2022年03月03日

福岡県の民謡

「祝いめでた」(福岡)
♪祝いめでたの 若松さまよ 若松さまよ
枝も栄ゆりゃ 葉も繁る
エイーショウエ エーイーショーエショーエショーエ
(ア ションガネ)アレワイサソ エサーソエーションガネー
さても見事な櫛田の銀杏 櫛田の銀杏
枝も栄ゆりゃ葉も繁る
エイーショウエ エーイーショーエショーエショーエ
(アションガネ)アレワイサソ エサーソエーションガネー
博多を中心にして、近郷の農漁村で唄われてきた祝いの席の締めの唄。別名「博多祝い唄」「エイショーエ」。酒宴が終わりに近づくと最長老が唄い始め、人々は杯を置いて二節目ぐらいから声を合わせて唄う。唄を三つ唄うと一人二人と去っていく。必ず奇数番の歌詞で唄い終わり、その後は唄わないという約束事がある。座開きの祝い唄は各地にあるが、座閉じの祝い唄はほとんどなく、全国で唯一とも言える。
元になっている唄は、お伊勢参りに出かけた人たちが持ち帰った伊勢音頭などである。江戸時代、庶民の憧(あこが)れの旅であった「伊勢参り」は、文政十三(1830)年には日本の総人口の六分の一、五百万人が大移動をしたという。大勢の博多っ子も伊勢へ向かって旅立った。唄は荷物にならないお土産だ。伊勢で江戸の流行(はや)り唄を聴いた博多っ子たちは、それを覚えて帰っていろんな宴席で唄った。それが定着して「祝いめでた」となった。
囃子言葉は江戸時代、年末の煤(すす)払いのときの囃子が変化したものといわれている。博多の大きな商店では煤払いが終わった後、祝儀代わりに一人一人を胴上げした。そのとき唄った音頭の囃子言葉は「おめでたや〜サッササッササ」であった。
唄の文句にでてくる「櫛田(くしだ)のぎなん」は樹齢千年といわれる県天然記念物指定の大銀杏(いちょう)だ。櫛田神社(博多区)の境内東隅にある。地上5mの所から四本の大きな幹に分かれ、こんもりとした丸い樹形を造っている。毎年七月十五日、この下から博多(はかた)祇園(ぎおん)山笠(やまがさ)のフィナレーを飾る追い山が始まる。早朝、大太鼓の合図とともに一番山が境内になだれ込む。広場中央で「祝いめでた」を唄い終わると、重さ1dの曳き山が勇壮な掛け声とともに博多の町へ繰り出し、祭りはクライマックスを迎える。山笠が終わると博多の街は夏本番。
§◎本永二郎TFC-1210(99)美声で味わい深い名唱。三味線/葦名すま子、宅美千代。○宮川廉一COCF-6517(90)野趣も雅趣もある渋い味。三味線/本條秀太郎、本條宏、尺八/米谷威和男、鼓/美波駒三郎、囃子言葉/丹みどり、白瀬春子、白瀬孝子。CRCM-4OO54(98)編曲/福田正。伴奏者不記載。○中村惣三郎FGS-609(98)三味線/鬼塚勝治、中村八重子、小鼓/鍋山峰夫、太鼓/山田治三郎。渋くて素朴なおじいさんの雰囲気。女声には取るべきものがない。
「香春盆踊り」(福岡)
♪(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
さあさどなたも 踊ろじゃないか(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
盆の供養は 踊りが供養(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
香春口説きを 読み上げまする(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
国は豊前の 香春の里よ(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
頃は戦国 天文の末(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
鬼ケ城なる お城のありて(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
いくさ語りも 数々ござる(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
それが中にも 永禄四年(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
