃し言葉からノーコラ節などと呼ばれ、祝い事や神事のあとの直会(なおらい)では真っ先に唄われた。

水深423.4m、日本一の深さを誇る田沢湖の東、仙北郡(せんぼくぐん)田沢湖町生(たざわこまちお)保内(ぼない)(仙北市)は、秋田から岩手へ抜ける国道46号線の仙岩(せんがん)峠(とうげ)秋田側の宿場である。

四季を問わず、駒ヶ岳(1673b)から吹き下ろす生暖かい東風は、生保内(おぼね)東風(だし)と呼ばれ、宝風として喜ばれている。生保内東風は春先には残雪が溶けるのを促し、夏は害虫を防いでくれる。秋には豊かな実りをもたらして、刈り取った稲の乾燥を早め、霜が降りるのを遅らせてくれる。

田沢湖町神代の西宮徳水(1880-1940)が三味線の手を付け、節回しを整えて角館町(かくのだてまち)飾山(おやま)の桟敷(さじき)踊(おど)りに加えると、一気に人気を呼んだ。小玉暁村(1881-1942)は、小学校校長を退職後、昭和六(1931)年に仙北歌踊団を結成して、各地で秋田の民謡を紹介。生保内節にも手を加えた。

生保内では、改良前の単純な節回しで、囃子言葉が“コイーコイーコイコイト”の唄を正調生保内節と呼んでいる。

§◎黒沢三一COCF-12697(95)尺八/菊池淡水。太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。音源はSP盤。○小野花子OODG-70/3(86)声自慢のおばこの唄。土のにおいがする初々しい歌唱。尺八もよい。三味線も控えめだが、唄をきっちりと支える。三味線/永沢千恵子、尺八/鎌田筧水、太鼓/永沢梅子、囃子言葉/加藤貞子、武藤加代子。○長谷川久子「正調生保内節」TFC-1208(99)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木常雄。COCF-13283(96)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木陽子、鉦/守屋純子。COCF-14304(97)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木常雄、鉦/千葉美子、囃子言葉/飯田優子。○藤井ケン子20DZ-1502

(89)三味線/佐藤恵美子、栗原茂子、尺八/佐藤錦水、畑田秀霖、横笛/福田次郎、太鼓/美波駒富士、囃子言葉/白瀬春子社中。瞽女唄の味わいを残す野趣ある歌唱。△浅野千鶴子VZCG-131(97)青空に抜けるようなのどかな歌唱だが、少々おとなしい。尺八/加藤昇風、三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、太鼓/千葉千枝子、囃子言葉/小野花子、佐藤サワヱ。FGS-603(98)三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、尺八/加藤昇風、古谷兵治、太鼓/竹内あや子、掛け声/佐藤サワヱ、浅野多枝子。○佐々木貞勝「正調生保内節」APCJ-5034(94)素朴で野趣があり、土地の匂いのなかに古き時代の風情を残している。お囃子方は一括して記載。

「お山コさんりん」(秋田)

♪お山コさんりは どこからはやた 秋田の仙北角館

(オヤマコサンリ オヤマコサンリ)

お前吹く風 わしゃ飛ぶ木の葉 どこへ落ちるも風次第

(オヤマコサンリ オヤマコサンリ)

明治十(1877)年の暮れから翌十一年の夏にかけ、全国的な流行をみせた“オヤマカチャンリン蕎麦屋の風鈴”と唄う流行唄が県下に持ち込まれた。仙北郡角館町(仙北市)の神明社の祭礼で行われる桟敷踊りや、鹿角市の花輪の町踊りの演目にも取り入れられ、笛、太鼓、鉦の賑やかな伴奏で唄われているうち、美しい節回しに磨き上げられた。曲名も囃子言葉をもじって“お山コ三里”“お山コさんりん”などと呼ばれるようになった。“仙北おやまこ”“鹿角おやまこ”と、地名を冠して呼ぶこともある。

