「大隅(おおすみ)木遣(きや)り唄」(鹿児島)
<前唄>
♪イエー 取り付きたもれよ ヨイヤサー
イエー 裏も もとも ヨイヤサー (エンエンヤー)
<木遣り>
出てきたぞ 出てきたぞ (ホイ)
ア 山一番の大木が サーエンヤラサ
(エンヤラサー ヤッソラサアノエー)
<口説き>
さらば東西 始まりまする (ア ヨイヨイヨイヤサ)
声は出ずとも 口説いてみましょう
ハヨー ホイヨーホイ ヨーイトナ ハレナハレヤットナー
大隈(おおすみ)半島の南地域で唄われた木遣(きや)り唄。森林作業や製材作業で唄われる。多人数で作業をする木材の切り出しや運搬の際、全員が息を合わせるために唄った。音頭取りが全体をリードして、木を曳(ひ)く者は掛け声を掛ける。神霊が宿る木や石を賛美し、新築する家の繁栄を祈る気持ちが込められている。
木遣り唄が盛んに唄われるようになったのは戦国時代以降だ。各地で城や神社仏閣が建てられるようになってからである。唄のテンポは木の大きさや長さで異なり自在に変化する。山間部に限らず材木商が集まるところでも唄われた。今では機械化が進み、大人数での作業が大幅に減少したため、木遣り唄は儀礼用の唄になっている。
§上玉利三司KICH-2349(00)三味線/菖蒲よし子、赤野清隆、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。ことさら声に強弱を付け過ぎる嫌いがあり、爽快感に欠ける。
「大隅もみすり唄」(鹿児島)
♪回せよ回せよ この臼回せ回せナー
(アラ シャント シャントシャン)
臼を回せば アラシャント 米が出る アラシャント 米が出る
(アラ シャント シャントシャン)
お前ゃよかよか 気ままを しやれしゃれナー
(アラ シャント シャントシャン)
わしも気ままだ アラシャント しとござる アラシャント しとござる
(アラ シャント シャントシャン)
臼を使い、籾殻(もみがら)と玄米を分離する籾摺(もみす)り作業で唄われた。秋の夜なべ仕事でも、一時間に一石ぐらいの籾摺りをしたという。上下の臼の摺面に籾を落とし、上臼(うわうす)を回転させると摺り面の溝(みぞ)歯(ば)が籾を摺り、籾殻が取り除かれる。麦や大豆、蕎麦(そば)などの殻をとり除くときにも使われ、明治から昭和の前期ごろまでは全国で臼が見られた。今では農具の機械化で古い農具の使い方はおろか、それを見たことがない人も増えている。
とうす、唐(から)臼(うす)とも呼ばれる土臼は、元禄の頃、中国から伝わった。竹を編んだ籠(かご)臼(うす)、桶(おけ)を利用した桶臼は、桶や籠の中に粘土と苦塩(にがり)を混ぜて詰め、上臼と下臼が接する面に樫の木の歯を打ち込んで固めたものだ。木臼は、摺り面に臼の中心から周辺へ浅い溝が刻まれていて、摺り面が軟らかいために砕米が少ない。石臼は製粉用。
§上玉利三司KICH-2349(00) KICH-288(14)三味線/菖蒲よし子、田中祐子、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。
「鹿児島伊勢音頭」(鹿児島)
♪伊勢はナー七度 熊野にゃ三度(ハヨーイヨイ)
愛宕様にはヤンレー月参り
ササヤートコセーノヨーイヤナ
アレワイナー コレワイナー テモナンデモセー
傘をナー忘れた 鶴ヶ谷の茶屋に(ハヨーイヨイ)
空が曇ればヤンレー気にかかる
ササヤートコセーノヨーイヤナ
アレワイナー コレワイナー テモナンデモセー
伊勢音頭は、鹿児島では“イシモンド”と呼ばれた。庶民には聖地を崇めて参詣する信仰心がある。藩政時代、鹿児島でも伊勢参りが何度か大流行した。江戸時代の慶安三(1650)年、宝永二(1705)年、明和八(1771)年、文政十三(1830)年と、ほぼ六十年周期でお伊勢参りが熱狂的に行われ、全国から多くの人々が伊勢へ押し寄せた。明和八年から「おかげまいり」といわれるようになり、それ以前は「ぬけまいり」と呼んでいた。
皇太神宮のお札が天から降ったとか、各地で多くの人たちが伊勢まいりを開始したという噂がどこからともなく立つと、子は親に断(ことわ)らず、妻は夫の許可もなく、奉公人は主人に無断でお伊勢まいりに出掛けた。白衣(はくい)菅笠(すげがさ)の旅装束(たびしょうぞく)に一本の杓(しゃく)を持ち、集団で幟(のぼり)や万灯(まんとう)を押し立てて“おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ”と唄い踊り歩いた。十分な旅行費用がなくても、道筋の家々が食べ物や宿泊場所を与えてくれた。伊勢参りをさまたげると天罰が下るからである。宝永二年には、五十日間で三百六十二万人が動員され、明和八年の“おかげまいり”は二百万人以上、文政十三年には五百万人もの人が伊勢へ伊勢へと押し寄せた。
