2022年04月04日

宮城県の民謡

「秋の山唄」(宮城)

♪ハァー奥州涌谷の 箆(のの)岳(だけ)さまはヨー

山子繁盛のハァ 守り神ヨー

ハァー山に木の数 野に萱の数ヨー

黄金田圃はハァ はせの数ヨー

夏の朝、まだ暗いうちから近くの山で草を刈り、刈った草を馬の背に積んで戻ってくる。その往き帰りに唄った。本来は秋の雑木伐りの時に唄う木伐り唄で、宮城郡、黒川郡、桃生郡あたりで広く唄われていた。昭和十七(1942)八年頃、東北民謡の父と呼ばれる後藤桃水(1880-1960)は、これまで草刈り唄と呼ばれていたものを「秋の山唄」と改名する。

涌谷町(遠田郡)は昭和三十(1955)年七月、涌谷町と箆(箟)岳村が合併して誕生。箆(のの)岳(だけ)(236b)の山頂部分を占める箆(こん)(箟)峯寺(ぽうじ)にある白山社は、宝亀六(775)年、大伴駿河麻呂が建立したと伝えられ、一山の鎮守、作神様として当地方の信仰を集めている。箆(の)とは矢柄のことで、坂上田村麻呂(758-811)の伝説に由来する矢竹が、山にびっしりと生えていたので箆岳と命名された。

§〇熊谷一夫COCF-6547(90)COCF-13285(96)COCF-10466(92)○鈴木大K30X-

218(87)尺八/米谷龍男。自然な歌唱。声の使い方、小節の返し方も自然で上手い。○吉沢浩KICH-2464(05)尺八/郷内霊風。△菅井兆月CRCM-1OO18(98)尺八/郷内霊風。素朴なお爺さんが唄っているようで捨て難い味。

「石投げ甚句」(宮城)

♪船は出て行く 朝日は昇る(ハートセ)

鴎飛び立つ アノ賑やかさ(ハートセハートセ)

さあさやっこらさと 乗り出す船は(ハートセ)

どこの港に アノ着くのやら(ハートセハートセ)

福島県相馬地方と接する県南の伊具や、亘理(わたり)の海岸部一帯で唄われる酒席の騒ぎ唄。浜甚句の一種で、遠島甚句とは兄弟の関係にある。土地では笠浜甚句と呼び、網の中に魚を追い込むときに、小石を投げながら唄うところからこの名がある。伊具郡枝野では枝野甚句、海上の船乗りたちは帆走り甚句と呼んでいる。唄の文句、曲調ともに秀逸。

§○小野田実COCJ-30336(99)三味線/岡田美佐子、藤本秀三、尺八/菊池淡水、小坂淡憧、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/西田和枝、飯田優子。美声を誇るステージ歌手とは違い、自然体でやたらに声を張り上げないところがよい。○小野くみ子COCF-6547(90)元気のよい浜の婆さまが唄っているようで、なんとなく懐かしく、潮の香りを伝えてくれる。三味線/本條秀太郎、本條秀若、尺八/矢下勇、太鼓/鼓友美代子、鉦/美波駒輔、囃子言葉/西田和枝、西田和菜。

「石巻茶摘唄」(宮城)

♪(ハァ ヨイトコラサッサ ヨイトコラサッサ)

湊牧山よいナー 茶の出どこ(ソレ)

娘やりたい ヨイナお茶摘みに

(ハァ ヨイトコラサッサ ヨイトコラサッサ)

石巻市は旧北上川の河口にある。牧山(218b)はJR陸前稲井駅の東南、湊地区西部に連なる丘陵地域である。かつては寒冷の東北でも、茶はいたるところで栽培されていた。桃生郡河北町(石巻市)で摘まれた極上の茶は仙台藩主への献上茶であった。川面から立ちのぼる霧が、味が濃くて渋みの少ない良質の新芽をはぐくむ。茶摘みは静岡の八十八夜から少し遅れ、桃生(ものう)茶(ちゃ)(河北茶)が百五日目、気仙沼の気仙茶は百八日目に摘み取られる。河北の茶は、今でも昔ながらの栽培方法で育てられている。