豊後竹田に その名も高き(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
武将大友 宗麟公は(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
鬼ケ城へと 攻め寄せなさる(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
城主原田の 義(よし)種(たね)公は(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
すぐに応戦 いたさんものと(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
出城出城の 備えを固む(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
わしの口説きも ほど長ければ(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
ここらあたりで 置きまする(ヨイトサーノ ヨイトサノサ)
田川郡(たがわぐん)香春町(かわらまち)は県北東部に位置する人口約一万三千人の町。明治以降は石炭の町として栄えたが、今ではセメント産業の町となっている。万葉の昔、都から大宰府に向かう官道が通る宿駅として栄え、田川文化の中心地であった。
永禄四(1561)年、豊後竹田の大友勢によって香春岳城が攻められ、水路を経たれて落城したときの物語が盆踊りで語られる“香春口説き”である。香春岳城、別名・鬼ケ城の築城は古く、天慶二(939)年、藤原純友(すみとも)が大宰府(だざいふ)攻撃の拠点として一の岳に築いたものだ。
永禄二(1559)年、毛利軍が門司に進攻して北九州動乱が勃発。その後、四年に及ぶ戦いが続くが、永禄四年六月、大友(おおとも)義(よし)鎮(しげ)(1530-1587)は田原(たはら)親(ちか)賢(かた)、戸(べっ)次(き)鑑連(あきつら)、田北(たきた)少輔(しょうゆう)らの諸勢のほか、国東、宇佐衆を合わせた六千余騎をもって豊前に進攻。毛利に味方する反大友の諸城を攻めた。田北、戸次の軍勢は、永禄四年七月、原田(はらだ)義(よし)種(たね)が守る香春(かわら)岳(だけ)城(じょう)へ押し寄せる。原田義種はわずか三百余の兵で籠城(ろうじょう)。大友の大軍を苦戦させたが、七月十五日に落城。義種は自刀して果て、清瀬姫は愛児千寿丸を抱いて「暗(くら)谷(だに)(倉谷)」に身を投じた。
村人たちは名君だった城主と薄命の姫の成仏を願い、毎年のお盆には老いも若きも、踊り明かして供養したと伝えられている。
香春(かわら)盆踊(ぼんおど)りは毎年八月十三〜十五日、総合運動公園で行われる。踊りの特徴は鬼ヶ城をモデルにした櫓(やぐら)を中心に、左まわりで踊る輪踊りである。ゆっくりとした調子で、手を腰から下げず、手の振りは大きくしなやかで、足さばきと裾(すそ)さばきの美しさを競う。櫓に囃子方(太鼓、三味線、口説(くどき)、相の手)が上がり、踊り手は櫓を中心に左回りで三重の輪をつくる。
§○吾妻栄二郎CRCM-4OO06(90)福田正編曲。管弦楽伴奏。意欲的に全国の民謡を紹介している吾妻の努力は高く評価されてよい。
「九州炭坑節」(福岡)
♪月が出た出た 月が出た(ハヨイヨイ)
三池炭坑の 上に出た
あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ(ハヨイヨイ)
ひと山 ふた山 み山越え(ハヨイヨイ)
奥に咲いたる 八重つつじ
なんぼ色よく咲いたとて 様ちゃんが通わにゃ仇の花
(サノヨイヨイ)
選炭夫たちの唄。明治の流行歌「ラッパ節」の改良節が大正の中頃に流行。田川地方にも入って「選炭節」となり、これに大正の初め、演歌師・添田唖蝉坊が作った“月が出た出た”の歌詞が結びつき、今日の「炭坑節」となった。素朴な曲想と簡単な踊りが人気を呼び、お座敷唄として全国に知られるようになる。
炭坑節には、石を砕く時の「石刀節」、トロッコで石炭を運ぶ「ゴットン節」、石炭を地上に揚げる「南蛮唄」、「選炭節」などがある。掘り出した石炭を立坑から地上に上げる巻揚機は蒸気動力で動いていた。蒸気をつくるために石炭が燃やされ、煙を排出する煉瓦の煙突が坑口に立てられていた。大牟田市西宮浦町にある宮浦鉱の煙突は、およそ十三万八千枚の赤レンガ使われている。
