2022年03月03日

宮崎県の民謡

「いもがらぼくと」(宮崎)
♪腰の痛さよ 山畑開き 春は霞の 日の長さ
焼酎五合の 寝酒の酌に 俺も嫁女が 欲しゅなったヤレ
(もろうたもろたよ いもがらぼくと 日向かぼちゃのよか嫁女
ジャガジャガ マコッチエレコッチャ)
鞍に菜の花 ひゃらひゃらひゃっと 七つ浦から 赤毛布(あかあかげっと)
可愛い嫁女は シャンシャン馬よ 今年ゃ田植えも 二人連れヤレ
(もろうたもろたよ いもがらぼくと 日向かぼちゃのよか嫁女
ジャガジャガ マコッチエレコッチャ)
空は青く広く澄み渡り、燦々(さんさん)と降り注ぐ南国の日差しを浴びて、健康的な男衆とおなご達が働いている。この若い男女が所帯を持ち、ほのぼのとした家庭を築いていく物語である。ユーモラスな歌詞と浮き立つような節回しが受けて、宴席や祝いの座に欠かせない唄となった。
“いもがらぼくと”とは、里芋の茎で作った木刀のこと。人がよくて見かけほどは強くない日向男性の代名詞だ。“日向かぼちゃ”は、少々色は黒くても、やさしくて愛嬌があり、それでいて芯はしっかりしていて味がある働き者の日向乙女を譬えている。そんな、いかにも日向的な風景と民情を織り込んだ新民謡が誕生したのは、昭和二十九(1954)年のことであった。
宮崎市制三十周年を記念して、市が新しいイメージソングを募集すると、全国から多数の作品が寄せられた。その中の優秀作が「いもがらぼくと」である。原曲名は「のさん節」で作詞者は郷土の作家・黒木淳吉であった。レコード吹き込みの際、歌詞に方言が多いため、小野金次郎が改稿。作曲の小沢直与志は、九州民謡の旋律を研究して、明るく開放的な曲をつけた。「ジャガジャガマコッチエレコッチヤ」は「そうだそうだ、全(まった)く大変なことだ」の意味である。
同年秋に宮崎市で開催された「南国博覧会」で発表されると、陽気でコミカルな振り付けで人気を独占する。年月を経るにつれて、他県の人々にも親しまれるようになった。
§◎初代鈴木正夫、野崎整子VDR-25152(88)小沢直与志編曲。三味線/豊吉、豊静。鈴木(1900-1961)は、福島県相馬郡新地町出身。全国各地の民謡をステージで唄い、戦後民謡界の一時代を画した。民謡の楽しさを体現した歌唱と独特の節は絶品で、その声は“金の鈴”と譬えられた。昭和二十六(1951)年の第一回紅白歌合戦では「常盤炭坑節」を披露。同三十一(1956)年の第七回紅白歌合戦では、娘の鈴木三重子(1931-1987)と親子出演した。二代目は長男の秀(1937-2019)が継いだ。三味線の豊吉(1905-1964)は、オーケストラと三味線がマッチする奏法を自ら工夫して作り上げた名手。△鈴木正夫VZCG-138(97)歌詞は明晰で、声の良さは父親譲り。喉を詰めて唄う癖が気障りなところ。父のような自然な唱法が望まれる。管弦楽伴奏。△佐藤松子KICH-2469(05)三味線/藤本e丈、佐藤松博、笛/米谷威和男、鳴り物/美波駒三朗、美波成る駒、囃子言葉/佐藤松子社中。個性と味のある渋い声で、関東以西の民謡なら何を唄わせてもうまい。特にお座敷調の民謡に旨味を発揮する。
「えいこの節」(宮崎)
♪(ハーヤレコノ エイコノ ヤレコノエイコノ)
ハァーめでたいな めでたいな
めでたい唄を歌いましょう(ハァヨーイヨーイ)
そこで恵比須が三味を取り 大黒様が太鼓持ち(ハァヨーイヨーイ)
蛸が笛吹き調子づけ 鯖や秋刀魚(さんま)もかけ揃え(ハァヨーイヨーイ)
海老も平目も踊り出す 亀や鮑(あわび)も駆け込んで(ハァヨーイヨーイ)
飲めや唄えの お酒盛りマンガエー
(ハーヤレコノ エイコノ ヤレコノエイコノ)
