2022年03月03日

長崎県の民謡

「追分」(長崎)
♪(前唄)
船を出しゃらば 夜深に出しゃれ
帆影見ゆれば 懐かしや
(本唄)
恋の唐船碇(いかり)を巻けば
沖の鴎も しのび鳴き
美声と義侠の芸妓で知られた愛八(1874-1933)が、お座敷唄の余情を漂わせ、七七七五の二六文字を七声七節で味わい深く唄う。本石灰(もとしっくい)町(まち)に住むアイヌの女性から「追分」を習って作り上げたともいわれている。愛八は後にこの唄を基にして「長崎浜節」の節作りをした。
愛八(本名・松尾サダ)は、西彼杵郡(にしそのぎぐん)日(ひ)見(けん)村(むら)(長崎市網場町)で松尾甚三郎と妻ナカの次女として生まれた。五人姉弟の二番目。十八歳の明治二十四(1891)年三月の節句に丸山町の末石方から愛次の妹としてお披露目すると、派手な顔立ちと芸熱心とでたちまち売れっ子になり、長唄(ながうた)、清元(きよもと)、常磐津(ときわず)、端唄(はうた)と、先輩たちも驚くほどの稽古をして天分の美声にさらに磨きをかけた。日清戦争(1894)の頃には丸山の愛八というより、花柳界に愛八ありと、押しも押されもせぬ名妓(めいぎ)の座についた。性格は竹を割ったようで、面倒見のよい義侠心の強い人であった。長崎興業にやってきた力士たちを母親のように面倒をみたり、哀れな物乞(ものご)いにご祝儀を全部やったりして、自分自身はいつも質素な生活をしていたという。
岩下俊作の名作『富島松五郎伝(無法松の一生)』の主人公・松五郎は「追分」が得意であった。稲垣浩監督の映画「無法松の一生」では、主演の阪東(ばんどう)妻三郎(つまさぶろう)(1901-1953)が吉岡大尉の前で追分を披露する場面がある。船人が唄う追分は各地の港に置き土産(みやげ)とされ、小倉の松五郎もこれを愛唱したのである。北海道の「江差追分」の古形が偲(しの)ばれる。
§◎愛八VICG-60403(OO)愛八の弾き語りで四曲の追分が収録されている。三味線/愛八、千代。味わい深い雰囲気を湛え、千代はソイ掛けか。解説に江差追分と記述するのは誤り。追分節、または肥前追分とするのが正しい。
「諌早(いさはや)甚句」(長崎)
♪雲か霞か 桜の花か
浮きつ隠れつ イヨ亀の城
四面河原に 飛び交う螢
忍び歩きの イヨ影二つ
諫早市の花柳界で唄われた。江戸末期に流行した「相撲甚句」から派生。相撲甚句は江戸時代の享保の頃から唄われ、角界で唄い継がれてきたもの。現在では地方巡業や花相撲などで聴くことができる。
甚句は仕事唄や盆踊り、酒宴の席の三味線唄などにある「七・七・七・五」の詩形で軽快に唄う騒ぎ唄。長い物語を唄う口説(くどき)から変化した。江戸末期から明治にかけて盛んになり、民謡の名にすることが流行。「おてもやん」で知られる「熊本甚句」「秋田甚句」「名古屋甚句」「米山甚句」「新潟甚句」「佐渡甚句」などがある。
甚句の起こりは、元禄期に流行した「兵庫口説」のなかに甚九郎が唄った節を甚九と呼び、それが広まって「甚句」となり、あるいは各地に発生した土地の文句を“地ン句”と称した。神に供える意味の神(じん)供(く)からきたなど諸説がある。現在唄われている歌詞は昭和九(1934)年頃、当時の市長・土橋滝平が作詞したもの。
諫早市は長崎県の中央部にあり、長崎・島原・西彼杵(にしそのぎ)半島の結節部に位置している。東は有明海、西は大村湾、南は橘湾と三方が海に面していて、交通の要衝の地として栄えた町だ。
§○谷口のぶ子APCJ-5045(94)美声の芸者さんの風情。伴奏者は一括記載。
