「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)」
♪赤田首里殿内 黄金灯(とう)篭(ろう)下(さぎ)てぃ
うりが明(あ)かがりば 弥勒迎(うん)け
シーヤープー シーヤープー ミーミンメーミーミンメー
ヒージントー ヒージントー イーユヌミーイーユヌミー
首里那覇方面で歌われ、全島に広まったわらべ歌。“赤田にある首里殿内に黄金の灯篭を下げて、火がともされて明るくなれば弥勒(みろく)をお迎えしましょう”と歌う。弥勒祭をするのは三殿内(首里殿内、儀保殿内、真壁殿内)の中でも、赤田にある首里殿内だけだ。主に豊年祭で弥勒の扮装(ふんそう)で面をかぶり、扇をかざして歩き歌う。同系に八重山の「弥勒節」がある。歌詞の類歌では国頭村(くにがみそん)安波(あは)の「安波節」がある。
「汗水(あしみじ)節」
♪汗水ゆ 流ち働(はたら)ちゅる人ぬ 心嬉(うれ)しさや 他所(よそ)ぬ知ゆみ
他所ぬ知ゆみ ユイヤサーサー 他所ぬ知ゆみ
シュラヨシュラ働かな
1928年「今上陛下大典事業」があり、その一環として勤倹(きんけん)貯蓄(ちょちく)奨励(しょうれい)の目的で歌詞が募集された。当時、具志頭村(ぐしかみそん)仲座(なかざ)の青年団長をしていた仲本(なかもと)稔(みのる)(1904-1977)の歌詞が入選。宮良(みやら)長包(ちょうほう)(1883-1939)が曲を付けた。具志頭村(八重瀬町(やえせちょう))は1983年、仲本の生誕八十年を記念して歌碑を建立している。
「遊びションガネー」
♪面影(うむかじ)ぬでんし立たな うち呉(くい)りば
サーサーションガネ スーリションガネ
奄美から八重山に至る南西諸島の島々で広く歌われている。恋する感情をしみじみとした曲調に乗せて歌う。「ションガネー」は「仕様がない」。遊びは「毛遊び」など。
「アッチャメー小(ぐわー)」
♪サー今日どぅ 遊ばりるな 何時遊ばりがヒヤ
弾ちみそり 三線小乗してぃさびら
アッチャメー小 フンヌナー ヒャーヤートゥナーマク
「アッチャメー小」は「歩き舞い」で主に足の舞い。テンポの早いカチャーシーの三線リズムに乗って歌い踊る。青年男女が月明の夜に野原に集まって歌い踊る「毛(野)遊び」は、この歌を歌ってから始まる。奄美の沖永良部島にはこの曲に似た「あんちゃめぐわ」がある。
「安波(あは)節」
♪安波ぬ 真はんたや ハリ肝(ちむ)すがり所(どうくる)
宇久(うく)ぬ松下(まちしちゃ)や ハリ寝(に)なし所
国頭村(くにがみそん)安波のウシデーク(臼太鼓)から発生した儀礼歌。宮廷で取り上げられ、古典楽曲の一つとしても親しまれている。
「天親田(あまうえーた)クェーナ」
♪天御人(あまみちゅ)が始めぬ エー天親田ヨー カミヌアチャガユイ
天人がヨー イエイヤー 始めのヨー イエイヤーハローチヘイ
湧の口悟やい 中盛らち給りヘーサビタンド
スーライサー ユカローユカロー
天親田は本島南部、東海岸寄りの玉城村(たまぐすくそん)百名(ひゃくな)(南城市)の神田の尊称。沖縄の稲作発祥地と伝えられる。旧暦一月初午の日、受水(うきんじゅ)と走水(はいんじゅ)の泉がある親田で行う田植え行事には、百名、仲村渠(なかんだかり)の農民たちが集まり、神田の田植えを行ったあと豊穣を願ってクエーナを歌う。
「天川(あまかわ)節」
♪天川の池やヨ あぬ無蔵ヨ 近ゆて話さなヤー
シタリヨンゾヨ ハーイヤイヤサ
明治期後半に創作された雑踊りの一曲。若い男女のほとばしる愛情表現を動きの激しい振りで見せる。今日の形に整ったのは大正期になってからだ。創作当初から「早天川」「打組天川」「島尻天川」などと呼ばれて親しまれていた。「加那よー節」と「島尻天川節」で構成され「加那よー天川」と呼ばれることがある。曲の構成の巧みさと終始楽しいリズムに加え、大胆なあて振りと、両足の奔放な動きは打ち組み踊りの白眉。
沖縄音楽研究の第一人者・山内盛彬(せいひん)(1890-1986)は、作は芝居時代になって伊良波尹(いらはいん)吉(きつ)優(ゆう)(1886-1951)と首里まちゃーが合作。後に渡嘉敷(とかしき)優、屋部四つ竹仁王等が改良し、登場人物は初め三人のコミックであったが、後に五人となり終に二人天川となったという。
「雨乞い歌」
♪雨給れ天加那志 ハリー雨や天から降いとすハリー
ジャンナー ジャンナーヨー
津賢島では日照りが続くと雨乞いの儀式が行われる。神女たちが祈願したあと、村人が雨乞い歌を歌いながら総出で円陣をとって踊り、神女が水を振りかける儀式を行う。
「あやぐ(綾句)」
♪道ぬ美らさや 仮屋ぬ前 あやぐぬ美らさや 宮古ぬあやぐ
イーラヨーマーヌヨー 宮古ぬあやぐ エンヤラースーリ
「伊江島物語」
♪(女)加那兄小あらに 十日二十日見ちょてよ
国頭に渡て今戻らんせ 確かに美童尋(と)めてうちきて
他所島ぬ花に 思い惹(ひ)かされてよ 島に居る我んや 胸焼かすんな
ジントー汝や 畜生者やさ
(男)恨みてんくるな 旅ぬ上ぬ慣れやよ
思るままならん 今でなとさにたさんすなよ
勘違いすなよ……
沖縄で最も人気のある大衆歌劇「伊江島ハンドー小(ぐわ)」。加那は愛する人の呼び名で主人公は薄幸、薄命の美女だ。その哀歌からテーマをとっている。
「伊計(いち)離(ばな)り節」
♪(女)行きば伊計ヨ離りヨ ハリ戻て浜ヨヘイヨ平安座ヨ
(男)平安座前ぬヨ浜にヨ ハリ山原らがヨ ヘイヨ着ちょんヨ
「意見(いちん)あやぐ」
♪およそ世間(しさん)ぬ産(な)し子ぬ達(ちゃ)
銭金儲(もう)きてぃ荒使(あらち)に さんぐとう細(くま)しく使(ちか)みそり
荒使にしぃねえ 泉水(いじゅん)ぬ水(みじ)んひなゆるたみし
「伊佐(いさ)ヘイヨー〜デンサー節」
♪(男)伊佐ヘイヨー 汝(いっ)たー家(や)や何処(ま)ぬまんぐらが
(女)道ぬ辻ゆうなぬ下(しちゃ)どう 伊佐ヘイヨーヤーラシクイクイ
<デンサー節>
(女)鶏歌たば里前(さとうめ)何(ぬ)がい急(す)じみせる
限りせる鐘ぬ鳴らわ 行(い)もり里前……
宜野湾市伊佐の民謡。思い合う男女の仲は海を隔てて思うにまかせないと歌う。「デンサー節」では、忍び逢う二人に、世間という荒波が横たわると歌い、遊女と客の哀別を嘆く。
勝連半島の南端から浜比嘉(はまひが)島、浮原島、平安座(へんざ)島、宮城島、伊計島と小島が連なっている。これらの島々は、勝連半島から海中道路で結ばれ、1997年、浜比嘉島に橋が架けられ沖縄本島と陸続きになった。
「いちゅび小節」
♪遊(あし)び好(じ)ちやてるくま通て遊ぶ 我が遊び行かば笑て呉るな
サー思やがちょんかなしがちょーうん
「糸満(いちまん)姐(あん)小(ぐぁー)」
♪我達糸満海ぬ業二才達 うち揃てサバニくなびて
漕じ出じゃち行きば 沖や波静か凪ぬ渡中……
<伊計離れ>
花染みによ深くよ ハリ情うみよヘイヨー染みてよ
農民の労働歌。「稲摺り節」が大漁歌風に歌い替えられた。躍動感あふれる「糸満姐小」から、一転してスローテンポの「伊計離れ」に移って曲は終わる。
「芋掘(うむふい)ナークニー〜山原汀間当」
♪(男)芋堀いみ姐小 何月が芋や
(女)芋や七月小 我んね十八
芋や掘てあしが上ぎる人うらんよ……
<山原汀間当>
(女)サー城山登て 里が島見りばヨ 漁り火ぬ美らさ思や小ヨ
里がやゆら 十七、八頃花ぬ盛い
(男)サー無蔵見りば十七月 見りば清(さや)か今咲かん花ぬナー
何時が咲ちゅが アンナイカンナイ
沖縄を代表する抒情歌。歌の歴史も古く地域的広がりが大きい。哀感に富んで優美。即興の世界が豊かで歌詞が生活に密接して多彩である。本島ではナークニーをいかに習熟し、個性的に表現できるかで歌い手の評価が決まる。
「いんちゃ苧(うー)」
♪いんちゃ苧やヨー うみばヨー 我どの為ヨー なゆい
サーヤスラジャンナエー ユイサーサティムスーラヘー
しとぅの家のヨー 長苧ヨー 我為ならみ
サーヤスラジャンナエー
祭祀舞踊のひとつ。ウシデーク(臼太鼓)の歌。渡久地の臼太鼓は、旧暦7月17日に始まるシヌグ行事(海神祭)の最後の日に行われる。
「腕けらし」
♪腕けらしけらクラサーサーし 腕針突拝まヨークラサーサー
前胸ゆ開けみそりユイサー 玉乳拝まアリガチムチャギナ
具志堅の祭祀舞踊のひとつ。ウシデークの歌。
「海ぬチンボーラ」
♪海ぬチンボーラ小(ぐわ) 逆(さか)なやい立てぃば
足(ひさ)ぬ先々あぶなさや 仕度ぬ悪(わ)っさや
すばなりなりサー 浮世ぬ真ん中
ドサドサドッサイ シマヌヘイヘイヘイヘイ
沖縄本島の北部、東支那海に突き出した本部半島がある。その沖合いにある伊江島で生まれた民謡。チンボーラとはタニシの形をした巻貝のニシ貝のこと。尖った方を上にして立っていて、踏みつけると足の裏を傷つける。
チンボーラはおチンチン、チンポ(男性器)と同意。立つは勃起の意。貝を引き合いにして、世の中を渡っていく際の教訓を込めて歌っている。
「うりじんクェーナ」
♪うりじみが初が苧ウネ 若夏が真肌苧さウネ
美らヨー 美らヨー 美らヨー
真竹管作やいウネ 真竹えび作やいさウネ
美ら美らヨー 美らウネ 美らヨー美らヨー
苧麻(からむし)の栽培から糸つむぎ、機織り、着物仕立ての過程を歌う。
「美わしの琉球」
♪八重の汐路に朝虹たちて うるわしの琉球 嗚呼(ああ)憧れ遠く
残波岬のアダン葉に 旅の心若き心 南風はそよぐよ琉球
「江差(えさ)節」
♪エイヤー エイヤー嘉例(かり)吉(ゆし)ぬ遊び エイサーヤ
打ち晴りてからや サー晴りてからや エイヤーエイヤーエ
エイヤーエイヤー 夜ぬ明きて太陽(ていだ)ぬエイサー
上るまでんサー 上るまでん エイヤーエイヤーエ
嘉例吉は縁起がよい、めでたいとの意。
「大城(うふぐしく)クェーナ」
♪エー大城ぎれーなー エーコーイーナー
エーぎれーたる御まし内 エーコーイーナー
エー縄掛きて土引く エーコーイーナー
エー糸掛きて綱引く エーコーイーナー
エー御縄引ちゃる真中 エーコーイーナー
エー十尋んぎれーなー エーコーイーナー
クェーナは沖縄古謡の一ジャンル。御詠歌調で呪術的要素が濃い。内容は雨乞い、五穀豊穣、船造り、航海安全、家造り、布織りなどの予祝である。この曲では御殿(王子や按司の家)建築を歌っている。
「かいされー」
♪若さ一時ぬ通う路ぬ空や 闇ぬ坂(さく)ひらん車平原ジントーヨー
別りてや行ちゅみ何に情かきが 歌に声かきてジントーヨーうりど情
毛遊びの歌。奄美では歌掛け。太陽が落ちると若者達は浜辺や野原に集まり、東の空が白むまで歌い踊り語り合った。男たちは三線を肩に砂糖酒を持ち、娘たちは首飾りをして爪に紅を差した。「かいさーれ」とは美しい。「じんとーよー」は全くその通りの意。歌詞は歌者によってさまざまある。旋律は八重山で広く親しまれている「しゅうら節」と同系。八重山の歌が沖縄に伝わり広まったもの。
「かぎゃで風節」
♪今日の誇らしゃや 何にじゃな譬(たてい)る
苓(ついぶ)で居る花ぬ 露(ちゆ)ちゃたぐとぅヨーンナーハーリ
苓で居る花の苓で 居る花の露ちゃたごとぅヨーンナー
祝宴、芸能公演会などの幕開けに演唱される。国王の前で演唱したところから「御前節」ともいう。“今日のうれしさは何に譬えられようか。つぼんでいた花が露に出会って花開いたようだ”と、味わいを最大限に引き出すために長く伸ばして歌う。
踊りは古典舞踊中の「老人踊り」の一つだ。翁(おきな)と媼(おうな)が登場して、翁が感謝の口上を述べ「かぎやで風節」で国家安泰、延命長寿、五穀豊穣の願いを表し、喜びの振りでうやうやしく表現していく。
昔、琉球の王が重い病にかかった。余命いくばくもないと悟った王は、枕元に家臣たちを呼び寄せ、世継ぎの王子をもりたてて国の安泰を図れと遺言する。ところが、この王子は口がきけなかったので、王の死後、国頭(くにがみ)親方(うぇーかた)と城間(ぐすくま)親方(うぇーかた)は王子の腹違いの弟を王にたてようと画策する。先王の遺言を守って王子の側についたのは大新城(うふあらぐすく)親方(うぇーかた)ただひとりであった。
窮地に立たされた大新城親方は「ひとこと何かおっしゃってください。このままではわたしは腹掻き切って先王にお詫びするしかありません」と刀を腹に突き立てようとした。すると「待て大新城!」今までひとことも口をきかなかった王子が初めて声を出した。飛び上がって喜んだ大新城親方が、踊りながら即興で詠んだのがこの歌だという。
