2022年03月03日

佐賀県の民謡

「梅干し」(佐賀)
♪しわは寄れども あの梅干しは
色気離れぬ 粋(すい)なやつ
わたしゃ青梅 揺り落とされて
紫蘇(しそ)となじんで 赤くなる
明治の末ごろから佐賀市の花柳界で唄われた。佐賀名産の梅干しを花柳界の女性の境遇にたとえ、端唄風に唄っている。上品なお色気と格調あるユーモアの中に一抹の哀調がある。唄の文句は佐賀市呉服元町にある光明寺の十二代住職・竜ヶ江良俊が作ったものだという。
“武士道というは死ぬ事と見付たり”“恋の至極は忍ぶ恋”などで知られる「葉隠」から、佐賀の県民性は武骨で融通がきかないという印象を持ってしまいがちだが、その実、商業性があり融通性にも富んでいる。
かつて佐賀鍋島藩は、藩をあげて商品生産を奨励した。これが領内の商業資本を成長させることになり、商人階層を育てる要因となった。
「梅ぼし」の端唄的で洗練された味わいは、粋な商人的気質を表している。幕末期、中央から遠く離れた鍋島藩だったが、明治維新の中心的役割を果たし、多くの人材を輩出した。それは、商人たちが全国の情報を敏速に佐賀へ伝えたことで、時勢に遅れることのない対応ができたこともその要因のひとつである。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)音源はSP盤。伴奏者不記載。さすがに九州の民謡を唄わせるとうまい。味わい、品格、粋、声の強さには誰もかなわない。「色気離れぬ」を「離れた」と唄っているが、正しくは「離れぬ」。○谷口のぶ子APCJ-
5045(94)歌唱は少々弱いが、四畳半の雰囲気を湛えている。「離れぬ」と正しく唄う。
「佐賀箪笥(たんす)長持唄」(佐賀)
♪ハァー箪笥ナァーヨー 長持ゃヤエー(ハァー ヤロヤーローエー)
サー白木に朱塗り中のナァーヨー ご衣裳は
サーまた見事ナーヨー(アラ シコイシコイシコイ)
ハァー船もナァーヨー 早かれ(ハァー ヤロヤーローエー)
サー追い手も良かれ 先のナァーヨー幸せ
サーなお良かれナーヨー(アラ シコイシコイシコイ)
佐賀市を中心に嬉野(うれしの)、鹿島から佐賀平野一帯と、筑後川を隔てた福岡県の大川あたりまで唄われていた。花嫁の調度品を納めた長持ちを担ぎ、婚家へ運ぶときに唄う荷担ぎ唄で、お祝いの歌詞を掛け合いで唄う。大名行列などで人足が荷物を運搬するときに唄っていた「雲助唄」が元唄だ。「長持唄」は全国的に分布している。
平安時代の後期、箪(たん)は食べる物を入れる容器、笥(す)は衣類を入れる容器として別々に呼ばれていた。
江戸時代には弓矢、火縄銃、火薬などの武器類も箪笥と呼ばれていた。例えば東京都新宿区の神楽坂(かぐらざか)近くにある箪笥町は、箪笥が作られていた町ではなく、江戸城四谷門の甲州街道からの入り口として旗本と御家人の組屋敷が置かれ、御鉄炮人笥奉行が支配していたことからその名がある。
昔、農家で女の子が生まれると、庭に桐の苗木を二本植えた。その子が大きくなり、お嫁入りの時を迎えると、その木を伐って箪笥や長持を作った。桐は家具材に最も適した素材で、しかも成長が早く十五〜二十年で成木に育つことから、こうした風習が根付いたのである。
箪笥の歴史は江戸中期の頃から始まり、最初に作られたのは大阪だといわれている。江戸時代の終りにかけて、大阪や江戸の周辺各地に、箪笥の名産地が生まれた。
§◎田中末次FGS-609(98)味、品格、声、文句なし。三味線/山口ヨシノ、尺八/川尻象山、掛声/高平正典。昭和三十一(1956)年、佐賀郡川副町の田中が、貞松源吉から習い覚えたものをNHKのど自慢全国大会で唄ってから、この曲が全国に広く知られるようになった。○邑山清APCJ-5046(94)田舎臭い美声。唄上手のおじさんが唄っている雰囲気を持つ。掛け声に味と野趣があり、控え目な尺八伴奏は、娘を嫁がせる親心の哀歓をほのかに漂わせている。お囃子方CD一括記載。
「佐賀の菱売り唄」(佐賀)
♪(菱を買うてハイヨー)
佐賀の奥からヨー 売り来る菱は ヤンレサホイ
色は黒くて アー味がある ヤンレサホイ
いくら口説いてもヨー 張り子の虎は ヤンレサホイ
澄ました顔して かぶりをよそに振る ヤンレサホイ