§○高橋桃川APCJ-5035(94)お囃子方はCD一括記載。野趣あり、なまりよし。土地の爺様の唄。

「石巻船頭唄」(宮城)

♪石巻 高さも高い 日和山

見渡せば 向かいは港 御船入り

葦や葦 葦のナァ あのがらがらじ

葦を刈られ 今度はどこに 巣を懸ける

石巻市は仙台より東に約50km、牡鹿半島の付け根、旧北上川の河口に位置している。古くは伊寺(いしの)水門(みなと)と称される小さな港町であったが、伊達藩の当時、奥州最大の米の集積港として全国的に知られた。元和九(1623)年、伊達政宗(1567-163

6)の命を受けた川村孫兵衛(1575-1648)が北上川の開削工事を完成。続いて石巻の筑港に着手して、寛永三(1626)年に港が完成した。石巻には領内で収穫された米が集められ、千石船で江戸に送られた。仙台米は当時江戸で消費された米の三分の二を占めたといわれ、米相場にも大きく影響し、本穀(石)米と呼ばれて消費経済の基準ともなっていた。

日和山(ひよりやま)は旧北上川西岸にあり、標高60.4b。鎌倉時代には葛西氏が石巻城を築いた。元禄二(1689)年、松尾芭蕉と弟子の河合曾(かわいそ)良(ら)が訪れている。

がらがらじは、ヨシキリ(葦雀)のこと。

§○熊谷一夫COCF-10466(92)尺八/広岡誠、斉藤勇一。艶のある声で熊谷節を聴かせる。

「稲上げ唄(ザラントショウ)」(宮城)

♪今夜ここに寝て あすの晩は何処よ

あすは田の中 あぜ枕 (ザラントショウ ザラントショウ)

秋が来たのに 田圃の案山子

誰に見しょとて 水鏡 (ザラントショウ ザラントショウ)

馬の背に稲束を積んで戻る道すがら、ザランザランと揺れる稲穂の音が曲名になっている。唄の母体である山唄は一時、かなり広く唄われていたらしく、茨城県下でも聴くことができる。草刈の行き帰り馬を引きながら口ずさんでいた。

昭和十四(1939)五年頃、後藤桃水が山唄をもとに曲を工夫。後藤の友人である山形県鶴岡市の浦本政三郎(浙潮)は、犬猫鳥のほか、蜘蛛や昆虫までも可愛がる後藤の意を汲んで作詞した。浦本は昭和二十五(1950)年に設立された日本民謡協会の初代理事長を務めた医師。民謡研究家でもあった。

田の中で、あぜを枕にして寝るのは稲を荒らすイナゴだ。“あぜに枕して眠る”のフレーズは越後の良寛(1758-1831)の詩にも見られ、奄美・沖縄方面の島々では、稲が実り、畦に垂れかかる様をいう。

§○佐藤寛一COCF-6547(90)三味線/高木義子、小田良一、沼倉匡志、尺八/河村健三、広岡誠、鉦/伊藤繁則、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/小野寺富江、菅野みや子。COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。○池田たつ子CRCM-1OO17(98)尺八/郷内霊風、囃子言葉/大久保正子、佐々木みどり。野趣あるお婆さんの声。囃子言葉の大久保正子は大正七(1932)年、仙台市生まれ。昭和二十八(1953)年、大西玉子に師事して唄と三味線を習得している。△佐々木央CF-3457(89)尺八/高橋平治、亘理幸治、囃子言葉/及川政芳、青沼文市。淡々と唄って、味と匂いをうまく出している。

「えんころ節」(宮城)

♪まず今日のお祝いに めでためでたのお酒盛り

お酒の肴を見申せば 鯛やほうぼう金頭

金の杯七つ組 長柄の銚子に泉酒

奥の掛け軸見申せば さても見事な大漁船

金の帆柱銀の綱 大黒様が舵を取り

お恵比寿様が舞い遊ぶ 舳先にゃ船神大明神

綾と錦の帆を巻いて 宝を俵に積み重ね

これの館にドッコイ 走り込むショウガイナー

ハァ エンコロエンコロ

新造船の船おろし(進水式)の祝い唄。唄の終わりに船を漕ぐときの掛け声であるエンコロ、エンコロの囃子言葉が付く。正月二日の仕事初めに、網元の所へ集まる時にも唄われる。土地によって少しずつ節回しが異なり、松島を中心に南は荒浜、北は石巻の沿岸で唄われている。今日一般に唄われているのは松島湾あたりのものである。