「五島磯節」(長崎)
♪長崎名所は稲佐公園 お諏訪の月よ(オヤサイショネット)
花はカルルス 中川菊人形
夜は丸山 寺でもないのに大徳寺(オヤサイショネット)
雨は天から 縦には降れど(オヤサイショネット)
風のまにまに 横にも降るが
私しゃあなたに 縦に振れども 横には振らぬ(オヤサイショネット)
§○富田房枝VZCG-618(06)三味線/藤本博久、藤本秀禎、尺八/米谷智、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴祐、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。野趣ある歌唱。
「五島さのさ」(長崎)
♪牛を買うならネ
牛を買うなら 五島においで(ハヨイヨイ)
島といえども 昔の原よ(ハヨイヨイ)
子牛(べこ)はほんのり 赤おびて
四つ足丈夫で 使いよい さのさ
中通(なかどおり)島(じま)で唄われる「さのさ節」。さのさ節は明治三十二(1899)年ごろ、全国的に大流行した。花柳界では、さのさ一色の時期が続いた。文政(1819-1830)年間、長崎に入ってきた清国音楽は、京都、大阪を中心にして「九連環」を流行させた。江戸では「かんかんのう節」として人気を呼ぶ。こうした唄が「さのさ節」を生み出していった。「さのさ」は唄の終わりの文句だ。同系統の唄に「法界節」や「梅が枝」などがある。俗曲の「さのさ」は粋な三下りだが、本調子の「五島さのさ」は強さがある。
五島牛は五島人の代名詞。鈍重だが粘り強い働き者をいう。長崎西方約100km、海上に浮かぶ五島列島は大小140余りの島々の総称である。その大部分が西海国立公園に指定され、美しい海と豊かな自然に恵まれている。
文治三年(1187)年、壇ノ浦の合戦で破れた平(たいらの)忠(ただ)盛(もり)の嫡男(ちゃくなん)・平家盛は、安住の地をもとめて宇久(うく)島(じま)にたどり着いた。平家一門は宇久島を拠点として、五島列島を南下しながら各島々を支配。福江島の福江に本家、富江に五島藩の別家を築きあげて、平家七代で五島列島を支配下に置いた。
戦国時代になると宇久(うく)純玄(すみはる)が五島全域を支配する。秀吉の九州征伐時には一万五千石を安堵され、姓を五島と改めた。なお宇久氏当時の五島は、宇久島、中通島、若(わか)松島(まつじま)、奈留(なる)島(じま)、福(ふく)江島(えじま)を言ったが、現在では宇久島を除いて久賀(くが)島(しま)を加えた五島が中心である。本土に面した東側を表五島、西側を裏五島と呼んでいる。
平成十六(2004)年八月一日、下五島地区の一市五町(福江市、富江町、玉之浦町、三井楽町、岐宿町、奈留町)が合併して「五島市」が誕生した。
§○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/米谷龍男、鳴り物/美波駒三郎、囃子言葉/佐藤松重、佐藤松笙。すんなりと唄いこなしていて上手い。△高橋キヨ子CRCM-4OO53(98)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鳴り物/堅田啓輝、藤舎清晃、囃子言葉/本條秀太郎。少ししわがれた声も味わいのひとつだ。
「婚礼唄」(長崎)
♪長崎名所で云おうなら 祇園 清水 大徳寺
沖の番所や鉄心の 初夜の鐘ほどしっぽりと
あれ夜明けの松の森 異国船さえチョイト入り来る 大湊