§上玉利三司KICH-2349(00)三味線/菖蒲よし子、田中祐子、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。声量が乏しく、躍動感に欠ける。軽く唄い流している旦那芸歌唱。
「鹿児島大津絵節」(鹿児島)
♪向こう鏡のふた取りて 写せば写る顔と顔
そちゃ女房なぜ泣くか
これが泣かずにおられましょう
早追々の呼び使い
はっと答えし稲川が せき出る涙を押し払い 立ち上がる
『そんならどうでも 行かしゃんすか稲川殿』
『はて知れたこと。明日はともあれ、今日の相撲……』
お座敷用の俗曲。東海道大津宿、紫屋町の遊女が唄い始めたといわれる。大津絵は、大津宿で旅人相手に売られていた。旅人の求めに応じて多くの絵を描くために、色は七色ほど。図柄は風刺画、武者絵、美人画、鳥獣画など百種類以上あった。旅人が各地に伝えた「大津絵節」は、歌詞、旋律ともにさまざまにアレンジされ、もとの大津絵節からかけ離れてしまったものも多い。
鹿児島は東西南の三方が海、北側に九州山脈があって、外部からの侵入を容易に許さぬ天然の要害である。そのため、鹿児島には中央の文化が入りにくく、江戸のはやり唄も入りにくかった。明治になり、はやり唄が急激に流れ込むと、それはたちまち県内に広がった。「大津絵節」もその一つである。
唄の題材は相撲取りの稲川と、鉄ヶ嶽との遺恨(いこん)相撲(ずもう)が絡んだ『関取(せきとり)千両(せんりょう)幟(のぼり)』である。新町の遊女・錦(にしき)木(ぎ)を稲川の贔屓筋(ひいきすじ)の旦那(だんな)の倅(せがれ)が身請けしようとしている。それを鉄ヶ嶽が邪魔をして、稲川に借金を背負わせる。勝負の日、わざと負け相撲を取ろうとする稲川を、女房・音羽が身売りをして救うというものだ。
§○石井つる子CRCM-4OO55(98)三味線/梅沢さだ子、前園とみ子、太鼓/江藤はる子、鼓/山城軍蔵。歌舞伎の台詞入り。
「鹿児島おはら節」(鹿児島)
♪(ハ ヨイヨイヨイヤサ ハヨイヨイヨイヤサ)
花は霧島 煙草(たばこ)は国分(ハ ヨイヨイヨイヤサ)
燃えて上がるは オハラハー桜島(ハ ヨイヨイヨイヤサ)
見えた見えたよ 松原越しに(ハ ヨイヨイヨイヤサ)
丸に十の字の オハラハー帆が見えた(ハヨイヨイヨイヤサ)
花柳界の酒席の騒ぎ唄。慶長四(1599)年、宮崎県の安久(やっさ)武士が琉球に侵攻した折り、陣中で唄い始めた「安久武士」が「安久節」となった。それが鹿児島市内を流れる草(くさ)牟田(むた)川(がわ)(甲突(こうつき)川(がわ))下流の伊敷(いしき)村原(むらはら)良(ら)に伝わり、原良節となって、さらにその上に小の字を付けて「小原(おは)良(ら)節(ぶし)」になった。鹿児島や奄美、沖縄方面には“天草”の名で小原節とそっくりの唄が伝わっている。牛深市には、神輿(みこし)かつぎ唄としてのおはら節がある。
昭和六(1931)年、鹿児島県が国産振興博覧会開催のための宣伝歌制作を企画。東京から西條(さいじょう)八十(やそ)(1892-1970)と中山(なかやま)晋(しん)平(ぺい)(1887-1952)を招く。中山は、作曲の参考のために土地の芸妓連からいろんな古謡を聴いたが、鹿児島市内、南券番(みなみけんばん)所属の喜代治(新橋喜代三1903-1963)が唄う“一八節(いっぱちぶし)”が一番気に入った。陽気で魅力的な前引きを持つこの唄は、同じ券番に出ていた芸妓一八(いっぱち)がよく唄っていたものだ。
喜代治は中山の紹介で上京。三味線豊吉と作曲家・山田栄一は喜代治に小原良節を唄わせ、三人で改良を加えて「鹿児島おはら節」としてレコード発売すると、たちまち全国に大流行する。
毎年十一月二、三日の二日間、踊り連が市街地を練り歩く「おはら祭り」は、南九州最大のお祭となっている。
§○小牧菊枝(唄/三味線)COCF-12698(95)尺八/太鼓/種子田竹水。○前園とみ子VZCG-138(97)TFC-1209(99)素朴で自信に満ちて、堂々とした歌唱。三味線/伊地知綾子、太鼓/児玉れい子、鉦/迫園弘子、囃子言葉/神野いずみ。K30X-222(87)ちよっと声が細くて元気がない。三味線/岩本みどり、野間陽子、鳴り物/児玉れい子、前園君子、囃子言葉/迫園弘子、大西良子。FGS-610(89)三味線/梅沢さだ子、石井つる子、太鼓/江藤はる子、鼓/山城軍蔵、鉦/中村くみ子。APCJ-5046(94)これも元気不足で、薩摩おごじょらしくない歌唱。○新橋喜代三P-5(89)編曲/山田栄一、日本ポリドール和洋管絃楽団。音源はSP盤。△前園とみ子、江藤春子COCF-13290(96)未洗練な前園の歌唱はよいが、江藤は少々下卑た歌唱で、囃子言葉も目立ちすぎる。三味線/伊地知あや子、野元きく江、太鼓/川西キミエ、鉦/勝目えつ子、囃子言葉/迫園節子。前園は、鹿児島市樋之口町に大正十三(1924)年一月、六人姉妹の二女として生まれた。町に貸し家を営む母の三味線を聴きながら育ち、民謡の世界へ入った。