これが「老人踊り」となり、後年「かぎやで風」の曲名が使用されるようになった。中国から来島した冊封使(さくほうし)と、国王の御前で感謝と祈りを込めて踊られた歌詞と振りが今日に継承されている。
「カチャーシー〜早嘉手久節〜唐船(とうしん)どーい」
♪<嘉手久節>
嘉手久ヨー 恩(うみ)なびがヨー
(ハイヤーテントルルン テンシトリトテン チャガモーヤー
舞イヌ美(ちゅら)ヤ サテン トルルン テンシトリトテン)
<唐船どーい>
唐船ドーイ さんてまん 一散走エー ならんしゃユーイヤナ
若狭町村ぬサ 瀬名波ぬタンメー ハイヤセンスルスリセンスル
カチャーシーは祝宴の場や八月踊りエイサーのフィナーレなどで見られる。歌い方もふだんの時よりキーを上げ、指笛を盛んに吹き鳴らし、三板を打ち鳴らして気分を高揚させて乱舞する。祝宴の場や八月踊りエイサーのフィナーレなどでカチャーシーによる乱舞が見られる。
「唐船どーい」は、かつて海洋独立国家であった琉球の港の情景を歌っている。中国から無事帰還した船は、一斉に走り寄った出迎えのカチャーシーの大歓喜に包まれたものだった。
「勝連(かちりん)節」
♪サーサー勝連ぬ島や ハーリガ又 勝連ぬ島や
イヤヨ通い ぶさあしがよ無蔵よ
「嘉手久(かでぃーくー)」
♪嘉手久ぬヨー 恩(うみ)なびがヨー ハーイヤ テントゥルルン
テンシトゥリトゥテン チャガモーヤー
かみてみぐりば テントゥルルン テンシトゥリトゥテン
カチャーシーの歌。自在な節回し。
「加那(かな)ヨー節」
♪加那ヨー 面影(うむかじ)ぬ立ちねヨー 加那ヨー 宿に居らりらん
でぃちゃよ押し連(ち)りてよ 加那ヨー 遊(あし)でぃ忘(わし)ら
軽快に男女の情愛の交歓を歌った民謡。加那ヨーとは加那という愛しい人に対する呼び掛け。後半に「早天川」を組み合わせて「加那よ天川」という舞踊曲として披露され「毛遊び」の場で好んで歌われる。即興的なアングァーモーイ(田舎娘の踊り)の形で踊られてきた。
「毛遊び」では、月夜に野原で若い男女が集まって歌い踊り、語り合い、愛を交換しあう。思いがつのってじっとしておられないから、うち揃って遊ぼうという歌詞に始まり、女性が手巾(てさじ)、男性が腰帯を互いに愛のしるしとして交換したりするうちに愛が高まっていくと歌う。
「果報節」
♪神からがやたら結(むち)ばりてぃ縁や
浮世荒波ん渡てて行(い)ちゅん 二人や此の世ぬ果報は者
「嘉(か)例(り)吉(ゆし)の船」
♪嘉例吉ぬ 船に嘉例吉は乗して サーユイヤユイサー
旅ぬ行ち戻い 糸ぬ上から嘉例吉船や
海上穏かサー糸ぬ上から……
水平線遥かに消えていく船に、どうぞ無事であって欲しいと呼びかける。夫の留守を守る女性が歌った。出港の夜には「出船祝」、出港後三日目に「三日ぬ祝」として歌う。この歌詞は「出船祝」のものだ。旅立った人の無事を祈って歌うものを「旅グェーナ」という。
女性はもともと霊力(セジ)が高い存在であり、姉妹には兄弟を守る霊力があるとする「オナリ(姉妹)神」信仰があり、旅の無事を祈るのは母親や妻である場合が多い。
「きざみ節」
♪面影と連りて ままでや来しが
情ねん無蔵 知らんどあがやー情ねん
「喜如嘉のウシデーク」
♪臼太鼓ヨー踊りハリー直ちにヨー
とぅみばハリー及ばらぬ御主がや
拝む嬉しやハラエイシャーハリー及ばらぬ御主がや
拝む嬉しやハラエイシャー
本島北部、大宜味村喜如嘉の祭祀舞踊。臼太鼓(ウシデーク)の歌。
「きーぷぞー」
♪チェレンチェレンチェレンチェンチェン
チェレンチェントゥルリンテンテントゥルドゥンテンドロドンテン
木ぷぞーのしゃくのぬぬ情あゆがヨー 夜の夜ながとん突き飛ばせ
口三線に乗せて歌う。伊江島に伝承。「きーぷぞー」は木製の煙草入れ。野良仕事の帰りに、集団できーぷぞーを叩いたり、鍬の柄を叩いたりして口三線と合わせ、歌い手は好きな歌を歌った。「毛遊び」でもよく使われた。メロディーは「ナークニー」と同じ。
「兄弟(ちょうれー)小(ぐゃ)節」
♪行逢(いちゃ)たるや兄弟小 行逢たるや友(どうし)小(ぐゃ) 寄合(ゆらぁ)て物語(むぬがたい)でぃしち遊(あし)ば
行逢りば兄弟 何(ぬ)隔(ひら)てぬあが語れ遊ば
イチャタルチョウデーヌ ウヒダティヌアガカタレアシバ
前川朝昭作詞、屋良朝久作曲。「どうちょうでい(友兄弟)」はごく親しい友人。
「京太郎(ちょんだらー)早口説」
♪さてむうちゆやあさましや サテムウチユヤアサマシヤ
みぐりみぐりとあらたまる ミグリミグリトアラタマル
京都から流れてきた太郎の意で、本土の門付け芸の流れをくむ。明治以前まで首里を根拠として島内をめぐり歩いた。「早口説」「御知行」「馬舞い」「鳥刺舞」の四段で構成されている。現在、沖縄市字泡(あわ)瀬(せ)と宜野座村字宜野座(ぎのざ)に伝承されている。
沖縄市泡瀬(本島中部)に残る京太郎は、1906年に首里の寒川芝居から習得して演じたのが始まりで、それ以来、村あそびの劇の中で演じられ今日に至っている。まず「早口説」を輪唱しながら出て来て舞台に並ぶと、太鼓打ちが「京の下り」を歌い、次に「御知行のうた」、その次に二人の馬舞者が代わるがわる文句を唱えながら馬を踊らせ、最後に「鳥刺舞」を演じて終る。本土系の芸能が沖縄に輸入された典型的なものだ。
「国頭(くんじゃん)サバクイ」
♪サー首里天 加那志ぬ ヨイシーヨイシー
サー御材木 だやびる ハイユエーハーラーラー
サーハリガヨイ シーサーハリガリーリー
サーイショショショーショ イーイヒヒヒーヒーアーアハハハーハー
沖縄を代表する木遣り歌。首里城の造営改築に、国頭間切奥間の後方にある与那覇岳八合目付近のナゴー山(ナグ山)から木材を伐採し、鏡地浜まで運んだ。木遣りと運搬のこと。大事な材木を皆で力を合わせて運ぼうと歌う。サバクイは捌理、捌庫理などと表記される山林担当の下級役人のこと。
「国頭ジントヨー」
♪浦々ぬ深さ 名護(なぐ)浦ぬ深さよ 名護ぬ みやらびぬジントヨー
思(うむ)い深さジントヨー思い深さ
国頭は沖縄本島の北部を指し、その中心地は名護である。名護の浦が深いのと同じように、名護の女性は情が深いと歌う。「じんとーよー」は「真に本当」の意。不便なところでも二人で過ごせば花の都であり、永遠に心変わりしないことを誓おうと歌う。親しみ易い旋律を持ち、曲想もよい。
「久米阿(くめあ)嘉(か)節」
♪阿嘉の鬚水やヨー 阿嘉の鬚水や
上んかいど吹ちゅる ヨーヨイサー ヨイヨイサーヨイ
かまど小が肝やヨー かまど小が肝や
上り下りウネサトゥニ ヨイサーヨイヨイサーヨイ
久米島の北海岸にある阿嘉集落の背後に、断崖を流れ落ちる小さな滝がある。それが北風に吹き上げられて水煙となる光景が、老人の鬚に似ているところから、この滝を鬚水と呼んでいる。この情景をとらえて恋歌としたものだ。
「軍人節」
♪<つらね>
天ぬん知りみそち月ん知りみそち 里が行く先や照らち給(たぼ)り
<歌>
(夫)無蔵とぅ縁結(むし)でぃ 月読(ゆ)みば僅(わじ)か
別りらねなゆみ国の為や 思切りよ思無蔵よ
(妻)里や軍人ぬ 何故でぃ泣ちみせが
笑てぃ戻みせる 御願さびら国の為しちいもり
普久原朝喜が作詞作曲した。「つらね」は琉球歌劇などで謡われる琉歌の長歌形式。八八音で続くものをいう。
無蔵は男から女へ、里前は女が男へ、愛人を呼ぶ言葉。戦地に赴く夫との別れの悲しさを歌う。1931年「出征兵士を送る歌」として世に出た。この年は満州事変勃発の年であった。
世界恐慌の影響で日本経済は深刻な不景気にみまわれ、軍部らの間には満州を植民地化して、危機をのがれようとする動きが強まっていった。一方、中国では二十一か条の要求以来、排日運動が高まっていた。こうしたなか、関東軍が奉天(瀋陽=シェンヤン)郊外で鉄道爆破事件(柳条湖事件)をおこして強引に開戦。やがて関東軍は戦線を拡大して全満州を占領。以後、日本は破滅の道をころがり落ちていく。
歌詞に戦争反対の言葉は入ってないが、厭戦的(えんせんてき)心情(しんじょう)に貫かれている。普久原はこの歌で憲兵の取り調べを受けたという。
「県道節」
♪県道道作(ちゅく)てぃサヨー 誰がためになゆが
世間御諸人ぬサー 為(たみ)になゆさサヨ 為になゆさ
県道作りの悲哀を訴える労働歌。別名「監督節」とも呼ばれていた。1909年、沖縄各地の郡道は県道に編入され、整備が始まった。大正末から昭和初期にかけて道路工事の現場でストライキが発生。この歌はそんな社会情勢を背景に生まれた。同一メロディーに「副業節」がある。発祥に二説があり、ひとつは昭和初期、馬(ば)天(てん)から佐敷(さしき)方面の県道工事の頃に生まれたというもの。もう一つは1932年の塩屋一周県道工事の際、大宜味村(おおぎみそん)大保(たいほ)で生まれたとする説である。
「恋の花」
♪庭や雪降ゆい梅や花咲ちゅい
無蔵が懐や真南風ど吹ちゅる
ぬがし我が庭や梅や咲かなそて
毎夜鶯ぬ通て鳴ちゅうが波之上に行ちゅみ
住吉に行ちゅみなりば薬師堂のうらやましあらに
何時の時代、いかなる所でも人は恋をして心ときめかし、生きる喜びを謳歌する。恋人の周囲には、いつも花が咲き鳥が鳴いている。
「米(のえ)ぴき歌」
♪ヨイシー ヨイシー ハイヨイシーヨイシー
天河原ヨー ハイナーハリコーナー ヨーハイナー
東ぬ家人に 負きゆなヨー
サー蔵屋ぬ家人に負きゆなヨー
港ぬ伊集ぬ木夜明 き あっさぬ朝曇り
ユリマーサイハリカナイソ サハーリヨーヌ
ユイマーサイハリマーサイ
ハリカナイソ サハーリヨーヌ ハリマーサイ
ヨイシーヨイシー ハーヨイシーヨイシー
米引きばる米喰んどー
ヨイシーヨイシー ハーヨイシーヨイシー
ハリマーサイ ハリカナーイソサ
ヨイシーヨイシー ハーヨイシーヨイシー
米を臼で挽いて籾と籾殻に分けるときの作業歌。挽き臼は二人で挽く。1902年生まれの金城カマドは、金武町屋嘉区に住み、2002年にはカジマヤー(数え年97歳のお祝い)で区内をパレードした。
「サイヨー節〜伊集早竹田」
♪サイヨサイサイヨ サイサイヨ サイサイヨサイ
でちゃよ押し連りて 春の野に出じてよー
春の野に出じてよー サイヨ サイサイヨサイ
美らし匂袖に移し 遊ば移ち遊ばよ
サイヨサイサイヨ サイサイヨ サイサイヨサイ
<伊集早竹田>
蘭ぬ匂心(ぐくる)朝夕想みとまりよ シタリヌヨーンゾヨー
何日までん人ぬ ヨーハリ飽かぬ如に
旧暦の盆踊りでよく歌われる「サイヨー節」と古典楽曲の「伊集早竹田」を組み歌にしている。
「三月遊び(流り舟)」
♪泊高橋によ 銀ジーファー落ちよー 何時か夜明きて とめて差すら
落ちゃしや銀 とめたしや黄金よ しじま乙樽がよ 新ジーファーあらによ
三月小なりば 心浮さりてよ 下ぬ浜下りてンナ 拾てぃ遊ばよ
旧暦三月は、一年のなかで最も過ごしやすいウリズン(若夏)の季節。三月三日は全国的に邪気、災厄を払う祭が行われる。沖縄ではこの日の行事をサングァチサンニチ、サングァシアシビ、サングァチャーなどと言って、ヨモギ餅を作り、火の神や仏壇に供えて健康祈願をする。娘たちは禊の意味を込めて浜に下り、潮干狩りなどをして遊ぶ。那覇では舟遊びをして騒ぐこともあったという。この歌はこうした行事の楽しみを歌ったもの。
「獅子舞」
汀良町の獅子舞は、旧暦八月十五日の十五夜に上演される。使用する楽器はドラのみである。
「時代の流れ」
♪唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世
みじらさ変たる 此の沖縄
昔銭ぬ計算(サンミ)ぬん 一貫二貫どぅさびたーしが
世の中変われー 変るどとぅ 銭ぬサンミンまでぃ変てぃ
戦後の変わりゆく沖縄の世相や風俗を、面白く歌う。1960年頃、嘉手苅林昌が作詞。曲は古くからある「花口説き」。品物のように唐の世から大和の世、大和からアメリカ世に変わり行く沖縄の悲しみを歌う。
嘉手苅林昌は首里山川でバスを待っていた。そこへ孫をあやしながら二人のおばあさんがやってきて腰をかけ、世間話を始めた。なにげない話が面白く、嘉手苅はそれをメモして歌に乗せたという。
「しち踊り」
♪城から下りてさん時のかぎり 誰にゆくされサーユイサーてヨー
なまでむちゃがりヨー 誰にゆくされサーヌマサミ
誰にゆくされてヨー なまでむちゃがりヨー
祭祀舞踊の一つ。ウシデークで歌われる。旧暦七月に行われるシヌグやウンジャミと呼ばれる祭では、婦人による集団が踊る。
「七月エイサー」
♪エイサー エイサー スリエイサー エイサースリ
七月よ巡らば酒給れ