石炭業界は戦後復興の基幹産業として、戦後しばらくは好況に沸いた。やがて二次産業・三次産業の興隆とともに本格的な経済復興が始まると、炭坑で働く人々の生活は逆に低下していった。苛酷(かこく)な労働、低賃金、身分格差などが労働争議を呼び起こし、相次ぐ落盤事故と死傷事故は多くの悲劇を生んだ。盆踊りはこうした悲哀と抑圧を発散するための年に一度の祭りであった。大櫓(おおやぐら)を真ん中にして、近隣の中小鉱山の人々も加わって何重もの輪を作って踊り続ける。そこでは炭坑節が何度も何度も繰り返して唄われた。今ではボタ山は取り崩されて姿を消し、往時の炭坑を偲(しの)ばせるものはほとんど残っていない。
§○宮川簾一COCF-13290(96)土地の匂いがする味のある歌唱。三味線/本條秀太郎、本條宏、笛/鈴木一生、太鼓/美波那る駒、鉦/美波駒三郎、囃子言葉/丹みどり、白瀬春子。○赤坂小梅COCF-9749(92)音源はSP盤。お囃子方不記載。COCF
-12698(95)三味線/豊藤、豊寿、コロムビア合唱部。管弦楽伴奏。△鈴木正夫VZCG-
138(97)小沢直与志編曲。三味線/静子、豊静。賑やかな伴奏で全国各地の盆踊りで、現在も使われている。△美ち奴TFC-913(00)大高ひさを作詞、長津義司編曲。男声コーラスとオーケストラをバックに唄う。昭和二十五(1950)年発売。歌詞の二、三番に「踊り仲間の輪をぬけて忍ぶ恋路の影ふたつあんまりススキがゆれるのでお月さん見るふり見ないふり」「裾(すそ)をまくって足袋ぬいでそっと貴方に身を寄せてそれでも濡(ぬ)れたらなんとしょう」といった文句があるため、子供が炭坑節を唄っただけで親に叱られたものだ。美知奴の唄によって、民謡は下品だというイメージを定着させた罪は大きい。
「黒田節」(福岡)
♪酒は呑め呑め飲むならば 日の本一のこの槍を
呑み取るほどに呑むならば これぞまことの黒田武士
峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か
駒を控えて聞くほどに 爪音しるき想夫恋
黒田藩士たちが唄っていた「筑前今様(いまよう)」が変化したもの。今様は当世風の唄という意味である。平安中期に流行した今様は、平安から鎌倉へと時代が変わると廃れたが、黒田藩の武士の間では昭和まで唄い継がれていた。黒田の武士たちは、雅楽の旋律で唄う越天(えてん)楽(らく)今様(いまよう)を愛唱し、七五調四連からなる歌詞を藩主自らも作って唄い興じていた。
明治になり、俗謡の影響を受けて陽旋律から陰旋律に変わった。昭和三(1928)年、NHK福岡放送局の芸能係であった井上精三が、この唄を「黒田節」として全国に放送。昭和十七(1942)年、赤坂小梅がレコードに吹き込み、男性的で親しみやすい曲調と歌詞は酒席で欠かせない唄となり、全国的な民謡となった。
「日の本一の槍」とは名槍日本号のこと。貝原(かいはら)益軒(えきけん)(1630-1714)が元禄四(1691)年に書いた「黒田家臣伝」によると、槍は豊臣秀吉が福島(ふくしま)正則(まさのり)(1561-1624)に下賜(かし)したもので、福島家へ使者として出向いた母里(もり)太(た)兵衛(へい)(1556?-1645?)が正則に強要された大盃を飲み干して手に入れたとある。
母里太兵衛は黒田(くろだ)孝(よし)高(たか)(官兵衛1546-1604)、長政(ながまさ)(1568-1623)父子に仕えた豪傑であった。飲み取った日本号は、現在、福岡市博物館の黒田記念室に展示されている。刀身に剣先を飲み込もうとする倶梨伽羅(くりから)竜(りゅう)の浮き彫りがあり、柄に美しい螺鈿(らでん)細工(ざいく)が施された見事なものだ。総長321.5cm、重さ2,800g。
