2022年03月03日

大分県の民謡

「臼杵(うすき)米とぎ唄」(大分)
♪アラヨイナ ヨイナ ヨイナーヨイヨイ
祝いめでたのナー 若松さまよ 枝も(ヨイヨイ)
栄ゆりゃナー 葉も繁るヨー
アラヨイナ ヨイナヨイナーヨイヨイ
親の意見とナー 茄子の花は 千に(ヨイヨイ)
アひとつのナー 仇はないヨー
臼杵は県東部にあり、大友宗麟(そうりん)が築城した丹生(にぶ)島城の城下町である。名水と良港に恵まれた臼杵市は、稲葉氏の統治下、海運・醸造・商業が栄えた。曲がりくねった迷路のような町並みは、今も臼杵に残されていて、江戸時代から続く酒、みそ、醤油などの醸造元が香り高い名品を造り出している。
日本酒は寒の内に一年間の必要量を造り切る「寒造り」がほとんどである。酒造りは精米に続く米とぎ(洗米)が第一段階で、白米の表面についている糠(ぬか)を完全に取り除く。新米がとれて寒風が吹きだすころに始まる仕事始めの唄は、縁起を担いでめでたい文句が唄われる。
臼杵の地名は、稲田の臼(うす)塚(づか)古墳(こふん)(全長87mの前方後円墳)にある高さ1.5mほどの二基の石人(せきじん)に由来する。古墳の年代は5世紀中頃と推定され、古代、この一帯を支配していた豪族「海人部(あまべ)」族の墳墓である。石人は石の円柱の上に草摺(くさずり)を付けた短甲(たんこう)姿(すがた)で頭部は作られていない。この二基の石人を臼と杵に見立て、地元では古くからこれを「うすきね様」と呼んでいた。
永禄五(1562)年、九州六カ国を治めたキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)が、丹生島に臼杵城を築く。宗麟時代は、明やポルトガルの商人が行き交う商業都市として栄えた。慶長五(1600)年、稲葉(いなば)貞通(さだみち)が美濃(みの)から入封し、明治維新の廃藩置県を迎えるまでの間、稲葉氏が統治する。現在の臼杵の町並みの大部分は、稲葉氏の時代に形成されたものである。
§○山中会COCF-13992(96)編曲、指導/澤田勝仁。
「宇目の唄げんか」(大分)
♪あんこ面(つら)見よ 目は猿まなこヨイヨイ
口は鰐(わに)口(ぐち) 閻魔(えんま)顔(がお)ヨーイヨーイヨー
いらん世話焼く 他人の外道(げどう)は
焼いちよければ 親が焼くヨーイヨーイヨー
県南海部郡(みなみあまべぐん)宇目町方面に伝わる子守り同士の喧嘩(けんか)唄(うた)。掛け合いで唄う。昭和二十四(1949)年頃、奥宇目民俗保存会が採譜・編曲して全国に知られるようになった。
宇目は宮崎県境に近い山里だ。藩政時代、錫(すず)や鉛の採掘のために木浦(きうら)鉱山(こうざん)に働きに出る家では子守り娘を雇うところが多かった。子守は“子守なご”とも呼ばれ、たいていは貧農の子女の住み込み奉公であった。夕方になると赤子(あかご)を背にした守り娘(こ)たちが鎮守の境内や野原などに集まり、二組に分かれて交互に唄問答をして遊んだ。揚げ足取りや当てこすりの唄で渡り合い、唄が詰まった方が負けで、唄げんか(喧嘩)は日頃のうっぷん晴らしであった。
国道326号線の北川ダムには、平成五(1993)年に完成した橋長292bの「唄げんか大橋」が架かっている。主塔の高さ64.5b。全国7番目の大きさを誇る橋のたもとには、頭に豆絞りをして、赤ん坊を背負い、唄げんかをする子守姿の銅像がある。