サーヒャルガ エイサークラ エイサークラクラ
旧暦七月十五日(盆の送り日)の夜、各家で精霊送りをする。その後、青年男女四、五十人が村の神・アシャギの庭に集まり、円陣を作って踊る。かつては芭蕉着に藁帯、藁タスキ、藁鉢巻きで素朴に踊られたが、現在は装束は色彩的で、踊りにもいろいろと工夫が凝らされるようになった。
エイサーは主として沖縄本島中部に盛んで、現在はコンクールも恒例行事となっている。本島の北部では婦人だけによるエイサーがある。
「してな節」
♪天下泰平 治まる御代は 弓は袋に剣は箱に
治まる御代こそ 目出度けれ
コーヤナー シテナシテナ ユシテナヨイヤナー
本土から伝えられた民謡。曲名は囃子言葉にシテナを繰り返すことからきている。伊江島にはこのほかに「様は」「よいよい節」「見れば」「次郎が」「吉田節」「殿の御門」など、本土から伝わった民謡がある。
「下千鳥(さぎちじゅや)」
♪無情ぬ忌む嵐 誰に引かさりて 我肝あまがすが 朝ん夕さん
共に泣くむぬや 浜の千鳥
沖縄にはさまざまな千鳥の旋律がある。出稼ぎ男の望郷の思いと哀別の悲しみを歌う。嘉手苅林昌の名唱によって広く知られる
ようになった。大城は嘉手苅林昌の弟子で永く歌の相方を勤めた。
「十七八節」
♪ゆすずみのなれば あいち居られらぬ
玉黄金使のにゃ 来らとめばヨー
琉球古典音楽のうちで最も難曲とされている。恋の歌とする説と仏教歌とする解釈がある。
「収納(しゅぬ)奉行(ぶじょう)」
♪いぐましゅる収納奉行 何時や召んせが頭ぬちゃー
今日どぅ浜比嘉から御越し見せる
旧藩時代の租税取り立て役人が、島々や村々をまわって督促する様子を歌う。明治以降の沖縄芝居で創作されたアングワーモーイ(娘舞)の一つ。踊りには収納奉行がやってきたときの島人の動きや、奉行の面倒を見る役目の娘達の様子が軽妙に歌い込まれている。
裾の短かな着物をきて、帯をきりりとしめた娘が、花染手巾をうなじから両肩にかけて踊る姿に、健康な村娘の明るさと清純さが表現されている。
「十番口説」
♪さてむ此の世に生まりたる 人間朝夕ぬ仕業事(しわざぐと)
委細に話さわ聞ちみしょり 先(ま)じゃ一番命あり
命ぬありわど何事ん 思ておるぐと叶わゆる
二番士(さむれ)ぬ第一や 手墨学問良く習て
親に孝行名代(めでえ)しゅし……
くひな十(と)てんぬ意見ぐと 老いて若さん聞きみしょり
朝夕忘るな上下(かみしも)ん
序と結びで十番を挟んで十二連とする口説き。琉球詞型の八八八六(さんぱちろく)でなく、七五調の大和ぶりである。「さあ、この十の教訓を老いも若きも忘れずに、肝に銘じておくんだぞ」と歌う。
「述懐節」
♪拝で懐かしやヨー まずせめてやすがヨー
別れて面影のヨー 立たばきやすがヨー
琉球古典音楽の楽曲のひとつ。二揚(にあぎ)で調弦される。二揚は三味線の二上りと同じで叙情性が強く、恋慕や哀切の情を切々と歌う。さみしい曲趣を持つとことから、組み踊りや歌劇の忍びの場面で歌われることが多い。
「首里節」
♪ませこまで居ればここてるさあもの
ハイヤーマタハナヌサトゥヌショー
押す風と連れて忍で入らな
サトゥガバンバゥクル
湛(たん)水(すい)親方(うえーかた)の工工四(くんくんしー)(楽譜)に納められた琉球古典音楽七曲の一つ。首里城内の大奥にあって、恋することを禁じられている女官達と役人との秘められた恋情を歌ったものだ。
琉球古典音楽は琉球王府で編纂され、王の前で演奏されたために、島うたや民謡とは異なり、荘厳で洗練されている。王府では地方に赴く役人に民謡の採取を命じ、それを首里城に持ち帰って洗練し宮廷音楽の中に取り入れた。
「白骨(しらくち)節」
♪白骨になやい 白浜の砂と
共によ 骨や曝さりて でんし
離すなよ 死出ぬ旅に 行くまでや
儘どや一道なて 言ちゃる云語れや
固く信じてど 命ん捨てたしが
里やよ肝変わて 死ぬる命惜しで
懸りわん離す 縋りわん押し離ち
無情によ我一人 荒波の中に捨てて行方無らん
歌詞の主人公は、骨となって荒波にさらされる女性である。女性を捨てた里という名の男も行方不明だと歌う。
「白雲(しらくむ)節」
♪白雲ぬ如に見ゆる あぬ島に
翔びて渡てみ欲(ぶ)さ羽(はに)ぬ 有とて羽ぬ有とて
飛ぶ鳥ぬ如に 自由に翔ばりてれ
毎夜(めえゆる)行(いいん)じ逢(いちや)て語れ すしが語れすしが
我が想(うむ)る里や 白雲ぬ如に
想う人への切ない心情を嫋々(じょうじょう)、情緒(じょうちょ)纏綿(てんめん)と歌う沖縄民謡屈指の名曲。
「白浜節」
♪我んや白浜ぬ 枯れ松がやゆら
春風や吹ちん 花や咲かん
二人やままならん 枯木心
「新安里屋ユンタ」
♪サー君は野中の 茨の花か サーユイユイ
暮れて帰れば ヤレホニ引き止める
マタハーリヌ ツィンダラカヌシャマヨ
星克作詞、宮良長包作曲。ツィンダラは可愛らしい、カヌシャマは男性からみた恋人「愛(かな)しき人」の意。
「新里前(しんさとめ)とよ」
♪(男)さやかに照る月に 無蔵が面姿
見りば語れ 欲(ぶ)さ胸(むに)ぬ思い
(女)月見するごとに 思出(うびじゃ)すさ里
波之上ぬ彼方 忘り苦りさ
波之上は那覇の花街。無蔵は男から女、里は女が男への愛する人の呼び方。月明かりのもと、逢い引きして語り合う男女の姿が浮かぶ。
「新殿様節(だるま節)」
♪(女)誰連りて 今宵月ん眺みゆが
面影や立てて 一人さだみ
(男)我が自由ぬなりば 無蔵や自由ならん
ぬがし此ぬ世界や かにんあゆら
他人の目を気にしながら、愛する女のもとに忍んでくる切ない思いを歌う。
「砂(しな)持ち節」
♪阿良ぬ砂浜やヨー 持てぃばちぢられてぃ
たんでぃ西泊ハイヨー 持たちたぼり
ゼイサーゼイサーゼイサー
湿地帯に畑を持つ人たちが集団で砂を運んだときの作業歌。
「祖慶(すーき)カンナー(漢那)」
♪祖慶漢那 金武からやみたやびる
我ソーキン小(ぐわ) 買(こ)うみそーれ
汝がうぬソーキン小 曲いぬ悪さぬ
我ミージョーキー 買うみせーみ
物を頭に載せて売り歩くカミアチネーの歌。惣慶、漢那は本島宜野座村の地名。竹細工が盛んでバーキ(ざる、篭)などを生産する。宜野座村から本部半島の瀬底島に渡り、本島中部の勝連、照間を巡って沖縄市の来越間切の上地、山内、諸見里を経由して、遠く本島南部の糸満にまで至る販路を歌う。
かつて山里や諸見里は山桃、糸満は魚というように、各地に特産品があり、カミアチネーをする人々は遠くの村まで出掛けて売り歩いていた。
「打(たー)花(ふぁー)鼓(くー)」
♪ハーウティ チャーシン ハーハー ウティユーチャーイティ
ジンエージンク チャイニー ダイチャンターチューン
チューンムーン ワンエーワン チャーシンハーハーナーハーウー
那覇の久米村で演じられていた中国伝来の芸能。現在は中城村字伊集に伝承されている。中国服を身につけ、ワンシー(ドラ)、太鼓、ガクブラ(明笛)、ブイ(拍子木)などを持ち、三線に合わせて演技する。久米村では毎年、明倫堂でサンルーチュウ(三六九)という学芸会を催し、王府の高官や薩摩の在番奉行を招待。そのあとの宴席で余興芸能としてこの打花鼓が演じられた。
いつごろ伝わったかは定かではなく、所作も独特で歌詞や曲の意味は不明。伊集では旧暦八月十五日に演じられてきた。
「多幸(たくう)山」
♪多幸山ぬ山猪 驚くな山猪 嘉名ぬ高波平 サヨ山田戻い
いった山田や 何さる山田が 我が身ん蔵波 出じんちゃせじんちゃせ
チサキヤリヤリ チサキヤリヤリ
(取やい投ぎりばくみがんかちみてぃ十日ん二十日んくんぱとーれ)
本島北の国頭郡の民謡。沖縄のカチャーシー曲の一つ。言葉遊びで地名を歌い込み、言葉尻をとらえて、ときには猥雑な軽口を交え、三線の早弾きとアドリブの早口を楽しむ騒ぎ歌。
読谷村喜名から数キロ北上すると、真(ま)栄田(えだ)岬(みさき)の南東側から見て北西にのびる険しい山並がある。その北端に一段と高くなった山が多幸山。真昼でも薄暗いほど木々が生い茂っており「フェーレー(山賊)の出る場所」として人々から恐れられていた。この山の頂上近くにフェーレー岩と呼ばれる切り立った岩がある。その昔、その岩の上にフェーレーが現れて、ひっかけ棒で多幸山越えをする旅人から持ち物を奪ったという。
「ダンク節」
♪ダンク節習ゆんで 名護(なぐ)東(あがり)へ通(かゆ)てよんさ
通て珍(みじ)らさや ダンクヨー ダンクスーリヌ
ヤレコノ ダンクヨーダンク
毛遊びの歌。夕暮れ時に、仕事を終えた若者達が海辺の広場に集まり、円座を作って夜が白むまで歌い踊った。険しい山道を越えてまで、習いに行くほど面白い「だんく節」がどんなものだったか不明。軽快なテンポでダンク、ダンクと囃していくこの歌の節回しは、多くの人々に愛され、沖縄歌劇のなかでも歌詞を替えてよく使われている。
「だんじゅかりゆし」
♪だんじゅかり(嘉例)ゆし(吉) やいらでぃさしみせる
船ぬ網取りば 風やまとむなんちゅう走(はい)いせ
なんちゅう走いせ ササ ゆう走いせ
沖縄の祭事や、祝いの座で欠かすことができない歌。船出を祝い、航海の無事を祈る。「だんじゅ」は「ほんとうに」「いかにも」、「かりゆし」は「縁起がいい」「おめでたい」の意。「かりゆし」と言葉を発することで船の魂、霊力が航海の安全をさせてくれるという。
沖縄の人たちは移民や出稼ぎ、出征の際、この歌で見送った。「旅歌」とも呼ばれている。「なんちゅう走いせ」は何とよく走るよ。「ゆう走いせ」はよく走る。三番まではゆっくりと歌い、その後は一転して早弾きに移る。
「谷(たん)茶前(ちゃめ)」
(谷茶前)
♪谷茶前ぬ浜によ スルル小(ぐわ)寄 てぃてぃんどうヘイ
谷茶前ぬ浜によ スルル小寄 てぃてぃんどうヘイ
ナンチャムサムサリ アングワソイソイ
(伊計(いち)離(ばな)り)
♪勝連(かちりん)ぬヨ島や ヨーハリ通(かゆ)い欲(ぶ)しゃ ヨハイヨあしがヨ
映画「ひめゆりの塔」で広く知られるようになった。本島中部西海岸にある恩納村谷茶で生まれた歌。谷茶は長く美しい白浜がある半農半漁の集落。
およそ二百五十年も前のこと。琉球王が領内御幸の途中、近くの万座毛に休息した際、王を歓待するために作られたとも伝える。
谷茶前の浜辺に小さなスルルが群れをなして寄ってきたと思ったら、それはもっと大きな大和ミジュンであった。それを若者が獲って、娘達が隣村に売りに行く。戻った娘達は皆、よい匂いをさせている。それでは森でお互いの思いを語ろう…。海の収穫の喜びと、若者達の心はずむ思いが込められている。
櫂(かい)を持つ男踊りと、魚を入れるザルを持つ女踊りの軽やかな振り付けの雑踊りが楽しい。踊る時は「伊計離節」を前奏にする。「伊計離」の離は離島のこと。「スルル小」とは小魚の「きびなご」。
「長者の大主(うふしゅ)」
♪(大王の言葉)
アー尊みゆんぬきやびる我や この村の長者の大主
我や百二十歳 妻ん百二十 地頭代三度に御座敷まで
子は地頭代孫大掟ひき孫 八孫算人知やびらん
翁芸の一つ。村人の代表者である大主が、村の守護神に対して一年間の感謝を申し上げ、一緒に舞台に登場した眷属の者に踊らせるという構成。大主の言葉、豊年口説き、大主の言葉、清屋節から成る。旧暦の七月から九月にかけて行われる村踊り(豊年祭)では、プログラムの初めに演じられる。
「津堅島のウシデーク」
♪あしからがいゆらしゅでぃからがいゆら
ハリーヨーシュラジャンナーヨー
ハリー胴肌押風のハリーなひじゅるさぬ
ハリーヨーシュラジャンナーヨー
祭祀舞踊の一つ。ウシデークの歌。
津堅島は勝連半島の南東約5kmの地点にあって、周囲約8km、面積1.75km2の島。平敷屋漁港から高速船で12分、フェリーで25分で着く。島の周囲にはセナハ浜、アギ浜、キガ浜、ヤジリ浜、トマイ浜など白い砂浜が多く、島を取り囲む形でリーフが発達している。砂浜とリーフまでの間は魚、貝類の宝庫で島の土質は根菜類に適しており、現在、ニンジンの産地として全国的に知られる。
「汀間(ていま)当(とう)節」
♪汀間と安部境の兼下の浜下りて
汀間の丸目カナとサー請人神谷と
恋の話サー本当(ふんぬ)い本当い誠かや
本島北部の名護市汀間の美女・丸目カナと役人、神谷の恋の語らいを歌う。本島全域で広く愛唱されている民謡で、毛遊びの歌としても用いられた。
「てぃんさぐぬ花」
♪てぃんさぐぬ花や 爪先に染みてぃ
親ぬ言し事や 肝(ちみ)に染みり
親ぬ言し事や 肝に染みり
