「五木の子守唄」(熊本)
♪おどまいやいや 泣く子の守にゃ
泣くと言われて 憎まれる 泣くと言われて 憎まれる
ねんねした子の 可愛さむぞさ
起きて泣く子の 面憎さ 起きて泣く子の面憎さ
球磨郡(くまぐん)五木村(いつきむら)の守(も)り子(娘)たちが唄う子守唄。「江戸の子守唄」「中国地方の子守唄」と並んで、日本の子守唄のなかで最もよく知られている。
今ではダムの湖に水没している球磨郡五木村は、かつては全村を五つに分けて治められていた。山深い里に暮らす名子(なご)小作人は、山林を所有して大きな力を持つ山地主(旦那)の下で働かざるを得なかった。畑から農具まで借りて田畑を耕す生活は貧しく、娘は子守奉公に出された。
五木を離れて彼女たちが出向いたのは、山を下った人吉(ひとよし)の豊かな商家や農家であった。子守り仕事は辛かった。望郷の思いと行く末の悲しい思いを守り子たちは唄に綴(つづ)った。人吉には五木だけでなく各地から奉公に来ていた。「五木の子守唄」の源流は、天草の福(ふく)連木(れんぎ)地域の娘たちが持ち込んだ子守唄ではないかといわれる。年季奉公を終えた守り子たちは、それぞれの故郷に唄を持ち帰ったのである。
§◎堂坂よし子COCF-13290(96)定盤。素朴で野趣に富み、農作業に従事する年配の女性が唄う雰囲気を持つ。○松原タシエFGS-609(98)尺八/木村蒼山。ステージ歌手にはまね出来ない素朴さ。“おろろんおろろんおろろんばい”から唄に入る。
「五木の子守唄<音丸節>」
♪おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんど
盆が早うくりゃ 早う戻る
おどま かんじんかんじん あん人たちゃよ(良)か衆(し)
よかしよか帯 よか着物(きもん)
§○音丸KICG-3078(03)大村能章編曲。清楚な編曲で端正に唄っている。戦後まもなく音丸が人吉を訪れたとき、土地の古老・太田二一郎の唄を聴いてレコードに吹き込み、その後、照菊が歌って大ヒットした。音丸は芸者さんではなく商店の奥さんだった。尺八の菊池淡水に民謡を習っていたが菊池の紹介で歌手になる。丸いレコードが音を出すからというので音丸と命名された。○照菊KICG-3078(03)山口俊郎編曲。管弦楽伴奏。昭和二十八(1953)年発売のレコードが大ヒット。田舎娘の味と哀調をうまく出した唄い方をしている。28CF-2276(88)三味線/豊光、豊藤、笛/老成参州。△菊太郎KICG-3078(03)島田磬也作詞、長津義司編曲。管弦楽伴奏。K30X-222(87)三味線/藤本e丈、藤本直久、笛/米谷威和男。お座敷調の気取った唄い方。△成田雲竹COCJ-30669(99)三味線/高橋竹山。雲竹が民謡に求めたのは、あくまでも自然であるということであり、農民の心を大切にして唄うことを原点とした。唄は練習を積めばうまくなるだろうが、曲に底流する精神性の表現力や味わいは、唄う者の人間性からにじみでる。成田は、九州の民謡は津軽民謡と発声の仕方が似ていて唄い易いという。
「牛深三下り」(熊本)
♪ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ ヨイサ……
浦里や嘆けば みどりも嘆く
もらい泣きする 明け烏
今来たニセさん よかニセさん
縞の財布を 投げ捨てて
開けてみたれば 質屋の質札
「牛深ハイヤ節」の前唄として唄われる前座唄。牛深は県西部の天草諸島下島南端にあり、雲仙天草国立公園の一部を形成している。三方を海に囲まれ、豊かな自然と穏やかな風土に恵まれた土地の名の由来は、古事記の「憂の深き処」、万葉集の「大之波(おおしは)河(か)」「潮(うしお)深(ふか)」からとの説がある。