唄の文句の「峰の嵐か松風か」は「平家物語」巻六の小督(こごう)から採られ「皇(すめら)御(み)国(くに)の武士(もののふ)は」は、筑前黒田藩勤皇党首領・加藤司書(1830-1865)の作である。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)音源はSP盤。声の力と味わいは天下一品。管弦楽伴奏。COCF-13290(96)尺八/小坂淡童。COCJ-31888(02)品格のある堂々たる歌唱。三味線/豊藤、豊藤美、尺八/菊池淡水。〇三橋美智也KICH-2419(06)琴/米川敏子、山口俊郎編曲。爽快感あふれる歌唱。編曲も軽快。△梅若OODG-71(86)低音で渋く唄っている。三味線/神山峰子、神山峰世、豊藤美、尺八は菊池淡水、矢下勇の二管。
「正調博多節」(福岡)
♪博多帯締め筑前しぼり あゆむ姿が柳腰
博多へ来る時ゃ一人で来たが 帰りゃ人形と二人連れ
操たて縞(じま)命も献上 固く結んだ博多帯
“一に追分、二に博多”“北の追分、南の博多”と言われ、北海道の「江差追分」と共に日本民謡を代表する唄である。お座敷調の民謡のなかで、技巧、味わい、粋、どれをとっても随一で歌唱の難易度も高い。
文化十一(1814)年、博多掛町の商人・山崎藤兵衛は、博多織りを江戸で売ることを思い立つ。そこで、歌舞伎役者の七世・市川団十郎(1791-1859)に博多帯を締めてもらい、当たり狂言「助六」の舞台上で博多織り誉(ほ)めの台詞(せりふ)を言わせることをもくろんだ。早速、原作者の鶴屋(つるや)南北(なんぼく)(1755-1829)に相談すると、快く承知してくれたばかりか芝居の下座囃子に“博多帯び締め”の歌詞までつけてくれたという。その時の曲節は不明だが、歌詞は今に受け継がれてきた。
「博多節」には「正調博多節」と「博多節」の二種類がある。明治の初期「実おもしろや節」という唄が流行した。博多ではこの唄を“博多帯締め”の歌詞で唄い「博多節」と呼んでいた。続いて明治の中頃、下関方面で“鼻と鼻とがお邪魔になって口も吸われぬ天狗さま”の歌詞から「天狗節」と呼ばれた唄が流行した。この唄に簀子(すのこ)(福岡市中央区)出身の三浦四郎が“博多帯締め”の歌詞をつけ「本場博多節」と呼んで下関で唄い広めた。これを門付け芸人たちが三味線に乗せて技巧を凝らし、各地に唄い歩いたため「博多節」は全国に広がっていった。
博多の花柳界でももてはやされたが、誇り高い博多商人は、門付け芸人の唄を座敷で唄うのは品がないとして嫌った。
やがて日清戦争(1894-1845)の勝利は、朝鮮半島や中国大陸を結ぶ港町として、福岡発展の好気が到来する。相生券番(博多区奈良屋町)の清元の師匠・延玉は「博多節」に気品のある節付けをした。それは博多旦那衆の人気を集め、大正八(1919)九年ごろ、博多日日新聞の三隅雲濤(みすみうんとう)によって「正調博多節」と命名された。
大正十一(1922)年「正調博多節」の歌詞募集が行われた。応募作品点数は一万余に及び「正調博多節試演会」が行われた川丈座では、試演に一週間を要したといわれている。「正調博多節」は水茶屋券番の芸妓しん、しん吉の唄い方を標準として、以後、これが定着した。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)早目のテンポ。音源はSP盤。COCJ-30340(99)堂々たる美声。三味線/豊藤、豊藤美、尺八/菊池淡水。○博多喜美子COCF-13290
(96)博多芸者の粋さ。渋さもあり上手い。三味線/福若。TFC-1208(99)三味線/福若。○宮川簾一FGS-609(98)三味線/松尾タミ子、尺八/三宅翠風。△成世昌平CRCM-4
0046(96)繊細な歌唱。三味線/本條秀太郎、笛/望月太八、鳴り物/望月嘉翁、望月嘉晶。△博多旧券番光代APCJ-5045(94)粘り声と訛りに味がある。
「そろばん(算盤)踊り(久留米機(はた)織り唄)」(福岡)
♪わたしゃ久留米の 機織り娘ヨ
化粧ほんのり 花ならつぼみヨ
「わたしゃアッサイノ 久留米(くるめ)の日(ひ)機織(ばたお)りでございますモンノ
私がアッサイ 日機ば織りよりますとっサイノ
村の若い衆が来て 遊ばんのじゃん
遊ばんのじゃんと 言いますモンノ
一緒に遊びたい よかばってん
日機がいっちょん 織れまっせんモンノ」
惚れちゃおれども まだ気が付かんかね
筑後地方は機織(はたお)りが盛んなところだ。酒席の旦那衆が手ぬぐいで姉さんかぶりにたすき掛け、機織り娘に扮し、両手に持ったそろばん(算盤)を鳴らしながら面白おかしく唄い踊った。そろばんは機織りの音を表している。赤坂小梅(1906-1992)がこの曲に惚れ込み、石本美由紀(1924-2009)に卑俗な歌詞の改作を依頼。レイモンド服部(1908-1973)が編曲して、昭和三十一(1956)年にレコード化した。