あれはオランダの船じゃぞい それもそうかいな
実実々そじゃないか
婚礼儀式でお客様を接待して騒ぐ座興の唄。七五の繰り返しで唄う。
愛八の呼び方は「あいはち」とするものと「あげはち」とするものがあるが、愛八の姪(愛八の弟の娘さん)の松尾絹子さんは「あいはち」と呼んでいたという。
愛八は「ぶらぶら節」「長崎浜節」のレコードが発売されて三年後、昭和八(1933)年十二月三十日、脳溢血のため、丸山梅園道の自宅で帰らぬ人となった。享年六十歳。部屋には台所道具や調度品もなく、貧乏を絵に描いたようであったという。葬儀は郷土史家・古賀(こが)十(じゅう)二郎(じろう)が采配して、寺町の浄安寺で盛大に行われた。長崎市内の名士たちや、愛八に世話になった数多くの人々から香典(こうでん)や花輪が届けられ、香典料は葬儀費を差し引いて当時のお金で六百円が余ったという。
§◎愛八VICG-60403(00)弾き語り。
「散財唄」(長崎)
♪長崎名所は有明に あの異人館
唐に続けしテレガラフ あの鎔(よう)鉄所(てつじょ)
港見下ろすチョイト 丸山稲荷岳
遊里、花街での散財気分を表した派手で賑やかな騒ぎ唄。花街には、遊女を置いて客と遊ばせる貸座敷(妓楼)と、芸者に客の話し相手をさせたり、芸を披露させたりしながら料理を食べさせる待ち合い(お茶屋)がある。
鎖国であった頃、長崎は唯一の外国貿易港であったため、元禄の頃から派手な騒ぎ唄があった。それは上方、江戸にまで流行した。
安政六(1859)年、徳川幕府は永年の鎖国を解いて、長崎、神戸、横浜、新潟、函館の五港を開港する。外国の商人たちが大勢やってくると、住む家や活動拠点が必要となってくる。幕府は急遽(きゅうきょ)、東山手、南山手、大浦、小曾根、下り松、梅ヶ崎、新地、広馬場や出島地区一帯に外国人居留地を造成した。明治三十二(1899)年、外国人居留地は廃止されたが、残された洋館は長崎の町に異国情緒を醸(かも)し出していた。
昭和四十五(1970)年、取り壊されて少なくなってきた洋館の保存のために、グラバー邸などがあった南山手の丘を整備。そこへ市内に残存していた洋館を移築して、昭和四十九(1974)年、グラバー園を誕生させた。
テレガラフとは電信、電話などの通信機。鎔鉄所は製鉄所。安政四(1857)年十月、浦(うら)上村淵(かみむらふち)字(あざ)飽(ほう)ノ(の)浦(うら)に長崎鎔鉄所が建設され、文久元(1861)年三月、我が国最初の製鉄所が完成。日本の近代造船の歴史はここから始まる。
§◎愛八VICG-60403(00)弾き語り。
「島原の子守唄」(長崎)
♪おどみゃ島原の おどみゃ島原の梨(なし)の木育ちよ
何の梨やら 何の梨やら 色気無しばよしょうかいな
はよ寝ろ泣かんで おろろんばい
鬼の池久(きゅう)助(すけ)どんの 連れんこらるばい
宮崎康平作詞、妻城良夫補作詞、宮崎康平作曲。
昭和二十五(1950)年、目を病み、光を失った宮崎康平(1917-1980)は、二人の子を置いて妻に出て行かれ、失意の中、泣く子をあやしていた。元唄になったのは山梨県の「縁故節」。それに宮崎が若い頃、島原半島の南端にある口之津の港で、幼い子供が唄っていた子守唄にあった“おろろんばい”の一節を付けた。
昭和二十七(1952)年、九州の子守唄を取材に来ていた菊田一夫(1908-1973)と古関裕而(1909-1989)がこれを聞き、同三十二(1957)年、島倉千代子(1938-2013)がレコードに吹き込む。可憐な歌唱の島倉の声とマッチした唄は、島倉の人気とともに広く知られるようになった。