「鹿児島三下り」(鹿児島)
♪唐傘の 糸は切れても 紙ゃ破れても
通わせ給(たも)るが わしゃ嬉(うれ)し
駒下駄の 音はすれども 姿は見えぬ
瀬戸の松風 音ばかり
およそ二百年前、薩摩藩第八代藩主・島津重豪(しげひで)(1745-1833)は、剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)の薩摩気質をやわらげるために、上方風の文物をさかんに取り入れた。その折り、京都から持ち込んだといわれる。粋な三下りの唄が薩摩に入り、独自の撥(ばち)さばきで賑やかな騒ぎ唄となった。
三味線の調絃は本調子の二の糸を一音上げるのが「二上り」、本調子の三の糸を一音下げるのが「三下り」である。西洋の弦楽器のように、絶対音高で定められていないのが特徴だが、各調子それぞれに雰囲気がある。本調子はどちらかといえば男性的で勇壮な感じ、二上りは陽気な田舎ふう、三下りは優雅で女性的な気分を感じさせる。
§○高橋キヨ子CRCM-4OO54(98)三味線/本條秀太郎、本條秀若、笛/望月太八、鳴り物/堅田啓輝、小倉敏雄。
「鹿児島新磯節」(鹿児島)
♪浮世離れて 奥山住まい(サイショネ)恋も悋気(りんき)も 忘れていたに
鹿の啼く声 聞けば昔が 恋しゅてならぬ(サイショネ)
蔦(つた)を絡(から)んだ 青竹柱(サイショネ)月が差し込む わび住まい
二人寝て聞く 山ほととぎす 別れの辛(つら)さ(サイショネ)
茨城県の磯節の名手である関根(せきね)安中(あんちゅう)(1877-?)は、水戸出身の名横綱・常陸山(1874-1914)に可愛がられ、巡業にも同行した。安中の独創的な節まわしと声が人気を呼び、磯節は全国に広まる。鹿児島でも大正期に流行したが、元唄を改作して本来の雅趣は失われ、騒ぎ唄になっている。
土俵の上では豪放な相撲ぶりで知られた常陸山だが、水戸の士族出身だったこともあり、力士としての自覚と責任を説いた人物であった。横綱時代に欧米を歴訪。アメリカでは当時の大統領ルーズベルトと会見するなど、海外に広く相撲を紹介して、大相撲の地位向上に尽力した。引退後、出羽ノ海を襲名してからは、大錦、栃木山、常ノ花の横綱をはじめ、多くの名力士を育てあげ、出羽海部屋を一代で大部屋に築き上げた。「力士は力の士(さむらい)なり」は、常陸山の座右の銘だった。
§○前園とみ子CRCM-4OO55(98)三味線/伊地知綾子、太鼓/児玉礼子、
鉦/玉井信江、囃子/前園ひろ子。
「鹿児島角力(すもう)取(と)り節」(鹿児島)
♪(トザイトーザイ トザイトーザイ)
サーハエー角力(すもう)が済んだなら 角力取りゃ戻せ
(トザイトーザイ トザイトーザイ)
サーハエーあとに残るは ヨイショ土俵ばかり
(トザイトーザイ トザイトーザイ)
サーハエー踊り踊るなら 三十まで踊れ
(トザイトーザイ トザイトーザイ)
サーハエー三十越ゆれば ヨイショ子が踊る
(トザイトーザイ トザイトーザイ)
鹿児島市内や肝属郡(きもつきぐん)根占町(ねじめちょう)などで唄われる酒盛り唄。本調子あるいは三下りの急調子に乗せて“サーハエー”と唄い出す。各地の秋祭りなどでは、婦人たちが化粧回しを締めた力士の扮装をして、ドスコイドスコイの掛声を掛けて踊る。
鹿児島県出身の力士は、古いところで第十六代(1855-1908)、二十五代(1880-19
31)、三十代(1890-1933)の横綱がいる。三人とも同名の西ノ海を名乗った。
昭和中期には、兵庫県生まれで徳之島で育った第四十六代横綱朝潮(1929-19
88)。技巧派力士鶴ケ嶺(1929-2006)がいる。
昭和の後期では大関若島津(1957-)、同霧島(1959-)、鶴ヶ峰の子息・逆鉾(さかほこ)(1961-20
19)寺尾(てらお)(1963-)が有名。
§○石井つる子CRCM-4OO55(98)三味線/前園とみ子、梅沢さだ子、太鼓/山城軍蔵、鉦/中村くみ子、囃子言葉/有馬久子、前園かず子。
「鹿児島浜節」(鹿児島)
♪鹿児島離れて南へ八里 トコ ヨーイヤサッサ
(コラショイ)
波に花咲くヤサホイノ吹上浜 トコ ヨーイヤサッサ
(シテマータヨイヤサー コラショイ)
鹿児島港に入り船出 トコ ヨーイヤサッサ
(コラショイ)
船見ゆる桜島ヤサホイノ蜜柑船 トコ ヨーイヤサッサ
(シテマータヨイヤサー コラショイ)