元唄が江戸で唄われ始めたのは天保年間(1830-1843)のこと。“おやま”は遊女を指し、遊郭通いの遊び人を揶揄した流行歌であった。これをもじった“親馬鹿チャンリン”は、子煩悩の親を揶揄した言葉である。

§○東海林かなえ「古調」TFC-1205(99)スローテンポな古調。秋田民謡の特徴である“ゆり”が存分に聴ける。三味線/長谷部梅忠、尺八/川上蓮陽、太鼓/佐藤啓子。東海林かなえ(1927-1995)は秋田市出身。鳥井森鈴に師事する。彼女の唄いっぷりは“かなえ節”と呼ばれて人気を呼び、秋田民謡の新時代を作った。○浅野和子CF-3454(89)野趣もあり、元気がよい。三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、笛/加藤昇風、鉦/浅野洋子、囃子言葉/浅野千鶴子、佐藤サワヱ。○千葉美子COCJ-303

33(99)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木常雄、鉦/小田島次男、掛声/長谷川久子、佐藤供子、加藤悦子。GES-31312(02)三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、笛/加藤昇風、鉦/浅野洋子、囃子言葉/浅野千鶴子、佐藤サワヱ。○佐藤祐幸「鹿角お山こ」COCF-6547(90)渋い味の野趣ある美声。曲想はいかにも素朴で田舎的だ。角館地域から北上していくにつれ、唄のテンポが早くなる。三味線/湯沢栄幸、尺八/黒沢雲月、菅原五郎、太鼓/成田ヨシ子、掛声/工藤和江、湯沢順子。

「角間川船唄」(秋田)

♪同じ町でも 角間川港ヨ

上り下りの 船が出るヨ

ちょいと待ってけれ でんぼの船場ヨ

一目逢いたい 人がいるヨ

雄物川と横手川を往来する船頭たちの唄。二つの川が合流するところにある角間川町(大仙市)の港は、藩政時代以来、雄物川流域の舟運の中継点として栄えた。船着場は浜と呼ばれ、横手川左岸には大倉庫が十数棟並び立ち、毎日六〜七十隻の船が出入りした。春と秋の増水期には、千俵積みの大船が上がってきたという。

明治の前期が全盛期であったが、明治三十八(1905)年九月、奥羽本線が全通すると雄物川の舟運は衰退し、角間川町も停滞を余儀なくされた。ひっそりと静かな集落となった旧角間川町は、昭和三十(1955)年に大曲市に編入され、平成十七(2005)年に大仙市となった。横手川も改修工事で旧川は廃川となり、昭和五十(1975)年に埋立てられている。

§○長谷川常雄COCF-14304(97)笛/東風藤丸貞蔵、箏/野口裕子。

「鹿角お山コ」⇒「お山こさんりん」(秋田)

「喜代節」(秋田)

♪床に掛け物 七福神 庭に松竹 鶴と亀

これの座敷に 舞い遊ぶ 祝いましたや 鶴の声

品格ある曲節を持つ仙北方面の祝い唄。一同、威儀を正し、手拍子を打って斉唱した。元唄は“ざっくら節”と呼ばれた素朴な唄で、既に応永年間(1394-1428)に唄われていた。素朴な古調は、今では聴くことができなくなっている。“ハァーめでたいめでたい”という合いの手を付けた唄と、その後に“アーざっくらざっくら”と合いの手を入れていたという。

“おめでたい節”とよく似た歌詞が、岩手県下の雫石(しずくいし)や紫波(しわ)地方で「御祝い」として唄われている。

§○佐藤松子KICH-8114(93)お座敷唄を唄わせると、さすがにうまく、しっとりとした情緒が漂う。笛が活躍し雅趣を醸す。三味線/藤本e丈、笛/米谷威和男。○川崎千恵子VDR-25127(88)三味線/川崎愛子、川崎英世、尺八/矢下勇、笛/米谷威和男、鼓・太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬成る駒。静かなたたずまいで唄っている。

「久保田節」(秋田)