「鬼の池」は、口之津の対岸にある熊本県天草郡五和町(いつわまち)鬼(おに)池(いけ)の港のこと。明治の中頃、島原半島や天草の農家の人たちは貧しさの故に娘を売らなければならなかった。遠く中国や東南アジアへ売られていった娘たちのことを「からゆきさん」という。その売買の仲介人が「鬼池の久助」である。親達は子供がいたずらをしたり、言う事を聞かないと鬼の池の久助どんが来て、外国へ連れて行くよと脅かした。三番以下の歌詞には、からゆきさんの哀しみが綴られている。口之津の港から、からゆきさんを船に乗せるときは山手の家に火を放ち、町中が大騒動の中、密かに行われたという。
宮崎康平(1917-1980)は島原市出身。戦後、病没の父に代わって島原鉄道に入り、その近代化に努めたが、極度の過労から失明する。しかし、この失明が彼に闘志と活力を与え、以後、事業に地域の開発に、さらには邪馬台国の探求にと精力的な活動を始める。後(のち)添(ぞえ)えの和子の献身的な協力を得て文献を精読し、九州各地の現地調査による研究で、昭和四十二(1967)年、邪馬台国が島原半島に存在したと主張する「まぼろしの邪馬台国」を上梓(じょうし)。これが邪馬台国論争に、専門家以外が参加して論争する先駆けとなった。
§◎島倉千代子CF-3661(89)若い可憐な島倉の声と歌唱。島倉は昭和三十(1955)年、西條八十作詞、万城目正作曲の「この世の花」で歌謡界にデビュー。独特の小節を利かす島倉節。○今井三枝子20DZ-1506(89)琴、尺八入り。伴奏者不記載。きれいな声で唄っている。三番は方言で唄う。
「新地節」(長崎)
♪アー新地し(仕)も(舞)てから 何どんばして遊ぼサーラヨー
石の(コラショ)くでら(石屑)どんばサ舟に積む
(アラ 来たろば寄んさい道端じゃっけん
だんごして待っちょるアラサイサイ)
アー金毘羅岳から 新地ば見ればサーラヨー
可愛い(コラショ)お春やんナ潟いなぐ
(アラ田舎の姉さん 汚れが伊達さん
汚れちゃおっても かんざしゃ銀だよアラサイサイ)
諫早市(いさはやし)は長崎県のほぼ中央にあり、有明海、大村湾、橘湾と三方が海に面している。江戸時代、諫早藩は佐賀鍋島藩の支藩であった。
鍋島藩の干拓(かんたく)事業は安土桃山時代の天正年間から始まっている。
文政四(1821)年に完成した有明海の七百町(ななひゃくちょう)開(びらき)の干拓(かんたく)が始まったとき、北高来(きたたかき)郡(ぐん)(諫早市)沿岸の埋め立て工事で唄われたとも、南高来郡千々石町(ちぢわちょう)(雲仙市)の橘湾近辺が発祥の地とする説がある。熊本県天草郡の松島町阿(まつしままちあ)村(むら)(上天草市)などから、出稼ぎにやってきた人たちが唄っていた“潟切り節”や、八代郡(やつしろぐん)鏡町(かがみちょう)(八代市)の“大鞘(おおさや)名所(おざや節)”が元唄のようである。
諫早市小野島町に「おせっちゃんぶし」の名で愛称される「小野島新地節」がある。これは大正後期、地元の沢村セツさんが元唄をリズミカルに編曲し、独特の振り付けをして創作したものだ。踊りは鍬(くわ)持ちと、かがり担いの二人一組で踊り、干拓の作業の様子を表現している。
§◎谷口のぶ子APCJ-5045(94)粋で上手い。ベテラン芸者さんの味わいがある。△相馬秀三郎20DZ-1506(89)編曲/好田忠夫。取り澄ました唄声。お囃子方がテイチク女声コーラスと記述してあるが男声。
「高島節」
♪わたしゃ高島の なよ竹育ち