鹿児島湾の艪漕ぎ唄。これが関西の花柳界に移されてお座敷唄となり、大正七(1918)八年頃には、東京の花柳界でも唄われるようになった。こうした舟唄は鹿児島の地域では見つからず、一説には大正の初期、屋久島の馬毛へ向かう船中で、清水国友なる者が佐渡の人から習ったとか、同じく大正の頃、宮崎日報に勤める尾崎末吉が大阪で遊び、居合わせた芸妓に鹿児島を宣伝する唄を注文して出来上がったという話が残っている。鹿児島の旅芸人・川西てるが東京浅草で長期公演をしてから世に知られだした。
他県の民謡をミックスして出来上がったものだけに、ほかの鹿児島民謡とは味わいが異なり、格調高く唄うことが望まれる。日置郡(ひおきぐん)吹上町(ふきあげちょう)では毎年、浜節大会が行われている。
§○宮川簾一COCF-13290(96)三味線/藤本翠民、藤本翠枝、尺八/三宅翠風、囃子言葉/舟みどり。味わいと渋さが宮川の身上。
「鹿児島ハンヤ節」(鹿児島)
♪(ハ ヨイサー ヨイヤサー ハ ヨイサー ヨイヤサー)
ハイヤエーハイヤ
ハイヤで半年ゃ暮れた(ハ ヨイサー ヨイヤサー)
あとの半年しゃ サーマ寝て暮らすナー(ハ ヨイサー ヨイヤサー)
ハイヤエーハイヤ
ハイヤで今朝出た船はナー(ハ ヨイサー ヨイヤサー)
どこの港へ サーマ着いたやらネー(ハ ヨイサー ヨイヤサー)
エー段々畑のさや豆が 一莢(さや)走れば皆走る
私ゃにせどんに ついて走る
天草の「ハイヤ節」が南下して、阿久津、川内(せんだい)、坊津(ぼうのつ)などの港に持ち込まれた。奄美の「八月踊り」の六調子のリズムを加え、お座敷唄として唄われる。ハイヤ節に関する考察は、民謡研究家・町田佳聲(1888-1981)と竹内勉(1937-2015)の独擅場だ。ハイヤ節は日本民謡の源流をなす唄であり、もとは長崎県平戸の田助港が発祥の地であるという。
田助から島原、天草、阿久根と南下したものは奄美の六調子に影響され、熱狂的な形となり、そのリズムを逆に天草や五島に移出する。四国に渡ったものは「阿波踊り」を育てた。現在の阿波踊りはハイヤ節のリズムに「よしこの節」の旋律を乗せたものである。ハンヤの意味については諸説あり、大阪の半夜女郎からきたともいう。
§○前園とみ子、江藤春子FGS-610(89)三味線/梅沢さだ子、石井つる子、太鼓/山城軍蔵、鉦/中村くみ子。COCF-13290(96)三味線/伊知地あや子、野元きく江、太鼓/川西キミエ、鉦/勝目えつ子、囃子言葉/迫園節子。前園は泥臭くていいが、江藤春子は下品で子供っぽい。CRCM-40055(98)三味線/石井つる子、梅沢さだ子、太鼓/山城軍蔵、鉦/中村くみ子、囃子言葉/有馬久子、前園かず子。△前園とみ子K30X-222(87)囃子言葉に負けない声が必要だ。もっと元気よく唄ってほしい。三味線/岩元みどり、伊知地あや子、鳴り物/児玉れい子、平岡美智子、囃子言葉/迫園弘子、大西良子。KICH-2022(91)三味線/伊地知あや子、太鼓、囃子言葉/迫園ひろ子。
「鹿児島よさこい節」(鹿児島)
♪よさこいどころか 今日このごろは
人の知らない 苦労する ハ ヨサコイヨサコイ
苦労さしゃすな また泣かしゃすな
ほんにおはんは 罪な人 ハ ヨサコイヨサコイ
鹿児島では大変に古い唄のひとつで、労作業や田植え唄に用いられていた。土佐のよさこいの曲調とは趣を異にしている。やがてお座敷にあがって唄われだすと、曲調、歌詞が整えられる。よさこいは“夜サ来い”夜に遊びに来いという意味がある。薩摩鹿児島では、流行歌は男子が口にすべきでないとされていたが、この唄だけは武士たちも愛唱したという。それは「ヨサコイ」を「ゆっさ(戦)来い」と発音して、尚武の唄としたためである。安政五(1858)年ごろに流行。明治になって再び流行した。日露戦争(1904)当時、街角の演歌師たちは“ロ(露)シャコイ、ロシャコイ”と唄っていた。
高知県の「土佐節」の文句に「土佐はよい国南を受けて薩摩おろしがそよそよと」がある。これは、島津斉(なり)彬(あきら)(1809-1858)の妹が、土佐藩十三代藩主・山内豊熙(とよひろ)(1815-1848)へ嫁した際、お供の家来が羽振りをきかせたことを風刺したものであるという。天保年間に行われた土佐踊り四十八番の第九番は「かごしま」である。薩摩と土佐は黒潮の流れに乗って縁が深かった。
§○前園とみ子、江藤春子CRCM-4OO55(98)三味線/石井つる子、梅沢さだ子、太鼓/山城軍蔵、鉦/中村くみ子。少々品のない歌唱だが味がある。
「串木野(くしきの)さのさ」(鹿児島)
♪ハァー百万の敵に 卑怯は取らねども
串木野港の別れには 思わず知らず胸せまり
男涙をついほろり さのさ
ハァー夕空の 月星眺めてただ一人
あの星あたりが主の船 飛び立つほどに思えども
海を隔てて ままならぬさのさ
「さのさ」が海の作業唄になった。鰹(かつお)船(ぶね)の漁師たちが明治の頃から盛んに唄い、右舷と左舷、相呼応しながら、唄の調子が波に乗るように唄っていた。掛歌として百二十ほどの文句がある。