♪エー嶽の白雪 朝日で溶ける

アー溶けて流れる ヤレサエ旭川

児玉政介作詞、永沢定治作曲の新民謡。

久保田は佐竹藩時代の城下町。現在の秋田市のことである。昭和二十(1945)年十二月から、同二十六(1951)年四月まで、秋田市長を務めた元秋田県知事・児玉政介が歌詞を作り、雄和町川添の永沢定治(1902-1953)が節付けした。お座敷調で小唄風の味わいを持っている

嶽の白雪とは秋田市の東方に聳える太平山(たいへいざん)(1171m)に積もる雪をいう。旭川の名は漂白の旅人菅(すが)江(え)真澄(ますみ)(1754-1829)が、水源の旭岳にちなんで命名したという。旭川は秋田市を南西に流れ、荷別川、太平川を合わせて旧雄物川に注ぐ。

§○田口恵美子COCJ-30333(99)味のある年配女性の風情があり、美声を聴かせている。尺八も静かで深い味わいを持つ。三味線/浅野梅若、尺八/渡辺輝憧。○伊藤かづ子VDR-25153(88)編曲/小沢直与志。三味線/豊吉。オーケストラをバックに、野趣のある唄い方に哀調を漂わせている。

「仙北にかた節」(秋田)

♪ハァ元日に 鶴の音を出す あの井戸車

甕(かめ)に汲み込む 若の水

ハァ義理にせまれば 鶯鳥も

梅を離れて 藪で鳴く

新潟に生まれた新潟節がなまって“にかた節”になった。新発田出身の松波謙良が伝えた祝い唄の松坂が元唄。前奏で秋田三味線が活躍する。同じ太棹の三味線でも秋田三味線は掬い、津軽三味線は叩く奏法が特徴。

§○浅野和子COCF-9303(91)野趣があり力もある。浅野梅若の三味線前弾きが51秒。三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水。浅野和子は昭和二十二(1947)年、由利郡東由利町(由利本荘市)生まれの梅若門下。

「田沢湖音頭」(秋田)

♪ハァー 秋田駒から 昇り陽うけて

男岳 女岳の仲のよさ アラ エガッタネ(アラ エガッタネ)

映す田沢湖 春風呼んで 深山つつじも 紅つける

(ハータンタン田沢湖 シュンナコナ タンタラ田沢湖 タタント ホイホイ)

城健司作詞、市川昭介作曲のご当地ソング。

§都はるみCOCA-11779(94)管弦楽伴奏。

「長者の山」(秋田)

♪盛る盛ると(ハイハイ)長者の山盛るナ(ハイハイ)

盛る長者の山 サアサ末長くナ

(ハイ キターサッサー キターサ)

岩手との県境、国見温泉の湯治客が掛け唄として唄っていたもの。婆々踊りとも呼ばれていた。その後、角館のお祭りである飾山囃子(おやまばやし)にも取り上げられ、節回しも洗練されて今日のような唄になった。

仙北郡田沢村(仙北市)宝仙台あたりの長者が金鉱を堀り当てた。そのお祝いに、村人が唄い出したという伝説がある。しかし、長者を称える唄の文句は一つしかなく、後は草刈り唄風のものばかりである。この唄が唄い継がれてきた田沢湖町玉川地区は、今では鎧畑ダムと玉川ダムに水没している。長者とは、中世期に仙北の角館に拠点を置き、藩政期には新庄藩主となった戸沢氏のことだという口碑があり、玉川ダムによってできた宝仙湖の北東方の水中に、かつて長者館と呼ばれた館跡が沈んでいるとの言い伝えがある。

§◎伊藤旭峰COCJ-30333(99)渋い味を出している。囃子言葉も元気がよい。三味線/大川佳子、小沢千月、尺八/矢下勇、石井紘珠、太鼓/佐々木一夫、囃子言葉/飯田優子、丸山正子。○黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)伴奏者不記載。早いテンポで唄っている。○千葉美子「古調」COCF-13283(96)土の匂いと野趣があり、渋さと味のある声だ。三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木陽子、鉦/守屋純子。

「ドンパン節(円満蔵甚句)」(秋田)