船下ろしや大漁の際の祝い唄。誕生、婚礼、棟上げなどのめでたい席でも唄われ、米良地方の田開き祝いの唄や、田野地方の家ほめ唄としても歌われている。喜びの気持ちを表す歯切れの良い節調である。同系統の唄に三重県の「ヨイコロ節」、香川県の「ヨイコノ節」、愛媛県の「めでた節」があり、瀬戸内海を港伝いに南下してきた。県内では、黒潮の流れに沿った北浦、島浦、方(ほう)財(ざい)、細島、美々津、青島などの港に分布している。
かつては、一月二日の大霊祭や十日恵比須の日には、どの網元の家からも舟子たちの威勢の良い唄声と手拍子が聞こえた。方財港の「魚づくしえいこの節」は、美々津(みみつ)港の唄と同系。ほかに「三番叟」「高砂」「正月」などの曲目がある。独特の手拍子と囃子言葉言葉が加わり、晴れやかな節回しで歌唱される。青島港で唄われてきたものは、舟子たちが手にした櫂で底板を突きながら、高らかに合唱するのが特徴。文句に四国の御船唄が使われている。こうした素朴な海の暮らしの中に生きてきた祝い唄も、漁業が近代化の波を受け、唄われる機会も少なくなってきた。そんな中、延岡市方(のべおかしほう)財(ざい)町(まち)では「よいこの愛唱保存会」を結成して、伝承保存の努力を続けている。
§◎奈須美静(稔)CRCM-4OO55(98)三味線/海雲テイ子、太鼓/山田鶴二正、囃子言葉/東民子、北山登美子。魚づくしの自作の歌詞を一番にして唄っている。
「尾(お)八重(やえ)とめ女」(宮崎)
♪尾八重とめ女は 良いこた良いがヨー
少し目元が悪うござるヨー
とめ女死んでも 野辺まじゃやらぬヨー
焼いて粉にして 印籠に詰めてヨー
銀鏡(しろみ)若い衆の気の薬ヨー
県中央部にある児湯(こゆ)郡米良(めら)地方(現西都市)の銀鏡(しろみ)地区に歌い継がれている。古墳群で知られる西都原の西、市房山(いちふさやま)の南麓、米良十四郷は、かつて菊池藩の領地であった。尾八重とめ女は鄙(ひな)にも稀な絶世の美女で、村の青年たちのあこがれの的だった。
明和二(1765)年頃、狩りにやって来た米良氏分家十四代領主・菊池則(のり)敦(あつ)に見初められ、突然、村を去って小川城の屋敷に入る。則敦は身の丈六尺五寸(214cm)、体重三十貫(112.5kg)余、眼光あくまで鋭く、江戸城の大広間に着座した時、諸候もその風貌に驚いたという美丈夫。彼女はこの主人によく仕えて寵愛(ちょうあい)される。
とめ女は、時折、尾八重に里帰りしたが、村の青年たちは銀鏡あたりで一休みするとめ女に、憧れとやっかみの入り交じった視線を送り、高嶺の花を摘み取った領主に反発し、黙って従う彼女を唄でなじった。
唄のもとになったのは「せんば女」という民謡で、銀鏡に働きに来ていた青年が、その唄に、とめ女の物語を書き加えたといわれている。とめ女はその後、仲間内の争いに巻き込まれ、小川屋敷を去ることになる。尾八重地区には彼女の墓がある。銀鏡地区にはこの唄のほかに「木おろし唄」や「中唄」など一連の仕事唄と、米良街道の往来で熊本県人吉方面の影響を受けた「塩や塩」「桃と桜」といった粋な唄が残っている。
§◎奈須美静CRCM-4OO55(98)三味線/海雲テイ、尺八/矢野舟霽。素朴、味、技巧、すべて良し。奈須は昭和十一(1936)年以来、宮崎県の民謡を数多く唄って、広く世に知らしめた。
「刈干切唄」(宮崎)
♪ここの山の 刈り干しゃ済んだヨー
明日は田んぼで 稲かろかヨー
屋根は萱葺き 萱壁なれどヨー
昔ながらの 千木を置くヨー
秋の高原は、見渡す限り銀色のすすきの海だ。彼方に阿蘇の噴煙が立ち上る。県の北西部、西臼杵郡(にしうすきぐん)高千穂町(たかちほちょう)から、五ケ瀬町にかけての山村では、秋になると、山に密生する萱を大鎌で刈り取り、天日に干して、冬のまぐさにした。これは春の山焼きとともに、古くからの季節行事であり、家族ぐるみで出掛けるのがならわしであった。干し草は冬場の家畜の飼料として使われ、萱は屋根葺きに使われる。