§○安東陽・池田友龍FGS-610(89)三味線/池田萬龍、池田千龍、尺八/坂井南桜山、太鼓/中浦万年。安東のか細い歌唱。
「久住(くじゅう)高原(こうげん)(豊後追分)」(大分)
♪久住大船 朝日に映えて
駒はいななく 草千里 草千里
久住高原 すすきに暮れて
阿蘇の頂 雲沈む 雲沈む
別府観光の父といわれ、九州横断観光ルートの礎を築いた油屋熊八(あぶらやくまはち)(1863-1935)が、山下(やました)彬(しげ)麿(まろ)(-1955)に依頼して出来上がった新民謡。
久住高原は県中西部にあり、久住、大船火山の南側に広がる高原である。肥後街道が通り、東西20km、南北4kmの草原は採草(さいそう)、放牧(ほうぼく)に利用されている。昭和二(1927)年、久住町長を歴任した工藤元平(1889-1968)の案内で、久住高原を訪れた山下は、その雄大さと美しさにすっかり魅了された。さっそく唄作りに取り掛かる。同五(1930)年頃、追分調のおおらかな曲節の中に、久住高原の大自然を余すところなく詠みこんだ詩と曲が出来上がった。同八(1933)年、日本ビクターから千代の三味線、川本晴朗の尺八で、別府検番の田島富江と山下が唄う「久住高原の唄」が出た。
同十(1935)年、山下は新たに「久住大船朝日に晴れて」の歌詞を作り、これを一番にする。ある時、大分県師範学校の講堂で特別講座が開かれ、弁護士の山下が演壇に立った。彼は法律論ならぬ“国民歌謡の歌い方”を講義したあと「久住高原の唄」を音吐(おんと)朗々(ろうろう)と唄い上げたという。
同十六(1941)年五月、NHK仙台放送局が民俗学者、作曲家、歌謡文学研究家、音楽評論家、民謡研究家、劇作家など二十一人の学識経験者を招き「東北民謡視聴の旅」を企画した。山下はこのときのメンバーの一人になっている。同二十四(1949)五年頃、地元の池田萬龍と田島富江が主宰する萬謡会がこの唄を電波に乗せた。
同三十九(1964)年、湯布院(ゆふいん)の少し西にある水分(みずわけ)峠(とうげ)から、熊本県一の宮に至る“やまなみハイウエイ(別府阿蘇道路)”が開通。久住高原が人気を集めると「久住高原の唄」はいつしか「豊後(ぶんご)追分(おいわけ)」と呼ばれ、人々に愛唱されるようになった。現在、毎年六月、久住町中央公民館で「久住高原の唄」日本一大会が行われている。
§◎山下彬麿、山下富江VDR-25152(88)三味線/千代、尺八/川本晴朗。渋い旦那芸。針音ノイズが入り、レトロな雰囲気を醸している。○安東陽FGS-610(98)T
FC-1201(99)三味線/池田萬龍、尺八/坂井南桜山。格調高く唄う。
「コツコツ節」(大分)
♪お月さんでさえ 夜遊びなさる
サンヤリ アーコツコツ
年は若うて十三七つ よしておくれよ 雲がくれ
アーコツコツ
波も静かな 屋形(やかた)の船で
サンヤリ アーコツコツ
主の頭(かしら)字(じ)水面(むずも)に書けば 憎(にく)や小鮎(こあゆ)が 袖(そで)濡(ぬ)らす
アーコツコツ
三(み)隈川(くまがわ)が豊かな水をたたえて流れる“水郷”日田(ひた)の町のお座敷唄。一説に、この唄は安政の頃、女流詩人・藤乃井倫女(-1757)が作詞・作曲したという。
コツコツは、三隈川の鵜飼い師が鵜を励ますために舟べりをたたく音。棹が舟に当たる音を擬したものともいわれる。その合いの手に洗練された粋さが漂う。
