2022年03月03日

奄美の民謡

{奄美}
「赤木名観音堂〜うんにゃだる〜ほこらしゃ」
♪赤木名観音堂や 伊津部かちなおろ
なおろなおろなー 音ばかり
赤木名は奄美大島北部、笠利地方の中心部で伊津部は名瀬市の一区画を指す。観音堂は鹿児島福昌寺の末寺で藩政時代、大熊に建てられた。後、赤木名に移転。その後、伊津部移転の話が出たが噂だけで実現しなかった。
「東(あ)がれ立ち雲節」
♪東れ立雲ぬ 行き別れ見れば
加那とぅ 行き別れありが如(ぐとぅ)に
東がれ立ち雲とは、東の空の朝方の雲。朝日が昇ると雲が断ち切られ、陽光が射してくる。雲と恋人同士の朝の別れを唄った抒情歌。本来は踊りや歌遊びの別れ歌であった。若者達は夜を徹して唄い踊り、語り合い、朝方になると皆と別れて帰って行く。
「あがれ日ぬ春加那は」
♪あがれ日ぬ春加那や 何処ぬ村ぬ稲加那志
うま見ちゃむぃ菊女金でぃ行きょ熊義
昇る太陽のような春加奈はどこの村の稲神様だろう。それを見たことがあるか菊女金。さあ見に行こう熊義よ、と唄う。春加奈は神話にでてくる神女。何日も山ごもりして神祭りを行う。
「朝顔節」
♪若松ぬ下に亀(かむぃ)ぬ魚(いぅ)ぬ遊び
鶴や羽(はねぃ)たれて 舞い清(ぎゅ)らかさ
正月や婚礼などの祝いの席で唄われる。「御前風(くじんふう)」とも呼ばれ、琉歌の祝典歌のひとつである「かぎやで風節」の流れを汲み、荘重典雅な響きを持っている。
「あさばな節」
♪朝花はやり節 歌ぬ始まりや 朝花はやり節
朝の初め、はな(端)に始めるという意味。うた遊びの声ならしと挨拶の三線唄。祝いの宴席や唄遊びなどの唄い出しは「朝花」から始める。客を迎えたときの喜びにあふれた曲。
相手が一節唄えば一節返すことを礼儀とし、後は宴席の雰囲気によってさまざまな歌詞で唄を掛け合わせていく。三線は歯切れのよいリズミカルなもので、哀調を帯びた曲が多い島唄のなかで比較的明るい爽やかな感じを持つ。長節と短節がある。
「朝別れ節」
♪朝別れだもそかに苦てさやしが(スラヨイヨーイ)
かに苦てさやしが(かに苦てさやしが)
かに十日、二十日 抜きゃに二十日過ぎる(スラヨイヨーイ)
抜きゃに二十日過ぎる
婚姻が成立すると男性はしばらくの間、女性のもとに忍んで行った。朝が来ると別れていく悲しさを歌う。
「芦(あし)花部(けぶ)一番節」
♪芦花部一番 上殿地(うんとのち)ぬば加那
小(く)早(ばや)一番な 実久小早
今から二百数十年前、竜郷浦の干拓事業に島中から若者達が使役にかりだされた。仕事が終わっての帰り、自分達が乗ってきた舟(くばや)で伊津部の泊り(名瀬市)まで競争することになった。芦花部の沖で実久のくばやだけが岸に向きを変えた。彼等は芦花部いる噂に聞く美女・ばぁ加那を一目みたいと思いたったのである。ばぁ加那は純な若者たちに力水を与えた。若者たちはそれに力を得て漕ぎ出し、伊津部に一番で着いたという。
女性に霊力があるとする“うなり神信仰”が背景にある伝説を唄っている。
「奄美の子守歌」
♪泣くなくな童 誰が泣きで言ちょ 吾守らば眠れ童
奄美全島で歌われている子守歌。子守歌の旋律と歌詞は世界共通のようだ。
「雨(あま)ぐるみ節」
♪西ぬ管(く)鈍(どん) なんにゃ雨ぐれぃぬかかってぃ
雨ぐれぃや あらんど愛しゃる人ぬ目涙