久留米市は有馬二十一万石の城下町である。当時、有明海の沿岸で綿が生産され、筑後川流域では藍(あい)栽培も行われていた。大陸と近かったこともあって、渡来する諸々の文化とともに染織の技術もいち早くもたらされる。城下から機の音が聞こえない日がないほどであった。
久留米(くるめ)絣(がすり)は天明八(1788)年、久留米の米屋に生まれた井上伝(1788-1869)が少女期に考案創始。江戸時代の終わり頃から筑後一円の農家の副業として織られ、明治以降、絣(かすり)は美しく耐久性ある庶民の衣服として広く愛用されている。久留米絣は藩の積極的な助成と、先(せん)達(だつ)の努力で今日の精巧な絣となり、昭和三十二(1597)年には「絹の結城(ゆうき)紬(つむぎ)」「麻の小千谷(おぢや)縮(ちぢみ)・越後(えちご)上布(じょうふ)」に次いで「木綿の久留米絣」は国の重要無形文化財指定を受けた。
真夏の久留米の町を祭一色に包み込む「水の祭典久留米まつり」の「1万人のそろばん総踊り」は、九千五百人もの踊り手が、そろばんや団扇(うちわ)を手に参加。
§◎赤坂小梅COCF-13290(96)石本美由起作詞。味、渋さ、粋、声量、表現力、いずれも余人をもって替えがたい小梅節。三味線/豊藤、豊光、鳴り物/玉藻会。
「筑後伊勢音頭」(福岡)
♪祝いナー めでたの若松様よ(アライヤトコセ)
枝も栄えりゃ ヤンサコラサ葉も繁る
イヤコラコラ ヤートコセーノヨーイヤナ(アレワモセ)
コレワモセー この何でもせ
舞えや囃せや大黒(チョイチョイ)
一本目には一の松 二本目には庭の松(チョイチョイ)
三本目には下り 松四本目には志賀の松(チョイチョイ)
「伊勢音頭」の“かわさき”を主体にして、俗曲の数え唄「松づくし」を間にはさむ。
§○吾妻栄二郎CRCM-40054(98)三味線/千藤幸蔵、千藤幸一、笛/老成参郷、鳴り物/山田鶴三、山田鶴助、囃子言葉/横川裕子、浅野麻里子。
「筑後酒造り唄」(福岡)
♪(エンヤンコラショイ エンヤンコラショイ エンヤンコラショイ)
エンヤーレー 銘酒ヨー出る出る(ハイハイ)
樋の口かめに(ハァヨーイショヨイショー)
エンヤーレー 明日はヨー座敷で(ハイハイ)
オイ花と咲く (ハァーヨイショヨイショ)
昭和三十二(1957)年、池口森雄がニッポン放送で唄い、池口の囃子方を務めた久良木(くらき)直人(なおと)が唄い続けて全国に広く知られるよういになる。
福岡県は兵庫、京都、広島と並ぶ酒造県だ。なかでも筑後市は筑後平野の良質の米と筑後川、矢部川の二大河川の清水に恵まれ、古くから酒造りの町として栄えてきた。三潴郡(みずまぐん)城島町(じょうじままち)に初めて蔵元が生れたのは、江戸時代後期の文政十二(1829)年のことであった。
城島町は県西南部、筑後平野のほぼ中央部にある。兵庫県の灘の酒は硬水を使う。筑後川の軟水を使って、灘に劣らない美酒を造り出すためには三潴(みづま)杜氏(とうじ)のたゆまぬ努力があった。その研鑚の積み重ねが最新鋭の機械導入後も受け継がれている。杜氏の多くは柳川の農家の人たちで、農閑期を利用して九州の各地へ酒造りに出掛けた。筑後の酒は、灘の造酒技法に学ぶとことが多かった。酒造りの唄も灘の影響を受けている。
「酒造り唄」は工程にしたがって各種あり、唄は辛い作業の気を紛らわせ、作業の呼吸を合わせるために時計代わりに唄った。機械化によって唄は廃れていく。昭和四十八(1973)年、筑後酒造り唄保存会が発足。唄の保存と普及に努めている。
毎年二月に開催される「城島酒蔵びらき」は、九州最大の酒蔵開きだ。八つの蔵元が一堂に揃い、二日間で十万人が訪れる
§◎久良木直人COCF-13290(96)囃子言葉/橋本勇、平川卯一。手拍子と掛声だけで唄う。ちよっと音がはずれかけるところに野趣を感じさせる。久良木は福岡県三潴郡出身。囃子言葉の橋本勇は長崎市出身。平川は福岡県柳川市出身。ともに後進の指導と、郷土民謡の発掘と保存に力を注いできた。△藤堂輝明K30X-22
2(87)尺八/渡辺輝憧、囃子言葉/安井勇夫、小林輝諷。
「十日恵比須」(福岡)