日田は江戸時代、幕府の直轄地(天領)であった。天領を統括する西国筋郡代(ぐんだい)の役所が置かれていて、九州の政治、経済、文化を示す土地のひとつとして栄えた。市街地をなす三隈川沿いの隈と、花月川沿いの豆(まめ)田(だ)はいずれも戦国期以来の町場で、地形が筑後川の流路である西に開けているため古くから福岡県側との関係が深かった。三隈、豆田の両町は、筑後川の舟運で仲介商業が発展。豪商が形成された。こうした商人達の活躍で日田に独自の町人文化が開花する。中央との往来もあって、この唄も江戸小唄がもとになった粋な唄となっている。
日田文化の頂点に立つのが豆田町の豪商・博多屋に生まれた広瀬淡(ひろせたん)窓(そう)(1782-18
56)である。彼が開いた私塾・咸宜(かんぎ)園(えん)には、全国から四千六百余の門人が集まり、その中から高野長英、大村益次郎などの逸材が出た。
§○赤坂小梅COCF-13290(96)三味線/豊藤、豊光、鳴り物/玉藻会。さすがに上手い。○池田友龍FGS-610(89)少々粋さに欠けた田舎芸者の味。三味線/池田萬龍、池田千龍、尺八/坂井南桜山。
「関の鯛つり唄」(大分)
♪関の一本釣りゃナー 高島のサー沖でナー
波にゃゆられてサーヨー 言うたノー(ソレ)
鯛(たい)を釣るわいノー
(ハァ ヤンサノゴッチリゴッチリ 船頭鰤(ぶり)かな鯛かな)
鯛じゃい鯛じゃい
釣って釣りゃげてナー 生魚(なまいお)にゃサー立ててナー
大阪雑魚場(じゃこば)のサーヨー 言うたノー
朝売りじゃいノー
(ハァ ヤンサノゴッチリゴッチリ 船頭鰤かな鯛かな)
鯛じゃい鯛じゃい
別府湾をはさみ、国東(くにさき)半島と向き合う佐賀関(さがのせき)半島の突端、関町は、古くから鯛や鰤の一本釣り漁場で知られたところである。鯛はえびを好み“えびで鯛を釣る”。潮の流れが速い豊予海峡の高島近辺の海域で、釣り糸を操りながら唄う鯛釣り唄は、元禄の頃から関の漁師たちの間で唄い継がれてきた。囃子言葉との掛け合いが面白く曲節もよい。
鯛は目の下一尺といって40〜50cm、重さ2kg前後のものを一本釣りしたものが上物である。鯛は巻き網など大きな網で獲ると、船に引き上げられるまで暴れ回り、疲労して味が落ちる。
鮮やかな赤色、勇壮な姿形、上品な味など、どれをとっても他の魚より優れていて、日本人の心根に通じるところがある。祝いの席には欠かせない。日本近海だけでも「たい」と名のつく魚は二百種を超える。本物の鯛とは、姿、色、味ともに最高の真鯛(まだい)を指す。名前は恵比寿が釣る“めでたい魚”、一級品の“大(たい)位(い)”“平(たい)ら魚”などに由来する。鯛は長命魚で真鯛は通常三、四十年生きる。
§○安東陽FGS-610(89)真面目な青年が唄っている雰囲気。太鼓も生きている。三味線/池田萬龍、池田千竜、尺八/坂井南桜山、太鼓/中浦万年。○鎌田英一CRCM-40054(98)福田正編曲。三味線/豊藤、豊藤美、囃子言葉/鎌田会。鎌田(1940-)は北海道函館出身。昭和三十五(1960)年、初代浜田喜一に入門。快活で元気な海の唄を唄わせると上手い。○西野智成CF-3461(89)少しおとなしいが、上品な作業唄の雰囲気を出している。三味線/西野智香、西野智恵、尺八/西野智晴、太鼓/美波駒三記、鉦/美波駒三鳳、囃子言葉/西野智之、斎藤智洋。○森山幸吉COCJ-30340(99)少々、声量不足だが、端正に唄い、漁師唄らしい野趣もある。三味線/西野智香、西野智恵、尺八/西野智晴、太鼓/美波駒三記、鉦/美波駒三鳳、囃子言葉/西野智之、斎藤智洋。