牛深湾は入江が深く入り組んでいて、遠見山頂(217b)から見ると、水の字に見えることから水字湾とも呼ばれる。港は天然の良港で、古くは南蛮貿易、海運業の発展に伴って繁盛を極めていた。現在でも県下最大の漁業基地として巻き網、刺し網、はえ縄による鰯(いわし)、鯵(あじ)、鯖(さば)の漁獲と真珠の養殖が行われている。
平成九(1997)年、港をまたぐ牛深ハイヤ大橋が架けられた。関西国際空港を手掛けたイタリアの建築家レンゾ・ピアノらの設計によるものだ。幅員13.6b、全長833bは県内最長。景観とよく調和した姿を見せている。
§○伊藤多喜雄32DH-544(87)キーボード/佐藤允彦、和太鼓/林英哲、パーカッション/高田みどり、TAKIOBAND(津軽三味線/木下伸市、佐々木光儀、尺八/小川寿也、米谷智、和太鼓/植村昌弘、鳴り物/木津茂理、ドラムス/斉藤亨)。伊藤は北海道の民謡家・千葉勝友に師事。唄の基本はしっかりと身に付けている。民謡を新感覚でアレンジして全国的にライブを展開。子供から年配者まで幅広い層にアピールしている。
「牛深ハイヤ節」(熊本)
♪サアサ ヨイヨイ(サアサ ヨイヨイ)
ハイヤーエー ハイヤ(ハッハッハッハッ)
ハイヤで今朝出した船はエー(ハヨイサーヨイサー)
どこの港に サーマ着いたやらエー
(エーサ牛深 三度行きゃ三度裸)ハヨイショ
(鍋釜売っても 酒盛りゃして来い 戻りゃ本渡瀬戸かち渡り)
ハヨイサーヨイサー(ハヨイサーヨイサー)
「天草ハイヤ節」「牛深浜唄」とも呼ばれる。長崎の「田助ハイヤ節」や「鹿児島ハンヤ節」と同種の唄で賑やかな騒ぎ唄。牛深は「追分節」「新保広大寺」と共に日本民謡の源流をなす「ハイヤ節」の発祥地とされ、ハイヤ節は日本全国の港に分布している。“ハイヤ”は南の風、ハエの意味。牛深では祝いの席はもちろんのこと、まんなわし(縁起直し)でもハイヤが踊られる。
奈良・平安の頃から、風と潮に乗って南方に行けることを知っていた牛深の人々は、海の幸を求めて荒波を乗り切って出掛けて行った。南の産物といっしょに、熱狂的で軽快な南国特有のリズムを持った唄を持ち帰る。その唄に、当時、熊本を中心に唄われていた二上がり甚句で味を付け、牛深のハイヤ節が生まれた。風持ち、シケ待ちのために牛深に寄港した船乗りたちは、賑やかなハイヤ節と酒に酔い、牛深の女性の情にほだされて“裸”にされたが、楽しい思いと唄を次々に港へ伝えていった。
日本海を北上する北前船の寄港地に、多くのハイヤ節系の民謡が残されている。山口県の「般若踊り」、島根県の「浜田節」、広島県の「三原やっさ節」、京都府の「宮津アイヤエ踊り」、福井県の「美山ハイヤ節」、石川県の「加賀ハイヤ節」、新潟県の「おけさ」、山形県の「庄内ハエヤ節」、秋田県の「大正寺おけさ」、青森県の「津軽アイヤ節」「津軽塩釜甚句」「南部アイヤ節」、北海道の「江差餅つき囃子」などである。
毎年四月に行われる牛深ハイヤ祭りは、天草の春を彩るイベントで、航海の無事を祈願し、ハイヤのリズムに乗って老若男女が町中を踊り歩く総踊りや、水産フェア、船団パレードなど、盛りだくさんの催しがあり、県内、県外からたくさんの人出で賑わう。
§○大山みどりK30X-222(87)三味線/藤本秀茂、藤本忠寿、鳴り物/美波那る駒、美波雄三郎、囃子言葉/福居起子、後藤千恵子。若くて元気のよい歌唱。ほんのりとお色気も漂わせ、テンポよく爽快感がある声。囃子言葉も若くて元気がよい。△伊藤多喜雄32DH-544(86)前唄に「牛深三下り」が入る。キーボード/佐藤允彦、和太鼓/林英哲、パーカッション/高田みどり、TAKIOBAND(津軽三味線/木下伸市、佐々木光儀、尺八/小川寿也、米谷智、和太鼓/植村昌弘、鳴り物/木津茂理、ドラムス/斉藤亨)。32DH