潮に 潮にもまれて なよなよと
(アラショーカショカネー)
島と名が付きゃ どの島も可愛い
まして高島 なお可愛い
(アラショーカショカネー)
長崎湾口に炭坑の島として栄えてきた端(は)島(しま)、高島、中ノ島が浮かんでいる。
元禄八(1695)年、高島で平戸の船乗り五平太が火を燃やしていると、黒い石が燃えだした。佐賀藩はこれを五平太炭と称して採炭。陶器製造の燃料などに使用した。
明治七(1874)年一月、政府が佐賀藩から炭鉱を取り上げ、同十四(1881)年に三菱の岩崎彌太郎に譲渡してから、わが国最初の近代的炭鉱が始まる。日本の近代化と共に石炭産業も発展。高島炭鉱の出炭量は増大の一途をたどった。
昭和四十一(1966)年には、153万9千5百dの最高出炭量を記録。最盛期には端島、高島で約二万二千もの人が住み、島には高層アパートが建ち並んだ。しかし、同年にピークを迎えた出炭量も、その後は石油に押されて減少の一途をたどる。同四十九(1974)年一月、端島が閉山。同年四月には無人島となった。高島も同六十一(1986)年十一月に閉山。百二十年近い炭鉱の島に歴史に幕が下ろされた。
§○佐藤松子TFC-1205(99)三味線/藤本e丈、藤本直久、鉦/西裕之、囃子言葉/佐藤松重、福地純子。オーケストラ伴奏で若々しい声で唄っている。お座敷調のものはさすがに上手い。○小野寺春鵬20DZ-1506(89)三味線/本條秀太郎、本條芳輔、尺八/小野寺秋鵬、太鼓/美波駒寿三、鉦/美波駒寿万。味と野趣がある渋い声。
「田助ハイヤ節」(長崎)
♪(ハァ チョイサーヨイヤサー)
ハイヤ可愛や 今朝出た船はエー(ハァ チョイサーヨイヤサー)
どこの港にサーマ 入るやらエー(ハァ チョイサーヨイヤサー)
アー段々畑のさや豆はハァひとさや走れば皆走る
私ゃあんたについて走る(ハァ チョイサーヨイヤサー)
昔懐かしオランダ船はエー(ハァ チョイサーヨイヤサー)
平戸城下のサーマ宝船エー(ハァ チョイサーヨイヤサー)
全国に分布するハイヤ節系民謡の源流となる唄。成立年代は明らかではない。北前船が海上輸送の主流であった江戸時代、船は風向きや潮の流れなどの影響で何日も出航できないことがあった。田助港は平戸島の東北端、白岳(250b)のふもとにある小さな港だが、絶好の風待ち港として古くは遣唐使船の寄港地、十六世紀には日本最初の海外貿易港として隆盛を極めていた。
船乗りたちは船宿や遊郭で互いに酒を酌み交わしながら、寄港地で覚えた唄を披露し合った。九州では南風が吹かないと、船を北に向けて走らせることができない。この南風を「はえの風」と呼ぶ。「はえ」が「はえや」「ハイヤ」になって唄い出しの文句に使われたという。また“ハ曳(ひ)いたエー”と唄い出す島原に残るハイヤ節は、船曳き唄として唄われていた。船乗りたちが全国の北前船の寄港地に唄を伝えたため、各地にハイヤ節系の民謡が残っている。
幕末の文久、慶応のころ、西郷隆盛、桂小五郎(木戸(きど)孝(たか)允(よし))、高杉晋作、山県狂(やまがたきょう)介(すけ)(有(あり)朋(とも))、大隈(おおくま)重信(しげのぶ)ら維新の志士たちがひそかに田助に集まり、昼は禿島に釣りに出かけた。釣りは口実で、実は安全な場所で密議をこらしたのであった。これにちなんだ歌詞は“田助角屋に残した文字は名も高杉の筆のあと”。
夏と秋の二回「平戸南風(はい)夜(や)風人まつり」が平戸港交流広場を中心に開かれている。県内外から数多くの踊り隊が参加して、個性あふれる踊りと衣装を披露。町は「田助ハイヤ節」のお祭り一色となる。