「鶴崎踊り」(大分)
(猿丸太夫)
♪来ませ 見せましょ 鶴崎踊り いずれ劣らぬ 花ばかり
(ヨイヨーイ ヨイヨイヨイーヤーサー)
娘島田に 蝶々がとまる とまるはずだよ 花じゃもの
(踊りは花だよ花だよ)
(左衛門)
♪(ソレエー ソレエー ヤットヤーソレサー)
豊後 鶴崎その名も高い 踊る乙女の姿(しな)の良さ
(ソレエー ソレエー ヤットヤーソレサー)
昔ぁ肥後領 百千(ももち)の船が 上り下りに 寄る港
(ソレエー ソレエー ヤット ヤーソレサー)
鶴崎市の盆踊り唄。江戸時代中期から京、大坂で流行していた祭文が大分市あたりに伝わり、広く唄われるようになったようである。
鶴崎は藩政時代、五十四万石の肥後藩の領地であり、藩主の江戸参勤交代に際し、海路の発着地として大いに活況を呈した。こうした裕福な土地柄で育った盆踊りだけに、太鼓、三味線、尺八、胡弓のお囃子で唄う口説きの名調子と、絢爛(けんらん)豪華(ごうか)、きらびやかな扮装を凝らしての踊りは他に比類なきものだ。踊りはゆっくりした優雅な「猿丸(さるまる)太夫(だゆう)」と早間の軽快な「左(さ)衛門(えもん)」がある。
「猿丸太夫」で進めて、終わりに「左衛門」を一踊りしてその夜の踊りが終わる。「左衛門」は戦国時代、大友宗麟(おおともそうりん)の家臣・戸(べっ)次(き)道(どう)雪(せつ)が、酒色に溺(おぼ)れた主君を諌(いさ)めるために、京都から招いた名妓に踊らせたのが始まりという。
「左衛門」は祭文(さいもん)のなまりで「猿丸太夫」は歌人の猿丸太夫をうたった歌詞があったためである。「猿丸太夫」は宮崎県日南市の「泰平踊り」や、岡山県真庭郡(まにわぐん)落合町(おちあいちょう)の「落合踊り」などと同系統だ。
(猿丸太夫)
§○阿部成元(鶴崎踊り保存会)VZCG-138(97)伴奏と囃子言葉は粋だが、唄は粋さが少々欠けている。太鼓/渡辺健治、尺八/吉田次雄、三宮明、三味線/久多羅木ノブ、後藤麻子、山村キシエ、上木ヨシエ、囃子言葉/阿部百合子、今川通子、佐々木百合子。○大友ひろ子COCJ-30340(99)お座敷調の色気があり、しっかりした歌唱。三味線/豊藤、美波駒三朗、笛/老成参州、鉦/美波三駒、太鼓/曽我了子、胡弓/筑波貢裕、囃子言葉/白瀬春子、添田和子。
(左衛門)
§○丹みどりAPCJ-5045(94)伴奏者は一括記載。自然体で流している。丹は福岡県甘木市(あまぎし)出身。九州各地の民謡をこなし、芸歴も豊富だ。
「別府流し」(大分)
♪里の名物 流しは冴えて(ヨーイヤナ コレワイセ)
月もよいやさで ヤンレサー音頭取る
(ヤートコセーノ ヨイヤナ アレワイサ コレワイサノ ナンデモセー)
私しゃ湯の町 別府の生まれ(ヨーイヤナ コレワイセ)
胸に情けの ヤンレサー灯がともる
(ヤートコセーノ ヨイヤナ アレワイサ コレワイサノ ナンデモセー)
町内を流して踊る別府市の盆踊り唄。行進踊りの「伊勢音頭」がもとになっている。昭和九(1934)年、別府市制十周年記念に踊られた。