-5123(88)津軽三味線/木下伸市、佐々木光儀、尺八/小川寿也、米谷智、和太鼓/植村昌弘、鳴り物/木津茂理、ドラムス/斉藤亨。△荒巻千鶴子FGS-609(98)三味線/竹井きよえ、江副はるよ、渡辺かおる、太鼓/山上勝喜、囃子言葉/蒔本ふみえ。歌手は複数のようだが、表記は一人のみ。囃子は元気のある年配者の声で野趣があり面白い。△天草牛深有志TFC-913(00)伴奏者不記載。野性的なハイヤ節。
「おてもやん」(熊本)
♪おてもやん あんたこの頃 嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこた したばってん
ご亭(てい)どんが ぐざっぺだるけん まぁだ杯(さかずき)ゃせんじゃった
村役(むらやく) 鳶役(とびやく) 肝(きも)いりどん
あん人たちが おらすけんで 後はどうなと きゃあなろたい
川端町ぁん きゃあめぐろィ
春日(かすが)ぼうぶらどんたちゃァ 尻ひっぱって 花盛り花盛り
ちーちくぱーちく雲雀(ひばり)の子
げんぱく茄子(なすび)に いがいがどん
ユーモラスな熊本訛りで唄う。おてもやんは十人並の不美人である。熊本市の花柳界の座敷唄として唄われてきた「本調子甚句」が熊本化したもので、このような方言で綴った本調子甚句は山口県の「男なら」、高知県の「土佐なまり」、石川県の「金沢名物」、愛知県の「名古屋甚句」などがある。昭和十(1935)年、赤坂小梅がレコードに吹き込み大ヒット。以来、小梅の十八番となる。
「したばってん(したけれども)」「ご亭どんがぐしゃっぺだるけん(婿殿があばたずらなので)」「肝入りどん(世話役)」「あん人達のおらすけんで後はどうなときゃあなろたい(そんな人たちがおられますので、後はうまくとりなしてくれるでしょう)」「川端町ぁんきゃあめぐろい(川端町のほうにまわって歩きましょう)」「春日ぼうぶらどん(産地春日のかぼちゃ男)」「尻ひっぴゃーで花ざかり(かぼちゃの尻にくっついた萎れた花をひっぺがすように、裾を引っ張ったりで、私のモテモテ人生今花盛り)」「チーチクパーチクひばりの子(ちーちくちーちく囀る雲雀の子のような浮かれ男)」「玄白なすび(杉田玄(げん)白(ぱく)1733-1817が広めた茄子)」「いがいがどん(トゲが密生した外皮。野暮ったいイガ男)」。歌詞の二番にある「あかちゃかべっちゃかちゃかちゃかちゃ」は「赤や茶や紅などでの下手な化粧であかんべー」と囃(はや)すいじめ言葉だ。
熊本をこよなく愛した作家・荒木精之(せいし)(1907-1981)は、この唄が幕末の肥後勤王党が時節到来を待つ志を隠した“しのび歌”であることを親戚筋の老人から聞かされた。「おてもやん」は勤皇の志士。「ご亭どん」は疱瘡(ほうそう)にかかった孝明天皇。「村役、鳶役」は三条実(さね)美(とみ)や岩倉(いわくら)具(とも)視(み)のこと。「勤皇党よ、最近、朝廷と連絡が取れたそうだな」と呼びかけ「取れたが、天皇が病に倒れたので、直接、杯をもらったわけではない」と応える。二番の文句「一つ山越え、もひとつ山越え、あの山越えて、私ゃあんたに惚れとるばい、惚れとるばってんいわれんたい」は「遠い京都の天皇を心から慕(した)い申しているが、熊本ではめったに言えない事情がある」という意味であるという。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)若い声の小梅さん。