他県の草刈り唄と同様、草刈り作業に合わせて唄うものではなく、往来に牛を曵きながら唄う一種の草刈り牛方唄である。刈り干しの作業は、地域によって違い、鎌の柄の長さも違う。柄を左右に振る際の幅が、テンポの基礎となる。五ヶ瀬地方の山で使用される鎌は、柄の長さが50aほどで片手で扱える。その際の仕事唄は、小節を押さえた軽快なテンポで一節がおよそ30秒前後。これに対して、高千穂地方では、背丈を越す大鎌を使うから、倍の長さで唄う。
現在、奈須稔が唄う「刈干切り唄」(奈須節)と佐藤明が唄う「正調刈干切り唄」(明節)がステージ民謡として広く唄われている。
(明節)§◎佐藤明VDR-25243(89)声を巧みに裏返すところに、独特の味わいと作業唄の雰囲気があり、野趣に富んでいる。尺八は米谷威和男。TFC-1205(99)無伴奏。早い時期の録音。佐藤(1909-1993)は、西臼杵郡高千穂町の押方の出身。父譲りの美声で、師の押方団一郎の死後、二代目を襲名。唄は仕事と共にあるもの、というのが彼の信条だ。朝露に濡れた草を刈っていると、誰からともなく唄が出る。ひとりが唄い終わると、その後を次の者が取り、唄声は一日中、谷間に絶えなかった。日暮れまで唄い続けるには、遠くにまで響く声と、豊かな声量が必要だが、いつも最後は佐藤だけが勝ち残った。○伊庭末雄OODG-71(86)野趣があって、いい雰囲気を出している。尺八/矢下勇。△小川恒男COCF-13290(96)艶のある声。田舎の若者の味がでている。尺八/矢野舟霽。
(奈須節)§◎奈須稔FGS-610(89)奈須(美静1907-1998)が唄う宮崎県民謡は、いずれも味わいと土地の匂いがして、彼の持つ郷土愛を感じさせてくれる。◎地元歌手BY30-5018(85)野良仕事に従事する年配の女性が唄っているような野趣があり、女声の模範演唱。琴と尺八の伴奏で唄う。○赤坂小梅COCF-9749(92)お座敷で郷土民謡を披露している雰囲気だ。小梅の歌唱は常に端正。琴と尺八伴奏者の名前は不記載。△丹山範雄CRCM-4OO48(96)尺八/渡辺輝堂、佐藤功。あまり情緒に流されないところに好感が持たれる。
「シャンシャン馬道中唄」(宮崎)
♪鵜戸さん参りは 春三月よ参る(ハラセ)
参るその日が 御縁日(ハァコンキコンキ)
参りやとにかく 帰りの節はつけて(ハラセ)
つけておくれよ 青島へ(ハァコンキコンキ)
鵜戸さん参りに 結うたる髪も 馬に(ハラセ)
馬に揺られて 乱れ髪(ハァコンキコンキ)
音に名高い瀬(せ)平(びら)の峠 坂は(ハラセ)
坂は七坂七曲がり(ハァコンキコンキ)
明るく華やな道中唄。馬の歩調に合わせたように、快いテンポと親しみやすい旋律を持っている。シャンシャン馬は、馬の首に掛けた鈴の音からきた愛称だ。囃子言葉は、人生は根気よく二人して越えて行こうという意味である。
シャンシャン馬の風習は、日南市平山の駒宮神社が発祥地とされている。秋の大祭には、飾り立てた農耕馬が参加する。新婚夫婦は、その馬で鵜(う)戸(ど)神宮(じんぐう)などに宮参りをした。宮崎民謡の収集に晩年を費やした園山民平(1887-1955)の「日向民謡101曲集」(1957)には、古くからあった「しゃんしゃん馬の唄」が収録されている。
大正の初め頃まで続けられてきた新婚夫婦の宮参りは、戦後の神武景気に乗って復活する。昭和三十二(1957)年ごろ、残されていた旋律をもとにして、県の民謡会が新しい唄を作り、奈須美静らが唄い始めると、やがて全国に知られるようになった。現在、毎年三月末、日南市で「シャンシャン馬道中唄全国大会」が開催されている。
§◎奈須美静FGS-610(89)定盤。三味線/海雲テイ子、尺八/矢野舟霽、太鼓/山田鶴二正、鈴/池山利恵。TFC-1207(99)伴奏者不記載。◎森山きしのCOCF-13