本島のわらべ歌。「てぃんさぐ」は花びらで爪を真っ赤に染めることができる鳳仙花。昔は女の子がよく用いて遊んだ。鳳仙花は薬草や魔除けとして中国から伝わったという。赤色は悪いものを追い払う呪力があると信じられていた。
てぃんさぐの花や、夜間航行する船の指針となる北極星(にぬふわ星)などに譬えて、親の言うことをよく聞き、守れ、親は唯一の頼りであると諭す。「肝に染みり」は肝に命ずる意。メロディオーは単調だが大衆性があり、わらべうたであるが大人からも愛唱されている。吉川忠英の編曲で、石垣市出身の夏川りみの歌が若者の人気を呼んでいる。
「天(てぃんぬ)の群(ぶり)星(ぶし)」
♪天の群星やヨー皆が上る照ゆるサー
黄金満星やヨーユイサー
我上ど照ゆるスーライシタリーヌ
黄金満星やヨーユイサー 我上ど照ゆるスーライ
祭祀舞踊の一つ。ウシデークの歌は、沖縄本島と周辺離島に残る女性だけの輪踊り。先導の老婦人たちの太鼓と唱導で、ゆっくりと歌いながら舞い進む。
「てんよー」
♪庭ぬ糸柳ヨー風に誘わりてぃ 露ぬ玉磨くヨー十五夜照るお月
(テンヨーテンヨーシトリトゥテンササハーリョーヌユーイヤナー)
沖縄本島で、わらべうたとして歌われている。毛(もう)遊びで歌われる「唐(とう)船(しん)どーい」などに転用されているものがあり、わらべ歌というより、毛遊びやエイサー(盆踊り)で歌われた民謡。
「桃里(とうざと)節」
♪桃里てる島や 果報ぬ島やりば
空岳ば前なし うやき繁昌ヨーサキヨーヒーヨンナ
空岳に登て うし下し見りば
稲粟ぬな生り さてむ見事ヨーサキヨーヒーヨンナ
赤ゆらぬ花や 二、三月ど咲ちゅる
我がけらぬ花や 何時ん咲ちゅさヨーサキヨーヒーヨンナ
花ぬ色美らさ 桜花でむぬ
美童色美らさ 我島でむぬヨーサキヨーヒーヨンナ
ユートピア讃歌。1732(享保十七)年、開拓地として村が開かれた桃里は、四十年後の大津波で四人に一人が溺死。さらにマラリアの猛威で1915年に廃村となった。
「唐(とう)船(しん)ドーイ」
♪唐船ドーイ さんてぇまん 散走えーならんしやユイヤナ
若狭町村ぬさ 瀬名波ぬたんめ
ハイセンスルスリサナユイヤナ
昔、海洋独立国家であった琉球の港に、中国から船が無事帰還すると、みんな一斉に走り寄って、港はカチャーシーの大歓喜に包まれる。その時の情景を歌っている。
「富原ナークニー〜はんた原」
♪うた為(し)みて巧者(まく)や 富原の若衆よ 恋ぬ路やりば 座喜味山小
面(ちら)んふらかりんな 富原の若衆よ 汝(いや)やふらかりんな 座喜味山小
<はんた原>
はんた原 胡弓小音 高さ胡弓小 夜中から後ど弾きる胡弓小
汝人やみみたく 神はんた原居とて
吹ち降すスリ風にひゃー 言遣り持たちゃしが
居ちぇ居たみケッケレ小 うっ飛ばちソーミナー小
かっ掴で奥武山ひぐるやら
毛遊びの歌。「はんた原」で転調して、目も眩むばかりの三線早弾きになる。「はんた」は崖や坂、勾配のある地形のこと。「原」は「モー」「野原」のこと。ナークニーは宮古旋律の意味。宮古音、宮古根などと表記される。宮古島の古謡が港から郭へと伝わり、たちまち本島の村々へ広がった。自然風物、男女の恋、庶民の述懐、夜道の往還、馬車曳き、野遊びなど、生活そのものを歌う。今帰仁(なきじん)、本部、山原、中頭、島尻の地名を冠したものや、各人の名前をとって富原ナークニーと呼ぶなど、庶民性、大衆性、個性が脈打っている。
「富原ナークニー」は、富原盛勇が作り出した独自のフレーズを持つナークニー。ミヤークニー、伊江島ではニャークニー、山原の一部や渡名喜島ではマークニーなどと呼称が変わる。
「仲島節」
♪仲島ぬ小橋 あいんある小橋よ
ちるが小橋やら 定みぐりさ
辻、渡地、仲島の琉球三大遊郭は、王朝時代から五百年の歴史を持っている。そこは、多彩な沖縄芸能をはぐくんだ場所でもあった。仲島の尾類(じゅり)(=遊女)は困窮した庶民層出身の者が多かったが、素朴で誠実であったという。
「仲地はんた前(め)節」
♪サーはんたヨー前のヨーくだい
サー溝わヨーてどよこすスリヒヤーマタ
サー三十ヨーましヨー三まし
サー水ヨー汲み汲みてスーリヒヤーマター
久米島の美しい田園風景を歌っている。豊穣予祝の民謡。
「今帰仁天底(なきじんあみすく)節」
♪我が生まり島や 枯木山原ぬ 今帰仁ぬ 天底仲本ぬ産子(なしぐわ)
七ちなる齢(とうし)に 二所ぬ親や 我身一人残ち 此ぬ世間に参らん
十八なる間や 伯母一人頼て 暮ちうる居ちに 行き欲(ぶ)さや大阪
情ある伯母云 言葉んすむち 大阪北恩加島 街頼て来しが
掛かる方無らん 縋る方無らん屋部の 新垣の嫁に我ね成やい
一年二年や梅と鶯の如に 暮ち居るうちに 産子一人出来て
産子引き連れて 里が島来りば 里が母親にあくむくゆさりて
罪無らん我身に 朝夕ぶちかきて 噂持ちあかち我ねすそにさりて
哀り泣く泣くに 出じゃされて我身や
落てて花ぬ 島生ちゅる身の 苦しゃ胸内や裂きて
色に表わさん 知らん客びれや 尾類(じゅり)小身の勤み
昭和の初期に出来上がった歌。尾類小とは娼婦のこと。明治の琉球処分以後、本土の悪役人と沖縄の貴族が共謀して、山林を伐採したために沖縄北部の今帰仁は枯木の山原となった。沖縄北部、今帰仁の寒村から大阪へ流れていった少女が、花の島(遊里)に転落していった身の上を物語る。
「今帰仁(なきじん)ミャークニ」
♪今帰仁の城 しもなりの九年母ヨー
しもなりの九年母 志慶真乙樽が のちゃいはちゃい
野良作業の往復、毛遊びなどで歌われる。今帰仁の風物、男女の恋、庶民の述懐といったさまざまな歌詞があり、沖縄本島と周辺の島々で久しく歌われてきた。
「ナークニー」
♪渡久地から上て 花ぬ元辺名地よ
花ぬ元辺名地よ 遊び健堅ぬ恋し本部
「南洋小歌」
♪恋し古里ぬ 親兄弟と別りよ 憧りぬ南洋 渡て来やしがよ
寝て覚めて 朝夕胸内ぬ思やよ 男身ぬ手本 成さんびけいよ
幾里隔みてん 変わるなよ互によ 文ぬ通わしど 無蔵が情よ
比嘉良順作詞作曲。海外移住者たちの悲しみと心意気を歌う。土地が狭く、生産力の限られた沖縄から、多くの人々がアメリカ大陸や南洋諸島に出稼ぎや移民として行った。海外移民は1900年、ハワイへの二十六人から始まり、東南アジア、南洋諸島、南米、北米などへ、戦前だけでも十人に一人が海外に出ていったといわれている。(琉球大学教育学部アメリカ教育プロジェクト研究会沖縄県の歴史学習「海外移民」より)
「二才(にせ)小(ぐわ)バーチー」
♪(男)今(なま)ど我んぬ戻ゆしが くまぬおばさん居らんどあみ
何(ぬ)ーが居るむんとるばとる
(女)何ーんあらんさ
(男)何が何ーやが……
知名定繁作詞作曲。男女相聞の歌。二才小バーチーとは、若い恋人を持った年輩の女性のこと。
「西武門(にしんじょう)節」
♪行ちゅんどうや加那志 待ちみそうれ里前
西武門 ぬい迄(えだ)や御供(うとむ)さびらヨーテー
ジントー御供さびら
川田松夫作詞、作曲。沖縄の代表的新民謡。守礼会の会長であった川田松夫(1903-1981)が昭和の初年に作詞、作曲。1934年にレコーディングされた。西武門は戦前、沖縄随一の遊郭・辻町の入り口にあった門。辻町の遊女は情が深く、細やかで、献身的なことで知られていた。帰っていく男性を、西武門までお供して見送りましょうと歌い、浅地や紺地の染め物にことよせて、深く思い染めてと懇願する女心を歌いあげている。
「野(もう)遊(あし)びの歌」
♪<東方(あがりかた)さーよ>
サヨサー東方でむぬ歌ぬ負き
ヨイ弾ちみそれ里前ヨイシサミ
我歌乗しらサーヨー君は何処が
まくが二才小
月の夜に若い男女が野原に出て、三線を弾き鳴らして歌い踊り、交流を深めた。そこではさまざまな民謡が歌われた。「東方サーヨ」「谷茶前」「加那ヨー」「島尻天川節」「あっちゃめー小」「多幸山」「唐船どーい」の7曲が連続で収録。
「上り(ぬぶい)口説(くどうち)」
♪旅ぬ出立観音堂千手観音
伏し拝で黄金杓とて立ち別る
沖縄の歌の多くは八六調であるが、珍しい七五調。江戸時代初期に流行した七五調の口説きの影響を受けて作られた。
琉球王朝の時代、王府の役人が公務で首里を出発し、観音堂、大道松原、崇元寺を通って、那覇の港から一路、薩摩の山川港までの旅程を叙したもの。当時の都・首里から薩摩への旅を上り、沖縄に帰るのを下りといった。沖縄の歌の口説きとは、叙事的に言葉を流していくことだ。
この歌を沖縄方言でなく標準語にした「琉球節」は1895年頃、東京の花柳界で大流行した。踊りは「二才(にせ)踊り」を代表するもので、二才(青年男子)の心意気と将来を寿ぐ祝儀性が強い。あて振りを随所に入れ、めりはりをつけて二才の勢いを見せる扇子踊りは、黒紋服をあずまからげ(前つぼりをとる)にして、広帯をしめ、白黒脚絆、白足袋をはき、片かしらに白はちまきをして、はつらつとした振りを見せる。
なお「下り口説」は、薩摩で長期間の勤めを終えた首里王府の役人が、喜びをかみしめながら薩摩から船出して、琉球へ戻る船旅の様子を叙したもの。踊りは「上り口説」の扇子に対して、チーグーシ(杖)を右手に持つ。二才踊りは、冊封使(さくほうし)歓待(かんたい)芸能(げいのう)として生まれたものではなく、1609年の島津の琉球侵入後、薩摩の在番奉行が三年交替で常駐するようになったので、歴代の役人たちを歓待する芸能として仕組まれたといわれる。
「廃藩ぬさむれー」
♪拝でなちかさや 廃藩ぬさむれー
コーグ小や 曲てうすんかがん
琉球藩廃藩(1879)から沖縄県設置に至る日本政府の琉球王府への一連の処置(琉球処分)により、尚泰王は首里城を明け渡した。首里に仕えていた士族たちは平民になり、役人の特権を失った彼らは、中央を離れて人目を避けるように暮らしたという。士族、さむらいたちの悲哀を民衆の側から見て、風刺(ふうし)とユーモアを交えて歌う。
「芭蕉(ばしょう)布(ふ)」
♪海の青さに 空の青 南の風に緑葉の
芭蕉は情に 手を招く 常夏の国 我(わ)した島沖縄
吉川安一作詞、普久原恒勇作曲。1965年頃の作品。南国沖縄の自然風土を歌った普久原メロディーの傑作。
芭蕉布は芭蕉の繊維で織った淡茶無地、または濃茶絣の布。夏の着物や座布団地、蚊帳などに使われる。
沖縄返還運動が高揚する本土復帰前、一方では沖縄の良さを見詰め直し、沖縄を内省的に捉える静かな気運があった。歌の世界では、従来の琉歌体にとらわれないものが多く生まれた。この曲は当初、琉球放送のホームソングとして愛唱され、NHKの名曲アルバムで全国に知られた。
「花」
♪川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として花として 咲かせてあげたい
泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
喜納昌吉作詞、作曲。1980年にリリースされた喜納昌吉&チャンプルーズのセカンドアルバム「BloodLine」で発表された。日本のみならずアジア全域で歌われ続けている。一部で「君が代」に替わる国歌としてこの曲がノミネートされるという動きもあった。
喜納昌吉(1948-)はコザ市(沖縄市)生まれ。「ハイサイおじさん」のビッグヒットを持つほか、アイヌ民族、ネイティブアメリカンなど、いまだ差別を受ける側にある人々と連帯し、彼らの精神文化にこそ世界を救う知恵があると訴える。「ニライカナイ祭り」「白船計画」など多彩な行動でも注目される。
「すべての武器を楽器に」がキーワード。沖縄民謡の大家・喜納昌永は実父。
「浜千鳥節」
♪旅や浜宿い草ぬヤレ葉ど枕
寝てん忘ららん
我親ぬヤレ我親ぬお側
千鳥ヤ浜居てぃチュイチュイナ
浜千鳥の鳴き声を擬した囃子言葉から「ちぢゅやー」ともいう。糸満の漁師たちは親元や恋人と別れて浜辺の仮小屋に寝泊まりする漁生活を送った。なかには家族に伴われた若い娘もいた。そうした人たちが夜に啼く浜千鳥に望郷の思いを託して歌ったといわれる。
踊りは1895年頃、沖縄芝居で創作された雑踊りで玉城盛重の作とされる。1880年代、多くの庶民芸が数多く誕生したがこの踊りもその一つ。雑踊り中の最高傑作ともいわれる。紺地のかすりの着物を着たアングヮー(娘)たちが帯をせず、中にしめた細紐に着物の一方を深くさし込んで固定するウシンチー(押し込み)姿で、哀愁に満ちた旅情をコネリ手等の美しい振りと、しなやかで優雅な体の線で見せる。沖縄からじを結い、締めた紫(むらさき)長巾(ながさあじ)を背中に長く垂らし、紺地絣の着物に白足袋のコントラストは、振りを引きたてて限りない旅情をさそう。
