♪高知の松ヶ鼻 番所を西へ行く
農人(のうにん)町(まち) 菜園場 新堀魚の棚 紺屋町 種崎町(たねざきまち)打ち越して
京町行くと 早会所が建っている
程なく使者を打ち越して 堺町 本町 八丁通します
そこらで枡形(ますがた) 本丁突き抜け観音堂
遊芸人が村々にやってきて農家の庭先に莚を引き、三味線の弾き語りで聞かせた。唄の内容は江戸時代中期に流行した“づくし”もの。旋律や曲想は大津絵節に似ている。元来“高知町廻り唄”として高知市内の花街で唄い出された。それが子供たちの手まり歌になる。昭和十(1935)年ごろまでは、高知でもっとも愛誦された手まり歌であった。
歌詞は旧高知城下の町名が東から西へと詠(よ)み込まれている。古い町の名は、その後の町名変更のため、ほとんどなくなってしまった。史実と伝統を抹消して省みることなく、ふるさとへの優しさと歴史認識が欠落した無神経な行政は、日本の文化と伝統を次々に破壊している。
松ヶ鼻は現在の宝(ほう)永(えい)町(ちょう)の南端で、堀川のつきあたりに老松があり、船着き場があった。番所は後年、水上警察署になったが今はない。農人町、菜園場、新堀、魚の棚、紺屋町、種崎町、京町の町名も無くなった。菜園場は市内を走る土佐電鉄の停留所。新堀は、はりまや町の小学校の名に残っている。
会所は帯屋町の高知大丸の場所にあった。その前の堀川に使者屋橋がかかり、橋のたもとに使者屋があって、他藩や藩内の使者が通行した。堺町は泉州堺の商人が住みついたので名づけられたという。本町八丁には武家屋敷があった。升形は武士の非常集合所だ。正方形の枡の形の広場になっていた。五丁目の観音堂は思案橋の南詰めにあったが、現在は新月橋北詰め東へ移っている。
§○高田新司APCJ-5044(94)小粋なお座敷調をだしていて情緒もある。
「しばてん音頭」(高知)
♪これがね たまるかね
ゆんべ(昨夜)の夢に ねーとチャッチャ
好きなあの娘の 手を引いて
お主ゃなんなら 俺しばてんよ
おんちゃん相撲とろ 取ろうちヤッチャッチャ
ハッケヨイヨイ ハッケヨイヨイ ソラハッケヨイヨイ ハッケヨイヨイ
ソレ残った残った まだまだ残った
武政英策が作曲。詞は黒崎ひろしが書いた。
高知では河童を“しばてん”と呼ぶ。しばてんは芝天狗を省略したもの。小天狗、天狗の子のことである。「しば」は小さい。「てん」は天狗。
河童は妖怪の一種だが、いたずら好きで稚気もあり、水を守護して農業用水の恵みを与えるともいわれる。現在でも、河童祭りをする地方がある。土佐民話に登場する河童は、榎(えのき)の木に棲み、夜に姿を現して酒に酔った人に「相撲をとろう」と声を掛ける。相手になって相撲をとると、これが強いのなんの。朝になって気がつくと、立木や石と相撲を取っていたという。
愛嬌者のしばてんは、人に悪戯をするが、あえなく捕まり、説教されて逃がされると、お礼に川魚を人に届ける律義さも持っている。昔は国の特別天然記念物であるカワウソが、愛媛県の宇和島市から御荘町にいたる海岸に多数生息していた。いつの頃からかカワウソは河童のモデルとなった。「えんこう」とか「しばてん」と呼ばれていた土佐のカワウソは、今では棲める環境がほとんどなくなった。昭和三十八(1963)年、須崎市の観音崎にある久通(くつう)の海で、鼻先から尾の先までが1m45cmある雄のカワウソが捕獲された。毛皮は須崎市教育委員会に保存されている。
§○赤坂小梅CF-3661(89)囃子方無記載。定盤。気持ちよく快調に唄う。△小橋よし江APCJ-5044(94)いなかのおばさんの素人くさい歌唱。
「新土佐節」(高知)
♪きりぎりすは 羽で鳴くかよ 蝉ゃ腹で鳴く
わたしゃあなたの 胸で泣くヨ