♪(ドンドンパンパン ドンパンパン ドンドンパンパン ドンパンパン

ドドパパ ドドパパ ドンパンパン)

唄コで夜明けた我が国は 天の岩戸の初めより

尺八三味線笛太鼓 忘れちゃならない国の唄

田沢湖町生保内の宿場で唄われていた酒席の騒ぎ唄。雫石から伝えられたドドサイ節が生保内化して、当初はドンサイ節と呼ばれていた。太鼓の打ち方が囃子言葉になっている。

仙北郡中仙町豊川村(大仙市豊岡)の大工で指物師・高橋市蔵(1868-1941)は、大の唄好きで通っていた。彼は県内はもとより、東北各地の神社仏閣に優れた彫刻を残していて、東北の左甚五郎といわれている。昭和の初め頃、秋田甚句の節をもとにして“円満造(えまぞう)甚句(じんく)”を作り上げる。円満蔵は市蔵の大工の屋号である。角館町の黒沢三一(1894-1967)はそれに手を加え、昭和十(1935)年頃、「ドンパン節」を完成させた。

昭和六十(1985)年からドンパン祭りが始まる。開催日は八月十六日。大仙市北長野字茶畑地内のドンパン広場に、小中学生から町内外の老若男女が集まり、皆でにぎやかに唄い踊る。ラストには盛大な花火が打ち上がり、祭りの熱気は最高潮に達する。広場の一角に小柄な体格の市蔵の像がある。平成五(1993)年に建てられたものだ。

陽気で開放的なドンパン節に比べると、古い円満造甚句は素朴で落ち着いた深みがある。唄は円満造じいさんの孫にあたる高橋大文が、踊りは豊川地区の住民や豊川小学校の児童が受け継いでいる。

§○浅野梅若CRCM-1OO12(98)三味線/長谷部梅忠、尺八/畠山浩蔵、太鼓/竹内あや子、囃子言葉/浅野和子、浅野テル子。川辺郡大正寺村(雄和町)に生まれの浅野梅若(1911-2006)は、幼い頃から坊(ぼ)様(さま)が弾く三味線に興味を持ち、その後を付いて回ったという。長じて梅田豊月に師事、その腕をあげ、それまでは低く見られていた三味線伴奏を華麗な名人芸にまで引き上げた。○小野花子、浅野和子、佐藤サワヱ、田中アエ子、浅野千鶴子VZCG-131(97)尺八/鎌田筧水、笛/加藤昇風、三味線/浅野梅若、長谷部梅忠、太鼓/永沢千恵子、鉦/千葉千枝子。浅野梅若門下の花々が賑やかに唄う。浅野千鶴子は昭和十八(1943)年、南秋田郡井川町生まれ。昭和三十六(1961)年、浅野梅若に入門。NHKのど自慢コンクールで秋田長持唄を唄い、民謡日本一となった。○小野花子KICH-8204(96)三味線/高橋祐次郎、高橋脩次郎、尺八/矢下勇、鳴り物/中村正男、浅賀友子、囃子言葉/西田和枝、山道依子。○長谷川久子、千葉美子COCF-13283(96)三味線/佐々木実、小田島暢、尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、鉦/太鼓/佐々木常雄、掛声/木村悦子。五星会の面々が、気品のよい唄に仕立てている。

「西馬音内盆踊り唄(ガンケ)」(秋田)

♪ヤートーセー ヨイヤナ

(ハーセッチャ ソレソレ ソレソラ)

揃た揃たよ(ハイ)踊り子揃た(ソレソレソラ)

稲の出穂より(ハイ)サァサよく揃た

(ソレ みみつけはなこで シャッキトセ)

雄勝郡羽後町の西馬音内(にしもない)で踊られる盆踊り唄。明るく野趣に富んだお囃子は、素朴で生活情緒にあふれている。南秋田郡八郎潟町(はちろうがたまち)一日(ひと)市(いち)、鹿角市(かづのし)十和田(とわだ)毛馬内(けまない)の盆踊りと共に、秋田三大盆踊りのひとつだ。宵のうちに踊る秋田音頭と、夜更けに踊る甚句の二種があり、甚句の方をガンケと呼んでいる。ガンケの意味は、月夜に飛ぶ雁の形をした踊りから、あるいは仏教語の願生化生(願化)の意味ともいうが詳細は不明。