「早(はや)作田(ちくてん)節」
♪深山鶯の節や知らねども ツォンツォン
梅の匂いしちど春や知ゆる ツォンヤーツォンツォン
古典女七踊りの1曲。五穀豊穣を詠んだ歌詞や恋と遊び、行く春を惜しんだ歌詞などを演唱する。低い音程で歌い出す「下げ出し」と高い音域で歌い始める「上げ出し」がある。1838年の尚育王冊封式典余興芸能の記録によれば「団躍(うちわおどり)」とある。右手に唐(から)団扇(うちわ)を持って踊るのでこの名称がついた。いつの頃からか二曲目の節名が名称となり、今日では「作田節」と呼ばれている。作田節と早作田節の二曲構成の形になったのは、いつごろか不明。
「ハーリー唄、フッチューニー、唐唄」
♪サーサーサーサーサーサー……
此(くぬ)エイ人数揃て首里加那志
エイめでいヨーハーリー泊のフェンサーヨー
エーイ出立る時やヨーハーリー
さびやねさみハーリー泊のフェンサーヨ
「ハーリー」とは、爬龍船競漕のこと。ハーレーともいう。那覇では、かつて旧暦の5月4日に行われていたが、現在では新暦で行う。
中国から伝わった龍をデザインした小舟に乗り込み覇を競う。単なるスポーツ競技ではなく、大漁祈願、航海安全を祈る行事である。那覇ハーリー、糸満のハーレーなどが有名。本島北部、塩屋のウンジャミほか各地でも行われる。八重山のハーリーは糸満の海人(うみんちゅ)が伝えたとされる。ハーリーの歌には「かぎやで風節」をアレンジしたものなど各種ある。
「姫百合の歌」
♪広く知られた沖縄の 犠牲になった女学生
姫百合部隊の物語 物語 二筋忠孝胸に抱き
鉄より堅き日本の 大和魂の桜花
小宗三郎作詞。曲は不詳。先の沖縄戦において、米軍の猛攻撃を受けて死出の旅路を行く彼女達の姿を愛惜の思いで綴った歌。
「ひめゆり学徒隊」は沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の女生徒で編成された。1945年3月23日深夜、補助看護婦として南風原陸軍病院に動員される。学徒隊の女生徒達はただ日本の勝利を信じて、砲弾弾雨の中、身の危険を顧みず負傷兵の看護や死体処理、医療器具や食料の運搬など、命ぜられるまま献身的に従事した。
1946年、真(ま)和志(わし)村民が糸満市伊原に「ひめゆりの塔」を建立。傍らに女生徒たちを引率した仲宗根政善の「いはまくらかたくもあらむやすらかにねむれとぞいのるまなびのともは」の歌碑がある。
「ヒヤミカチ節」
♪名に立ちゆる沖縄 宝島でむぬ
心うち合わちう 立ちみそりう立ちみそり
ヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤヒヤミカチウキリ
平良新助作詞、山内盛彬作曲。「ひやみかち」は勇気を奮ってという意味。山内盛彬(せいひん)(1890-1986)は民俗学、音楽学者。首里に生まれ、その生涯を琉球音楽、舞踊の研究に捧げた。琉球古典音楽湛水流の継承者である祖父から古典を、王朝最後の「おもろ主取」からおもろを学び後世に伝える。大正期には野村流と湛水流を整理し直して、洋楽譜と工工四(くんくんしー)(楽譜)併用の画期的な譜面を作製する。古典音楽のみならず西洋音楽との交流を図り、オーケストラやピアノとの合同演奏会などを開催した。
「帽子クマー」
♪(女)あたま小や造てぬ ちさぐや知らん
愛し思里(うみさと)に習い欲(ぶ)さぬサー 習い欲さぬ
(男)手ん止めて呉(くい)らば 我が妻(とじ)になゆみ
(女)組み上ぎて呉いてん 妻やならん
(男)サーニングル小どすんなー……
パナマ帽作りに従事する女工さんたちが歌う明治後期の女工哀歌。
沖縄では1904年、アダン葉を漂白した帽子の製造が始まり、大正から昭和初期に全盛期を迎える。沖縄で作られたパナマ帽は関西方面や東京方面に多く出荷された。女工さんたちは、わざと不良品を作って給料引きにしてもらい、それを夫や恋人に贈ったという。この帽子製造も原料のアダンの乱伐で衰退。大正半ば頃から沖縄の女性は、本土の紡績工場へ出稼ぎに行くのが多くなった。
歌は、男女の掛け合いで帽子製造の工程を歌い、帽子作りの辛さは経験したものにしか分からない。勘定前には徹夜もあたりまえと歌う。
「前田(めんたー)節」
♪今年前田ぬ 稲見ん候 今年呑まん酒な 何時飲むが
ヤティカラチュヌーチャーヌマンカナーヌデアシバナ
今年前田ぬ 稲見ん候 白種子やなびち あぶし枕
<稲摺(いにし)り節>
今年毛(むう)作いや あん美(ちゅ)らさゆかてぃ
稲しりしり 米うりうり
チユリユリユリチユリユリユリアヒリヒリヒリ
豊年を喜び、酒盛りをしょうと歌う。
「ましゅんく節」
♪ヨーテー ましゅんくとなべとヨーテー
ましゅんくとなべと見比べて見ればヨー
ウネシクテントゥンテン
座興歌。「ましゅんく」は娘の童名といわれ、一説には土鍋のことだとも。伊江島の島民生活をユーモラスに歌っている。
「松(まちゃ)やっちー」
♪安慶田ぬ前ぬ田 ぶっくわ誰がやれ
うちゅがよ松が やれすんて昼間なかえー
朝比呂志作詞。沖縄市安慶田の辺りは、昔から土地が肥沃で農業に適した所として知られていた。その土地で松やっちー(兄貴)が精出して働いている。そこは特に土地が肥えていて、鍬が錆びる暇がなかった。
「南の島」
♪ハイヤーハッハ ハイヤーハッハ ハイヤーハッハ
すんじーなりーたーや ー百なーりーヒュー
昼やみこしに さぎらりて 夜や御側にうかーさりー テークルリン
ちんとかたとちねー あのヒューこのヒュー
ハイヤーかたとちねー
仮装の民俗芸能で県内十数個所で演じられている。数人が出演して棒を持って打ち合う。意味不明の歌詞を歌う。ドラ、太鼓、三線などの楽器がつく。安里のフェーヌシマは瓢箪(ひょうたん)を持って演じられるので、一名「瓢箪踊り」ともいわれる。
「耳(みみ)切(ちり)坊主(ぼーじ)」
♪ヘイヨーヘイヨー 泣くなよ夕さんで 市(まち)かい追ういいね
大村御殿の門なかい 耳切り坊主の立っちょんど
幾人幾人立っちょうがや 三人四人立っちょんど
何と何と持っちょうがや いらなん刀ん持っちょんど
しいぐん包丁 持っちょんど ヘイヨーヘイヨーベルベルベル
その昔、北谷(ちゃたん)王子朝騎が妖術使いの黒金座主の両耳を切り落として退治した。その後、大村御殿の門に、耳から血を流した坊主の幽霊がでるようになったという。この伝説から生まれた首里の子守歌。子供を驚かせて、おとなしく寝かせようとした。
「夫婦船(みいとぶに)」
♪世間(しけ)や果てなしぬ 船路旅心
夫婦やか他(ふか)や頼いならん 愛(かな)し夫婦船
夫や帆柱に 妻や船心
如何る波風ん 共どやゆる愛し夫婦船
夫婦の深い絆を歌う。比嘉盛勇作詞、亀谷朝仁作曲。1970年前後の曲。
人生は果てしない荒海を航海するようなもの。夫は帆柱で妻は船。どんな嵐の世の中でも共に協力しあえば、やがて極楽港に着くことができると歌う。作詞の比嘉は1926年にハワイに渡り、さまざまな職業を経験。後に料亭「大黒亭」を開業して軌道に乗せる。その陰には人生のよき伴侶、房枝がいた。亀谷の物悲しいメロディーで、現在は結婚披露宴などで愛唱されている。本土では三笠優子の同名の演歌がある。
「めでたい節」
♪今日の誇らしゃや なおにぎやなたてる
つぼで居る花の サンサ露きやたごと
(めでたい めでたいスリスリ めでたい めでたい めでたい)
祝節とならんで祝いの席に最もふさわしいとされる。旋律は口説きに似て軽快。舞踊曲としてもよく舞台に登場し、口笛や囃子言葉に乗せて賑やかに踊られる。しかし、この調子のよい曲調を荘重、優雅さを重んじながら歌うことが大切とされ、演唱者にとっては難しい曲。
「戻り駕篭(かご)」
♪駕籠に乗したる美ら女 うぬ年春ぬ若緑
遠山目眉に芙蓉ぬ色 昔ぬ楊貴妃うりがやら
「屋嘉節」
♪なちかしや 沖縄(うちなー)戦場になやい 世間 御万人ぬ流す涙
涙飲んで我身や 恩納山登て 御万人と共に 肌ゆ晒らち……
1945年4月1日、日本が降伏を受け入れる160日前、米軍は沖縄に上陸を開始した。沖縄は焦土と化し住民の3分の1が命を失う。
金武村屋嘉ビーチには沖縄戦の捕虜収容所があった。砂浜全体を鉄柵で囲んだキャンプの中で、人々は空缶を胴に寝台の骨を棹にして落下傘の紐を張り、カンカラ三線を作った。そんな日々から生まれ歌い出されたのがこの歌である。
人間はどんな状況下にあっても歌を忘れず、歌から明日への生きる活力を得る。「なつかしい」は哀歓の極みの表現であり、愛する家族と引き裂かれ家を追われて慟哭(どうこく)する悲惨な感情を歌う。作詞、作曲者はかつて不詳とされていたが、曲は山内盛彬が戦前に作曲した芝居歌謡にあったもの。作詞者に金城守賢や渡名喜庸仁らが名乗りをあげている。
「ヤッチャー小〜泊高橋」
♪ヤッチャー小 何処に待ちゅがサーヨ待ちゅがよ
登てぃてん門(じょう)小(ぐわ) やましやあらに
食えはんさが 飲みはんさやーし小ぬ
酒ん飲みはんちよ あぬひゃカマド小や妻(とじ)んしはんち
<泊高橋>
泊高橋によ銀(なんじゃ)ジーファ落(う)とちよ
ンゾシカナシハラユサーユイ
何時が夜ぬ明きて 尋(とろ)めて差す差すらよ
ンゾシカナシハラユサーユイ
本来はソロで歌われる。歌詞にとらわれずに即興で変奏している。
「ヤッチャー小(ぐわ)〜山原(やんばる)汀間(ていま)当(とう)」
♪<ヤッチャー小>
ヤッチャー小 志情どサーヨー頼むよ情無ん
ヤッチャー小 頼みぐりさ姐小達 歌小てらサーヨむぬやよ
深山鶯しぬふきる如さ 一期何時までん此処(くま)に居らりゆみよ
想はまて里前救て給り如何(ちゃー)すが 思切らねサーヨーなゆみよ
たとい志情や残てうてん 喰えはんさが飲みはんさ
やし小ぬ酒ん喰えはんちよ あぬひゃーかまど小ん
妻(とじ)んしはんち
<山原汀間当>
サー遊び字堅原 恋し赤野原ヨイ
戻て安慶名原 ヒヤルガ恋し所 恋し所
サー勝連の南風(ふえ)北(にし) 内間与那城
島先や石川 ヒヤガンスリ遊でよへん
根なしかんだぬスラ翠
カチャーシーの歌。「やっちゃー」とは兄の意。ここでは「恋しい男」。
「山原(やんばる)汀間(ていま)当(とう)」
♪サヨナー本部 走いやてれ 招ちゅしが手巾(ていさじ)サヨナ
サーイ名護 走いどぅやしが ヒヤナマラー招ちみせみ
アマハイクマハイスジョウスサヤー
サー石川 東恩納 伊波と嘉手苅とサーイ楚南
山城 栄野 比川崎 越来 美里 屋良 嘉手納 野国 野里
元の歌詞は、首里の役人にたぶらかされた田舎の軽尻娘を揶揄したもの。
「山原(やまばれー)ユンタ」
♪やまばれーぬ 宿ぬ家ぬ ヌズゲーマ(ユイヤサッサ)
ヤラドーハーイ ヨーホイナ(ヤリャヨーヌハイトーヤ)
いみしゃから 尾類(ずりずり)ぬ生(ま)りばし(ユイヤサッサ)
ヤラドーハイヨー ホイナ(ヤリャヨーヌハイトーヤ)
くゆさからピカピカぬ産(す)ればし(ユイヤサッサ)
ヤラドーハーイヨー ホイナー(ヤリャヨーヌハイトーヤ)
あん丈なーぬ 十日五日ぬ月の夜…
かつて南の島では、男女の性は自由で差別もなかった。おおらかな青春の歓びを歌う。
「世(ゆ)宝(たから)節」
♪真夜中どやしが夢に起(うく)さりてよ
醒みて恋しさや無蔵(んぞ)が姿ジントーヨー無蔵が姿
一人(ひちゆい)手枕に明かす夜ぬ辛さよ
無蔵が手枕に明かちみ欲(ぶ)さサヨナー明かちみ欲さ
鳥やちょん翔ばん島尋めて二人(たい)やよ
浮世楽々と暮ちみ欲さジントヨー暮ちみ欲さ
一人寝をする真夜中に、夢にうなされて目が覚めた。恋しいあの人の面影が……。恋する女の哀傷が切々と胸に迫る。「無蔵」は、男から愛しい女への呼びかけ。女から男へは「里」。
「世渡(ゆわたい)節(人生航路のうた)」
♪十七、八なかい花咲かちでむぬ 二十歳ごろからやすぅり
産子ひるぎユワイヌ産子ひるぎ 三、四十や第一ちんとうはまて
産子取い育てソレ心尽くしユワイヌ心尽くし 四、五十や朝夕心しじみとて
貫木家ん建ててソレ思案所ユワイヌ思案所…
登川誠仁作詞、作曲。登川は、1932年、兵庫県尼崎市に生まれ沖縄本島の石川市で育つ。学校に行かず、昼夜となく三線の習得に励んで小学校を卒業する頃には既に一人前となる。反骨と屈折と名前通りの誠実さが同居する風狂の人柄は、しばしば周囲を当惑させるが、登川流の家元として多くの弟子を持っている
「路次(るじ)楽(がく)」
中国から伝来した道中音楽。吹奏楽器と打楽器を中心に構成されている。古くは琉球王府で演じられていた。現在では民俗芸能として、今帰仁村字湧川ほか、二、三の地域で伝承されている。