290(96)三味線/海雲テイ、稲田文子、尺八/矢野舟斎、太鼓/小淵利明、鈴/川末操、囃子言葉/阪元みね、猪目いね。農家のおばさん連中が唄っているような味がある。森山は宮崎市在住。筑前琵琶、詩吟をこなし、土の香りを伝えてくれる唄い手のひとりである。○鹿島久美子VZCG-138(97)小沢直与志編曲。鹿島は、かつてビクター少年民謡会に所属していた。澄んだ美しい声と、爽やかな民謡情緒を持っており、ローカルカラーの薄い新民謡を唄わせるとうまさを発揮する。囃子言葉、三味線伴奏者名は不記載。△梅若朝啄KICW-8120(02)KICH-168(02)三味線/梅若梅朝、藤本秀茂、尺八/米谷龍男、鳴り物/山田鶴助、囃子言葉/西田和枝、竹内まゆみ。晴れ渡った日向の青空に抜けるような気分。△西野智泉CF-3661(89)味のある声で気分よく、長閑さを漂わせて唄う。伴奏者不記載。
「じょうさ節」(宮崎)
♪赤江の城ケ崎ゃ 撞木の町よ(アヨイトサッサー)
金がなければ 通られぬ(アヨイトサッサー)
川は大淀 流れも清し(アヨイトサッサー)
注ぐ大海 赤江灘(アヨイトサッサー)
赤江・城ヶ崎(宮崎市)は大淀川の河口にある地域である。河口では、江戸時代には飫(お)肥(び)藩と関西との連絡港として、大小の船が出入りしていた。赤江の通りには船問屋や陶器屋、酒屋、小間物屋などが軒を連ね、商人や旅人たちで活況を呈していた。こうした港町の賑わいぶりを唄い込み、軽快なテンポで明るく弾んで唄われる騒ぎ唄である。
赤江と隣接する中村今町の妓楼で大いにはやったことから「中村節」とも呼ばれている。大淀川の流れに沿って各地に伝えられると、高岡方面(宮崎市)の「高岡じょっさい」、都城方面の「中村節」、鹿児島県大隅地方の「ずいや節」と、衣替えをしている。
永年にわたって、宮崎の民謡を研究してきた園山民平(1887-1955)は、この唄は従来の宮崎県民謡と比較すると、気分的に相当変っているところがあり、出雲の「安来節」が、いつの間にかこういう姿にかわったのではないかと言う。宮崎市の市制六十周年を記念して、昭和五十九(1984)年から始まった「宮崎ふるさとまつり」の行事の中で、この曲に合わせた華やかな踊りが繰り広げられている。
§◎奈須美静CRCM-4OO55(98)唄を楽しんでいる雰囲気がよい。三味線/海雲テイ子、尺八/矢野舟霽、太鼓/山田鶴二正、鉦/池山利惠、囃子言葉/東民子、北山登美子。奈須は優れた唄い手であり、県民謡の育ての親ともいうべき功労者。
「新ばんば踊り」(宮崎)
♪鐘が鳴る鳴る 城山の鐘が(ンヤーコラセ)
あれは三百年 時打つ鐘よ 町の歴史を ひそめて響く
歌人牧水 幼い頃の 心いとしみ 名歌を残す(ヤアトセーサアトセ)
(延岡七万石城下町 昔をしのぶお城山
鐘の音聞きに来ならんけホラヨーイトコセー)
広場に組み上げた櫓に太鼓を釣り、浴衣姿の太鼓打ちが撥をふるう。音頭取りは数人で、太鼓に合わせて口説を唄い継ぐ。櫓を囲んだ踊り手が増えるにつれて、踊りの輪が幾重にも広がる。
かつて延岡は、旧暦七月十三日から十六日が盂蘭盆会(うらぼんえ)であった。各集落に音頭取りの名手がいて、その名は領内各地に聞こえていた。大正の末ころまで、盂蘭盆会は各集落で行われていた。本来、新盆供養の踊りであったものが、明治末期ごろまで、橋梁や護岸工事の地固めや杭打ちの作業唄として唄われていた。ばんば踊りの名は、江戸時代、時の藩主が馬場に農民達を集め、盛大な盆踊り大会を開いてから、盆踊りが“馬場踊り”となり、“ばんば踊り”となった。九州東部の方言で、激しい、賑やか、という意味の“ばんばん”が、激しい踊りに付けられたともいう。
踊りの主流は太鼓だ。打ち方には「流し」「三段流し」などがあり、この調子に乗って、音頭取りが雰囲気を盛り上げる。衣装は思い思いに調え、着物、履き物を統一したり、仮装姿も登場する。組踊りには「唐傘踊り」「四十七士(しじゅうしちし)」などがあり、人気があるのは「団七踊り」である。