別府温泉郷は海辺の別府、浜脇(はまわき)、亀川(かめがわ)と山腹の観(かん)海寺(かいじ)、堀田(ほりた)、鉄(かな)輪(わ)、柴(しば)石(いし)、明礬(みょうばん)の別府八湯の総称である。北に国東(くにさき)半島(はんとう)、南に高崎山を望み別府湾に臨む。温泉の歴史は古く、奈良時代に編まれた豊後(ぶんご)風土記(ふどき)に、赤湯泉(現在の血ノ池地獄)や、玖(く)倍(べ)理(り)湯(ゆ)の井(い)(鉄(かな)輪(わ)温泉(おんせん)付近)として登場。伊予国風土記にも速見(はやみ)の湯(ゆ)として登場している。明治になって温泉の掘削(くっさく)が行われ、今日の温泉街が形成された。湯の湧出量、源泉、泉質の数、共同浴場数など、どれをとっても日本一。湧出量は一日95,028kl。源泉数2,843、共同浴場約170軒、泉質も放射能泉を除いて日本国内にあるすべての泉質がそろっている。
§○佐藤松子KICH-8114(93)三味線/藤本e丈、藤本秀心、笛/米谷威和男、鳴り物/美鵬那る駒、美鵬成る駒、囃子言葉/佐藤松久、佐藤松美。佐藤(1909-1998)は栃木県出身。大正十三(1924)年に初舞台を踏み、以後「島の家一座」の座長として父母と旅回りの巡業を続けた。その間、民謡だけでなく清元、端唄、俗曲などを修めた。西のお座敷調民謡は松子節の独擅場。
「馬(ま)刀(て)突(つ)き唄」(大分)
♪アリャ嫌じゃ嬶(かか)さんヨーイ 馬刀突きゃ嫌じゃ
アリャ色も黒なりゃ 腰ゃかがむ
(コリャサッサノ ヤレコノ ヨーイヨーイヨーイ)
アリャ豊後北江のヨーイ 馬刀突き音頭
アリャ後が続けば ヨーイ皆勇む
(コリャサッサノ ヤレコノ ヨーイヨーイヨーイ)
県北東部の国東町北江(国東市)に伝わる馬(ま)刀(て)貝(がい)漁の作業唄。
細長い竹を割って合わせたような形から、馬刀貝と呼ばれる。長さ10p、横幅1pほどの二枚貝。北江の馬刀貝は大きくて味もよい。繁殖区域が沖合いであるため、作業は船の上から突いて獲る。
漁期は十一月から四月にかけての寒い期間であるため、寒さしのぎと威勢づけのために唄った。唄には二拍子と三拍子のものがあり、三拍子のものは労作業の唄としては大変に珍しいものだ。調子もよいし曲想もよい。
約15bのロープの先に、先のとがった1.5bほどの鉄棒が20本ほど結び付けられている。重さは約30s。この重い漁具を船べりから海底へ沈める。鉄棒が海底に着くと、これを引き上げたり落としたりする。棒状のもので刺激されると、吸い付いてくる馬刀貝の習性を利用した漁法だ。
船には通常、三人が乗り込み、二人が左舷と右舷に分かれて同時に上げ下げする。残る一人は操舵(そうだ)で揺れを最小限に抑えている。三人の息を合わせるために3拍子の曲が生まれた。寒中の辛い作業である。唄うのは作業中だが、小潮の時や潮の流れが止まるときに限られる。
漁は護岸工事などによって海流が変わり、海底も変化したことで昭和三十年代後半には姿を消した。
§○西野智泉COCF-13290(96)三味線/西野智香、西野智美、尺八/西野智晴、太鼓/美波駒三鳳、囃子言葉/山口輝子、北原京子。野趣と味あり調子もよし。曲想もよし。○安東陽FGS-610(89)三味線/池田萬龍、池田千竜、尺八/坂井南桜山、太鼓/中浦万年。美声を誇らず、淡々とした真摯な歌唱。
posted by 暁洲舎 at 00:37| Comment(0) | 九州の民謡
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