「別れの煙(ちむり)」
♪別て旅行かば嬉しさ淋しさん 思出し生し子島ぬ事ん
ちゃー忘るなよ糸ぬ上ゆ走ゆる 船に立つ煙山ぬ端に向かて
我親見あてちゃー嘉例吉ど
知名定繁作詞、作曲。出稼ぎに行く子供への惜別の情を歌う。親は小高い丘に登り、松葉を燃やして白い煙を上げて送り、船の煙突からは黒い煙が立ち昇る。別離と哀傷と新世界への不安と喜びを歌っている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
<宮古>
「池(いき)の大按司豊見親(ぷーじぃとぅいみゃー)」
♪池の大按司豊見親が 鳴響ん大按司あがりゃが
ゆかいぃ者や りゅといんさいぃ者やりゅとい
マツサビという女性は、八重山のオモト岳の神に懸想され、オモト岳に連れ去られる。マツサビは神の愛を拒み続け、神はマツサビが村に帰ることを許す。途中、洪水でマツサビは死ぬが、その傍らから木が生え、それで船を造ったという。
「池間(いきま)の主(しゅ)」
♪大日輪(うふていだ)と月の神(つくがなす)上り参ずや一つ
我んたが主とぅ親んまとが思すさ一つサーニノヨイサッサイ
池間の主や首里大屋子 池間目差さ池間の主
我が愛す武佐親や すぐ目差よサーニノヨイサッサイ
親しみやすい旋律。池間の役人と愛人ミガガマは太陽と月のようであると歌い出し、俺も主だったらミガガマの手料理を食べてみたいと歌う。王府に納める宮古上布を織る娘たちが、妬みと蔑みを歌詞に込めてミガガマを揶揄した。
「石嶺ぬ赤う木」
♪石嶺ぬ赤木や根うりうず
貧しいが美しいタニミガという娘が、言い寄る役人に抵抗したという長大な物語。全曲歌うと三時間以上かかる。
「石嶺の道のアヤグ」
♪石嶺の道 がまから寺の主が 御側から
主が船ゆ迎いが 親が船迎いが
片手しや 坊子小抱き 片手しや白傘差し
石嶺(いしみね)の道は、宮古島の玄関口・漲水港(はりみずこう)へ通ずる石畳の道。その道を通って漲水港から沖縄島へ旅する役人を送ったり、迎えたりする妻の気持ちを歌っている。
「伊良部トーガニー」
♪伊良部とぅがまーん 間小(ばしがま)んなヨーイ
離(ばな)りゆとぅが 間小んなヨーイー
渡(ばた)ん瀬(じ)ぬ休(ゆく)ず 瀬ぬあてゃなむーぬヨー
伊良部島の西海岸にある沢田の歌。神への感謝、航海安全、家内安全、子孫繁栄、恋心などを歌い上げる。宮古民謡を代表する名曲であり、宮古民謡を志す者は誰もがこの曲を歌いこなすことが夢である。切々と歌いあげる美しい旋律は、人々の心を激しく揺さぶり、青春の血潮と燃える恋情をそそる。トーガニーは美声の男の名前ともいう。
八重山の「トバルマ」「与那国ションカネー」、沖縄本島の「ナークニ」の旋律は南島歌の海上の道を物語る。
「内間マグライ」
♪内間マグライや思い女 内間思ゆ主思い女
ゆかんるどやいば思い女
内間マグライは本妻と別れて、別の女性と所帯を持っている男の名前。沖縄から声がかかって行くことになるが、着るものは本妻のところに置いてある。マグライは本妻のところへ帰り、立派な着物を着て沖縄に行く。着物が主人の目にとまり、事情を聞いた主人は、本妻を大事にしなさいと諭す、といった内容が歌われている。
「うっじゃ(鶉)がんま」
♪鶉(うっじゃがんま)が母よ卵が母よ 野火ぬ出りば焼火ぬ出りば
じゅべーたとぅばがら じゅーべーたまやがら
多良間島のわらべ歌うっじゃは鶉のこと。鶉は野焼きのとき、雛を守って逃げるという内容。親子の情愛を歌う。
「御船(うふに)親(うや)の妻保那(ぼな)恋のアヤグ」
♪赤毛髪の頃から目眉つき頃から
貴殿ゆてど思ゆたいぃ愛しゃゆてど見込たいぃ
「御船の主」ともいわれ宮古全域で歌われる。幼い頃から言い交わした仲であった男の心変わりを歌う。
「家庭(きない)和合」
♪夜(ゆ)や明(あ)きどき さまず親(うや)よ 起(う)きさまち我(ばん)が親(うや)
朝の茶(ちゃ)花(ばな) 浮(う)きて目覚(めすうり)まし さまち我(ばん)が 今日(きゅう)ぬ一日(ぴとず)や 朝ぬ茶から
「かなしゃがまアヤグ」
♪我等が今日の集まいぃや 友人同士たちが
今日の集まいぃや かなしゃまが
神からぬ上司からぬ 許しぃだら かなしゃまがよ
かなしゃがまは“愛しい人”の意。
「かぬしゃまがよー」
♪汝がくとゆあて想やしどぅ
知ゆたる字ゆまい読みぅたる文うまい
忘きにゃんよカヌシャマガヨー
カヌシャマガとは愛しい人。想い人。
§国吉源次VICG-5163(91)囃子/大城美佐子、知名定男、三板/久場洋子、太鼓/大工哲弘。国吉(1930-)は城辺町(ぐすくべちょう)出身。宮古島伝統歌謡の第一人者。たくさんの名歌があるにもかかわらず、本島や八重山よりも注目度が低かった宮古の歌の認知度を高めた功労者。十代から歌が大好きで、二十歳の頃から村芝居の地謡(じうてー)として修業を積む。1967年のNHK「全国のど自慢大会」に沖縄代表として出場した頃からその実力が広く認められた。八重山の山里勇吉は師。兄弟弟子には大工哲弘がいる。
「兼(かに)久(く)畑(ばた)」
♪兼久畑よ抱き見欲す女(ぶなりや)がまヤイサスーリ女がまサー
ハラユイサークラユイサッサーウッショーショーネ
ニングルマトマトヨウ……
女子(ぶなりやふぁ)ばよ篭んな乗し大浦んかい
男子(びきりやふぁ)ばよ立馬ん乗し狩俣(かずまた)んかい
兼久畑は、どうしょうもなく荒れた開墾地のこと。大浦、狩俣はともに開拓村。ここでも強制移住で親子、兄弟は引き裂かれた。本当の苦しみや悲しみは涙をも乾かしてしまう。宮古の島うたは、自らの悲苦を茶化して開き直り、情感を逆説的に表現することが多い。
「狩俣(かずまた)ぬくいちゃ」
♪狩俣や島がまどぅ やりばまいヨーヤイヤヌ
ヨイマーヌイやりばまいヨー
ニノヨイサッサヒヤコラササヒヤササ
クイチャーは声を合わせて歌う意で、若い男女や村人が広場に集まって声を合わせて歌う。手拍子が楽しい。
「狩俣のいさみが」
♪狩俣のいさみが 砂地(んなぐす)ぬ美童(みやらび)
とんがら家居んむ むしばたや坐ゆ居んむ
テンポも早く人気がある座興歌。宮古島の東方突端にある狩俣では「んなぐすのいさみが」といい、狩俣以外では「狩俣のいさみが」と呼んでいる。いさみがは、狩俣では“んなぐす家の美しい娘”。平良市あたりでは“んなぐす”と“いさみが”という二人の娘の話になっている。
「多良間ションガネー」
♪多良間前泊道小から
下(う)りていスリじゃがまぬ
小路から主が船迎えがよスリ
主が船迎えがよ ハリ主がゆりよ
かつて絶海の孤島、多良間島には船便が年に一、二回しかなく、ここへ派遣された役人は現地妻(ウヤンマ)をめとり、何年かが過ぎて帰るときには妻や子を残していった。残された妻子の生活は悲惨なものだった。歌は多良間島に残された現地妻が、旅から戻った役人を子供を抱いて浜に出迎える様子を歌う。
「しょんがね」は全国的に流行した「しょんがいな」系の歌が伝播して変化したもの。しゅんかに、しょんがね、しょんがに、すんがに、と発音はいろいろ。
「多良間ヨー」
♪多良間のなうらば 三原世のなうらば
御しゅくむちぃうさみて 天上むもうやして
旧暦八月に行われる「八月踊り」のなかで歌われる踊り歌。
「トーガニあやぐ」
♪大世照らしゅず太陽だき
国ぬ国々島ぬ島々照りゃ上りうすいヨー
我がやぐみ御主が世や根岩(にびし)どぅだらヨー
春の梯梧の花の如ん宮古ぬアヤグや
すに島糸(いち)根(ゆに)ぬあてぃかぎかありゃヨー
親国がみまい下島がみまい豊ましみゅーいでぃヨー
宮古の「君が代」と称される。宮古を代表する儀礼歌。正月、婚礼、新築祝いなどあらゆる宴席で歌われ、主人と来客が盃を交わしながら歌うのがならわしである。歌に座敷様とカニスマ(島中)様があり、座敷様は儀礼的色彩が濃く、カニスマ様は野原や海浜、月夜に若者たちの歌遊びで歌われている。幸福はニライカナイ、南方から、災厄は西方からやってくるとされるが、日常の生活や労働、森羅万象のすべては宇宙の神々によってつかさどられている。豊作に恵まれた年、人々は歓喜に満ちて、優雅に格調高く歌う。
「とうがに兄(すーざ)」
♪とうがに兄があらぱなのいでぁまずいでぁまず
嶺川底のやらうが下んどいでぁまずいでぁまず
雨乞いや豊作の予祝、祝宴などで集団で踊る舞踊がクイチャー。この歌もクイチャーで歌われる。
「トーガニ〜泊高橋」
♪トーガニぞサヤー宮古ぬ美ぬ島から流行(はや)りるトーガニぞサヨー
沖縄ぬ先から八重山の先まで流行りるトーガニぞサヨー……
<泊高橋>
泊高橋によサヨー銀(なんじゃ)ジーファー
落とちよユイサーユイ何時し夜ぬ明きてよサヨー
尋めて挿すらユイサーユイ……
宮古の自由詩。花が咲き鳥が歌うように男女の相聞の自然を歌う。本島に渡ってカチャーシー弾きとなった。
「仲屋マブナリャのアヤグ」
♪仲屋まぶとゆん主がまぶなりゃ
五産(いちいな)しば六(む)産(ゆ)しば同女子(ゆぬぶなりや)
船漕ぎ歌として伝承。五人も六人も子供を生んだが、みんな女の子ばかりだった。しかし、最後に待望の男の子が生まれたと歌う。
「ナークニー」(宮古島)
♪遊びかいやしが手巾まにうちぇがヨー 手巾まにうちぇがヨー
仲間入口に掛けてうちぇさ
ナークニーは宮古旋律で宮古音、宮古根などと表記される。毛遊びの場で競い合って歌われた。格調高い旋律を持つ沖縄本島の代表的な歌。宮古島の古謡が港から郭へと伝わり、たちまち本島の村々へ広がった。歌詞は即興。富原盛勇の「富原ナークニー」のように個人が作り出した独自のフレーズを持つナークニーも伝承されている。
「なりやまあやぐ」
♪サーなりやまやなりてぃぬなりやま
すぅみやまやすぅみてぃぬすぅみやま
イラユーマンサーヤヌすぅみてぃぬすぅみやま
サー馬ん乗らば手綱ゆ許すな主
みやらび(美童)家行き心許すな主 イラユーマンサーヤヌ心許すな主
なりやまは海山のことで馴れた山の意味。もともと「ナズブリヤマ」という若者の名前が「ナリビラヤマ」に変わり「ナリヤマ」になったとも言う。元歌は宮古城辺町の友利が発祥の地といわれ、主に友利と砂川方面に伝わっていた。
1966年、古堅宗雄(1903-1985)、友利明令(1892-1971)らが伝承者の友利実光から採集。元歌のままでは三線歌として歌いにくいから、韻を踏み、親しみやすい旋律に改作。“馬も白いほうがよい。女も白いほうがよいが、白ければよいというわけでもない”と歌う。
「汝夫(つう゛ぁぶとう)や誰か」
♪女童女子ゆ話ぬ一声言葉一声
言い見でいら話し見でいら
何てが言いてが如何でが話さでが
座興歌。娘が恋人のことを自慢しながら、楽しく語っている様子を歌う。
「根間(にいま)の主」
♪ユイサユイ根間の主がヨ(サーサー)
乗りゃ御舟(みょうに)ヒヤルガヒー(サーサー)
主ぬ参(みや)いがよ(サーサー)
乗りゃ御舟ヨ嘉例吉やホーイヒヤルガヒー
(愛小やうどぅ胴染みゃやうどぅ世や直れ)……
首里王府へ上納に旅立つ根間の主を送るとき、別離の悲しみを歌う。
「漲水(ぱるみず)のクイチャー」
♪漲水ぬ舟着くぬ砂んなぐぬヨー(ヤイヤヌ)
ヨイマーヌ砂んなぐぬヨー(ニノヨイサッサイ)
粟んななり米んななり乗ゆり来らばヨー(ヤイヤヌ)
ヨイマーヌ乗ゆり来らばヨー(ニノヨイサッサイ)……
クイチャーは声を合わせるという意味。人頭税に苦しんだ宮古の人々は、酒を飲めば手を挙げ足を踏み鳴らして歌い踊った。十九世紀末、人頭税廃止運動とともに流行。
「平安名(ひゃんな)ぬまちゃがま」
♪ハンレーまちゃがまや何処(んざ)かいてぃが
何処(ずまん)かいてぃが髪(かずら)ばきっち着物(すん)ば着し
着飾(すがり)うずがハレー着飾りうずが
スーリスーリヌ平安名ぬまちゃがまヨー
東平安名岬は宮古島の最東端、紺碧の海に2kmにわたって突き出した美しい岬。日本の都市公園百選、日本百景の一つに選ばれている。この岬に傾国の美女マムヤの悲恋物語が伝わっている。
昔、保良村に“まちゃがま”という美しい娘がいた。ある日、野城の按司・山の坊は、現在の城辺地方を治めており、妻子ある身でまちゃがまに言い寄って来た。身を許したが、だまされていることに気がついたまちゃがまは、東平安名岬の洞窟に身をかくし、その中で機を織って暮らした。
野城の按司は、まちゃがまのことが忘れられず、まちゃがまを探して毎日毎日、東平安名岬をさまよい歩いた。そして機を織る音を聞きつけて、とうとう洞窟で機を織っているまちゃがまをみつけた。まちゃがまは二度と会うまいと思っていた人に見つけられ、もはやこれまでと崖のうえから身を投げる。