「旧ばんば踊り」は江戸時代から伝わる伝統芸能として、昭和四十六(1971)年に結成された延岡市郷土芸能保存会が伝えている。「旧ばんば」は戦争中の空白もあって、音頭をとる人も少なくなっていた。戦後の混乱が収まるにつれ、各地のお盆行事も復活してきたが、当時の延岡市長・折(おり)小野(おの)良一は、市民から親しまれ、愛されるふるさと音頭を願って、延岡市方財町出身の作曲家・並岡龍司に制作を依頼する。並岡は伝統の「ばんば踊り」を基調に、郷土色ある風物や人情を盛り込んだ「新ばんば踊り」を作り上げた。昭和三十七(1962)年七月、村田英雄(1929-2002)の唄で発売。唄の文句にある“鐘の音”は、内藤家が時を知らせるために搗(つ)く城山の鐘のことだ。今も鐘の音が聞こえている。延岡市は旧藩時代、内藤氏の治世下にあった。
郷土が生んだ歌人・若山(わかやま)牧(ぼく)水(すい)は「なつかしき城山の鐘鳴り出でぬ幼かりし日聞きし如くに」と詠んでいる。現在、延岡市では「新ばんば踊り」を「ばんば踊り」と呼んでいる。
§◎村田英雄COCJ-32269(03)折小野良一企画、並岡龍司採譜、作詞、補作曲。松尾健司編曲。三味線/豊文、豊静、コロムビア合唱団、伴奏/コロムビアオーケストラ。村田(1929-2002)は福岡県浮羽郡吉井町(うきは市)出身。幼少の頃から浪曲師として舞台を踏む。昭和三十三(1958)年、ラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、古賀作曲の『無法松の一生』で歌手デビュー。「王将」「夫婦春秋」「人生峠」など、多くのヒット曲がある。
「稗(ひえ)搗き節」(宮崎)
♪庭のさんしょの木 鳴る鈴掛けてヨーオーオホイ
鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー
鈴の鳴る時ゃ なんというて出ましょヨーオーオホイ
駒に水くりょと いうて出ましょヨー
稗を食用に搗くときの仕事唄である。秋半ば、山の斜面に実った稗の穂は、小刀や鎌を使い「稗ちぎり唄」を唄いながら収穫する。日の出から日暮れまでの作業は単調で辛く、各々が唄うことで気を紛らわせた。
晩秋から初冬にかけて農家の土間や庭先で稗搗きが行われる。いったん蒸して甘皮を取った稗を木臼に入れて杵で搗く。搗き手六人と、振るい手一人の七人一組がもとの形とされ、六人の搗き手が威勢よく杵を振るう。のど自慢たちは、唄い囃して搗き手の手を揃え、雰囲気を盛り上げた。長いフレーズを一息で歌い切る自然で独特の息継ぎは、山道の行き来と、傾斜面で作業をする日常生活との深いかかわりを伺わせる。
昭和の初め、NHK熊本放送局から初放送。次いで椎葉幸之助(1880-1795)と椎葉ひろ子がレコードに吹き込む。伴奏には大太鼓、横笛、三味線、拍子木などが使われた。
椎葉村は、平家の落人が隠れ住んだ山里といわれている。文治元(1185)年、壇ノ浦の合戦で敗北した平家は、一族郎党ことごとく落ち行く身となった。元久二(1205)年、平家追討のために、九州路に入った那須大八郎宗久の一隊は、椎葉の村に残党を発見する。大八は落魄した彼らの姿に同情の念禁じ難く、自らもこの地に留まった。いつしか宗久は、落人の中にいた秀麗(しゅうれい)美貌(びぼう)の鶴(つる)富(とみ)姫(ひめ)と恋に落ちる。しかし、鎌倉幕府から帰還の命令が下り、宗久と鶴富の恋は悲恋に終わる。昭和四(1929)年頃、椎葉に隣接する諸塚村の七ツ山小学校の代用教員であった酒井繁一は、この悲恋伝説の歌詞を作り「稗搗き節」に添えた。
昭和二十五(1950)年着工、同三十一に竣工した上椎葉ダム建設作業に、遠くから集まってきた人々によって「稗搗き節」は各地に伝えられる。