黒い雨雲が空を覆い、今にも降り出しそうな様子を女性の涙に譬えて歌う。同様の旋律で、土地によってさまざまな歌詞で歌われている。にしぬ管(く)鈍(どん)節、大熊助次郎加那、あんちゃんな節、ちょいちょい節など別名の曲が多い。
“あんちゃんな”は“〜があったそうだ”の意。曲目のほとんどが歌詞からくるものだ。歌に共通するのは各地の風物が歌われていることだ。北大島の笠利方面では「雨ぐるみ」。奄美大島の南部では「雨ぐれ」と呼ばれている。管鈍は南部大島瀬戸内町の集落。
「雨ぐれ節」⇒「雨(あま)ぐるみ節」
「綾(あや)蝶(はぶら)」
♪東打ち向んてぃ 飛びゅる綾蝶
作詞・中村民郎、作曲・坪山豊、ワイド節コンビの作品。故郷を離れ、遠く都会へ出ていった若者を色鮮やかな蝶に譬え、待っているからいつの日にか帰っておいでと呼びかける。
「あんちゃんな節」⇒「雨(あま)ぐるみ節」
「行きゅんにゃ加那」
♪行きゅんにゃ加那 彼(あが)遠(とう)ぬ島かち
行きゅんにゃ加那 汝(な)きゃ事(くとぅ) 思めばや 行き苦しゃ
“行ってしまうのですか?加那さん…”。数多くの歌詞があり奄美でもっとも広く歌われている別れ歌。葬送の場でも歌われる。
「いきょうれ節」
♪大和旅すりば 月読んで待ちユリ 待ちユリ
行きょ居れヨー 行きょ居れヨーイヨイー
後世(ぐしゅ)が旅すりば 何(ぬ)ゆで待ちユリ
行きょ居れヨー 行きょ居れヨーイヨイー
別れてぃや行ぢも 忘れてや給(たぼ)んな給んな
行きょ居れヨー
船出の歌。戦争中は出征兵士を送るときに歌われた。現在ではあまり歌われることがなく、野辺送りの際に歌われることがある。
「いそ加那節」
♪梅仁志主 何処ちがいもゆる 梅仁志主
花くれが いそ加那が 墓行じ花くれが
梅仁志主という身分の高い人の妻が亡くなった。愛妻家の彼は雨の日も嵐の日も、欠かさず妻の墓前に日参して花を手向けたという。
いそ加那は梅仁志の母、叔母、愛人などの説がある。大島南部の宇検村生(いけ)勝(がち)生まれ。枝手久島に椎の実を採りに行った帰り、遭難して亡くなった。梅仁志は藩政末期に生まれ、大正まで生きた人物。詠嘆調の起伏ある旋律は、哀れさと悲しさを誘い胸を打つ。
「一切(ちゅっきゃり)朝花」
♪果報な事を 有らち給れ一 や抜からん 今ぬからんよ
汝きゃが 先々や果報な事 とをあらち給れ
油断しんな羽黒魚 烏賊ぬ生ゆどぅにち 油断しんな羽黒魚
奄美諸島では、歌と三(さん)線(しん)を演奏することを“うた遊び”という。その一番最初に歌われる「朝花」の元歌。テンポが速く軽快な歌。
「糸くり節」
♪心配じゃ 心配じゃ 糸繰り心配じゃ
糸切りりばすらやぬや ー結ばりゅめ
薩摩藩の圧政下、名瀬には藩直営の糸繰り場があった。製糸工場における女工哀歌。糸繰りと男女の縁を重ねて歌う。
糸は切れても結び直すことができるが、人と人との縁は切れると結び直すことができないと歌う。結婚式等の祝宴ではタブーとされる。
「稲摺り節」
♪(稲摺れ摺れよ あら選(ゆ)り選りよ)
今年世や 変わてぃ 稲粟ぬ出来てぃ
稲摺れぃ 摺れぃよ あら選りぃ選りぃよ
稲の脱穀(稲摺り)の際の仕事唄。あらは籾殻(もみがら)のこと。宇検村芦検(うけんそんあしけん)(鹿児島県大島郡)が本場といわれる。踊り歌としてもよく使われ、歌詞は豊作や蔵を建てたというような羽振り良いもの。
「今ぬ風雲(かぜくも)節」
♪今ぬ風雲や 村ぬ上に立ちユリ