その後、崎山の坊は泣き暮らして政治を怠り、野城に栄えた城も滅びてしまった。まちゃがまが身を投げて死ぬとき、自分が美しさの故に味わった不幸をせめて村の娘達だけには味わわせたくないと思い、保良村に美しい娘が生まれないように神に祈って身を投げた。そのために保良村には美しい娘は生まれないと言い伝えられている。
しかし、保良村は宮古でも一番美しい娘さんの多いところ。それは、まちゃがまが呪いをかけた後、ただ一つだけ呪い除けの方法を残したのであった。それは、この東平安名岬の芝生の窪みにたまった水が、満月を浮かべて光り輝いている時、妊婦がその水を手ですくって飲むと呪いはすべて消え去るという。
保良村の母たちは、満月の夜、我が子が美しくあれと祈って、東平安名岬で月を浮かべた美しい水を飲んでいるにちがいない。
「平安名のまむや」
♪平安名まむや新生(あらんま)り女童が
野城按司ぬ崎山王や
美人の平安名のマムヤは野城の按司から求婚される。マムヤは役人と一緒になると後々のためにならないと考え、村の男との結婚を考えると歌う。
「豊年の歌」
♪今年から始みゃしヨーサーサー
弥勒世ぬ直らば世や直れサーサー
ヨーイティバヨイダキヨーサーサー
揃いどぅ美(かざ)さぬ世や直れ
豊穣与祝を歌うめでたい民謡。
「マツガマアヤグ」
♪まつまがやあさねいがら
ひやねいがらむぬやりょとい
しぃとむてんなあきしゃるんな
ヌーリガヨーヌやーしよきど
美人のマツガマをやっかんで周りの人々がからかって歌う歌。
「宮国(みやうん)の姉がま」
♪宮国の行き果ての姉がま 姉がまが竿長の髪ば
ぴぎふかしさんざらにゃんにば
沖縄から下り参す油壷 壷なぎなかみなぎなあみかぶい
宮国の娘が長い髪に沖縄からいただいた油を付け、大和の櫛でといて銀のかんざしを差した。きれいな着物を着て海水を汲もうとしたとき、根島の役人が娘に求婚したと歌う。
「宮古トーガニ」
♪大世照らしゅーず真太陽だき
国ぬ国々島ぬ島々照りゃがりうすいヨー
我がやぐみ御主が世や根石どぅだらヨー
宮古島の各地で正月や婚礼、新築祝いなどの祝宴で歌われ、宴の内容に応じて歌詞が替わる。
「家(やー)建ての歌」
♪あだん屋ぬ按司(あじ)すただんぬぼう
女按司やりば女按司やりば
新築祝いで歌われる。歌詞では女按司(国王家の分家)が主人公となっている。
「四島(ゆいしま)の主」
♪狩俣ぬ真屋ぬ家ぬ四島の主
四島の主が最初の親ないぃやヨー
親きしん俵ゆしぬ親なたヨー
子供の頃から学問に秀で人格者でもある四島の主が、八重山に造船の司として派遣されたことを歌う。
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<八重山>
「赤馬(あかんま)節」
♪いらさにしゃヨー今日(さゆ)ぬ日ヒャルガヒー(オーオーオーオ)
どぅきぃさにしゃヨー黄金(くにがに)日(ひ)ヨーハーリヌヒヤルガヒー
(オーオーオーオー)
本島の「かぎやで節」と同様、めでたい席や演奏会の冒頭かフィナーレで歌われる。八重山の代表的祝儀歌。祝いの言葉や嫁になるための心得などが綴られている。
今から約四百年ほど前のこと。石垣島の竹島師時は宮良与人(宮良村役場書記の役)を勤めていた。琉球国王から所望された師時の愛馬は、たぐいまれなる赤毛の駿馬であった。師時は村はずれの岡(馬見岡(んまみむる))まで馬を見送り、別れを悲しんだ。元の詞はその時の即興詩で、曲も師時のものといわれている。馬見岡は宮良三景の一つ。
赤馬節のチラシとして「しゅーら節」が歌われる。チラシは本曲の後に歌う曲のことだ。本曲が荘重であるのに対し、チラシは軽い曲想。
「あがろーざ」
♪あがろーざぬんなかにヨウヨーイー
登野城ぬんなかにヨウハーリヌクガナ
「安里屋(あさどや)ユンタ」
♪サー君は野中の茨の花か(サーユイユイ)
暮れて帰れば やれほに引き止める
マタハーリヌ ツンダラカヌシャマヨー
サー安里屋ぬクマヤによ(サーユイユイ)
あん美(ちゅ)らさ生(ま)りばしよ
マタハーリ ヌツンダラカヌシャマヨー
石垣島から船で10分。八重山群島の竹富島に古くから伝わる民謡。チンダラは可愛らしい。カヌシャマは愛(かな)しい乙女のこと。
かつて島人は中央(首里)から派遣された役人のために賄女の制度を作った。安里屋(=屋号)の娘・くやまは絶世の美女であった。目差(みざしい)主(しゅ)(下役人)に見初められるが、くやまは権力に屈することなく役人に肘鉄をくわす。こうした話を叙情的に歌い綴った二十数節にわたるユンタ(結(ゆい)歌(うた))。
「安里屋ユンタ」のメロデイーは三種類あり、一つは伝統的なユンタで労働歌として竹富島で歌い継がれてきたもの。島では「安里屋ユンタ」と言って三線の伴奏抜きで集団歌謡として歌ってきた。
二つ目は星克作詞(アメリカ統治時代の立法院議員)、沖縄師範学校の音楽教師であった宮良長包編曲の「安里屋ユンタ」。竹富島では「新安里屋ユンタ」と呼んでいる。1934年にレコード化され、囃子言葉が「死んだら神様よ」に聞こえることから戦時中、特に流行した。
三番目は士族によって作られたと思われる「安里屋節」だが、これは当初から三線伴奏で歌われていた。
「安里屋ユンタ」と「安里屋節」はメロデイーが異なり、広く知られている「新安里屋ユンタ」は新時代の歌としてピアノ伴奏で歌われた。近年、この三種類とも三線伴奏で歌われることが多く、3つの歌が混同されている。「安里屋ユンタ」は方言で歌われるテンポの速い曲。「新安里屋ユンタ」は共通語で歌われるテンポのやや遅い曲。「安里屋節」は方言で歌われ、ゆったりとした曲。
「祝い節」
♪御祝事(うゆえぐとぅ)続くヨー(サーサー) 御代ぬ嬉(うり)しさにヨー
サーサーユワイヌサースリユバナヲゥレー
周囲約9.2q、人口約300人の竹富島。新築祝いや出産祝いなどの目出度い席では第一番に歌われ、歌のなかで最高のものとされている。
四つ竹が軽快なリズムを刻んで明るい雰囲気を盛り上げ、曲そのものは荘重で気品にあふれていて聴く者に感動をもたらす。
「かたみ節」
♪さてむめでたや此ぬ御代に
サー祝いぬ限りねらん
遊び楽しむにスリ
我んや形見呉いら千歳迄
「かたみ」は、ものごとを固めるという意味。うまくまとめて成就させることを言う。八重山の祝い歌で恋の歌でもある。1732年頃、竹富島北部の平久保と伊原間のあいだに、久志真という村があった。琉球のマーラン船が嵐を避けてこの久志真の港に停泊した。そのとき、久志真村の娘との恋物語が生まれたが、平久保の耕作筆者であった黒島英任がこれをテーマに作詞、作曲したといわれている。耕作筆者とは幕府派遣の役人の職責名。
「川(か)良山(らやま)節」
♪川良山ぬ無ぬらばヨーホー
山道ぬ無ぬならばヨーホー
ンゾサイカヌサイヨーホー……
天文2(1533)年、琉球国首里王府は八重山の600人を石垣島名蔵村に強制移住させ、川良山の工事に使役した。川良山道は山と山の狭間を縫うようにして通る。1657年、宮良親雲上長重は、川良山を境とする南部四カ村地域と、北部名蔵平原や名蔵村とを結ぶ道路を開通させた。1946年、八重山民政府と石垣町役場が巨費を投じ、八千人余の労力と牛馬車300台を提供して大がかりな改修を進め、翌年には自動車を通す道路として完成させた。現在では整備された県道浅田線として交通の要衝となっている。軽快なテンポながらも哀愁を帯びるのは、歌の背後にある島分けの悲劇による。
「黒(くる)島(しま)口(く)説(どう)き(ち)」
♪口説口説し聞ちぐとや 弾くや三線糸合わち 口説はやしば面白や
(イヤイーヤー 豊かなる世ぬ 御印しさみえー 雨や十日過し 風や静かに作る
毛作い万作そうてど なかんどありしち いりくふりむら ふきや宮里 番所宿々
花ぬ遊びや歌や三線チントテントン 面白むんさみ 今ぬ拍子に
口説早みりサーッサハーイヤ)
黒島に伝わる口説き歌。七五七五七五の定型口説きを地方(じかた)が歌い、長い囃子言葉を踊り手が歌う。島の結願祭で奉納される。詞曲とも黒島の目差役であった宮良孫賢(1790-1849)作といわれ、踊りは勤王流二代目・諸見里秀思(もろみざとしゅうし)(1876-1945)が1894年に創作。同年八月の結願祭で初めて演じたという。
民謡は権力者への抵抗と批判を率直に、あるいは婉曲(えんきょく)に歌ったりしたものが多い。黒島の歌や踊りは、光り輝くような明るさ大らかさが特色。思い切り囃す島娘たちの天真爛漫な生活模様と、生きる歓びが伝わってくる。
「コイナーユンタ」
♪大岳ぬ後なかコーイナー(マタコーイナー)
ざら岳ぬ側なかコーイナー
ばなぎゃ木ぬい生よーりコーイナー(マタコーイナー)
香(かば)さ木ぬ差しゃうりコーイナー
初夏になると、白い花が咲いて青い実をつける九年母(くねんぼ)の木に、コイナという鳥が飛んできてとまる、と歌う作業歌。
「古見(くんのーら)ぬ浦」
♪古見の浦の八重岳 八重重(かさ)び美与底
何時も見欲しやばかり
古見は西表島の東海岸にある西表最古の村。かつては八重山の首都として栄えたところであった。正徳3(1713)年、石垣の役人・大宜味(おおぎみ)長稔(ちょうおん)(1682-1715)の作と伝えられている。公務で与那国島へ出掛けた長稔が台風に遭遇。西表島の古見へ流された。そこで美女・ぶなーれーまと知り合って恋に落ちる。束の間の滞在から別れの時がきて、別離する悲痛な思いで歌ったのがこの曲であるという。
「古見(くん)ぬ浦ぬぶなれーま」
♪<ナガミ>
古見ぬ浦ぬ(ヒヤサー)ぶなれーま
(エーシターリヨー)イーラヨーヨーバーナブレ
<ハヤミ>
ならん貢(かなん)ゆやんどぅ(ヒヤサー)
十尋布ぬちぃにゃんどぅ(ヒヤサー)
ヤリクヌヒョーシヌヤリクヌヨー
古見村のブナレーマという娘に、琉球王府に納める貢納布が課せられた。ブナレーマは立派に織り上げて、それを納めに古見から石垣島に渡る…という内容。前半はナガミといって悠長に歌い、後半はハヤミといってナガミよりも軽快に歌う。
「古見の主(しゅ)」
♪我んぬ亀かみやよ己上りゃがぬりゃがよ
ハイ潮(しゅう)ぬ亀や八重山(やいま)ぬ主どぅ四島ぬ主……
古見ぬ前泊(まいとまず)よ愛す我が泊よ
古見の主が海ぐなよまない主が竿取りゃよ
すとむてんな早し起き明きしゃるんな早し起き
地元出身の役人は、首里から派遣された役人とは違う。この歌の主人公である古見(こみの)主(しゅ)百(む)左(さ)盛(もり)は、能吏(のうり)として今も語り草になっている。詞は、産卵のために浜辺に上がった亀を散歩にきた古見主が助ける。その後、彼が八重山と宮古を行き来するときは、いつも船についてくる亀がいた。それは助けた亀であった。
「小浜(くまーま)節」
♪小浜てる島や 果報の島やりば
大嶽はくさて 白浜前ならヤゥンナ
八重山の小浜島を称える。島の自然と人々の生活が謳いあげられ、島の結願祭では四人で踊る女舞踊が奉納される。
小浜島はウバマ、クバマ、クママ、クモマなどとも呼ばれる周囲12キロの島。沖縄本島では「くばま節」、地元、八重山では「くもま節」と呼ばれる。1751年頃、小浜島の新里(しんざと)加武(かん)多(た)が口ずさんでいたのを小浜村与人(ユンチュ)宮良永祝が琉球歌に改作して歌ったという。
「ザンザブロー(高那節)」
♪雨が降る時やヤー阿母サ北(にし)から曇るやエスリー
旋風する時やヨー姐御くがやーりおかしたえ
キージンキーザーキザザー
ザンザブローニオーザーザザンザブロウーニ
ムージルカーシルジンジンドー
サンサムージルカーシルジンジンドー
サー今日ぬ誇らしゃハーリヤーリヤー
八重山、西表島の高那に、村の娘をめとって永住した大和人・山三郎の作といわれる。辻の廓風の陽気な遊び歌として独特の曲想。
「白保(しらふ)節」
♪白保村上なか弥勒世ば給られ
寄らてぃ来(ユラティク)ユラティク踊り遊ば
石垣島の南海岸にある白保村を称えた土地讃歌。“白保という村は弥勒(みろく)世(よ)ばかりで、人々は富み豊かである”と歌う。お囃子の「ユラティクユラティク踊り遊ば」は「みんな、みんな寄ってこい。打ち晴れて楽しく踊り、跳ね遊びましょう」の意。陽気なこの歌は座を賑やかにする。
作者・宮良当演(1775-1831)が真謝目差(まじゃめざし)を勤めていたときに作詞・作曲したと伝えられ、沖縄本島にも伝播して愛唱されている。
「スビヌオーザー」
すびぬおーざーすびぬ根ど頼る うりが北ぬ真喜良井かい