唄の文句にある“さんしゅ”は、日本各地に分布する山椒の方言で、枝に棘があり、若葉や実は香辛料にされる落葉低木のこと。春に黄色の花が密集して咲く山茱萸(さんしゅゆ)と混同されることがある。
地元の節回しは、陽旋律の鄙びた「早調ひえつき節」で、今日の「正調ひえつき節」は、奈須稔が唄い広めたものである。陰旋律の叙情的なものは俗調である。
「元唄」◎椎葉成記VICG-40082/3(94)囃子/椎葉クニ子、椎葉歳治。◎椎葉サダ子VICG-40082/3(94)囃子/甲斐カツ子。
「奈須調」◎奈須稔(美静)COCF-13290(96)琴/秋月伊津子、団井玉子、尺八/佐迫蕉風。味のある枯れた声と歌唱。素朴、味わい、土の匂い。これぞ日向の民謡。CRCM-40055(98)「吟入り」三味線/海雲テイ子、尺八/矢野舟霽。「早調」三味線/海雲テイ子、尺八/矢野舟霽、太鼓/山田鶴二正、鉦/池山利恵、囃子言葉/東民子、北山登美子。CRCM-40055(98)FGS-610(89)「正調」三味線/海雲テイ子、尺八/矢野舟霽、太鼓/山田鶴二正。TFC-1207(99)伴奏者不記載。琴の伴奏。若い声。○奈須稔、大矢美保子COCF-12698(95)秋月逸子編曲。尺八/山下無風、琴/秋月逸子、井上令子。○小八重惣三郎VDR-25242(89)爺様の泥臭さがよい。エコーを効かせ過ぎた録音が少々耳障り。小八重は、奈須の民謡仲間のひとり。尺八/矢野舟霽。△宇賀邦雄VZCG-138(97)素朴で喉自慢の若い衆の雰囲気が漂う。囃子言葉が一層素朴感を出している。尺八/沖田征郎、囃子言葉/東成海。
「俗調」○赤坂小梅COCF-9749(92)琴、尺八、三味線伴奏者不記載。○照菊30CF-17
52(87)粋で上品なお色気がある市丸や勝太郎に比べると、少々強い歌唱だが、アメリカの影響下、復興期に生きる当時の日本人には照菊の声が好まれた。この唄のヒットで、昭和三十一(1956)年の第7回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし「恋のまよい鳥」を歌っている。
「日向木挽き唄」(宮崎)
♪(ハァーチートコ パートコ)
ヤーレーエー 山で子が泣く 山師の子じゃろ
ほかに泣く子が あるじゃなし(ハァーチートコ パートコ)
ヤーレーエー大工さんより
木挽が憎い 仲の良い木を 曳き分ける(ハァーチートコ パートコ)
木挽き職人が鋸をひく拍子に合わせて唄う。木挽き職人には、地元の農業の片手間に行う者と、山から山へ渡り歩く専業の渡り木挽きがあり、木挽き唄を各地に持ち回ったのは渡り木挽きであった。渡り木挽きは東の南部木挽きと西の広島木挽きが主で、農閑期を利用して出稼ぎに出た。
広島木挽きは中国、四国、九州の各地へ唄を持ち回ったが、木挽き唄はいずれも大同小異であり「日向木挽き唄」は、東臼杵郡(ひがしうすきぐん)西郷村(にしごうむら)田代(たしろ)の奈須稔(美静)が唄い広めた節回しである。
宮崎県の森林面積は約59万f。県面積の76%を占め、一年の平均気温が17.9度、年間降水量3092_という温暖多雨地域のために、全国屈指の林業県となっている。樹木の種類は杉が73lを占め、あとは桧、松、クヌギ、椎、樫などである。なかでも建築材で最もよく使用される杉の素材生産量は、約100万平方bで全国第一位。国内生産量の12%を占めている。
§◎奈須稔(美静)K30X-222(87)いかにも作業唄らしい味のある声に、土の香りが漂う。聴く者に、これぞ九州の木挽き唄との感を抱かせる。尺八/矢野舟霽、囃子言葉/小八重惣三郎。FGS-610(89)尺八/矢野舟霽、掛け声/東民子、北山登美子。○本條秀則VZCG-138(97)尺八/矢下勇泡、掛け声/黒田重行。野趣、味、渋さ、迫力あり。△西野智泉COCF-9313(91)尺八/矢下勇、囃子言葉/白瀬春子、白瀬孝子。枯れ草っぽい生真面目な歌唱。少々、声量不足。△坂本光子20DZ-1506(89)尺八/矢下勇康、掛け声/伊藤重雄。幼さを残す歌唱。親のお手伝いをしている孝行娘が唄っているような雰囲気だ。