わしが殿上様やうぃ 北原立ちユリ
夫を船出さたせた妻が、その後の雲行きが怪しくなったのを見て、時化に遭うかもしれないと、夫の身を案じて歌ったもの。船旅は午(南)の風だからといって、安心してはならない。西の方からくる風が終わるまで待てと歌う。
「祝付け」
♪こん殿地 庭にお祝いつけておろせ
これからぬ先 お祝いばかり
八月踊りは、旧暦八月に行われる。豊年祭り、先祖祭り、悪魔祓いなどの祭祀だ。その最初に歌われる祝い歌。
「いんむぃやんむぃ節」
♪いん目やんむい 目鼻やきりたる
いん目やんむい 南蛮瘡いじとぅてぃ辛塩喰いでぃ
「いんむぃ」とは魚の目。心優しい正直ものだが、どこか間が抜けていて、魚の目に似ている男がいた。中部大島の大和村今里に、藩政末期から明治にかけて実在した人物である。村の人たちは、そんないんむぃをからかうのが、ひとつの楽しみであったという。からかいそのままの歌詞で歌われる。「行きゅんにゃ加那」など、各方面で唄われている数え唄は、この歌の節の転用が多い。
「請(うけ)くま慢女節」
♪旅や浜宿 い草ぬ葉ど枕
寝てん忘ららん 我親ぬ 我親ぬ御側
芝木植(い)て置かば しばしばと参(いも)り
真竹植て置かば またん参し忍ば
請は加計呂麻島の南に浮かぶ小島。“くま”は女声の名前。慢女は遊女のこと。美人のくま女は遊女に墜ちたが、島の人々はそれでもくま女を称えた。沖の永良部島を舞台とした千鳥節の変奏。笠利地方では「ちど節」とも呼ばれる。
「うぶくれ(御礼)」
♪うぶくれどやよる 果報しゃけどやよる
来年ぬ 稲加那志 畔枕
八月踊りで、家から家へと踊りを移すヤーマワリの際に歌われる御礼歌。お別れのお礼の言葉は、次の家では踊りが始まる知らせである。
「う枕節」⇒「太陽(ていだ)ぬ落(う)てぃまぐれ」
「海ぬささ草」
♪海ぬささ草や しゅくぬすてぃどころ
加那がふところや 我きゃがすてぃどころ
しゅくと呼ばれる稚魚は、海藻に守られて育つ。子供は母親のふところで守られて育つ。愛しい加那の懐は、私のよりどころだと歌う。
「うらとみ節」⇒「むちゃ加那」
「嘉徳なべ加那」
♪嘉徳なべ加那 如何(いきゃ)しゃる生まれしちが
親に水汲まち 座(い)しゅてぃ浴(あ)める
神に仕える巫女・嘉徳なべ加那の死を悼んでいる。奄美諸島の物語歌のヒロインは、美人で美声で気立てがよく、多くの男にもてるが嫉妬され、いじめられて非業の死を遂げる。なべ加那は小児麻痺の娘、親不孝の横着者、ノロ巫女の気高い美女という説がある。「親に水を汲ませて、座して浴びる」の歌詞から、なべ加那は親不孝の代表的な女性とされていたが、神聖さを示す文句なのかもしれない。嘉徳は奄美大島瀬戸内町にある。三方を深い山に囲まれ、前方に太平洋を望む寂しい集落である。
「かんつめ節」
♪カンツメ 生まれや哀れな生まれ
塩ばつでなめてから 水も飲まんぐね
此の世ば 終て重ねて
1745(延享二)年、薩摩藩は奄美の島々に対し、租税はすべて砂糖で納めることを強制した。いわゆる黒糖地獄の苛酷な圧政は、島民を貧窮の極限まで追い込む。やんちゅと呼ばれる人身売買が行われ、奴隷となれば牛馬にも劣る生活を強いられた。
美少女で美声の持主だった終身奴隷カンツメは、イワカナと御法度の恋に落ちる。毎夜、村境の佐念山の空き小屋で、束の間の逢瀬を楽しんでいた二人だが、やがて主人に感づかれ、彼女は折檻のムチを受ける。ひどい仕打ちに耐え切れず、自ら死を選んだカンツメの悲しい最期は、人々に怨み節を作らせ、それは島々に広まった。