COCF-12698(95)お囃子方不記載。琴、三味線、尺八、鉦、太鼓入り。COCJ-31888(02)三味線/豊藤、豊藤美、尺八/菊池淡水。風土から生まれた民謡の楽しさを体現したおおらかで豪快な歌唱。この唄を全国に知らしめて一世を風靡した赤坂小梅は、NHK紅白歌合戦第4回(1953)と第6回(1955)に出場して、この唄を唄った。第1回の紅白(1951)では「三池炭坑節」を唄っている。○地元歌手BY30-5018(85)テンポを遅目にして唄う年輩芸者の風格が感じられる。△三橋美智也KICH-2420(06)編曲/山口俊郎。三味線/豊吉、豊静。伸びのある高音と鍛え上げた歌唱力で日本人の郷愁を掻き立てる三橋節。どんな民謡でもうまくこなすが「煙草入れの銀かなぐ」を「金かなぐ」と唄うのはまだしも「春日ぼうぶらどん」を「ぼうふらどん」、「げんぱく茄子」を「げんばく茄子」、「あかちゃかべっちゃか」を「あかちゃかぺっちゃか」と唄うのはいただけない。
「キンキラキン」(熊本)
♪肥後の刀の 下げ緒の長さ 長さバイ(ソラ キンキラキン)
まさか違えば玉(たま)襷(だすき)それもそうかいキンキラキン
(キンキラキンのガネマサドン ガネマサドンの横バイバイ)
しんとんとろりと見とれる 殿御 殿御バイ(ソラキンキラキン)
殿は伊達者でよい男それもそうかいキンキラキン
(キンキラキンのガネマサドン ガネマサドンの横バイバイ)
「キンキラキン(金綺羅錦)」は、華美できらきら光っている着物や装飾品のこと。肥後の刀の下げ緒が長いのには意味があり、事あるときは襷(たすき)となるのだと唄う。外様大名は徳川幕府に領地を安堵(あんど)されたとはいえ、お家の安泰のためには幕閣(ばっかく)の実力者と誼(よしみ)を通じ、現政権の実力者を見極めたり、将来のための先行投資が重要なことであった。
細川藩は幕府からの軍役や賦役(ふえき)の負担のほかに、幕府中枢の人脈に取り入るいるための物入りも多かった。時代が下るにつれて次第に財政難に陥り、江戸の中期には参勤交代の費用もままならないまでになったという。特に五代藩主宗孝(1716-1747)が急死して、その跡を重賢(しげかた)(1720-1785)が継いだ頃には、江戸での細川藩に対する商人の信用もなくなり「新しい鍋釜には“細川”と書いておけば金気が出ない」といって皮肉られたほどであった。後世、細川中興の祖といわれた重賢は、藩財政を立て直すために堀平太左衛門を起用して藩政の大改革を行う。庶民には奢侈(しゃし)禁止令を出し、倹約を美徳とする締め付けを行った。下級武士や一般庶民は窮屈な思いをしたが、唄でその政策を茶化してうっぷんを晴らした。唄は宝暦年間と推定される。
「がねまさ」は蟹(かに)で、堀平太左衛門が蟹股(がにまた)だったのを揶揄(やゆ)して「がねまさどんの横ばいばい」と囃(はや)された。倹約政策は徐々に効果を表し、肥後熊本藩では華美な着物や贅沢な暮らしは悪で、地味で質素な暮らしをして、なりふり構わず仕事に「がまだす」のを善しとする風潮が生まれた。それは今日の県民性や県の文化にも影響している。
§○西山光国FGS-609(98)三味線/吉住輝弥、尺八/木村蒼山、太鼓/井野若舟、囃子/松原タシエ、蒲原かね子。○佐藤松子K30X-222(87)野趣と粋さがあり、おばさん田舎芸者的貫禄の歌唱。三味線/藤本e丈、藤本秀福、笛/米谷威和男、鳴り物/西泰維、山田鶴助、囃子言葉/佐藤松重。
「球磨の六調子」(熊本)
♪(ホイサッサ ホイサッサ)
球磨で一番 青井さんの御門(前ハ前ハ)
前は蓮池 桜馬場ヨイヤサー(ホイサッサ ホイサッサ)