§○高橋キヨ子CRCM-40054(98)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鳴り物/堅田敬輝、藤舎清晃、囃子言葉/本條秀太郎。歌唱の技はあまり感じられないが、少し濁った声で港唄の雰囲気をだしている。
「長崎(ながさき)月琴(げっきん)節(ぶし)」(長崎)
♪一日も早く年明け主のそば 縞の着物に繻子の帯ササホーカイ
似合いましたか 見ておくれホーカイホーカイ
春風に庭にほころぶ梅の花 鶯とまれやあの枝にササホーカイ
そちが冴えずりゃ梅がものいう 心地するホケキョーホケキョー
「長崎節」とも呼ばれる。月琴は月の形に似た桐と黒檀(こくたん)で出来た共鳴体に、四本の絹弦を張り、鼈甲(べっこう)の撥(ばち)で弾く。幕末から明治の中期まで大流行した明清楽(中国明朝の音楽と清朝の音楽)の中で演奏される楽器である。長崎を訪れた坂本龍馬や勝海舟も興にまかせて月琴を弾じたという。
明楽は江戸の中期、清楽は化政期(1804-1830)に長崎へもたらされた。唐人屋敷で奏でられ、踊られていた明清楽を長崎の町々に伝えたのは丸山の遊女たちであった。明楽は主に武士階級がたしなんだが、清楽は庶民に受け入れられた。月琴の伴奏で唄われたものを「月琴節」といい、その中で最も良く知られた曲が「九連環」である。九連環は九つの環でできた知恵の輪のこと。
「九連環」が流行するにつれ、歌詞も次第に崩れて猥雑な日本風の「かんかんのう」に変化する。これに合わせて踊る「看々(かんかん)踊り」は文化・文政(1804〜1830)の頃、江戸、大坂で大流行。江戸では町奉行が禁止令を出す騒ぎにまでなった。
「かんかんのう」は明治になって「とっちりちん」「梅ヶ枝」「法界節」「さのさ」へと変わり「法界節」は明治の自由民権運動盛んなしり頃、壮士らが演説代わりに月琴を弾き、街角で唄った。「法界」は「九連環」の中の「ぽーかい(不解、不開)」による。
「九連環」は日清戦争以後、一時は忘れ去られようとしたが、日本の流行歌謡の源流の一つとして生き残り、昭和十二(1937)年、林伊佐緒と新橋みどりが歌う流行歌「もしも月給があがったら」、同二十九(1954)年、青木はるみが歌った「野球けん」などに、その流れを見ることができる。月琴は、現在「長崎市明清楽保存会」が、その技術を受け継ぎ保存に努めている。
§○高田新司APCJ-5045(94)雅趣なく、曲想も良くない野暮な曲を、それらしい唄い方で雰囲気を醸(かも)し出している。
「長崎さわぎ」(長崎)
♪旦那百まで 旦那百まで アヨイヤサヨイヤサ
エーわしゃ九十九まで 共に白髪の 共に白髪の
アヨイヤサ ヨイヤサ エーササはえるまで
さても見事な さても見事なアヨイヤサ ヨイヤサ
エー松葉の御紋 どこの染めやら どこの染めやら
アヨイヤサ ヨイヤサ エーササ染めたやら
洗練された上品な雰囲気を持つ。伊勢音頭が変を変えて、酒席の騒ぎ唄になっている。
§○吉田ふき子20DZ-1506(89)三味線/千藤幸俊、横笛/老成参郷、太鼓/関口明美、鉦/関口勝代。お座敷唄の粋さを残しながらも、賑やかな港の唄の雰囲気をよく出している。△高橋キヨ子CRCM-4OO53(98)採譜/本條秀太郎、編曲/福田正。三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鳴り物/望月喜美、望月太喜之丞、囃子言葉/本條秀波。