「喜界や湾泊り」
♪喜界や湾泊り 水焦(く)がれ取りゅり
潮焦がれ 取りゅり山田平田
八月踊りで歌われる曲のひとつ。喜界島には河川がなく、水は湧水か雨水に頼っていた。港に面した湾集落では、水を欲しがり、内陸部の山田平田では潮を欲しがると歌う。互いがないものねだり。
「くばぬ葉」
♪くばぬ葉ど ありょうる
もちなししぬ 美らさ暑らさい
しだましゅてぃ 玉ぬうらふぁい
きれいに揃えたくば(檳榔)の葉は美しく、暑さをしのぐ扇にもなる。“くば”は古名“あじまさ”。形は棕櫚(しゅろ)に似ていて、葉は円形で直径は約1b。繊維を取って縄にする。檳榔樹とは別種。
「くるだんど」
♪花ぬ咲きゆり 三京山さんなんじ
千年から見しみらん 花ぬ咲きゆり
花ぬ咲きゆり 直そい直そ明けてぬ
二、三月 吾達家ぬ庭かち直そい直そ
三京山の谷の花とは、グングァと呼ばれる美女のこと。「くるだんど」は「空が黒くなってきた、雨がやってくるぞ」という意味。奄美の数ある島唄のなかで屈指の名曲だが、創唱したのは、悲劇の美女カンツメと同じ階層の貧しい子守娘であったという。
大熊の集落で十二、三歳の子守娘が、沖の空が曇ってきたのを見て「くるだんど、仲勝耕地ぬくるだんど、喜びじゃ栄多喜主、泣き前じゃ宮松あごくぁー(地主の栄喜多は待望の雨が降って大喜びだが「やんちゅ」の宮松は雨の中でこき使われて泣きの涙)」と、即興で歌い出したのが歌の始まり。
「国(くん)直(により)米姉節」
♪国直米(あ)姉(ご)や国直 しま(里)中ぬ美人じゃ
国直米姉や山下青年(ねせ)きゃにゃ及(うゆ)ばんど
山下ねせ青年ん きゃにゃ及ばんど
大和、宇検方面でよく歌われていた。国直(大和村)に住んでいた「よね」という女性をユーモラスに歌っている。彼女は気がふれていたという。一つの句を三度繰り返して歌われるところから、元は子守唄ではないかとする説もある。
「さいさい節」
♪持ち来飲(ぬ)で遊ば酒も飲み 里前遊女(すり)も呼べ里前
酒を勧める歌。「さい」は酒のことで、沖永良部島では酒の席で必ず歌われる。
「実(さね)久(く)くばや」
♪芦花部一番な 上殿内ぬ加那
別名「芦(あし)花部(きぶ)一番節」。実久は大島南部、瀬戸内町内の集落の名。舟漕ぎ競争の際、芦花部(名瀬市)で一番の美女から、力水をもらった実久の青年たちの船が勝った故事に基づく歌。
「山(さん)と与(ゆ)路(る)島(じま)節」
♪山と与路島や 親祝女や一人
舟破りゃ岩礁ぬ あてどぅ間切分かち
琉球王朝は、古くから功労ある者をその地方の行政上の長官に任命。その妻や姉妹、豪族の女子を女神官・ノロに任命した。ノロは一切の神事祭式を取り仕切る。ノロは各間切り(村)に配置されたが、奄美にもノロが置かれた。
奄美でのノロは神加那志として崇められ、出産や祝い事があると米や酒肴が捧げられた。与路島と徳之島の山とは海上二十里も離れているが、かつては同一のノロのもとにあった。権力がそれを行政的に分離したことを唄う。
「諸鈍(しゅどん)長浜節」
♪諸鈍長浜に 打ち上ぎ引く波や
諸鈍女童ぬ 笑い歯ぐち
“諸鈍長浜に寄せては返す波が、白く砕け散る光景は、諸鈍の娘が笑うときの真っ白な歯並びを思わせる”と歌う。別名ヒヤルガヘーは囃子言葉から。