菱の実を売り歩く行商人の唄。『次郎物語』で知られる下村(しもむら)湖人(こじん)(1884-1955)が生まれた神埼郡(かんざきぐん)千代田町崎村には、今なお野や川を駆け回った次郎の往時の風景がそのまま残っている。秋になれば千代田町の農業用水路(クリーク)で、昔ながらの「菱の実ちぎり」を見ることができる。
佐賀の菱採りは人ひとりが乗れる盥(たらい)(ハンギー)に乗り、不安定なハンギーを巧みに乗りこなして慣れた手つきで次々に実をちぎっていく。菱の実ちぎりの朝は早く、夜明け直後から三時間ばかりの作業である。
菱は池や沼の泥の中から芽を出し、成長すると水面に菱形の葉を放射状に広げて漂う水生植物だ。夏になると葉の中心から茎が伸びて花が咲き、やがて3aくらいの大きさの硬い皮に包まれた実が成る。赤い皮の若い実は生で食べられるが、黒紫の完熟したものは皮つきのまま塩ゆでして食べる。菱は日本各地に自生していて、秋の季語になるほど身近な食物だったが、最近ではほとんど見られなくなった。
§○高橋キヨ子CRCM-4OO42(95)物売り風情を残す唄を、粋にお座敷調でこなす渋い声。三味線/本條秀太郎、本條秀長、笛/金子文雄、鳴り物/美波那る駒、美波成る駒。
「千(せん)越(ごし)大漁(たいりょう)祝(いわ)い唄(うた)」(佐賀)
♪(ヨヨーイ ヨヨーイ ヨヨーイ ヨイヨヨーイ ヨヨーイ ヨヨーイヨイ
ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ
アーヨイヤサー ヨイヤサー)
ご利生ご利生で 明日から大群(おおがち)ゃ捕ろうよ
これも氏神さんの 大御利生かな(アーヨイヤサー)
氏神御利生で 明日から大群捕ろうよ
これも恵比寿さんの 大御利生かな(アーヨイヤサー)
千越大漁とは千両を越す大漁の意味。江戸時代末期、二千年の歴史を持つ唐津市唐房(とうぼう)漁港では大漁があると、寒風の中、紅白の大漁旗をかざし、鉢巻きと締め込みに腹巻という勇壮な姿で太鼓を打ち鳴らし、壮年若衆が佐志八幡、黒埼、金比羅神社と恵比寿、稲荷の神社に祝い唄を奉納祈願した。その後は海の幸をふんだんに盛った千越大漁盛を囲み、御神酒を汲み交わし、村を挙げて大漁を祝った。大群(おおがち)ゃは大魚群のこと。唐津湾内の片口(かたくち)鰯(いわし)の大群をいう。
鯨は一頭でも大漁だ。日本での捕鯨は古く縄文、弥生時代から盛んだった。ここでも昭和二十(1945)年ごろは年に五、六十頭は獲れたという。玄界灘に浮かぶ小川島(唐津市)はかつて捕鯨基地として栄え「鯨見張所」が残っている。鯨は別名「勇魚(いさな)」と呼ばれる最も勇ましい魚だ。近代捕鯨が始まる以前の鯨漁は命がけであった。十二世紀頃から手投げ銛(もり)を使った「突き取り式捕鯨」が始まる。鯨より小さな船で追い、網を掛け銛を打ち込んだ。元禄から安政にかけての鯨漁では「鯨組」と呼ばれる男たちが小舟で船団を組み、巨大な鯨に立ち向かっていった。なかでも一番銛を打ち、鯨の背に乗って息の根を止め、鼻を貫いて鼻綱を通す羽(は)刺(ざし)と呼ばれる男は「鯨組」のなかでも常に死と隣り合わせにあった。気力と体力に秀でた羽刺であっても、多くの男達が命を落としている。
§◎藤堂輝明COCF-11371(93)三味線/千藤幸蔵、千藤幸一、尺八/米谷威和男、太鼓/美鵬駒三朗、鉦/美鵬那子駒、囃子言葉/安井鳳憧、藤堂輝扇、藤堂輝芳、藤堂輝成。漁師の唄らしく、鯔(いな)背(せ)なアンちゃんの雰囲気を出して唄う。〇西野智泉COCF-14302(97)大勢の囃子言葉が唄を盛り上げているが、西野の唄に声量と気迫が欠けている。海の男の迫力が欲しいところだ。お囃子方/西野社中。
「岳の新太郎さん」(佐賀)
♪岳の新太郎さんの 下らす道にゃ(アラ ザーンザザンザー)
銅(かね)の千灯篭 ないとん明かれかし
色者の粋者で 気はザンザ(アラ ヨーイヨイヨイヨーイヨイヨイ)
岳の新太郎さんの 登らす道にゃ(アラ ザーンザザンザー)
道にゃ水掛け 滑(なめ)らかせ
色者の粋者で 気はザンザ(アラ ヨーイヨイヨイヨーイヨイヨイ)
県南部の藤津郡太良町(たらちょう)に、地固めの唄として伝わっている。天明四(1784)年春、三重県の伊勢山田(外宮周辺)の町人・山原佳木が作った御用材を曳きの「お木曳き木遣(きやり)唄(うた)」が全国に広められ、各地で地固め唄などに利用されたものが元唄といわれる。囃子言葉からザンザ節とも呼ばれる。