踊りの起源についても、正応年間(1288-1293)、豊作祈願のために蔵王権現(御嶽神社)で踊り始めたとか、文禄二(1593)年、西馬音内で自刃した矢島城主・大井五郎満安の慰霊のために催されたなどという説がある。黒い布ですっぽり顔を隠す彦三(ひこさ)頭巾(ずきん)の装束はその名残で、その風体から亡者踊りと呼ばれている。編み笠をかぶった鳥追い姿の男女が、広口の袖に赤の裏を付けた派手な浴衣や、端縫(はぬ)い衣装に身を包み、風に揺れる稲穂を思わせる流麗で優雅な美しい踊りを見せる。

西馬音内は仙北平野南西部の山際にあり、雄勝、平鹿郡や沿岸部の由利郡との交通の要衝で、市が盛んに開かれていた。地名の由来には、アイヌ語説、雄勝城の西門内説などがある。

§◎小野花子276A-5OO5(89)三味線/高橋祐次郎、高橋脩次郎、笛/米谷龍男、鳴り物/美波成る駒、美波京駒、美波祐三郎、囃子言葉/西田和枝、山道依子。甚句を踊る盛りの年齢を過ぎても、おばこそのままに唄う小野の魅力ある歌唱。○佐々木一夫COCJ-30700(99)松尾健司採譜、編曲。囃子言葉/小野田実、小野田浩二、外崎繁栄。秋田なまりに野趣があふれる秋田音頭。管弦楽伴奏。

「能代船方節(能代船唄)」(秋田)

♪ヤサーホーイ サーノサー エンヤラホー エンヤー

(ハァーエンヤー ホイーサ)

能代橋から(ハァーエンヤー ホイーサ)

沖眺むれば(ハァーエンヤー ホイーサ)

三十五反の帆を巻いて 米代川(よねしろかわ)に入る時 大きな声をば張り上げて

ホラーホーイ サーノサー エンヤーラホー エンヤー

(ハァーエンヤー ホイーサ)

思い出したら船乗り エーやめられぬ(ハァーエンヤー ホイーサ)

能代良いとこ(ハァーエンヤー ホイーサ)

入り船出船(ハァーエンヤー ホイーサ)

千両万両の花が咲く 咲いた花なら手(た)折(お)れもしょうが

なぜにあの娘(こ)が 手折られぬ(ハァーエンヤー ホイーサ)

能代繁盛のエー もとじゃもの(ハァーエンヤー ホイーサ)

北前船の船頭たちが、島根方面で唄われていた出雲節を能代に持ち込み、酒席の騒ぎ唄にした。唄の途中に櫓漕ぎの掛け合いを挿入して、船頭の掛け声が囃子言葉に使われている。能代船方節とも米代川船唄とも呼ばれる。

能代は奥羽山脈から流れ出る水を集め、日本海に注ぐ米代川河口に開けた町である。米代川の流域から、秋田杉、阿仁銅山の鉱物、米などが河口に集められた。藩政時代、能代の港は本荘、土崎、船川とならぶ秋田の代表的港であり、北海道通いの北前船の寄港地として栄えた。

安政二(1855)年編さんの『東講商人鑑』には、能代港の廻船問屋が九軒、廻船小宿が二軒、廻船附船が五軒が記されている。戦後間もなく能代市の袴田与四雄が中心になって発足した能代(のしろ)鼓手蘭交(こてらんこう)会がこの唄を世に出した。

§◎大島とみ子「能代舟唄」VZCG-131(97)三味線/田村裕、尺八/小澤秀水、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波成る駒、囃子言葉/白瀬春陽社中。野趣があり力感もある。大島とみ子は鼓手蘭交会会員。昭和三十五(1960)年、NHKみちのくさなぶり大会で唄って広く知られるようになった。○佐々木常雄COCF-13283(96)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、掛声/長谷川久子、千葉美子、佐々木実。さらりと唄い、力感に乏しいが渋い味がある。掛声に女声を用いて、お座敷調船唄の雰囲気を出している。