ソウダ ソウダ マッタクダヨ
お月さま たった一言 教えてほしや
主のゆうべの 泊り先ヨ
ソウダ ソウダ マッタクダヨ
高知市の花柳界で唄われる。和歌山の商人が高知の芸妓・友吉に習った「よさこい節」に「江州節」を加味して唄ったのが評判になった。それを土台にこの曲が生まれたとの説がある。歌詞には新潟県の「三階節」の影響が伺われるが、ざれ唄となり、卑猥な歌詞の替え唄が多い。
§○下谷二三子KICH-2468(05)小町昭編曲。三味線/藤本秀輔、秀也。管弦楽伴奏。
「よさこい鳴子(なるこ)踊(おど)り」(高知)
♪ヨッチャレヨ ヨッチャレヨ
ヨッチャレ ヨッチャレ ヨッチャレヨ
ヨッチャレ ヨッチャレ ヨッチャレヨ
高知の城下へ 来てみいや
爺(じん)様(ま)も婆(ばん)様(ま)も 良う踊る
鳴子両手に良う踊る 良う踊る
土佐の(ヨイヤサノサノサノ)高知の
播磨屋橋で(ヨイヤサノサノサノ)
坊さん簪買いよった(ホイ)ヨサコイ ヨサコイ(ホイホイ)
武政英策作詞・作曲の新民謡。高知市では毎年八月九日から十二日までの四日間「よさこい祭り」が開催されている。
昭和二十九(1954)年六月、高知市商工会議所が中心となり、徳島県の「阿波踊り」に負けない市民の祭り作りが提案された。テーマソングの作詞作曲は高知市在住の武政英策に、振り付けは地元の日舞の舞踊家に依頼された。
武政はNHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者で、映画音楽の分野でも活躍し、新民謡の作曲も手がけていた。武政は郷土芸能は民衆の心の躍動であるという信念のもと、よさこい節を基調に阿波踊りの素手に対して鳴子を採り入れ、速いテンポで賑やかに盛り上げる唄を作った。歌詞も土佐のわらべ歌から“じんまもばんばもよう踊る”のフレーズを採り入れた。
囃子言葉の「よっちょれよ」とは土佐弁で「そこどけ、寄れ」という意味。
鳴子は田畑に吊るして揺れると音を出し、稲に群がる雀を追い払う農具。年に二回、お米がとれる高知県では馴染み深い道具だ。
昭和二十九(1954)年八月、21団体750人の参加者で「第一回よさこい祭り」が開幕。今では全国から一万七千人余が参加する祭典となったが、当初は仮設舞台で踊る民謡踊りであった。しかし、形式にこだわらぬ県民の柔軟な発想が祭りを大きく育てていった。
武政が作曲して同三十四(1959)年に大ヒットしたペギー葉山の「南国土佐をあとにして」が映画化され、そのなかで鳴子踊りの大群舞が収録されると、よさこい祭りは全国の人々が知るところとなる。同四十五(1970)年の大阪万博では、日本の祭り十選のひとつとして参加。同四十七(1972)年、フランス・ニースのカーニバルにも招待されている。平成四(1992)年から始まった北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」は、よさこい祭りとソーラン節をミックスして生まれた新しい祭りで、今では札幌の初夏を彩る風物詩として定着している。
§○田村とよ三COCF-9312(91)年配者の歌唱に野趣があり、民謡らしさを感じさせてよい。「じんまもばんばもよう踊る」と正しく唄う。三味線/長谷川みさ子、岡見とみ子、太鼓/望月太洋喜子、鼓/望月太洋喜久、鉦/横山しず江、囃子言葉/石川のり子、八百川純子。△下谷二三子KICH-2017(91)編曲/山口俊郎。三味線/藤本e丈、藤本秀三、囃子言葉/キング民謡合唱団。下谷の声と可愛い少年少女の囃子言葉がマッチしていて好感がもてる。下谷を初め、小杉真貴子、曽我了子、由岐ひろみなどが“じんま”を“じんば”と唄っているのは、いただけない。
「よさこい節(土佐節)」(高知)