桜馬場から 薩摩瀬見れば(殿ノ殿ノ)
殿の御門に 鶴が舞うヨイヤサー(ホイサッサ ホイサッサ)
明るい雰囲気で素朴さと、ひなびた悠長な曲想を持っている。県南部の人吉市、球磨川流域を占める球磨郡で祝い唄と酒盛り唄を兼ねて唄われる。「青井さん」は、大同元(806)年創建の青井阿蘇神社。蓮池は同神社の前にある蓮池のこと。「はすゆけ」と発音する。
焼酎を飲んで少し酔ってくると、必ず誰かが“球磨で名所は……”とやり始める。すかさず“前は前は”の合いの手が側から入り、後が続いていく。六調子は三味線の三本の糸を上下往復させる奏法、六通りある唄と踊り、雅楽の六調子などから命名されたという。
瀬戸内海沿岸に分布し、大分県を中心に広まった「よいやな節」が南下して球磨郡に伝わったとされる。「よいやな節」は、歌詞の終わりにヨイヤナの囃し言葉が付き、婚礼や普請などのめでたい席で唄われる。「牛深六調子」「球磨六調子」がさらに南下「奄美六調」となり、沖縄本島を素通りして八重山へ伝播。少しテンポのゆるい「八重山六調」となった。
§○高田新司APCJ-5046(94)ちよっとかすれる声に粋さがある。伴奏者は一括記載。○赤坂小梅COCF-9749(92)伴奏者不記載。九州民謡を唄わせば小梅の独壇場。△銀杏田スミ子COCF-13290(96)少しおとなしいが素朴な粋さを残している。三味線/川村幸子、太鼓/楠本喜美香。
「豪傑節」(熊本)
♪ハァ西郷隆盛りゃ話せる男
国のコラショイ 国のためなら死ねというた
今度の戦争にゃ どうせも行こたい
行かなきゃ俺らの 身が立たぬ
コラショカショカネ ドウショカ隊長さん
早調の伊勢音頭の前奏があり、一転して都々逸(どどいつ)調で語る。後に田原坂を付けて唄う。「豪傑節」はもともと鹿児島民謡といわれる荘重な唄。幕末、維新戦争に出かけて活躍した薩摩藩士たちが、自らの戦争体験をオハラ節にのせて、酒の席で即興で歌った。鹿児島田原坂、豪傑節田原坂などともいう。
§○赤坂小梅COCF-9749(92)SP盤音源。伴奏者不記載。△佐藤松子KICH-811
4(93)三味線/藤本e丈、藤本直久、藤本秀次、尺八/米谷市郎、鳴り物/西泰維。野太い声に迫力を出して熱唱。
「東雲節」(熊本)
♪何をくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
水の流れを見て暮らす 東雲のストライキ さりとは辛いね
てなことおっしゃいましたかね
三十三間堂 柳のお柳(りゅう)こがるるなんとしょ
可愛い緑が綱を引く 住吉の街道筋 よいよいよいとな
てなことおっしゃいましたかね
明治三十三(1900)四年頃の流行唄。“東雲のストライキ”の囃子言葉からこの名がある。元唄は横江鉄石と添田唖(そえだあ)蝉(ぜん)坊(ぼう)の共作「ストライキ節」。曲節はドンドン節を改作したものだ。ドンドン節は、浪花節の三河屋円車が一席うなったあと、ドンドンと太鼓を二つ打ったのでその名がある。
明治三十三(1900)年、大審院は函館の娼妓に対して、身体拘束契約は無効であるとの判決を下した。これ以後、自由廃業運動が活発化する。
同じ年、熊本の二本木遊郭の娼妓たちが待遇改善要求をして、長期間のストを行った。ストは一ヶ月も続いたが、そのために二本木の中心である東雲楼はかえって人気を呼んだという。
熊本の東雲楼は米の相場で巨万の富を得た中島茂七によって、明治二十六(1893)年に建てられた。破風造りの大玄関をくぐり広い階段を登ると、数百畳の大広間がある本屋に二十五の別棟がある豪壮なものであった。盛時には約九十人ほどの娼妓と、約三十人の芸妓を揃えていた。