諸鈍湾は、奄美大島本島から狭い海峡へだてた加計呂麻島にある。かつて奄美大島は1609(慶長十四)年まで琉球に属していた。琉球王の善政下ではあったが農民の反乱もあった。琉球軍は鎮圧のために、諸鈍を根拠地としてたびたび攻め込んだ。しかし、駐屯する琉球兵は、美人の諸鈍娘にいつも骨抜きにされてしまったという。沖縄の「醜童踊り」に用いられる「しょんどう節」は諸鈍長浜節の歌詞とよく似ている。
「塩道(しゆみち)長浜節」
♪塩道長浜に 童泣きしゆる
うれや誰がゆり 汗肌けさまつぬ
喜界島の塩道を舞台に起こった青年の恋愛悲劇を歌ったもの。ケサマツという美女に惚れた青年は、馬に引きずられて死んでしまう。ケサマツが殺したともいう。父が若者の痛ましい死を嘆いて歌った。
「しゅんかね節」
♪しゅんかねぐゎぬ節や 吾がくなちうかば
三線持(む)っちいもれ 付(てぃ)けぇてぃ上すぃろ
実りの収穫を得る前に、台風や干ばつによって、その期待が水泡に帰す場合が多かった。「しゅんかね」は「しょうがない」の意味。めでたいことを言ったあと、その通りだと誉める言葉からでたともいう。同じような言葉は琉球文化圈にもあり、江戸期の本土の流行歌や、各地の民謡にも見られる。本土との交易によって文化、音楽の交流が生まれ、持ち込まれたものか。
「俊良主節」
♪なきゃ拝むことや 夢やちゅんま
見らぬ神様ぬ 話や聞ちゅたが今宵が初め
1890(明治23)年、奄美から初めて選出された代議士・基俊良は、新婚間もない愛妻・みよ加那を失う。名瀬湾の塩浜に貝を採りに行き、潮に流されて溺死したのである。妻を亡くした俊良の落胆ぶりは見ていられないほどで、人々は彼を慰めようとして、昔から伝わる「ふなぐら節」にのせて、泣くな嘆くなと歌った。
その後、再婚した俊良だが、宴席などに顔を見せれば、唄者はこれを歌って俊良から口止め料の銀貨をもらった。それがまた評判になり「ぎんどろ(銀貨)節」と呼ばれて広まった。今では俊良節と呼ばれ、恋愛や教訓を歌詞にして歌われている。
「正月着物(ぎん)」
♪正月着物な 破れ着物着らも
石原ぬ美ら者 もら(貰)て給れ
宇検村(うけんそん)方面でよく唄われ、わらべ唄の雰囲気を持つ。正月でも安い芭蕉布の着物で我慢するから、石原の美しい女性を貰ってくださいと唄う。奄美の三線は沖縄のものより弦が細く、撥(ばち)も竹製で打ち下ろし、すくい上げて弾く。
「心配(しわ)じゃ節」
♪心配じゃ物思(むぬめ)じゃ 甘蔗(うぎ)刈(き)りゃ心配じゃ
甘蔗ぬ高切りゃ 罪(ばん)札(ちゃ)はきゅり
砂糖地獄の圧政の恨みを唄っている。元唄は糸繰り作業で唄われていた。薩摩藩の琉球侵攻によって、奄美大島は1609(慶長16)年から薩摩藩が直轄地とした。江戸中期、薩摩藩の財政が破綻に瀕すると、藩は奄美の黒糖に目を付け、過酷な収奪政策を取り行う。島の田畑は全て甘蔗畑に替えられ、島の老若男女には砂糖生産が強制された。砂糖の生産量が少ない者には、首に罪人札をかけ、村中を引き回して死罪にした。
「そばやど(側戸)節」
♪そばやどばあけてぃ 加那待ちゅる夜や
夜嵐やしぎく 吾加那や見らぬ
南大島の歌遊びに欠かせない唄。性風俗を題材にした歌詞が多い。側戸は母屋と台所との間にある北面の戸のこと。
「太陽(ていだ)ぬ落(う)てぃまぐれ」
♪う枕う枕 物言うな 枕加那が仲
我が仲言うな よう枕