「日向田植え唄」(宮崎)
♪ハエーサァーノー
腰の痛さよ 畝(せ)まちの長さエ(ホイホーイ)
四月五月の日の(アードッコイ)長さ(ソーラソーラ ドッコイショ)
ハエーサァーノー様よ 三度笠押し上げて 被(かぶ)れヨー(ホイホーイ)
少しお顔が見とう(アードッコイ)ござる(ソーラソーラ ドッコイショ)
素朴で田植えの情景が彷彿(ほうふつ)する仕事唄。
西から東へ流れ、日向灘(ひゅうがなだ)に流れ込む県下の河川の流域は土地が肥沃で日照時間に恵まれ、古くから稲作が盛んであった。田植え綱を受け持つ長老の音頭取りが皆の手をそろえ、元気付けのために、畦道(あぜみち)から緩急自在に唄いかける。全員がこれに唱和する形で田植え唄が唄われる。早苗(さなえ)を水田に差す手、引く手の動きが唄のテンポを左右する。
田植唄は県内全域に分布しているが、中でも東臼杵郡西郷村に歌い伝えられている「西郷田植唄」が最もよく親しまれ「日向田植唄」と呼ばれている。七月の第一日曜日に行われる西郷村・田代神社の「御田祭」は、無事息災と五穀豊穣を祈る平安時代からの伝統行事である。
田代神社は標高897.7bの日陰山(権現山)の中腹に祀られ、長元五(1032)年に創建された。牛や馬、御輿を田の中に入れての神事では、泥しぶきをあげて牛馬が駆け回り、青年御輿が勇壮に練り歩く。締めは、揃いのかすりに手甲、脚(きゃ)絆(はん)、菅笠をかぶった早乙女(さおとめ)たちが華やかに田植えを行う。
この田植唄には、平安時代の催馬楽(さいばら)の文句も伝えられていて、いにしえの田楽神事が伺える。昭和三十八(1963)年、県無形民俗文化財の指定を受けた。西郷村では毎年の「御田祭」に合わせ「日向田植唄全国大会」が開催され、民謡普及と後継者の育成が図られている。
§◎奈須美静CRCM-4OO55(98)尺八/矢野舟霽、掛け声/東民子、北山登美子。
「日向舟漕ぎ唄」(宮崎)
♪ヤーレー 押せよ押せ押せ 船頭さんも舵子もヨー
押せば港が 近くなるヨー
ヤーレー 船の船頭さんは 虱(しらみ)か蚤(のみ)かヨー
のみものみだよ 酒飲みだヨー
宮崎県は、古く日本書紀や古事記に「ひむ(日)か(向)の国」と記された神話と伝説の地だ。県の海岸線は総延長398kmにおよび、沿岸海域は黒潮と流入河川の水と、豊後水道から南下する海水が入り交っている。そのために活況の漁場となっている。海の男たちは、黒潮おどる日向灘(ひゅうがなだ)に勇躍漕ぎ出して行った。現在も近海の鰹(かつお)と鮪(まぐろ)の水揚げ量は日本一。
かつて沿岸漁業で活躍した帆走(はんそう)木造漁船は、樹脂分を多く含み、和船建造用材として最も適していた飫(お)肥(び)杉で作られていた。毎年、日南市油津の堀川運河周辺で開催される「堀川運河祭り」では、近年、日向灘の沿岸漁業で活躍したチョロ船と呼ばれる帆(はん)舟(しゅう)が再現されている。
§◎奈須美静CRCM-4OO55(98)年配漁師の雰囲気で気分よく唄う。三味線/海雲テイ子、太鼓/山田鶴二正、囃子言葉/東民子、北山登美子。
「安久節」(宮崎)
♪安久武士なら しり(尻)たこ(高)つぶれ(端折)
前は泥(むた)田(だ)で オハラ深うござる(ヤッサヤッサ)
進め進めよ 我らに続け
城を落とすは オハラ安久武士(ヤッサヤッサ)
都城市の旧中郷村安久集落を中心に唄われている酒席の騒ぎ唄。三味と太鼓で賑やかに唄われている。
慶長十四(1609)年、島津家久の琉球攻めに参加した安久武士が、士気を鼓舞するために唄い出した。霧島山麓から県南にかけて分布し、一帯がかつての島津領だった安久集落は、言葉なども薩摩風。体を上下させてテンポ良く唄う独特の歌唱法は、心を高揚させ場を盛り上げる。安久節が鹿児島郊外の伊敷(いしき)村原(むらはら)良(ら)に入って「原良節」の名で流行し、それに小の字が付いて「鹿児島小原節」となった。