「長崎のんのこ節」(長崎)
♪ハァー芝になりたや 箱根の芝にヤーレーエ
諸国諸大名の 敷き芝にノンノコサイサイ
(シテマタサイサイ)
ハァー飲めや大黒 唄えや恵比寿ヤーレーエ
中の酌(しゃく)取りゃ 福の神ノンノコサイサイ
(シテマタサイサイ)
長崎、諌早、大村、波佐見から、佐賀県の鹿島、有田地方にかけて広く分布している唄。小皿を二枚ずつ両手に持って踊る皿踊りが付いている。
江戸時代後期の文化年間の流行歌がこの方面に定着したといわれ、囃し言葉のノンノコサイサイは三重県の「尾鷲節」にも使われている。長崎弁で「のんのか」は「きれい」「美しい」のこと。
諫早市の秋祭り「のんのこ諫早まつり」は、踊りながら商店街のアーケードを練り歩く「のんのこ街踊り」がメイン。鮮やかな衣装を着た参加者は、曲に合わせて小皿を打ち鳴らして練り歩く。江戸時代から伝わるゆったりした曲調の「道行き」、少しテンポの早い「新のんのこ」、現代風にアレンジした「まつりのんのこ」の三曲があり、市内の企業や小学校など約六十団体、五千人の市民が参加する。二日目は各団体による「ふるさと芸能の祭典」やパレードがあり「のんのこ踊り」の曲と、振り付けの良さを競う「のんのこ踊りコンテスト」で締めくくられる。
§◎谷口のぶVDR-25130(88)三味線/野沢豊子、中村千鶴、鳴り物/一瀬トク、平信子、囃子言葉/田中キミエ、福田敦子。穏やかな歌唱で、お座敷調の粋さを出している。上品な芸者さんは、力んだり、声を張り上げて唄うようなことは決してしない。口も大きく開ず、歯を見せないように唄う。APCJ-5045(94)芯の強さもあり、自信に満ちた唄を披露する。○中島ナミFGS-609(98)三味線/築城カツヨ、太鼓/船津みさこ、囃子言葉/広瀬チセ、平ハマ。素朴な田舎芸者さんの唄。
「長崎浜節」(長崎)
♪浜じゃエー 浜じゃ網(あみ)曳く 綱(つな)を曳く
陸(おか)じゃ小娘の 袖(そで)を引く
今宵エー 今宵泊りの 港に入りて
波も静かな 梶(かじ)枕(まくら)
古賀十二郎作詞、愛八作曲。郷土史家の古賀十二郎は、昭和初期、長崎の舞鶴座で初代中村(なかむら)鴈(がん)治郎(じろう)の舞台を観た。ある芝居の幕切れに「住吉踊り」が披露された。そこで“浜じゃえ浜じゃ網引く綱を引く……”というのを聞いて「これは立派な俗謡だ。大海から波が岸に打ち寄せてくる。浜波風が吹いている。その波風の音に打ち消されないように唄わなければならない。ちょっとやさしいようだが、なかなか難しい」と言った。
古賀はこの「住吉踊り」をもとにして、丸山芸者の愛八と推敲(すいこう)を繰り返し「浜節」を作り上げた。節は愛八がアイヌの女性から習ったという“追分”がベースになっている。昭和五(1930)年、愛八が五十六歳の時、ビクターレコードに吹き込まれた。表が「ぶらぶら節」で裏が「浜節」であった。
古賀は長崎学の基礎を築き「長崎評論」の創刊、長崎史談会の設立者で知られ、資料保存のための長崎県立図書館設立にも尽力した人物だ。
住吉踊りは、大阪の住吉神社で行われる「御田植神事」に踊られる田楽舞いである。笠や白(しろ)木綿(もめん)の衣装をまとった少女が、鈴のついた団扇(うちわ)を手に持ち、大きな傘を中心に、飛んだり跳ねたりしながら、心の字をかたどって踊るもの。母なる大地に植付けされる苗には、強い穀霊が宿ると考えられていた。田植え時に音楽を奏で、歌を唄い、踊りや舞いを演じるのは、穀物に宿る霊力を増すために行う。