「う枕節」ともいう。節回しも複雑で、抑揚と余情に富んだ名曲。「枕よ、ものを言ってくれるな。愛人と私が情を交わしたことは、絶対に言ってくれるな。枕が出てきて、もの言うならば愛人と私のことを言うに違いない。しかし、枕はもの言えないから、秘密がばらされることはないだろう」と唄う。
「長菊女(ちょうきくじょ)節」
♪長菊女 何処(だかち)が参(いも)ゆる長菊女
がっきょ(辣韮)打ちが 伊(い)古茂(きょも)ぬ俣かち がっきょ打ちが
この歌を「昔くるだんど」とか「早くるだんど」と呼んでいるところがあり、歌の形式が同じであるところから、くるだんど節の原形ともいえる。
宇検や瀬戸内町方面でよく歌われる。加計呂麻島の伊古茂で実際にあった長菊と活(かち)国(くに)の心中事件を歌ったものだ。活国が長菊を殺して、後を追うが死にきれず、苦しんだ挙げ句に果てるという物語。
昔、加計呂麻の於(お)斉(さい)に長菊という美女がいた。その長菊に活国という男が恋をした。活国は遇うたびに結婚を迫るが、長菊はなかなかうんと言わない。思い余った活国は、いつも長菊が出掛けるラッキョウ畑で待ち伏せる。何も知らずにやってきた長菊を刺し殺した活国は、その後を追って自殺したという。
「徳之島あさばな節」
♪遊(あす)でぃ 珍しどぅ 喜念原のすみんじゃ
うりより珍しどぅや 東高森のかんしゅ防が宿り
喜念原、東高森は地名。すみんじゃ、かんしゅ防は人名。徳之島には亀津あさばな、井之川あさばな、小島あさばな、といったあさばな節が伝えられていて、奄美大島のあさばな節とは違った趣きがある。
「徳の山岳節」
♪くさん竹ぬ 節やあわぇ近さやすぃが
うれよりも 近さ思てぃたぼれ
奄美大島北部に伝えられている三線歌。徳は徳之島の意味で、男女愛の深さが歌われている。くさん竹は布袋竹のこと。桿(かん=茎)の下部の節間が短く、布袋の腹のように膨れ出ていて、釣り竿や杖に使われる。
「寅(とぅら)申(さん)長峯(ながね)節」
♪とぅらさん永峯 なんてぃふてぃ燃ゆる煙(けぶし)
徳ぬ真子染がたよら煙草
北東から南西に連なる長い峰。たなびく煙は徳之島の遊女・真子染が愛を打ち明ける合図にふかしている煙草の煙だ。抜けるような青空と、澄み切った空気感を感じさせる唄。
「ドンドン節」
♪ドンドン節 大和から流行て やがて徳之島 うち流行るんど
今日や種浸けて 餅貰(も)れが来たしが
如何あたらさあてま 一つ給れ
本土で近世末に流行した「どんどん節」の流れをひいている。
「長あさばな節」
♪今日ぬよかろ日に 吾が祝(ゆ)わいて
吾が祝わてうかば これからぬ先や お祝いばかり
「長雨きりゃがり節」
♪長雨きりゃがりば 沖やとれどれとぅ
沖やとぅれぃどれと 七はなれ見ユリ
奄美の雨上がりの美しい光景を歌った叙景詩。激しく降った雨が上がると、空は真っ青に澄み渡り、沖は静かに凪いで、遥か彼方の島々がくっきりと浮かんで見える。曲は優美で哀感に富み、しかも孤島の寂しさを感じさせて、胸に迫るものがある。
「長雲節」
♪長雲ぬ長さ しのぎさゆじ坂(びり)やしのぎ
さゆじ坂や 加那に思なせば
くるまとうばる くるまとうばる
奄美で最初に郷士格になった竜佐運は、愛人に逢うために険しい長雲坂をしきりに往復した。その情景を歌った恋歌。北大島では歌遊びの最後に歌われ、南大島では、正月の祝い歌として歌っている。同じ南大島でも瀬戸内町方面では、この曲があまりにも哀愁を帯びているため、夜が更けてからこの歌を歌うと、忌まわしい伝説のイマジョの亡霊が現れるとされている。