昭和四(1929)年六月、NHK熊本中央放送局の開局一周年記念番組で九州各県の民謡が紹介され、北諸県郡(きたもろかたぐん)中郷村安(なかごうむらやす)久(ひさ)の俚(り)謡(よう)として紹介。曲名については、地名にちなんだもの、あるいは囃子言葉から来たものという。
祖霊送りや虫追いの習俗とも深いかかわりを持ち、同系の旋律を「綾田の草取り唄」などの仕事唄や、盆踊り唄に見ることができる。伴奏によく使われる「ゴッタン」は、杉板などを材料にして作られた小型の三味線。「箱三味線」「板三味線」などと呼ばれ、素朴でひなびた音色は風土の味わいを紡ぎ出して温かい。現在も山之口町(やまのくちちょう)で製作されている。
§○谷口くに、米丸貴子COCF-9313(91)三味線/米丸サエダ、太鼓/中馬ミキ、囃子言葉/外村昌子。おばあさんと孫娘が掛け合いで唄っているようだ。曲調と歌唱は稚拙。谷口は農業と民謡を両立させ、後進の指導に努めた。米丸は、当時、小学生だった。
「夜神楽せり唄」(宮崎)
♪(ヨイヨイ サッサ ヨイサッサ)
今宵サ神楽にゃ 競(せ)ろどち来たが サイナー
競らにゃそこのけ わしが競る ノンノコサイサイ
(ヨイヨイ サッサ ヨイサッサ)
様は三夜の 三日月様ヨ サイナー
宵にちらりと 見たばかり ノンノコサイサイ
(ヨイヨイ サッサ ヨイサッサ)
刈干切りが終わり、秋の穫り入れが済んだ晩秋から初冬にかけて、北日向では夜(よ)神楽(かぐら)のシーズンを迎える。古くから十八郷八十八社と言われているように、神話と伝説のふる里・高千穂には由緒ある神社が多くある。一冬通して行われる高千穂の夜神楽は、西臼杵郡高千穂町で行われるものだ。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
夜神楽は神々に豊かな実りを祈り、感謝を捧げる予祝の行事である。神話や農耕狩猟などに関する番付が日没から夜明けまで、時の流れに合わせて優美かつ勇壮に繰り広げられる。舞の演目を順番に並べ「〜番」と数え、それぞれの演目を指して「番付」という。これを全て表にまとめたものが「番付表」。高千穂夜神楽では三十三番の舞が順に舞われる。
神楽を舞う舞人(=舞い手)を「ほしゃ」と呼び、敬称の「どん(殿)」をつけて「ほしゃどん」という。「奉仕者」の字を当てられることがあり「祝者」「法者」「願祝子(がんほり)」とも呼んだ。
「夜神楽せり唄」の節調は、歯切れ良く躍動感にあふれている。見物客が“ほしゃどん”と一体になって雰囲気を盛り上げる神楽競(せ)りは、せり上げて神々を喜ばせるという習俗に根ざしている。歌詞も即興的なものから歌垣的なものまであって、幅広く郷土色に富んでいる。囃子言葉は佐賀県から長崎県にかけて、皿踊りとして流布している「ノンノコ節」と同じ。
「のんのこ節」の文句に「のんのこ節はどこでもはやる肥後も豊後も高千穂も」とあることから、のんのこ節は九州一円に流布していたことがわかる。現在の五ヶ瀬町、日之影町、諸塚村を含む広範囲の高千穂郷に,同系統の神楽舞の伝統行事が残っているが、高千穂の暮らしと共に生きてきたこの民謡の継承も、現在では環境の変化などでかげりを見せている。
§◎佐藤明TFC-1205(99)地元の囃子言葉連中と唄っている。○大場光男APCJ-5046(94)野趣はあるが眠そうな歌唱。囃子言葉は元気いっぱい。囃子方名は一括記載。
posted by 暁洲舎 at 00:29| Comment(0) | 九州の民謡
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