§◎愛八VICG-60403(00)三味線弾き語り。風格、味わいがあり、声量も豊か。○栄FGS-609(98)三味線/二三吉、さだ千代。△高橋キヨ子CRCM-40021(93)三味線/本條秀太郎、本條秀若、鈴/鈴木恭介、鳴り物/堅田啓輝、小倉敏夫、囃子言葉/本條秀利。「浜節」に続いて「ぶらぶら節」に入る。
「長崎ぶらぶら節」(長崎)
♪遊びに行くなら 花月(かげつ)か中の茶屋
梅園裏門叩いて 丸山ぶうらぶら
ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう
長崎名物 凧(はた)あげ盆祭り
秋はお諏訪の砂(しゃ)切(ぎり)で 氏子(うじこ)がぶうらぶら
ぶらりぶらりと 言うたもんだいちゅう
宝永、正徳の頃から大流行した豊年唄の「やだちゅう節」「ちゅうちゅう節」が元唄。長崎では丸山を中心に江戸時代から唄われていた。
九州西側を往来する船の寄港地・長崎丸山の花街は、いつも大変な賑わいだった。唄の文句にある花月は、寛永年間創業の丸山遊郭第一の老舗(しにせ)・引田屋の庭園に、文政元年の頃に作られたお茶屋である。花月楼とも呼ばれた。花月は明治十二(1879)年の大火で引田屋に移転する。昭和五(1930)年、丸山一の名妓で西彼杵郡(にしそのぎぐん)日(ひ)見(けん)村(むら)(長崎市網場町)生まれの芸者・愛八が、天性の美声でレコードに吹き込み、県を代表する唄となった。
昭和三(1928)年には、芸妓の凸(でこ)介(すけ)(花柳寿太満)がニッポノホンレコードに吹き込んでいる。愛八のレコードプロデュースしたのは西條八十(1892-1970)だった。大阪朝日新聞に連載中の「民謡の旅」の取材のために長崎に来た折、花月で愛八に出会う。第122回直木賞受賞作品「長崎ぶらぶら節」(なかにし礼著)は、愛八と、失われ行く長崎の庶民生活掘り起こしに生涯を賭けた古賀十二郎との交流が描かれている。
凧(はた)揚(あ)げは十六世紀の元亀・天正の頃にポルトガル船によって伝来したとか、出島の和蘭館(おらんだかん)の召使の黒人が、望郷の思いを凧(たこ)に託して揚げたのが始まりであるといわれている。唐八景での凧揚げは、眼下に天草灘を見下ろす素晴らしい風光のもとに行われる。凧は菱形で図柄はさまざま。鋭く左右に走る凧を操り、ガラスの粉を塗った糸で相手の凧の糸を切り落とす。勝つと「えいやー」と勝ちどきを上げ、次の凧に向かっていく。
§◎愛八VICG-60403(00)弾き語り。強くて力ある美声。SP盤から復刻したクリアな録音。○谷口のぶAPCJ-5045(94)伴奏者は一括記載。ちよっと気取ったお座敷調。「ちゅう」の語尾を上げている。現在の長崎の民謡界では谷口の歌唱を標準の形とする。VZCG-138(97)三味線/野沢豊子、鳴り物/一瀬トク、平信子。少々、声が濁るが粋な野趣とお色気がある年配芸者の雰囲気を出す。UPCY-6193
(06)お囃子方不記載。○赤坂小梅COCF-9749(92)お囃子方不記載。○宮川簾一COCF-9313(91)三味線/本條秀太郎、本條宏、笛/米谷威和男、太鼓/美波駒三朗、鉦/美波奈る駒、囃子言葉/丹みどり、白瀬春子、白瀬孝子。渋い味のある声と歌唱。上手いし、いかにもひなびた民謡の味がある。ハイカラ港町長崎の唄でも、土地の匂いがする唄い方が必要。
posted by 暁洲舎 at 00:39| Comment(0) | 九州の民謡
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