「花染め節」
♪花なりば匂い 枝振りやいらぬ なりふりやいらぬ人や心
奄美大島北部の竜郷、笠利地方で歌われる恋歌。花染めは、花模様で染めた美しい着物。表面上の美しさや、美人、遊女を譬える。人の美しさは心にあるという教訓を歌う。
「豊年節」
♪西ぬ口から 白帆や巻きゃ巻きゃきゆり
蘇鉄ぬドウガキ粥やはんくぶすせよーうとめましゅなろやい
薩摩藩は大島での黒糖生産量を上げるために、島中の畑をすべてキビ畑にしてしまった。税として収奪された残りの黒糖と、生活物資との物々交換の比率は、不合理極まるものであった、主食の米などを初め、あらゆる生活物資が賄えなくなった島民の窮乏は極度に達し、人々は切り開いたわずかな土地に甘藷を植え、蘇鉄から採ったドゥガキ粥で飢えのしのぐという、地獄のような生活を強いられた。困窮と絶望にあえぐ島民の、やり場のない哀愁の情を訴えた歌。
「飯米(はんめ)取り節」
♪何処ちがいもゆる色白女童
飯米ぬ足らだなしゅうてぃ飯米取りが
焼畑農耕を背景にしたほのぼのとした恋歌。飯米は食べ物のこと。主にサツマイモを指す。明治の時代まで奄美大島では、焼畑農耕が行われていた。男は鍬を担ぎ、女は背負い駕篭を背負った。そんな男女が道で出会い、とりとめのない話をしながら歩いていく。ほのぼのとした雰囲気があり、往時の農村風景が目に浮かぶような唄だ。
「ヒヤルガヘー」⇒「諸鈍(しゅどん)長浜節」
「舟の高艫(たかども)節」⇒「ヨイスラ節」
「ほこらしゃや」
♪東風(こち)の島便り懐かしさ勝(まさ)てぃ
しみじみ今宵奏でる詩
奄美大島南端にある加計呂麻島の諸鈍方面に残っていたかなり古い歌。改まった祝いの席で歌われる。諸鈍芝居幕開けの歌にもなっていて、祝典曲にふさわしい明朗闊達でリズミカルな曲。
「曲がりょ高頂(たかていじ)節」
♪曲がりょ高頂に ちょうちんぐゎばとぼち
うりが明かりに 偲でまた参れ
曲がりくねって高くなっている峠で、提灯(ちょうちん)をともして待っているから、その灯かりを頼りに人目を忍んできてくださいと歌う。歌の舞台は大島の竜郷の屋入峠といわれている。
「まんこい節」
♪歳やゆ(寄)て行きゅり先や定まらぬ
荒海に浮しゅる舟ぬごと(如)に
築地俊造の十八番。
「三京(みきょ)ぬ後(くし)」
♪三京ぬ後 山なんや一声(ちゆくい)鳴きゅる鳥ぐぁ
声や聞きゃれども 姿見りならぬ
三京は徳之島を代表する山。かつて里の人々にとっては異界の場所であった。
「むちゃ加那(うらとみ節)」
♪喜界や小野津ぬ 十柱(とば)十柱やぬ むちゃ加那
十柱やぬ むちゃ加那 アオサ海苔はぎがいもろ
いもろやむちゃ加那 いもろやむちゃ加那
悲しい物語歌。役人に操を許さなかったうらとみは、喜界島へ脱出。その地で結婚して娘を生んだが、大きくなった娘の加那は、あまりにも美しかった。村の娘達は加那に嫉妬して、アオサ(海藻)採りに行こうと言って彼女を海に誘いだし、崖から突き落とす。うらとみは悲しみのあまり、加那のあとを追って身を投げる。その罰があたって、喜界島に美人が生まれなくなったという。うらとみは母親ではなく、遊女であったとの説もあり、実際には島に美人も多い。
「巡りあんど」