九州方面の祝い唄である“よいやな”が北上。各地の港で新造船の祝い唄として広く唄われている。四国でエイコノエイコノと囃すところではエイコノ節と呼んでいる。伊豆半島の漁師は“エンコロエンコロ”と囃し、相模灘、東京湾沿いの漁民たちが伝える舟唄も、この種のエンコロ節が唄われているが、こうしたものが宮城県下に移入された。

角田市(かくだし)の南西にある斗蔵山(とくらやま)(238b)には、太平洋側の北限とされるウラジロガシの群生林がある。この木で船を造った船大工や船頭らは、樵(きこり)たちが唄う木遣唄を唄い継いでいくうち、めでたい唄になったともいう。山頂の斗蔵神社山門前には、えんころ節の碑が建てられ、亘理町(わたりちょう)荒浜には、えんころ節発祥の地の記念碑がある。亘理町では、毎年一月にえんころ節全国大会が行われている。

赤間政夫の歌唱が極め付け。吉沢浩の若き日の歌唱も爽快感がいっぱいである。民謡の演唱は品位と、素朴で敬虔な気持の表現が大切だ。

§○安藤兆華CRCM-1OO18(98)三味線/武田歌子、大西玉子、高木ヨシ子、尺八/郷内霊風、囃子言葉/大久保正子、佐々木みどり。浜の女性の雰囲気がある。○八木寿水COCF-12697(95)スローテンポ。舟下ろし(進水)の祝い唄としての原型がわかる貴重な音源。かなりノイズがある。八木は後藤桃水が関東大震災後、成瀬町に戻ってからの第一号の弟子。△横山武山APCJ-5035(94)お囃子は尺八と手拍子。渋い歌唱で味もある。男声合唱が囃す。

「おいとこ節」(宮城)

♪おいとこそうだよ 紺の暖簾に 伊勢屋と書いてだんよ

お梅十六 十代伝わる粉屋の娘だよ

あの娘はよい娘だ あの娘と添うなら三年三月も

裸で茨も背負いましょ 水も汲みましょ 手鍋もさげましょ

なるたけ早起き 上る東海道は五十と三次

粉箱やっこらさと 担いで歩かにゃなるまい おいとこそうだんよ

おいとこそうだよ 二人で添うなら 共に白髪の生えるまで

“おいとこせ”とも呼ばれている。江戸時代末の天保(1830-1843)の頃、関東、東北を中心として広く唄われていた。農村の老婆たちは、月々の念仏講や大師講などの集まりがあると、余興の踊りとして小念仏踊りを楽しんだ。そこで唄われたのは白(しろ)桝(ます)粉屋(こなや)や高砂そうだよと呼ばれる唄であった。

小念仏踊りは万作踊りとも呼ばれ、次第に農民芸として発達する。農閑期を利用して巡業に回る人たちも現れ、宮城県下にも移入されて、酒席の踊り唄として盛んに唄い踊られた。

白桝粉屋は、千葉県山武郡芝山町大里字白桝にあった粉屋の娘に恋した男の唄で、唄い出しから「おいとこ節」といわれた。昭和十五(1940)年に発表された太宰治(1909-1948)の小説『きりぎりす』は、繊細で裏腹な感情を持つ女性が心情を吐露したものだが、毎朝「おいとこそうだよ」を歌う男のことが描かれている。枯れた渋い声が似合う唄。女声よりも男声のほうが心地よく聴ける。

§△加賀徳子COCF-9305(91)三味線/小田良一、小林三枝子、尺八/河村健三、佐々木秀雄、太鼓/菊池まさ子、囃子言葉/言葉/高橋桂子。野趣がいっぱいだが、渋さと爽快感には欠ける。

「お立ち酒」(宮城)