明治の頃から、木野の漁師達は10d余りの帆船に乗り、長崎県五島、玉之浦、富江港を基地にして、男女群島近海を操業。鯖(さば)釣(つ)りや延縄(はえなわ)漁(りょう)をしていた。漁を終えて福江島の玉之浦や富江の港に入り、水揚げが終わると酒宴となる。芸者衆が唄う「五島さのさ」は鯖(さば)釣りの掛け唄にされたり、郷里を偲ぶ文句に替えられて即興の「さのさ」となり、漁師たちが哀調ある調子で唄った。
大正の初め、八丁櫓の帆船が機帆船となり、船体も大きくなって積載能力が増大する。漁獲量が増え、長崎港が水揚げ基地になると、船はそのまま串木野港へ帰港した。この頃から「五島さのさ」は自然に影をひそめ、「串木野さのさ」が唄い継がれて今に伝わっている。
毎年、七月下旬に行なわれる「串木野さのさ祭り」には、市内の各種団体から、三千人以上の踊り手が参加して市中を練り歩く。踊りの手は、昭和四十六(1971)年、日舞竹原流の家元・竹原喬之助が付けた。
§○西野智泉COCF-9313(91)乾いた高音。三味線/西野智香、本條秀太郎、笛/老成参州、太鼓/美波駒三朗、鉦/美波奈る駒、囃子言葉/白瀬春子、白瀬孝子。○梅若TFC-1202(99)三味線/江川麻恵美、神山峰子。重厚で確かな歌唱力に定評がある梅若は本名・仁瓶敏子。福島県会津若松市出身。早くから九州民謡を得意としてきた。○鹿島久美子VDR-5193(87)編曲/小沢直与志、三味線/静子、豊藤。
「国分八幡鈴懸(こくぶはちまんすずかけ)馬踊(うまおど)り」(鹿児島)
♪(じゃんじゃ馬踊れ 踊れば花じゃ 踊らにゃ損じゃアハイハイ)
さても見事な 八幡馬場よ(アハイハイ)
鳥居にゃ お鳩が巣をかける(アハイハイ)
加治木重富 越ゆれば吉野(アハイハイ)
吉野越ゆれば 鹿児の島(アハイハイ)
姶良郡(あいらぐん)隼人町(はやとちょう)の国分八幡宮馬踊り(=うまおどい)は、天文二十一(1552)年、島津貴(たか)久(ひさ)(1514-1571)が八幡宮改築を計画した際、ある夜見た夢に由来するという。旧暦二月の初午の日に行われる。馬が囃子に合わせて前足を跳ね上げて踊るところからこの名があり、かつては近郷近在から150から200頭もの馬が境内に集まってきた。
馬の後には親戚の者や隣近所の人々の二、三十人が付き従い、馬の踊りに合わせて躍った。馬の鞍には一抱えもある豆太鼓が飾られ、馬の首には大きな金の鈴が付けてある。華美に飾った馬が踊るたびに、豆太鼓が音を立て、首の鈴が鳴り響く。馬は野良仕事が終わった後、何ヶ月もかかって仕込まれた。明治以降、農作業で活躍した馬は、飼育が簡単な牛へと代わり、機械化が進むにつれて、今では馬の飼育は町内で3、4頭に減少した。馬踊りの奉納も下久(しもぎゅう)徳(とく)地区のみとなっている。
§○前園とみ子CRCM-4OO55(98)三味線/石井つる子、梅沢さだ子、太鼓/江藤はる子、鼓/山城軍蔵。
「甑(こしき)島(じま)松坂」(鹿児島)
♪ハァー極楽の 西の御門は鉄(くろがね)の雨戸
開くも開かぬも 胸ひとつ
ハァー西の西方 釈迦弥陀如来
雲が邪険(じゃけん)で 拝まれない
男子十五歳の青年入り儀式に唄われた。伊勢から伝わったとか、平家の落人(おちうど)が持ち込んだという説があり、隠れ一向宗の影響のためか宗教的な文句が多い。
甑(こしき)島(じま)は串木野市沖40kmにある甑島列島の総称だ。米を蒸すせいろ(甑)に似ているからその名があり、全島がリアス式の岩石海岸のため、砂浜がほとんどない。太陽が海から出て海に入るこの島を、古くは「五色(ごしき)島(じま)」と呼んだ。江戸時代の「三国名勝図会」には「上甑に東西へ潮の通ふ海門あり、串(くしの)瀬戸(せど)といふ。そのうちに、甑形の巨岩あり、島民これを甑島大明神と称す。甑島の名はこれによりて得たりとぞ」と記されている。
§○地蔵伝CRCM-4OO55(98)尺八/勝江久喜。
「薩摩六調子」(鹿児島)
♪ここの座敷は 祝いな座敷
黄金花咲く 金(きん)がなるヨイヤナー
祝い祝いが 三つ重なれば
末は鶴亀 五葉の松ヨイヤナー
鹿児島の代表的祝い唄。薩摩西部から南部にかけて唄われていた。鹿児島市内では「どっつし」、志布志町(しぶしちょう)では「ろくちゅし」と呼ばれた。薩摩側では早い時期に消滅し、大隈側で比較的よく残っている。曲の最後に「ヨイヤナ」の囃子言葉を持つヨイヤナ系の唄が、六調子へと名称だけが変化したものとされる。祝の席ではまず謡曲が唄われ、その次に「六調子」や「ションガ節」が唄われる。詞形は七七七五の四句体と七七七七七五の六句体があり、混在して唄われている。
隣接地域の熊本県には騒ぎ唄の「球磨六調子」があり、騒ぎ唄は宴席の途中で、座を一気に盛り上げるために唄われるものである。ヨイヤナが南下する過程で、旋律に大きな変化が加えられたものか。