♪十日(とおか)恵比須(えびす)の 下げ物は
蕗(は)種(し)袋(ぶくろ)に取り鉢(ばち) 銭叺(ぜにかます)
小判に金箱立(たち) 烏帽子(えぼし)入れ 枡(ます)才槌(さいづち)束ね熨斗(のし)
お笹(ささ)をかたげて 千鳥足
東区吉塚の東公園内にある恵比須神社の祭礼を唄ったもの。釣竿を手にして鯛を抱き、無邪気に喜んでいる恵比須は、海上安全、商売繁昌の神として広く知られ、恵比寿、戎(えびす)、蛭子(えびす)、胡(えびす)、夷(えびす)などと表記されている。戎や夷の言葉には、えみし(異邦人)の意味があり、海の彼方からやってきた神であることを示している。やがて恵比須は豊漁をもたらす神として崇(あが)められ、漁村の神社や岬の祠(ほこら)にまつられた。この恵比須が山村地域に伝えられ山の神、田の神としての性格を持つようになる。
神社では毎年一月八日の初えびす、九日の宵えびす、十日の本えびす、十一日の残りえびすの日に威勢のよい「商売繁盛、笹持って来い」の掛声が響く。笹は節目正しく真っ直ぐ伸びて、弾力があり、折れず、葉は落ちず、常に青々と茂っているところから、家運隆昌、商売繁盛の象徴となった。九日には、博多券番の綺麗どころが参拝する新春恒例の「かち詣(まい)り」がある。博多那(はかたな)能津(のつ)会(かい)による「十日恵比須」の唄が、三味線、笛、太鼓に乗って唄い囃されるなか、芸者衆は島田に稲穂の簪(かんざし)を挿し、紋付(もんつき)正装(せいそう)、裾(すそ)ひき姿で参道を歩き、社殿で参拝する。
§◎本永二郎TFC-1210(99)三味線/佐藤美智恵、佐藤美幸、太鼓/高橋純。SP盤が音源。本永は明治三十六(1903)年十月、博多に生まれた。子供の頃から三弦に親しみ、やがて地元の民謡に関心を抱くようになる。その後、民謡歌手を目指して精進。遂にレコードデビューを果たす。以後、数々の博多民謡を紹介、普及に努めた。
「博多カッチリ節」(福岡)
♪いうちゃ済まんばってん 家(うち)の嬶(かか)手利(き)き
夜着も布団もノー 三四郎さん丸洗い
それもそうだよ そりゃ嘘ないぞえ
トコトーンノ カッチリカッチリ
酒席の俗謡で幕末のはやり唄。江戸から博多に流れ込んだ。
昭和三十一(1956)年、八州(やしま)秀(ひで)章(あき)(1915-1985)はこの唄をもとに、江戸風に仕立てた「江戸の三四郎さん」を作曲。映画「花笠太鼓」(1956)は、陣出達朗(1907-1986)原作の「江戸の三四郎さん」を映画化したものだが、その中で主演の高田浩吉(1911-1998)がこの唄を唄ってヒット。高田浩吉は昭和十年、松竹映画「大江戸出世小唄」で主題歌を歌い、歌う映画スター第一号となった。
§○博多新券番きみ子APCJ-5045(94)穏やかだが力ある歌唱。年増(としま)芸者の粋さあり。伴奏者は一括記載。△高田浩吉「江戸の三四郎さん」CA-6706(90)野村俊夫作詞、八洲秀章採譜。
「博多子守唄」(福岡)
♪うち(家)の御寮(ごりょん)さんな がらがら柿よ
見かきゃよけれど 渋ござるヨーイヨーイ
うちの御寮さんの 行儀(ぎょうぎ)の悪さ
お櫃(ひつ)踏まえて 棚探しヨーイヨーイ
大正の初め博多の花柳界で唄われた。大正十(1921)年ごろ水茶屋のお秀がレコードに吹き込む。元唄は博多港の沖仲仕(おきなかし)たちの荷揚げ唄で、花街では拳唄に用いられていた。
奥さんと主人をこき下ろす歌詞は福岡日日新聞の三隅忠雄(雲濤(うんとう))が作ったものだが、子守女はこのような言葉は使わない。博多商家の奥様は“ごりょんさん”と呼ばれることはない。
家の中に波風立てず、使用人からは親以上に慕われ、太っ腹で、ときには男まさりの度胸があり、そのくせ主人を立てて出しゃばらず、ユーモアのある会話で人を笑わせるなど、博多女のいいところを全部備えて初めて“ごりょんさん”と呼ばれる。それ以外は女房、カカアである。
歌詞の中に「旦那」とか、御寮さんが「お櫃踏まえて棚探し」とあるが、博多では一家の主人は旦那ではなく大将と呼び、御寮さんは、そのような無作法(ぶさほう)をたしなめることはあっても、自分からは絶対にしないので、子守女は御寮さんを理想として、いつかあのようになりたいと尊敬の目を持って奉公していた。