♪お前お立ちか お名残惜しい

名残情けの くくみ酒

またも来るから 身を大切に

はやり風邪など 引かぬよに

立ち振る舞い酒のこと。祝言の席がお開きになると、嫁や婿に付き添ってきた先方の客に、門口や庭先でなみなみと酒をついで飲ませる。その時、居合わせた人達がお別れの気持ちを込めて唄ったもの。

今日では婚礼だけでなく、祝いの席の納めの杯の際にも唄われている。杯納めの唄は他県には見あたらないが、曲の感じからすると江戸時代末期の流行歌か、あるいは都の唄が黒川郡地方に定着したのではないかと考えられる。当代の人気歌手たちがこぞって唄っているが、美声に酔い、思い入れたっぷりな情緒に流された流行歌的歌唱が多いのは残念なことである。

§○芳村君男OODG-71(86)癖のないさっぱりとした歌唱が好感を呼ぶ。尺八/矢下勇、矢下勇厳。○加賀徳子COCF-6547(90)尺八/河村健三。端正に唄っている。COCF-9305(91)尺八/亘理幸治。△池田たつ子CRCM-1OO17(98)FGS-602(98)尺八/郷内霊風。濁りある声だが、野趣のあるお婆さんといった雰囲気がよい。

「小野田甚句」(宮城)

♪田舎なれども 一度はござれ(チョイサ)

小野田馬の市 ササ盛り場に(チョイチョイ チョイサ)

音に名高い 薬莱山(やくらいさん)の(チョイサ)

下を流るる あの成瀬川(チョイチョイ チョイサ)

藩政時代、宿場町だった加美郡小野田町(加美町)の酒席の騒ぎ唄。小野田町は古くは小野田本郷と呼ばれ、中新田から山形の尾花沢へ抜ける街道筋にある山間の宿場町であった。馬の産地として知られ、馬市が開かれると諸国から博労たちが集まってきた。塩釜や石巻の遊郭で唄われた甚句が持ち込まれて変化したもの。唄の文句にある薬莱山は標高553b。加美富士とも呼ばれる。

§○熊谷一夫COCF-10466(92)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、囃子言葉/佐伯千恵子、早坂かおる。

「北上川船頭唄」(宮城)

♪ハァー主の船唄 夜ごとに聞けばヨー

共に暮らすは いつじゃやら いつじゃやら

ハァー忘れせかせる 川風憎や

それに帆を張る 人もまた 人もまた

北上川(きたかみがわ)は岩手県岩手町に発する東北最大の河川。日本では五番目に長く(249km)、岩手県の中央部を北から南に流れ、宮城県津山町柳津(登米市)付近で新北上川と旧北上川に分流。新北上川は北上町(石巻市)で追波(おっぱ)湾(わん)に注ぎ、旧北上川は迫川、江合川と合流して石巻湾に注ぐ。明治から昭和初期にかけて、北上川下流の流れを東へ向ける大規模な開削工事が行われ、新旧二つの流れが生まれた。

北上川河口に発展した石巻は、伊達政宗が北上川に舟運の便を開いてから米の一大集積地となり、米は千石船に積み換えられて江戸へ向かった。石巻市を中心に、北上川流域の人々が鮭(さけ)漁に唄ったともいわれ、北上流し網唄とも呼ばれる。

§○近藤恵子APCJ-5035(94)本来は男唄だが、女性が朗々と追分調で唄っている。二管の尺八が情緒を醸し出す。野趣もあり曲想もよい。お囃子方一括記載。

「きのこ採り唄」(宮城)

♪奥州仙台領に 良い木がござる ヨーソラナントショー

欅(いたや)楢(なら)の木 桂の木 ソラ桂の木

青麻み山は険しゅうござる ヨーソラナントショー

鬼も蛇も出る 猪も出る 猪も出る

“きのこ”は“樹の子”の意だ。樹木と深い間柄にあり、樹木の種類が豊富な日本には種類もたくさんある。宮城県で採れるきのこには、まいたけ、ゆめしめじ、あみたけ、こうたけ、ますたけ、ならたけ、しめじ、くりたけ、ひらたけなどがある。きのこが生えている場所は、親子でさえ教えないといわれるほど秘密にされている。