六調子は雅楽の調子で「壱(いち)越調(こつちょう)」「平調(ひょうじょう)」「双調(そうじょう)」「黄鐘調(おうしきちょう)」「盤(ばん)渉調(しきちょう)」「太食調(たいしきちょう)」の六つをいう。
§上玉利三司KICH-2349(00)三味線/菖蒲よし子、赤野清隆、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子。加齢のためか音域が狭く、節に強弱をつけるために爽快感を欠き、ほろ酔い四畳半旦那芸民謡になっている。
「汐替節」(鹿児島)
♪ハァー汐も替え前 夜も明ける前
家(うち)じゃ妻子も 起きる前
ハァー カエチョレカエチョレ
ハァー色は黒いが 釣(つり)竿(ざお)持てば
沖じゃ 鰹(かつお)の色男
ハァー カエチョレカエチョレ
藩政時代、鰹漁の餌(えさ)にするキビナゴは、大樽に入れて生かしておいた。大樽の汐を替えるときの作業唄。一日六時間の重労働であったという。鰹漁は甑島から薩摩半島西海岸、大隅半島沿岸部で行われ、坊津(ぼうのつ)、枕崎、佐多方面地域で唄われた。薩摩の唄はおよそ荒削りで素っ気なく、性急なものが多い。それは集団で唄い騒ぐことに主眼があるためだ。そんな中、この唄は、のどかな曲想を持ち、味わい深いところがある。
発動機付きの漁船で漁が行われるようになると、キビナゴを飼っておくこともなくなり、唄も廃れた。キビナゴは全長10p。南日本、東南アジア、インド洋、紅海(こうかい)に分布する。通常は外洋暮らしなのに、五、六月の産卵期になると、大群で海岸に接近する。これを巻き網や敷網、地引き網などで捕獲するのである。
§上玉利三司KICH-2349(00) KICH-288(14)尺八/舟倉勲。美声を聴かせることに意識が向かい、平板な歌唱となっている。曲の持つ味わいや作業の雰囲気を醸し出す表現力と工夫が欲しいところだ。
「ションガ節」(鹿児島)
♪これの座敷は祝いナ座敷ナー
黄金花咲く 金(きん)が成るヨナハァションガオ
(ハァ メデタイメデタイ)
娘島田に 蝶々がとまるナー
とまるはずだよ 花じゃものヨナハァションガオ
(ハァ メデタイメデタイ)
六調子とともに鹿児島の最も重要な祝い唄。旧薩摩藩領の宮崎県諸県(もろかた)地域から鹿児島郡十島村(トカラ列島)にいたるまで広く分布している。歌詞の最後にションガエと唄われるところからションガ節と呼ばれ、尊賀節と書くこともある。薩摩、大隅(おおすみ)方面では、この唄がなくては祝いの席は始まらない。
曲名の由来は不明だ。良港に恵まれ、文化伝播の一つのルートである南薩摩沿岸で盛んに唄われた。唄の文句の終わりにヨイヤナと囃す“よいやな祝い唄”の囃子言葉がションガエに変えられ、九州沿岸部に広まったとされる。祝いの場では順の唄と呼ばれ、まず六調子が唄われ、続いてションガ節が唄われるのが一般的。この二曲が唄われないうちは、ほかの唄を出してはならないという不文律がある。
§上玉利三司KICH-2349(00) KICH-288(14)尺八/舟倉勲、囃子言葉/新村熊雄。ほろ酔い気分で、おやじさんが唄っているような歌唱。
「想夫(そうふ)恋(れん)(久見崎盆踊り唄)」(鹿児島)
♪ハァ御高祖(おこそ)頭巾に 腰巻き羽織(ソーリャセ)
ハァ亡夫(つま)も見てたも 眉の露(ソーリャセヨーイヤナ)
ハァ盆は嬉しや 別れた人の(ソーリャセ)
ハァされて この世に会いにくる(ソーリャセヨーイヤナ)
川内市久(ぐ)見崎(みざき)に伝わる盆踊り唄。昭和四十六(1971)年、県の無形民俗文化財に指定された。約四百年間、継承されている精霊供養の唄と踊りだ。
慶長二(1597)年、島津義弘(1535-1619)は一万余の将兵を率いて久(ぐ)見崎(みさき)を出帆。朝鮮半島に向かった。翌年、豊臣秀吉が死亡すると、朝鮮に出兵した全軍に撤収(てっしゅう)の命が下る。けれども、再び故郷の土を踏めなかった多くの兵士たちがいた。盂蘭盆(うらぼん)の日、夫を失った妻たちが松ヶ鼻に集まり、逝(ゆ)きて戻らぬ夫の霊を慰める唄と踊りを始めた。妻たちは亡き夫の黒紋付を着て、背に脇差しを担(かつ)ぎ、黒い布で顔を包んで三味と太鼓に合わせて踊った。ときおり「やーっとせ」「よーいやな」という掛け声を掛け、何かを招き寄せるような手振り、掌を合わせるて祈る姿を、ゆっくりとした調子で何度も繰り返す。
現在、盆踊りは八月十六日、松林の中にある「慶長の役(えき)記念碑」の前で開催されている。平成十三(2001)年八月、久見崎盆踊保存会は、韓国全羅南道珍島郡で開催された第五回珍島平和祭に招かれ、慰霊祭、祈願祭でこの「想夫恋」を披露している。
§上玉利三司KICH-2349(00)編曲/上玉利三司。三味線/菖蒲よし子、田中祐子、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。鹿児島民謡を積極的に取り上げる努力は多とするが、不戦と鎮魂の祈りと願いをこめて唄ってほしいものだ。