♪打てぃば打ち欲(ぶ)しゃや 夜鳴りしょる鼓
寄りば寄り欲しゃや 加那がお側
八月踊りで歌われる曲のひとつ。
「ヤソレヌトエトエ(八月踊り)」
♪打てば打ち欲(ぶ)しゃ 良う鳴りしょぬ鼓良う鳴りょぬ鼓
寄れば寄り欲しゃ 汝なきゃが御側汝なきゃが御側
笠利町の佐仁集落は花ジマと言われ、歌と踊りが盛んなところ。20曲以上もある踊り歌のひとつ。
「やちゃ坊節」
♪やちゃ坊ちば やちゃ坊しまぬ無ん やちゃ坊
夜や里降れてぃ 昼や山ぬ育ち
やちゃ坊は手が付けられない義賊のこと。昼間は山陰に隠れ、夜になると里に現れて人家を荒らし回った。しかし盗んだものは貧しい人々に与えたり、辛い仕事を手伝ったりしたことから、島民からは親しみを持たれていた。親兄弟に死に別れ、小盗賊になった浮浪児・やちゃ坊たちに島人たちは寛大であった。
瀬戸内町方面では「御前風節」や「長あさばな節」などのように正月や祝日の祝い歌になっている。
「ヨイスラ節」
♪舟ぬ高どもに 座(い)ちゅる白鳥ぐぁ
白鳥やあらぬ 姉妹(おなり)神がなし
「舟ぬ高艫(たかども)節(ぶし)」とも呼ばれ、姉妹が兄弟の船旅を霊的に守護するというウナリ神信仰を歌っている。
「らんかん橋節」
♪大水(うくみじ)ぬ出(い)じて らんかん橋洗(あ)れ流らし
偲(しの)でぃ来(こ)ゆん加那や 泣しど戻る
元は漁師の労働の唄。現在では典型的な恋歌となっている。らんかん橋が、どの橋であるかは不明。大水が出て川エビのサイやタナガが流され、漁師の妻が泣いて戻ると歌われている。
「六調節」
♪目出度目出度の若松さまよ 枝も栄える葉も繁る
ここは重富もといはしの 吉野越ゆれば鹿児の島
沖縄のカチャーシーと同じように、飛び入り飛び入りで若者達は踊り出す。三線も高調子で弾きまくり、東の空が白むまで続く。奄美大島、喜界島、徳之島での歌遊びのおしまいは「六調」の踊りでお開きとなる。
「ワイド節」
♪ワイド ワイド ワイド
我きゃ牛ワイド 島一ワイド 三京(みきょ)ぬ山風 如何荒さあても
愛しゃる牛ぐゎに 草刈らじ うかりゆめウーレウレウレ
手舞んけ足(すね)舞んけ 指笛(はと)吹け 塩まけウーレウレウレ
我きゃ牛ワイド 全島 一ワイド
闘牛への愛情をワイド、ワイドと囃す。闘牛大会の野性的エネルギーを感じさせる。1978年、作詞中村民郎、作曲坪山豊。
奄美和光園のレントゲン技師・中村民郎は、徳之島出身の入園者から、帰れない島への望郷の念をこめた歌作りを依頼される。中村は坪山豊に作曲を依頼。坪山は闘牛を見た事がなかった。曲のイメージが湧かないと作曲は難しい。坪山は徳之島へ渡り、亀津の闘牛場で闘牛を観戦、その日の船で名瀬に戻る。翌日、突然、曲がひらめき、ものの5分でワイド節は完成したという。
「渡しゃ」
♪喜界や一間切り 大島や七間切り
中に橋掛けて 吾加那渡し浴しゃ
軽快な踊り歌だが哀調が漂う。もとは船漕ぎ歌。かつては奄美大島と喜界島との間の渡し舟を漕ぐ人たちが歌ったものだ。旋律は本土の民謡とよく似ている。
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posted by 暁洲舎 at 00:26| Comment(0) | 奄美・沖縄の民謡
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