青麻山(あおそやま)は遠刈田温泉の南、蔵王連峰の前にそびえ、東西に長く裾野をひいた秀麗な山。標高は799.49m。

§○佐藤寛一COCJ-30336(99)お囃子方不記載。佐藤は昭和十七(1942)年、登米郡南方町(登米市)生まれ。農民歌手として土の匂いのする民謡を唄い続けている。○三浦かしくCRCM-1OO18(98)尺八/斎藤勇一。年輪を重ねた味わいある歌唱。

「御祝(ごいわい)」(宮城)

♪ハ ヨイドコラサ(ヨイドコラサ)ヨイドコラサ(ヨイドコラサ)

ご祝いごとは(エーエーヨイドコラサ)

ヤーヨ 繁ければヨ(エーエーヨイドコラサ)

おつぼの松も(エーエーヨイドコラサ)

ヤーヨ そよめくホホヨード(エーエーヨイドコラサ)

古風な祝い唄。婚礼、新築、大漁などのめでたい席で最初に唄われる。

参会者一同は威儀を正し、手拍子で唄う。宮城県よりも岩手県、青森県で盛んに唄われた。唄の始まりは室町時代にまで遡ると考えられている。後藤(ごとう)桃(とう)水(すい)は、この唄を「斉太郎節」と「遠島甚句」と組み合わせた唄の前唄に用いた。

§○鎌田英一CRCM-4OO04(90)囃子言葉/鎌田会。福田正編曲。管弦楽伴奏。

「米(こめ)節(ぶし)」(宮城)

♪米という字を 分析すればヨ

八十八度の 手がかかる

お米ひとつも 粗末にゃならぬ

米はわれらの 親じゃもの

藤田まさと作詞、大村能章作曲で東海林(しょうじ)太郎(たろう)が歌ってヒットした「博多小(こ)女(じょ)

郎浪(ろうなみ)枕(まくら)」のメロディーをそのまま転用。尺八家の星天晨(ほしてんしん)が米を称える祝い唄風の歌詞をはめ込んだ。「博多小女郎浪枕」は近松門左衛門の人形浄瑠璃で世話物の傑作のひとつ。享保四(1719)年十一月、大坂道頓堀の竹本座で初演された。

§○吉沢浩KICX-8418(97)桜田誠一編曲。藤本e丈、藤本秀茂。往年の高音が抜けなくなっている。管弦楽伴奏。○華村純子CF-3661(89)野性味ある歌唱。土地の匂いがあり、素朴な味わいもよい。お囃子方不記載。○鹿島久美子VDR-2512

7(88)小沢直与志編曲。三味線/静子、豊藤。上品でほのかなお色気がある澄んだ美声。管弦楽伴奏。△大森とよみCOCF-13285(96)山路進一編曲。年配の芸者さんの風情があり、声もよい。CRCM-1OO17(98)福田正編曲。三味線/豊藤、尺八/村岡実。ともに管弦楽伴奏。

「斉太郎節」(宮城)

♪(エンヤドット エンヤドット エンヤドット……)

松島のサァヨー 瑞(ずい)巌寺(がんじ)ほどの 寺もないトーエ

(アレワエーエ エートソリャ アコリャコリャー 大漁ダエー)

前は海サァヨー 後ろは山ヨ 小松原トーエ

(アレワエーエ エートソリャ アコリャコリャー 大漁ダエー)

節は岩手県の「気仙坂(けせんざか)」が変化したもの。歳(とし)徳(とく)神(じん)を祭る祝い唄として用いられるサイトクシン節がサイタラ節になり、銭座のストライキを指導した銭吹き職人・斉太郎の伝説と結び付いて「斉太郎節」となった。前唄に「どや節」、後唄に「遠島(としま)甚句」を付けて「大漁唄い込み」と呼ばれる。