♪土佐の高知の 播磨屋橋で
坊さんかんざし 買いよったヨサコイヨサコイ
土佐はよい国 みなみ(南風)をうけて
薩摩おろしが そよそよとヨサコイヨサコイ
慶長年間に山内一豊(1546-1605)が高知城を築城した際に唄われた木遣(きや)り唄が変化。近畿や北陸では、この種の唄が祭礼唄や御輿(みこし)かつぎ唄として用いられているから、そうしたものが高知へ持ち込まれたようである。曲の名は木遣り唄の掛け声である“ヨイショコイ”が変化したものであろうか。これを「夜さ来い、夜に来なさい」とする説には無理がある。高知人は夜の事を晩(ばん)、来いは「来や、来いや」というのがふつうである。
「よさこい節」の後につける「土佐なまり」は、土佐の方言で綴った本調子甚句で「名古屋名物」や「おてもやん」と同種のものだ。
安政二(1855)年のことである。高知の五台山竹林寺の若僧・純信(1819-1888)は鋳掛屋(いかけや)の娘・お馬(1839-1904)に恋をした。純信三十七歳、お馬十七歳。お馬は五台山小町の異名を取り、髪は少し茶(ちゃ)髪(ぱつ)であったという。
純信は寺の品物を持ち出しては金に替え、娘に物を買い与えていた。ある日、純信が播磨屋橋近くの小間物屋で、かんざしを買っているところを人に見られ、二人の仲が世間に知れ渡る。竹林寺にいられなくなった純信とお馬の駆け落ち道は、北山越えの道。二人は土佐の国を脱出して無事、琴平までたどり着いた。しかし、時化のために京への船が出ず、足止めされた二人は追手(おって)に捕まり、高知に連れ戻される。関所破りの罪は重く、四ヶ月の入牢の後、三日間晒(さら)し者にされたうえ、純信は藩外に追放。お馬は高知の東、安芸川以東に追放となった。純真は川之江(愛媛県)に行き、そこで地元の有力者・岩亀吉の援助をうけて寺子屋を開く。川之江には小さな純信堂というお堂がある。
お馬をここに連れてきたいという純信のくわだてに気付いた役人は、お馬を高知市の西の須崎に移し、池ノ内の庄屋にお預けとした。そのうちお馬は大工の寺崎米之助に見初められ夫婦になった。明治十八(1885)年、東京・滝野川に移り住んでその生涯を閉じる。恋に生きようとした純信とは違い、女性は現実的である。彼女の供養塔は東京都北区豊島にある西福寺に建っている。
一方、純信は、お馬を生涯恋しながら寂しく死んでいった。純真の墓は愛媛県上浮穴郡(かみうけなぐん)美川村(みかわむら)にある。そこは土佐の須崎に近く、純信は、お馬のいたところに少しでも近づこうとしていたのだろうか。昭和四十六(1971)年、この寺の住職が過去帳に純信の名を発見した。純信の本名は岡本要という。
鳥取県鹿野町にも純信とお馬の伝説が伝えられている。土佐を追放された純信は新天地を山陰に求め、因幡国鹿野(鳥取県気高郡鹿野町)の長安寺に入った。後日、住職となった純信の前に現れたのは髪を落とした旅の尼、お馬その人だったという。鹿野は二人にとって終生の安息の地となったという。
§○佐藤松子K30X-221(87)三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/米谷威和男、鳴り物/西泰維、山田三鶴。独特の声と味のある歌唱。端正に唄っているところに好感が持てる。○小富久、〆香COCF-12698(95)三味線/君竜、定丸、お囃子方/得月楼社中。鉦、太鼓入り。お座敷調でよい風情。△八百川純子FGS-608(98)三味線/長谷川みさ子、恒光春嘉、太鼓/大石初恵、鉦/吉村春美。UPCY-6193(06)お囃子方不記載。
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