「知覧(ちらん)節(ぶし)」(鹿児島)
♪大隣岳から下原ゅ見れば
菜種(からしゅ)大根 葉が今生(お)立つ(ホッソイホーッソイー)
習るた習るたよ 知覧節ゅ習るた
習るた知覧節ゃ 調子合わぬ(ホッソイホーッソイー)
薩摩半島知覧(ちらん)方面の民謡。出だしの「おんない岳から……」から「おんない節」とも呼ばれた。大隣岳は標高267m。後期旧石器時代の終り頃から、縄文早期までの登(のぼり)立(たて)遺跡がある。囃子ことばの「ホッソイホッソイ」からは、元唄が馬子唄か追分のようなものであったことを偲ばせる。
昭和三十(1955)年ごろ、共同通信の記者・木原喜一が、すたれかかっていたこの唄を世に出した。大変に古い唄で、古事記の神代の時代、海(うみ)幸彦(さちひこ)、山(やま)幸彦(さちひこ)兄弟にちなむ唄であるともいわれる。
知覧町(ちらんちょう)は古くから「薩摩の小京都」と呼ばれ、町の北部、麓地区には整然とした町並みと武家屋敷が今も残っている。菜種、知覧茶の産地としても有名なところだ。知覧には第二次大戦中、旧陸軍特攻基地が置かれていた。ここから、陸軍の特攻隊員約千名が飛び立ち、還らぬ人となった。ここに知覧の母・鳥(とり)浜(はま)トメさんの尽力によって出来た知覧特攻平和会館がある。そこに飾られた隊員たちの遺影は、愚かで悲惨な戦争を二度と繰り返すなと訴え続けている。
§○福永幸雄CRCM-4OO55(98)尺八/勝江久喜、掛け声/斉木清武。格調ある美声。
「枕崎金山石刀節」(鹿児島)
♪ヤーレー向こう通るはアヨ 坑夫さんじゃないか
金(きん)がこぼれる袂(たもと)から(金がこぼれる袂から)
ヤーレー石刀振らせてアヨ 後から見れば
様じゃなけれど むぞ(可愛)ごさる(様じゃなけれどむぞござる)
鉱山の仕事唄。「かなやま節」「石刀節」ともいわれる。石刀とは鏨(たがね)のこと。薩摩藩は積極的に鉱山の採掘を行い、藩の重要な財源とした。
金鉱は姶良郡(あいらぐん)横川町山ヶ野、串木野市(くしきのし)芹ヶ野(せりがの)があった。山ヶ野金山は、標高約650mの国見岳の南西に連なる山塊の分水嶺付近にある。「トジ金」と呼ばれる、粗粒の自然金の産出で有名だ。寛永十七(1640)年、島津家十九代、薩摩藩二代藩主・島津(松平)光久(1616-1695)の頃、宮之城島津氏の久通(ひさみち)(1616-1694)によって発見された。久通は、肥後や豊後日出藩領内の馬上金山(大分県山香町)から山師を移住させ、開発に努める。移住者は金山に屋敷を与えられ、郷士の待遇を受けて「地の者」と呼ばれた。薩摩半島の大浦・笠沙(かささ)方面からも金掘り人夫が移住している。
寛永十九(1642)年、一時、閉山を余儀なくされたが、明暦二(1656)年に再開。万治二(1659)年には1.870kgもの金を産出。十九世紀初頭の文化年間には佐渡鉱山の生産をしのいだ。山ヶ野金山より産出した金は、鹿児島藩(通称・薩摩藩)の藩庫を潤し、あるいは島津氏による国分(こくぶ)新川(しんかわ)の開削(かいさく)、新田開発の費用に充てられた。
§上玉利三司KICH-2349(00)尺八/舟倉勲、囃子言葉/新村熊雄。KICH-2469
(05)KICH-288(14)尺八/勝江久喜、鳴り物/菖浦よし子。返し唄/中村建市。素朴さはあるが、鼻歌まじりで作業している石工さんの姿が浮かんでくる。
「三(み)邦(くに)丸」(鹿児島)
♪(ヨーハレ ヨーハレ ヨーハレ ヨーハレ)
沖の黒いのは 吾平太の船かナー(ソレ)
あれは薩摩どんの コラサイノサイ 三邦丸サーイサイ
エレホーヨーハレ 吾平太の船で サイサイサイ
(ヨーハレ ヨーハレ ヨーハレ ヨーハレ)
幕末から明治の初め頃の唄。めでたい気分にあふれ、粋さもあって曲想もよい。薩摩藩が所有する軍艦三邦丸は、石炭を焚いて蒸気機関で走った。この船は島津藩主を初め維新に活躍した多くの志士たちが何度も利用している。慶応二(1866)年一月二十三日、坂本龍馬(1835-1867)は船宿寺田屋で捕り方に襲われて負傷した。からくも逃れ、京都の薩摩屋敷でしばらく療養した後、同年三月五日、西郷隆盛(1827-1877)や小松(こまつ)帯刀(たてわき)(1835-1870)の誘いを受けて三邦丸に乗船。新妻・お龍(1840-1906)を伴って新婚旅行に旅立った。大阪から薩摩まで、五日間の快適な船旅だったという。
§上玉利三司KICH-2349(00)KICH-288(14)三味線/菖蒲よし子、田中祐子、尺八/赤野高一、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。
「宮之城筏流し唄」(鹿児島)