ジュサジュサジュージューイクラヌクイクイ
かまぬます一升枡五合枡じゅーます
上ぎて下ぎらばうさぎます
「すび」は端の意。「スビヌオーザ」とは足りない人の意味。その昔、刈り入れた砂糖きびの圧搾は徹夜作業となった。眠気を払い、互いに励まし合うためには歌は欠かせなかった。
「高那節」⇒「ザンザブロー節」
「つぃんだら節」
♪サーとぅばらまとぅ我んとぅや ヤウスリ
童からぬ遊びとーら ツンダラヤウツンダラヤウ
かなしゃまとぅくりとぅや ヤウスリ
きゅさからぬむつぃとーら ツンダラツンダラヤウ
寛保元(1741)年、黒島の邑杣筆者に任命された黒島英任(1685-1768)が作詞・作曲した黒島哀歌。「つぃんだら」は「可哀相な」という意味。
1700年代、黒島の住民は琉球王庁から数回にわたって強制的に鳩間島などへ移住することを命じられた。黒島に将来を約束した恋人を残し、悲嘆にくれながら強制移住させられた者の哀れな感情を歌っている。
昔、八重山の黒島にマーペーという娘とカニムイという若者がいた。二人は将来を誓い合う中であったが、ある日「道切」(島分け)と呼ばれる首里王府命令による強制移住により、マーペーは石垣島野底への移住を余儀なくされた。野底での苦しい開拓生活の中、マーペーは黒島を一目見ようと野底(のそこ)岳(だけ)に登った。だが黒島は於(お)茂(も)登(と)岳(だけ)にさえぎられて見えない。恋しさと悲しみのあまりマーペーは石になってしまったという。
「月(つくい)の美(かい)しゃ」
♪月ぬ美しゃ十日三日女童美しゃ十七つホーイーチョーガー
八重山の子守歌。沖縄全域で歌われている。八重山の月は、人間の魂を映し出すものとされていた。「東から上りょる大月ぬ夜沖縄(うくなん)八重山(やいまん)照らしょーり」など、さまざまな歌詞で歌われている。
「月のマピローマ」
♪月ぬ真昼間(まぴろーま)や ヤンザ潮ぬ真干り
夜ぬ真夜中や ハイへ美童ぬ潮どきハイへ
月に願立てぃて 星に夜半参り
思いすとぅ 我とうやハイへ 行かすゆう給りハイへ
手を入れると青く染まりそうな八重山の海。月の輝きは島を真昼のように照らし出す。ヤンザ潮は、月が中天に懸かる陰暦11月8日前後の夜半に訪れる最大の干潮のことである。八重山の浜は、遥か沖合いまで白々と輝く砂原となる。いわば天と地がまぐわう刻だ。このとき若者たちも恋を語る。
「デンサー節」
♪デンサー節造てぃ童ん達に詠まち
世間ぬ戒み成ゆしどぅ我んねん願ゆるデンサー
物言(むぬゆい)らば慎(ちちし)みよ口ぬ端(はた)から出(いん)じゃすなヨ
出じゃち後からや呑(み)みゃならんデンサー
「とぅばらーま節」
♪思てぃ通ゆらば千里ん一里ツンダサアヨーツンダサー
たん戻らば元の千里ナコートーニツンダサー
ウンゾシーヌカヌーシャマヨー
八重山民謡の中でも特に美しい歌。この歌が出るとほかの歌の影が薄くなるから、宴会では最後に歌う。愛しい男性は「トゥバラーマ」。愛しい女性は「カヌシャーマ」。「とぅばらーま」は男女が逢うという意味。「ま」は八重山言葉の特徴である愛称語尾である。
歌い方は古い労作業歌(=ゆんた、じらば)の歌唱形式で、男女が交互に歌うウティナン、スティナン(波が打っては返す、返しては寄せる)スタイルの相聞歌。三線にのせて歌う「節歌」のパターンと、無伴奏の「道とぅばらーま」「原とぅばらーま」のパターンがある。
石垣市では毎年、旧暦の8月13日、夜空に輝く中秋の名月のもと、歌者たちが競い合う「とぅばらーま大会」が開催される。
「殿様(とぅぬさま)節」
♪浮世(うきゆ)に名取(なとぅ)たる 恋(くい)ぬ氏神 祖(そ)納(ない)ぬ殿様 我(ば)んどぅやゆる
かまどーまぬ 事(くとう)思(うむ)いどぅ 船浮に行くよば
「博愛(はくあい)精神(ごころ)」
♪荒(すさ)ぶ嵐に黒潮けぶる 大干潮沖(うぶびし)に座礁船
救助(すくい)を求め 今まさに沈まんとする 独逸(ふ)商船(ね)の映(かげ)
「仲(なか)良(ら)田(だ)節」
♪仲良田ぬ稲やヨー離り頂粟んや
粒しらびミ実かや弥勒世が果報や
泡盛んまらしや うみしゃぐん造くてヨー
「仲良田の稲も外離島の粟も、粒選りしたように実って豊年万作である。泡盛も醸造し、お神酒も造って」と歌う西表島の歌。
「布晒(ぬぬさらし)節〜天加那(てんがな)志(し)節〜前の渡節」
<布晒節>
♪わした女(み)童(やらび)ぬウネうがんでむぬヒヤヨンナ
布美らさ拝でぃウネ綾(あや)美(じゅ)らさ拝(うが)でぃヨン
「矼(はし)ゆば節」
♪二十村ぬ 夫は乞い四十村ぬ 夫は寄せ 古見ぬ浦に渡りょーり
美与底に移りょーり 女子や石持ち 男子は積ん添い
基強さ積んばし 幹強さ並みばし
積美らさ積んばし 並びらさ並みばし
「鳩間節」
♪鳩間中(なか)岡(むり) 走り登りササユイサ 久葉(くば)の下に 走り登り
ハイヤーヨーテバカイダキー
ティトーユルデンヨーマサティミグトゥ
八重山を代表する古典民謡、舞踊曲。鳩間島は石垣島から南西39キロの小島で人口50人ほどの島。サンゴ礁が美しく、島の北側から遠くに石垣島を望む。
かつて人頭税として年貢を強制されていた時代があった。農耕地のない鳩間島の人々は、対岸の西表島に開拓地を作り、納税義務を果たしていた。人々は鳩間島の中央にある小高い丘・中盛(なかむり)に登り、稲、粟などの収穫物が、西表島から鳩間島に運ばれる光景を見ながら、喜びの歌を歌った。八重山方面ではゆるいテンポで歌われるが、沖縄本島では早間で歌われる。
「昼の子守歌」
♪こねまゆ名やのーでぃどぅたぼれる
うしゅまいぬ名ぬ松金たぼれる
スッツァラスッツァラ松金たぼられ
ホーイヤーホヨーホイヤーホヨー
昼の子守歌。坊やの名前は何とつけたの。お爺さんの名前を貰って松金とつけた。お嬢ちゃんの名前はお婆さんの名前をもらってブナルムイとつけた…と歌う。夜の子守歌は「月ぬ美しゃ」。
「富崎野ぬ牛なまユンタ」
♪ヒヤーサ ふさぎぬぬウリー西田野ぬうすなまよ
富崎野という原野に、西田野に繋いである小牛よ
富崎野に、西田野に繋いである子牛よ
しぃとぅむでぃにあさぱなにうきすり
「舟越節」
♪伊原間ゆ立てぃだす 舟越ゆ立てぃだす
(スリユワイヌサースリユバナウレ)
いばるまゆたてぃだす ふなくやゆたてぃだす
(スリユワイヌサースリユバナウレ)
「ペンガンとれ」
♪宮里女(み)童(やらび)ヨー スーリ 前ぬ干瀬ぬ ぺんがん捕(とう)さヨー
トゥイルカラヤ ペンガン捕れヨー
ペンガンは蟹(かに)などの海の幸。
「まみどーま」
♪まみどーまよまみどーま
女童(みやらび)どう女童 ウーヤキマミドーナ サッサーサッサー
気立てのよい娘・マミドーマが守り育てた子供が順調に成長していく様子を歌っている。この歌に乗せて鎌、鍬などの農具を持って農作業のありさまを踊る舞踊がある。
「まるま盆山(ぶんさん)」
♪ヨーホー丸山盆山 夕な夕な見りば 風ぬ根を知ち 居ちゅる白鷺
エンヤーラヤンザー サーエーイエーイ ヤハリバサヌシ
ヒアマッタヌタヌムジュウ
船漕ぎ歌。まるま盆山は西表島の前泊海岸に浮かぶ小島。夕暮れになると、盆山をねぐらにする白鷺の大群が、海面近くを乱舞しながら飛び交う。マラリア、天然痘などの疫病、暴風、津波、飢饉に襲われ、さらに近年では開発によって姿を変えてきた村々は、若々しい歌唱の大工の歌によって、往年の風景が蘇る。
「道トバラーマ」
♪サートゥバラーマ歌ゆじ通(かゆ)た細道(いばみち)ん ツンダサーヨツンダサー
今(なま)になり余所(ゆす)家(だち)なりねもゆら
マクトゥニツィンダサーンゾシー美童(みやらび)ヨー
八重山を代表する民謡。日が暮れて野良から帰る歩調のリズムに合わせた歌。旋律は海を渡って「宮古根ナークーニ」となり、宮崎県の「刈干切唄」に繋がる。
「宮古の子守歌」
♪東里(あがずさ)真中(んなか)んよ己(どう)ぬ城(ごしく)真中(んなか)んよウチュラヨー
泣きずなようや弟(うとう)がまヨーイヨイゆんなようや妹(うとう)がま
ヨーイヨーホーイーイーイ
「宮古島大音頭」
♪あやぐ歌って泡盛かこみ 宮古上布の娘が踊りゃ
七重八重まで和ができる
(宮古八島は夢の島 人の情けで花も咲く ソレ花も咲く)
「弥勒(みるく)節」
♪大国(たいぐん)の弥勒竹富にいもち お掛け欲(ぶ)せぬしょうり
島(すいま)の主島の主 サアサアユーヤーサースリサーサー
竹富島で旧6月のプーリや旧8月の結願、旧9月ごろの種取りの祭などで演じられる儀式舞踊の歌。八重山では、弥勒は海の彼方から稲や粟などの穀物をもたらす神とあがめられ、各地で同種の弥勒賛歌がある。布袋を連想させるような福々しい仮面をつけ、手に唐うちわを持った弥勒菩薩が、美しい晴れ着を着た少女たちを従えて登場。弥勒節の後に「シーザ踊り」が歌われる。シーザー踊りは弥勒に従う踊り子たちの祝賀の踊り。
「目(め)出度(でたい)節」
♪今日(きゆ)のふくらしゃや何物(むぬ)にたとぅららん
上下(かみしも)ん揃てぃさんさ踊りてぃ遊(あし)ば
めでたいめでたいスリスリめでたいめでたいめでたい
「山崎(やまさき)のアブジャーマ」
♪山崎ぬアブジャーマ山端(やまばた)ぬ年寄(とうすいゆ)りや
シューラヨーイシューラヨーイキユシィディルヨーンナー
黒島の山崎村の年寄り爺さんと、大工の娘・ンギシャマと巫女の娘・ナビシィケの恋物語。爺さんにだまされた二人の娘の悔しさをコミカルに歌った。
「山原(やまばれ‐)ゆんた」
♪山原の底の屋のヌジズゲーマー
ヒヤサッサーヤーラドーハーイヨーハイナー
「与那国(よなぐに)小歌」
♪波にぽっかり浮く与那国の 島はよい島無尽の宝庫
歌と情の歌と情のパラダイス
ソレサッサコレサッサ 与那国良い島情け島
日本最西端の島・与那国の情景や人々の気持を細かく描いた歌。奥平方秀作詞・作曲。島には最も人口の多い「祖(そ)納(ない)」、漁業基地の「久部(くぶ)良(ら)」、最も小さな「比(ひ)川(がわ)」の三つの集落がある。与那国は方言で「ドナン」。
島の周囲は切り立った岸壁が多く砂浜は少ない。島中央部の山には蝶なども多く「アヤミハビル(ヨナグニサン)」というモスラに似た世界最大の蛾(天然記念物)が生息している。グアヴァやパパイヤ、バナナなどが多く、デザートには不自由しない。与那国のヤシガニは食用。
新川鼻の海岸で海底遺蹟といわれる巨大な構造物が発見された。詳細は不明のままだ。
「与那国ションガネー」
♪暇(いとうま)乞いとうむてい持ちゅる盃(さかじ)ちゃ
ツインダーサヨーツインダーサー
目涙泡盛ち飲みぬならん
ウムイバヌナグリシャンゾナリムヌヨハーリションカネヨ
首里へ戻る琉球王府の役人と現地妻(ウヤンマ)との離別を歌い上げた琉球情歌の傑作。昔、与那国の女性は入り船のとき、海岸にアダンで作った草履を並べて新来の役人にこれを履かせた。これを縁として妻となり在島中の無聊を慰めたという。与那国と石垣島では節回しに違いがあり、与那国では「どぅなんすんかに」と呼び、素朴で古風な節回しに独特の味わいがある。
「与那国の猫小(まやぐわー)」
♪与那国ぬ猫小鼠(うやんちゅ)だましぬ猫小
ハリ二才(にいさい)だましぬやから崎浜ヨウ主の前ハリ
ヨウヌヨウシュヌマイハリシターリヨウヌヨウヌヨウシュヌ
“与那国の可愛い猫はネズミを捕るのが上手。若い衆をだますのも上手い。聞いてください旦那様…”と歌う。鳥や獣や植物までも擬人化し、こまやかな愛情でその習性を観察して歌い込む。もともと人間は自然とその中に生きる物たちと共生していた。
「六調節」
♪一つ歌いましょはばかりながら
歌のあやまちごめんなさいねヤイヨナヤイヨサマワー
君は百歳わしゃ九十九まで
ともに白髪の生えるまでヤイヨナヤイヨサマワー
熱狂的な踊りの曲。六調については様々な説があり、三線の三本の糸を往復上下してかき鳴らすから六調の名が出たとも。八月踊りの最後にカチャーシーのリズムに乗って乱舞する際、この曲も用いられる。
「鷲(ばしぃぬ)の鳥(とぅるい)節」
♪綾羽ば生(ま)らしょうり
びいる羽(ばに)ば産(すい)だしょうり
バスィヌトゥルィヨーニガユナバスィ
赤馬節と並ぶ八重山の代表的歌謡。原歌は巫女、仲間サカイ(1713-1813)の手になり、それを石垣島新川の与人(ゆんちゅ)(=役人)大宜味信智(1797-1850)が曲を付けた。
“綾なる羽を持ち、美しく艶やかな羽も持った若鷲が、元日の朝、東天を目指し
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