長崎との県境にある多良(たら)岳(だけ)(983m)に女人禁制の金泉寺があり、今から二百年ほど昔、原口新太郎という美男の寺侍がいた。この山は奈良時代から霊場として知られ、山頂には太良岳神社と石仏、梵字が刻まれた岩壁がある。かつて多良岳大権現は宝円寺、金泉寺と一体となり、真言密教の霊地として栄えていた。金泉寺は弘法大師空海(774-835)の創建と伝えるが、明治以降、次第に衰退。その後、廃寺となった。
新太郎は文化・文政(1804〜1829)の頃、高来郡(たかきぐん)高来町(たかきちょう)神津倉(こうづくら)(諫早市)の生まれたという。里の乙女たちは山へ入ることができないから、麓にある金泉寺別院の医王寺に、新太郎が里下りをするのを待ちこがれていた。「新太郎さんが山から下りてくるときは、金の千灯篭を明々とつけて怪我がないように」と願い、山へ戻るときは「坂道に水をまいて、滑って山に帰れないように」と願う複雑な愛憎二面の女性心理を唄っている。
昭和三十一(1956)年、初代鈴木正夫がレコードに吹き込んでから、一躍、県を代表する唄となった。毎年八月、日本の名水百選に選ばれた轟峡(とどろききょう)がある北高来郡高来町の「とどろき名水まつり」では、サンバ調にアレンジした「岳の新太郎さん」の道踊りと、轟の名水が入った重さ800sの「岳の新太郎さん」像を乗せた山車引きが呼び物だ。
§◎田中末次FGS-609(98)三味線/山口ヨシノ、尺八/川尻象山、太鼓/佐賀峰吉、囃子言葉/島松チキ、中島文子。土地の香りがあって、声よし味よし。○佐賀峯吉COCF-13290(96)弾き語り。田舎のおばあさんが唄うような趣があってよいが、孫娘のような稚拙な囃子言葉がそぐわない。三味線/佐賀峯吉、藤本翠民、太鼓/三宅翠風、囃子言葉/丹みどり。△北井春星TFC-1204(99)管弦楽伴奏。お囃子方は不記載。お色気のある美声。
「万歳くずし」(佐賀)
♪御代も栄える 千代に八千代に 万々歳の御繁盛
エイエーエン コリャ アイエンナー コリャソーダソーダ
鶴の一声 幾千代までも 末はまた互いに友白髪
エイエーエン コリャ アイエンナー コリャソーダソーダ
佐賀市に伝わるめでたづくしの万歳を三味線に乗せた祝い唄。万歳師は年中、万歳をしている専門の芸能者ではなく、ふだんは農業を営み、年末から正月に各地に出かけて稼ぐ人たちである。貧しい農村の人たちが収入を得るために練習を重ね、芸を磨き合った。近隣を門付けして回る者もいれば、遠方まで行って稼ぐ者もいた。
万歳は宮中の保護を受けた大和万歳が発展し、新田開発、道普請などの鍬入れの際、祝福芸を演ずる者を社会が必要としたことで、全国に万歳師や流派が生まれていった。上方の万歳師は、大和万歳と交流しながら、あまり格式張らず、面白さや演劇性を中心に演じていた。
新しい年を運んでくる年神様は、正月に山から下りてきて、その年の豊作や子孫繁栄を促してくれる。年神様は祖先の霊が山に籠もって神になったものだ。田を守り、豊作をもたらす穀物の神でもある。旧暦の立春(新暦の二月四日)は正月と時期が近かったため、正月はすぐに春が来る時であった。年の始めに、縁起の良い言葉を言ったり聞いたりすると運が開く。万歳師たちは、年神様の代わりに縁起の良い言葉を語呂合わせで調子よく唄った。鶴亀、千萬、松竹梅、七福神などのめでたい言葉を鼓(つづみ)に合わせて繰り出し、聴く者を楽しい気分にさせたのである。ある時は強い者を茶化したり、神様をからかい、時代を風刺したりして笑わせた。「づくし萬歳」では地域や産地に合わせる“づくし物”で人々を喜ばせた。
座敷に上がっての万歳は、芸の込んだ演目が出され、時には下ネタも披露された。舞手の太夫と、鼓を打つ才蔵の二人が基本形だが、三人で三種類の楽器を使うのを三曲万歳という。
§原田直之K30X-222(87)艶のある美声を張り上げて唄っているが、渋味、味わい、土地の匂いは乏しい。三味線/藤本e丈、江川麻知子、笛/米谷威和男、鼓/望月長左久、堅田喜久三、鳴り物/山田鶴三、山田鶴助。
posted by 暁洲舎 at 00:39| Comment(0) | 九州の民謡
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