添田唖然坊(1872-1944)は神奈川県大磯生まれ。明治二十三(1890)年、街頭で民権論を唱える壮士たちが歌う演歌に感激。自らも職業演歌師となった。日清戦争の前後、北陸をはじめ地方を巡演するなかから、民謡調の曲節を自作に採り入れるようになり、明治三十二(1899)年の「ストライキ節」は最初のヒット作となった。痛烈な世相風刺と官憲批判を柔らかな曲調に乗せて唄うところに、唖蝉坊演歌の特色がある。
なお、二番の文句は浄瑠璃『三十三間堂棟木の由来』による。
熊野山中の柳の精・お柳は、北面の武士・横曾根平太郎との間に緑丸をもうけた。後白河法皇の発願による三十三間堂の建立に棟木が求められ、熊野山中の柳が伐られることになった。それを知ったお柳は、夫と子に別れを告げて消え去る。柳は伐られ、都に曳き出されることになったが、途中でどうしたことか動かなくなった。緑丸がその柳の大樹にふれて音頭をとると再び動き出し、柳を棟木に使った大堂が完成したという。
§○日本橋きみ栄TFC-1208(99)オーケストラ伴奏。伴奏者不記載。音源はSP盤。芸者らしい粋さがあり上手い。明治四十四(1911)年、東京の下町に産声をあげた日本橋きみ栄、本名・荒井きよ子は、五歳のときから義太夫を始め、十六歳で清元の名取りとなる。長じて芸者の道に入り、晩年、俗曲を後世に遺すために、三年がかりで二百曲ばかりの曲を吹き込んだ。
「田原坂」(熊本)
♪雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上豊かな 美少年
熊本の花柳界では剣舞を伴って演唱される。「人馬は濡れる」の「人馬」は、もとは「陣場」であり、雨の陣地戦の厳しさを唄ったものだ。明治三十七(1904)年、田原坂で亡くなった人々の慰霊碑建立に際し、九州日日新聞の入江白峰が作詞。熊本大和春の芸妓留吉が作曲したという。留吉は「右手に血刀、左手に生首」と唄っている。
熊本県西北端、鹿本郡植木町にある田原坂は、熊本城から北に伸びる台地の北端、舌状台地にある。明治十(1877)年、西郷隆盛率いる薩摩軍と熊本城救援に南下する政府軍は、三月四日から二十日までの十七日間、ここで死闘を繰り広げた。熊本城から田原坂までの約16kmは掘抜き道であり、左右の畑より道路が低くなっている。掘抜き道を進めば左右から伏兵の攻撃を受けやすい。坂は蛇行していて、縦列に駆け登ってくる官軍は前方から、あるいは左右の高い林中より銃撃され、退路に廻り込んだ薩摩軍の斬り込みを受けた。官軍はこの坂を容易に突破することができず苦戦する。
田原坂公園の「西南戦争戦没者慰霊碑」には、官軍戦没者六千九百二十三名、薩摩軍戦没者七千百八十六名、合わせて一万四千人余の名前が県別に刻まれている。その多くは国の将来を担って立つべき若者であった。前途有為なる人材を無残に散らせたことは、取り返しのつかない損失であった。戦争ほど残酷で愚かしいことなない。
§○宮川簾一K30X-222(87)泥臭い歌唱で懸命に唄う感に、味がある。三味線/藤本翠民、藤本翠枝。○新熊本券番勇見APCJ-5046(94)UPCY-6193(06)年増芸者の趣。
「肥後土搗き唄」(熊本)
♪エーイトソラ願うぞよ 頼むぞよ(アエーイト頼まれた)
さて今日の地固めは(アエイトエイト)
コリャ宝木山(たからぎやま)の 木を切りて(アエイトエイト)
エー切りて倒して 浜に出す(アエイトエイト)
コリャ大工衆頼んで 舟つくる(アエイトエイト)
コリャ舟は新造 今おろし(アエイトエイト)
イヤお恵比寿さんが 舵の役(アエイトエイト)
コリャこなたのお庭と はし込んだがね(アエイトエイト)