「ひでこ節」(秋田)

♪十七八ナー 今朝のナー(ハイハイ)

若草 どこで刈ったナーコノ ヒデコナー

(アラ ヒデコナ アラ ヒデコナ)

どこで刈ったナー 日干しナー(ハイハイ)

長根 のその下でナー コノ ヒデコナー

(アラ ヒデコナ アラ ヒデコナ)

“ひでこ”は百合科の多年生“牛尾(しお)菜(で)”のこと。蕨(わらび)やぜんまいなどと共に春になると萌え出し、摘まれて食用にされる。草摘みの人たちが掛け合いで唄った。盛岡市の東側に隣接する下閉伊郡岩泉町の「そんでこ節」が秋田化したものだ。

菅江真澄の『小野のふるさと』(1758)に、湯沢市周辺の記述があり“このしほでこへ”という囃子言葉を交えた唄が紹介されている。

青森を除く東北五県で唄われていて、山形には“ひょんねこ節”があり、鹿角郡曙村(鹿角市)の“そでこ節”の節は「津軽山唄」に似ていて、最も古風な感じを残している。唄の文句にある“ひぼしながね(日干長根)”は「そんでこ節」に唄われる“烏帽子(えぼし)長嶺(ながね)”のことだ。

「ひでこ節」が世に知られるようになるのは大正後期からで、小玉暁村が復活させた。昭和四(1929)年には太田秀月がレコードに吹き込んでいる。

§◎黒沢三一TFC-1204(99)お囃子方不記載。◎太田町史資料特別版CD(05)お囃子方不記載。若くて未洗練の声だ。○加藤悦子、守屋純子COCF-13283(96)三味線/佐々木実、小田島暢、尺八/藤丸貞蔵、藤丸重雄、太鼓/佐々木常雄、囃子言葉/長谷川久子、佐々木陽子。いかにも民謡らしい素朴な雰囲気をうまく出している。○川崎千恵子VZCG-131(97)三味線/高橋祐次郎、尺八/米谷威和男、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春駒。自然体で唄っていて好感が持てる。○佐藤けい子CRCM-1OO11(98)三味線/浅野梅若、持主梅晴、長谷部梅忠、尺八/川上蓮陽、太鼓/竹内あや子、囃子言葉/浅野和子、浅野テル子、川崎正子、小野花子。

「本荘追分」(秋田)

♪(キターサーキターサ)

ハァー本荘 (キターサ)ハァ名物(ハイハイ)

ハァ焼山の (ハイハイ)ハァ蕨ヨ(キターサー キターサ)

焼けば焼くほど (ハイハイ)ハァ太くなる

(キターサー キターサ)

子吉川の河口に開けた古雪港(現本荘港)で港の女たちが酒席の騒ぎ唄として唄っていた。子吉川は由利郡を横切り日本海に注ぐ。

北前船が長野の追分宿で生まれた“馬方三下り”を持ち込み、秋田で磨かれて今日のようなものになった。江戸で三味線修業をしていた盲目の佐藤林之市(1828-1896)が秋田に持ち帰ったという説もある。

古い唄の文句には、信濃追分と似たものがたくさんあり、追分節は菅江真澄の『鄙廼(ひなの)一曲(ひとふし)』が完成した文化六(1809)年以降に唄われ出したようである。大正から昭和初期、古雪の芸者・甚能亭藤子や吉野家錦子がレコードに吹き込み、戦前は加納初代(1893-1966)が得意としていた。昭和三十二(1957)年、長谷川久子(1937-