興味本位の推測と無知から作られた歌詞は、その土地に対する誤解と偏見を生む。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)お囃子方不記載。○博多旧券番光代APCJ-5045
(94)野趣ある博多芸者の風情。お囃子方CD一括記載。
「博多どんたく」(福岡)
♪坊んち可愛い ねんねしな 品川女郎衆は十匁
十匁の鉄砲玉 玉屋がお川へ すっぽんぽん
もうしもうし車屋さん ここから柳町ぁ何ぼです
大勉強で十五銭 十銭負けとけ あかちょこべ
別名「ぼんち可愛や」。幕末に江戸で流行した尻取り鎖唄「ぼんちかわいや」を、江戸へ菓子修行へ行った河原田平兵衛が博多に持ち帰ったというのが通説。二番以降の文句は大正中期に作られた。
天正十五(1587)年、毛利元就(もうりもとなり)の三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)は豊臣秀吉から筑前・筑後など五十万余石を与えられて名島城(福岡市東区名島)に入る。その後、隆景は秀吉の甥・秀秋を養子に迎え家督(かとく)を譲った。その時、博多の町人が松囃子を仕立て、お祝いに行ったことが記録に残っている。
貝原益軒が「筑前国続風土記」の中で、治承三(1179)年、博多に「博多松囃子」があったことを記しているから、唄の淵源はかなり古いものだ。
明治五(1872)年、新政府の県知事は国家神道による宗教統制政策に従って、松囃子と櫛田神社の祭礼山笠の中止命令を出した。明治十二(1879)年、博多の人々は天皇を祝う行事として「お祝いのどんたく仕(つかまつ)りたく」と“紀元節(せつ)松囃子”の名目で復活を図り、同年二月十二日の紀元節に「どんたく」再開した。以後、松囃子は「博多どんたく」と呼ばれるようになった。「どんたく」はオランダ語の休日ゾンダグ(Zondag)から来ている。半ドンは半分休日のことだ。
昭和十六(1941)年、戦争のために中止となった「どんたく」は、同二十一(1946)年五月、八年ぶりに復活する。肩衣を紙で作り、馬はハリボテを首から胸に下げ、紙ハッピ、タッツケ姿、焼け残った三味線、太鼓を瓦礫(がれき)の町に響かせて練り歩き、人々に復興への勇気を与えた。
同二十四(1949)年、新憲法発布を祝し、平和を願って開催日を五月三、四日と定める。同三十七(1962)年、市民総参加の「博多どんたく港まつり」となった。
§◎本永二郎TFC-1210(99)三味線/葦名すま子、宅美千代、鼓/浅島守。泥臭い声と節がよい。“玉屋がおかわい”と唄うのは、博多では“え”を“い”と発音するため。どんたく振興会では、唄のタイトルを「博多どんたくの唄」として、「川い」の歌詞を「川へ」と決めている。◎博多新券番きみ子APCJ-5045(94)野暮ったい粋さで、野趣も少々。お囃子方は一括記載。△下村洋子CRCM-4OO53(98)清純な声にお色気がある。編曲/福田正、三味線/豊藤、豊文。
「博多の四季」(福岡)
♪春の博多は東公園 十日恵比寿
引いておみくじ 大当たり
かつぐ福笹 大判小判に大俵
ヤットナーヨーイヨーイ
明治二十八(1895)年開催の「京都大博覧会」を記念して作られた端唄「京の四季」の替え唄。「京の四季」は祇園を中心に、四季折々の東山、円山(まるやま)の風物を詠み込んだもの。京都らしい優美さと落ち着いた趣を漂わせた名曲だ。これにならって全国に多くの替え歌が生まれ、明治の末期から花柳界で盛んに唄われた。
博多の名は、船が泊まる潟の泊(は)潟(かた)、港が鳥が両翼を拡げた形をしている羽形(はかた)、土地が広博で人物衆が多いから博多、といったところから出たという。古くから朝鮮半島や中国への玄関口であった。
§○博多新券番きみ子APCJ-5045(94)伴奏者は一括記載。博多芸者の強さもあり、いい感じでお座敷調を出している。
「博多節」(福岡)
♪博多帯締め 筑前絞り
筑前博多の帯を締め 歩む姿は柳腰 アリャドッコイショ腰
お月さんは ちょいと出て松の陰 ハイ今晩は
今鳴る鐘は 芝か上野か アリャ浅草か
また鳴る鐘は 泉岳寺 四十七士の供養の アリャドッコイショ鐘
お月さんは ちょいと出て松の陰 ハイ今晩は