ンヨー差し替えてみましょ(ヨイヨイ)
どなたもエ もう一声の受け声を願う
(アヨーイヨイヨイヨナーアラナーコラナートセ)
敷地を整地して土台を固めたり、礎石を地面に搗き込むときに唄った。三本櫓を組み、櫓の真ん中に滑車を利用して丸太を釣り下げ、それを何本かの綱で引っ張り上げ、掛け声と唄と共に落として地面を固める。丸太の根本に鈴が付けてあるのは、信仰とかお洒落(しゃれ)の意味である。丸太のほかに石も使われた。大きな石に綱を掛け、力いっぱい引っ張り上げると、綱を緩め勢いよく落とす。綱を引くときの呼吸を合わせ、全体を統一して作業の調子を取るために、さまざまな掛け声が掛けられる。
美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄」も、その掛け声のひとつが曲名になったものだ。土が固い場合、搗き棒を高く上げるために、手綱を二度、三度と手繰る「二丁揚げ」「三丁揚げ」があり、それぞれに唄があった。一休みするときに「土搗き唄」が唄われる。
唄の文句は、日常の出来事や男女の仲、作業の喜びなどが題材になる。土搗きは大黒柱のところから搗き始め、乾(いぬい)(北西)の方角の隅のところで終わるのが作法とされた。土搗き唄は作業に伴う自然の発露であり、全国に分布している。
§◎熊谷一峰KICH-2023(91)囃子言葉/藤本文子、藤本正子、松村としえ、下村静子。野趣にあふれた土俗的な演唱。
「ポンポコニャ」(熊本)
♪花の熊本 長六橋から眺むれば オヤポンポコニャ
下は白川 両芝居 少し下がればナ
オヤ本山 渡し舟 オオサポンポコポンポコニャ
花の熊本 銀杏城から眺むればオヤポンポコニャ
下は清正公 菩提所 少し下がればナ
オヤ横手の 五郎さん オオサポンポコポンポコニャ
熊本市内の花柳界で唄われた明るいお座敷唄。各唄の冒頭は「花の熊本」から始まり、熊本の観光名所が織り込まれている。
長六橋は加藤清正の頃、白川に架けられた唯一の橋で、細川藩政の時代は下流の下河原に二つの芝居小屋が設けられていた。一つは士族のため、もう一つは町人たちの娯楽のためであった。緊縮財政が行われ、歌舞音曲が制限された「キンキラキン」が唄われた頃よりも、前に開設されたものと思われる。
囃子言葉が曲名になった民謡には「ソーラン節」「ナット節」(北海道)、「ホーハイ節」(青森県)、「お山こさんりん」「タント節」「ドンパン節」(秋田県)、「かんちょろりん」福島県)、「といちんさ」(富山県)、「農兵節」(静岡県)、「ほっちょせ」(岐阜県)、「三原やっさ節」(広島県)、「よさこい節」(高知県)、「のんのこ節」(長崎県)、「ぶらぶら節」(長崎県)、「コツコツ節」(大分県)、「鹿児島小原節」(鹿児島県)などがある。熊本民謡では「キンキラキン」「よへほ」。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)伴奏者不記載。○大山みどりKICH-2018(91)野趣も艶もある美声。三味線/藤本e丈、藤本秀靱、笛/米谷龍男、鳴り物/美波駒三朗、美波那る駒。○佐藤松千恵OODG-73(86)声もよく、お色気と粋さもある。三味線/藤本秀輔、藤本秀茂、笛/米谷威和男、太鼓/山田鶴香、鉦/山田鶴三郎、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。
「馬(ま)見原(みはら)追分」(熊本)
♪峠三里を 馬子唄唄うて
行けば馬見原 花の街
鈴が鳴る鳴る 愛しの青(あ)馬(お)よ
あの娘恋しと 鈴が鳴る