1995)がNHKのど自慢全国大会でこの唄で優勝してから、全国に知られるようになる。

振りを付けたのは藤蔭流創始者・藤蔭静樹(藤間静枝1880-1966)。藤蔭は昭和六(1931)年、由利(ゆり)本(ほん)荘(じょう)市(し)肴(さかな)町(まち)の料亭・宮六亭の宮丸キヨヱ(1891-1977)のもとに数カ月ほど身を寄せていた。その時、芸者たちの手踊りをまとめこの唄に振り付けた。現在、踊られているのは、由利本荘市子吉地区に残る踊りを元に再生した鴻瀬玉子のものと、その子息・栄一が振付けた盆踊風のものがある。

§◎東海林かなえTFC-1205(99)東海林の素朴な味は、余人を以て替えがたい。三味線/長谷部梅忠、尺八/川上蓮陽、太鼓/佐藤啓子。東海林(しょうじ)叶(かな)江(え)(1927-1995)は大内町岩ノ目沢生まれ。少女時代から鳥井森鈴の薫陶を受け、十代で数々の民謡大会に出場して優勝をさらった。秋田追分と本荘追分を得意としていて、その唄いっぷりは“かなえ節”といわれて秋田民謡の新時代を作った。○黒沢三一太田町史資料特別版CD(05)お囃子方不記載。音源はSP盤。○長谷川久子COCJ-31889

(02)すんなり力まず、自然体でしかも力ある声。ステージ歌手にこの味はだせない。三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐々木陽子、囃子言葉/守屋純子、千葉とし子。COCF-9303(91)三味線/佐々木実、尺八/藤丸貞蔵、太鼓/佐野政子、掛声/加藤悦子。COCF-13283(96)少々おとなしい歌唱。三味線/佐々木実、照井真都実、尺八/東風藤丸貞蔵、藤丸重雄、太鼓/熊谷浩子、掛声/関千恵子、関恵里子、高橋由紀子。○小野花子00DG-73(86)秋田の味と香りがいっぱい。三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水、太鼓/永沢梅子、囃子言葉/加藤貞子、武藤加代子。浅野梅若と鎌田筧水の掛け合いもよい。KICH-2463(05)三味線/浅野梅若、尺八/鎌田筧水、鳴り物/山田鶴助、囃子言葉/西田和枝、山道依子。

「三吉(みよし)節(ぶし)」(秋田)

♪(ジョヤサー ジョヤサー ジョヤサー ジョヤサー)

わたしゃ大平(おいだら) ハァ三吉の子供(ジョヤサー)

人に惜し負け 大嫌い(ジョヤサー ジョヤサー)

太平山三吉神社(秋田市広面(ひろおもて)赤沼)の梵天(ぼんでん)祭りは、冬の秋田の代表的な行事。三吉節は祭りで唄われる奉納唄で、県内の民謡の中では最も威勢のいい唄だ。唄は短いが、節回しは複雑で伴奏は付かない。

毎年、初縁日の旧暦一月十七日、近在から梵天を担いで三吉神社へ押しかけた男たちが、激しくぶつかり合いながら梵天を奉納する。元唄は、保呂羽山波宇(ほろわさんはう)志(し)別(わけ)神社(横手市)にまつわる保(ほ)呂(ろ)羽山(はさん)節、ほらさ節のようである。秋田市太平の田中誠月が編曲して三吉節ができあがった。

昭和十六(1941)年頃、NHK秋田放送局が梵天奉納の唄を全国に実況放送することになった。その折り、田中誠月、永沢定治、進藤勝太郎の手によって、元唄よりも更に威勢のよい唄になった。

梵天は秀でているという意味の古語“ほで”が時代とともに変化した言葉といわれ、神様の依代(よりしろ)となる幣束(へいそく)のことである。5bぐらいの細長い丸太の先に円筒形の竹かごを取り付け、それに色あざやかな布や麻糸などをたらし、しめ縄、御幣を下げて、上には武者人形や干支などの飾物を付ける。

§○浜田喜三緒VICG-2041(90)尺八/遠藤幸一、小堀範興、囃子言葉/浜田茂緒、浜田美佐緒、浜田貴緒。
posted by 暁洲舎 at 00:11| Comment(0) | 東北の民謡
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