♪ハァーエ 宮之城 川原が流れて通るヨー(ソイ)
糸で繋(つな)ごか あばせこかヨー(セノーセノーセノーセノーセーセー)
ハァーエ川を流れる 材木さえもヨー(ソイ)
様と思えば 流しゃせぬヨー(セノーセノーセノーセノーセーセー)
ゆったりとした流れに筏を流しながら唄う。川(せん)内川(だいがわ)は、熊本県球磨郡(くまぐん)上村の白髪(しらが)岳(だけ)(1415m)を水源とする全長137kmの一級河川である。筑後川に次いで長く、129の支流を持つ九州屈指の川だ。宮崎県西諸県(もろかた)盆地を西流して鹿児島県に入り、川の流域約81%が鹿児島県を流れている。伊佐盆地で羽(はね)月(づき)川(かわ)に合流し、景勝・曽木(そぎ)の滝から鶴田ダムへと流入。薩摩郡宮之(みやの)城町(じょうまち)(さつま町)、川内平野を貫流して東シナ海へ注ぐ。
宮之城の名は、文禄四(1595)年、日向の都城から虎(とら)居(い)城に移った北郷(ほんごう)時(とき)久(ひさ)(1530-1596)が命名したという。虎居城は平安末期の康治年間(1142-114
3)、大前氏が祁答院(けどういん)の郡司となり、自然の地形を利用してを築いたものだ。慶長五(1600)年、北郷氏は再び都城に戻り、替わって宮之城島津氏の祖となった島津忠長(1551-1610)が入封(いふう)。宮之城は物資の集積地として大いに栄えた。“みやのじょう”を地元では“みやんじょう”と発音している。
§上玉利三司KICH-2349(00) KICH-288(14)尺八/舟倉勲、掛け声/新村熊雄。
「屋久島木挽(やくしまこびき)唄(うた)」(鹿児島)
♪ヤーレエー(アーコリャ コリャ コンリャー)
私ゃ屋久島 奥山暮らし(ソーレ サッサササッササ)
花の都にゃ 縁がない(アーチートコ パートコ チートコパートコ)
ヤーレエー(アーコリャ コリャ コンリャー)
木挽さんとは 縁組みするな(ソーレ サッサササッササ)
仲の良い木を 挽き分ける(アーチートコ パートコ チートコパートコ)
九州の木挽き唄は、日向木挽唄がよく知られているが、木挽唄はどの地方のものでも似たようなものが多い。森林が豊富な屋久島には、木挽き作業者たちが多く入った。
屋久杉は建材として古くから知られていて、天正十四(1586)年、豊臣秀吉(1536-1598)が造営を始めた京都方(ほう)広寺(こうじ)大仏殿の用材にも使用されている。樹齢千年以上の杉を屋久杉と言い、それ以下を小杉と呼ぶ。樹齢7200年と推定されている縄文杉は、小杉谷の標高1300m地点にあり、樹高30m、根廻りが43mある。昭和四十一(1966)年五月に発見された。その後、縄文土器の火焔(かえん)土器(どき)に形が似ていることから“縄文杉”と呼ばれるようになった。
屋久島は、佐多岬から南南西60kmの海上に浮かぶ周囲約130km(東西約28km南北約24km)の島。面積約500平方km、日本では七番目に大きな島だ。そこに九州最高峰の宮之浦岳(1935m)を初め、千メートルを超す山々が46座ある。亜熱帯から亜寒帯までの気候が含まれ、九州から北海道までの気候が一つの島で見られる。平成五(1993)年、世界遺産に登録された。
§上玉利三司KICH-2349(00)尺八/舟倉勲。素朴な味はあるが、作業唄の雰囲気はない。
「山川漁(すなど)り節」(鹿児島)
♪(ハ エンヤコーラ エンヤコーラ コリャコリャセーノセコラショ)
押せや八丁櫓で 大漁かかげ(コラショ)
鴎(かもめ)舞い飛ぶ ハァー鰹船(コラショ)
磯の砂子に 思いを寄せて(コラショ)
山が見下ろす ハァーちょが水浦
(ハエンヤコーラ エンヤコーラ コリャコリャセーノセコラショ)
昭和三十年(1955)年代後半、現地有志の協力を得て竹原喬之助が作詞・作曲。初代・浜田喜一の声でレコード化された。
「すなどり」の名は山川町の古文献に出てくる。山川町は薩摩半島の最南端、鹿児島湾口に位置する。東は海を隔てて大隅半島と相対し、北は温泉都市指宿、西は薩摩富士(開聞(かいもん)岳(だけ))がそびえる開聞町と隣接。山川港は噴火口の跡に海水が入って港となった全国でも珍しい火口港である。その形から「鶴の港」とも呼ばれ、古くから琉球貿易や鰹の遠洋漁業基地として、あるいは台風時の避難港として栄えてきた。鰹節の生産量は全国の三割を占めている。
§上玉利三司KICH-2349(00)KICH-288(14)三味線/菖蒲よし子、赤野清隆、尺八/舟倉勲、鳴り物/田中ハツ子、囃子言葉/市来美年子、前原美香。
2022年03月03日
鹿児島県の民謡
posted by 暁洲舎 at 00:28| Comment(0)
| 九州の民謡
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