昭和二十五(1950)年、郷土詩人の三輪吉次郎作詞、NHKプロデューサー妻城良夫が作曲。同二十九(1954)年「民謡をたずねて」で放送の後、下谷菊太郎(1916-1994)がレコーディングして、全国的に注目されるようになった。
馬見原は阿蘇郡(あそぐん)蘇陽町(そようまち)中心部の旧名で、かつては日向(ひゆうが)往還(おうかん)道(どう)の宿場町として栄えた。近隣の高千穂町や椎葉村(しいばむら)などから、椎茸(しいたけ)や茶などを馬に積んだ商人たちがこの地を訪れ、米や酒などと交換して帰って行った。明治の中頃まで酒造が盛んで、いまでも雰囲気のある建物を多数残している。
蘇陽町の西に降る雨は、緑川を流れて有明海から東シナ海に注ぐ。蘇陽町の東に降る雨は、五ヶ瀬川を流れて太平洋に注ぐ。この地が九州の分水嶺であり、九州のほぼ中央に位置しているところから、馬見原公民館前に“九州のへそ基石”が置いてある。
§◎下谷菊太郎CF-3661(89)オーケストラ伴奏で唄う。繊細で小粋で色気ほんのり。熊本検番ナンバーワンの鶯芸者と評判を取っていた。お囃子方不記載。○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、佐藤松美、尺八/米谷威和男、鳴り物/美波駒三朗。
「よへほ」(熊本)
♪主は山鹿の 骨なし灯篭ヨヘホヨヘホ
骨もなけれど 肉もなしヨヘホヨヘホ
洗いすすぎも 鼓の湯籠ヨヘホヨヘホ
山鹿千軒 盥(たらい)なしヨヘホヨヘホ
毎年八月に行われる「山鹿(やまが)灯(とう)篭(ろう)まつり」のクライマックスを飾る「千人灯篭踊り」は、十六日の夜に行われる。浴衣姿の女性たち約千人が灯をともした金(かな)灯(とう)籠(ろう)を頭に載せ、大きな輪をつくりながら「よへほ」の掛け声に合わせて踊る。よへほの意味は不明。
灯篭のいわれは第十二代景行天皇(在位期間71-130?)の筑紫路巡幸の時に遡(さかのぼ)る。菊池川を遡(さかのぼ)って山鹿の茂賀(もが)の浦(うら)湖(こ)に着いた一行は、折悪しく辺り一面に立ち込めた霧に行手を阻まれた。山鹿の里人たちは松明(たいまつ)をかかげて天皇を迎え、無事に先導したという。その時以来、里人たちは行(あん)在所(ざいしょ)跡(大宮神社)に天皇を祀り、毎年、灯火を献上したのが灯籠(篭)のいわれだ。
室町時代に灯火から紙灯籠となり、灯籠師の技術の競い合いと、和紙の発達によって次第に精巧なものに発展していった。神殿造り、座敷造り、城造りなどの手法で製作される灯籠は、木や金具を一切使わず、和紙と少量の糊だけで作られる。柱や障子の桟にいたるまで、中が空洞で、屋根、柱など数千点もの部品が、ひとつひとつ組み上げられて完成する。灯篭師には高度な技術と熟練が要求され、一人前になるのには十数年が必要といわれている。
§◎赤坂小梅COCF-9749(92)お囃子方不記載。小倉の名物芸者・小梅(1906-199
2)は、その体格と相俟ったおおらかで豪快な性格と歌唱は、一世を風靡した。九州民謡を唄わせば小梅の独擅場。民謡研究家・竹内勉は、小梅と同時代の鶯芸者・小唄勝太郎(1904-1974)が山女魚(やまめ)、市丸(1906-1997)が鮎(あゆ)に譬えられるのに対して、小梅は大衆が好む鮭(さけ)と評している。○熊本亜紀COCF-13290(96)現代風の声で、渋さはないがお色気も感じさせ、お座敷調にまとめている。三味線/ヒノデ、みゆき、鉦/綾葉。
2022年03月03日
熊本県の民謡
posted by 暁洲舎 at 00:38| Comment(0)
| 九州の民謡
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