俗に「ハイ今晩は」と呼ばれている。その昔、博多人形師として修行していた五郎は、不都合なことがあって博多を逃げ出し、鳥取県の石見地方で博多屋という店を出した。あるときお客に望まれて唄った“どっこいしょ”の掛け囃子を入れ唄が、いつしか評判となる。その唄は「博多節」と呼ばれて、山陰地方で唄われるようになった。
一方、明治の初めに流行した「天狗節」とも呼ばれる「実おもしろや節」が博多に伝わると、博多では“博多帯締め”の文句で唄うようになる。明治二十八(1895)年頃、これに“どっこいしょ”の囃子言葉を入れて俗っぽい調子で唄われ、同じく「博多節」として知られるようになった。
地元の博多では“どっこいしょ”入りの唄は門付けが唄う“乞食節”として嫌われ、新たに「正調博多節」が作られた。しかし同じ「博多節」でも、ドッコイショの博多節の方がはるかに民謡的であり追分調で温かみのある唄である。
§◎宮川簾一COCF-13290(96)三味線/藤本翠民、尺八/三宅翠風。素朴、渋さ。派手さはないがこれぞ民謡。COCF-14302(97)三味線/本條秀太郎、尺八/米谷威和男。◎赤坂小梅COCF-9749(92)音源はSP盤。伴奏者不記載。○浅草〆香APCJ-50
45(94)お囃子のデータは一括記載。年増芸者の粋。声の強さもよい。△成世昌平CRCM-4OO53(98)編曲/福田正、三味線/本條秀太郎。
「八女(やめ)の茶山唄」(福岡)
♪ハァヤーレ 茶(ちゃ)山(やま)戻りにゃ 皆菅(すげ)の笠(トコサイサイ)
どちらが姉やら 妹やら(ハァ揉ましゃれ 揉ましゃれトコサイサイ)
ハァヤーレ縁がないなら 茶山へござれ(トコサイサイ)
茶山 茶所 縁所(ハァ揉ましゃれ 揉ましゃれトコサイサイ)
県南部を東西に流れ、有明海に注ぐ矢部川、星野川上流に広がる矢部村、星野村の茶摘み唄。茶畑は山に多いので茶山唄という。
八女茶は、佐賀の嬉野(うれしの)茶、宮崎の宮崎茶とならんで全国的に知られている九州のお茶だ。唄は木挽(こび)き唄が茶摘み唄に転用されたもの。木挽き唄は、八女の山に出稼ぎにきていた広島木挽きが唄っていた。茶選(よ)り唄や、摘(つ)んだばかりの茶の新芽を揉(も)んで、煎茶(せんちゃ)を作る茶揉み唄もある。
茶の原種はチベットの東側に広がる雲(ユン)貴(コイ)高原で生まれた。唐代の中国社会に定着した茶の文化は、奈良時代から平安時代の初期、遣唐使によって日本に伝えられた。「日本後記」には弘仁六(815)年、僧永忠が嵯峨天皇に茶を献じた記事があり、これが日本の正史に現れた最初の茶の史料とされる。
喫茶は、もっぱら漢詩文化にあこがれた知識人のなかで行われた。やがて国風文化の時代になると、茶が飲まれることもなくなり、鎌倉時代初期、栄西(1141-1215)によって、再び中国から茶をもたらされるまで途絶える。栄西は仁安三(1168)年と文治三(1187)年の二度にわたって中国へ渡り、禅宗とともに宋代の新しい飲茶の文化を日本にもたらした。茶の実を持ち持ち帰った栄西は、山岳仏教の発祥地として有名な背振山(せぶりざん)(1055b福岡市早良区板屋)にその実を播(ま)いたという。栄西は、とくに養生の効果を強調して「喫茶養生記」を著している。栄西がもたらした茶樹は、京都栂(とが)ノ尾(お)の明恵(みょうえ)が愛好し、その茶がさらに宇治へと広まった。
喫茶の習慣は、その後、禅宗寺院や武家社会のなかに浸透し、鎌倉時代後期には庶民のなかにまで広がっていく。その後、応永十三(1423)年、明で学んだ周瑞が上妻(こうづま)郡(ぐん)鹿子(かのこ)尾村(おむら)(八女市黒木町笠原)に霊(れい)巌寺(がんじ)を建て、同時に製茶技術と喫茶法を伝えている。八女の名は「日本書記」の「八女津媛(やめつひめ)」に由来するという。
§○川口一幸COCF-14308(97)尺八/村岡嘉山、囃子言葉/吉田玲子、松野さかえ。○森山美智代KICH-109(96)笛/米谷威和男、尺八/米谷和修、掛声/石川リサ。森山は新潟県見附市出身。昭和六十二(1987)年フジテレビ「素人民謡名人戦」子供大会で優勝。平成二(1990)年、日本テレビ「第13回日本民謡大賞」では新潟県代表となった。同三(1991)年、米谷威和男の内弟子となる。
posted by 暁洲舎 at 00:40| Comment(0) | 九州の民謡
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