安永六(1777)年、石巻の銭座(鋳銭場)で騒動が起こった。たたら踏みの作業人たち百五十四人が一団となり、作業条件の改善を要求して騒いだのである。その結果、南部領からやってきた斉太郎が騒ぎの首謀者として罰せられ、牡鹿(おしか)半島の突端、金華山(きんかざん)の近くに流される。この辺りは遠島(としま)と呼ばれ、流刑場とされていた。斉太郎は銭座で唄っていた銭吹き唄を、生来の美声で唄いながら漁に出た。漁師仲間はその唄を斉太郎節と呼んだという。

瑞巌寺の開創は天長五(828)年とされ、慶長九(1604)年、伊達政宗が再興に着手。慶長十四(1609)年に完成。現在、臨済宗妙心寺派に属している。松島は安芸(あき)の宮島、天(あま)の橋立(はしだて)と共に日本三景に数えられ、芭蕉(ばしょう)もことのほか愛した。『奥の細道』で「扶桑(ふそう)第一の好風……その気色容然として美人の顔を粧(よそお)ふ……造化の天工、いずれの人が筆をふるい詞(ことば)を盡さむ」と絶賛している。

§◎地元歌手BY30-5017(85)掛け声は男声。囃子言葉は女声。浜の唄らしく、漁師のおかみさんたちが加わって唄う仕事唄の感じがよく出ている。○三橋美智也KICH-2417(06)藤間哲郎作詩、山口俊郎編曲。囃子言葉/キング男声合唱団。管弦楽伴奏。澄んだ高音と絶妙の小節で唄う三橋(1930-1996)の民謡と歌謡曲は、昭和三十(1955)年代後半から始まった高度経済成長期、その労働力を担った地方出身の若者達の心を強く捉えた。それは、三橋の声と節が望郷の思いを癒す力を持っていたからである。

「嵯峨立甚句」(宮城)

♪唄いなされや 声張り上げて(チョイサ)

唄は仕事の ホンニ弾みもの(チョイチョイチョイサ)

音に聞こえし 嵯峨(さが)米は(チョイサ)

広い世間で ホンニままとなる(チョイチョイチョイサ)

北上川(きたかみがわ)の港町である嵯峨(さが)立(たち)は出船、入船でおおいに賑わい、船乗りたちは塩釜や石巻の甚句を港に持ち込んだ。登米郡(とめぐん)錦織村(にしこおりむら)(登米市東和町錦織嵯峨立)地方では、北西から吹き降ろす風を“さが”と呼び、船は“さが”が立つ日に出港することを“嵯峨だち”いった。

§○三浦かしくCF-3457(89)三味線/佐藤十九志、尺八/須藤喜一、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴子、囃子言葉/白瀬春陽、山下弥生。泥臭さを残す田舎のおばさんの迫力ある歌唱。前奏は「相馬二遍返し」と同様。

「さんさ時雨」(宮城)

♪さんさ時雨か 萱野の雨か

音もせできて 濡れかかる ショウガイナ(ハァ メデタイメデタイ)

この家座敷は めでたい座敷

鶴と亀とが 舞い遊ぶ ショウガイナ(ハァ メデタイメデタイ)

雉の雌鳥 小松の下で

夫(つま)を呼ぶ声 千代千代と ショウガイナ(ハァ メデタイメデタイ)

仙台を中心に、北は岩手県水沢市、東は山形県東部、南は福島県相馬から会津地方にまで唄われている。日本民謡のなかで最も格調の高い唄のひとつ。県下では「さんさ時雨」を唄い終わらないうちは、ほかの唄を唄ってはならないという不文律がある。山形県下では「ショオガイナ」、福島県会津地方では「会津めでた」の名で呼ばれている。

天正十七(1589)年六月、伊達政宗は会津の蘆(あし)名義(なよし)広(ひろ)と猪苗代(いなわしろ)湖(こ)の近くの摺(すり)上原(あげはら)で戦った。その折り、伊達一族の亘理五郎(わたりごろう)重宗(しげむね)が露営のつれづれに“音もせで茅野(かやの)の夜の時雨きて袖にさんさと降りかかるらむ”と詠んだ。政宗はこれを直ちに「さんさ時雨」に作り替え、陣中の兵士に唄わせたという伝説がある。

防府市(ほうふし)富(との)海(み)や、山口県美束(びたば)町(まち)の雨乞(あまごい)踊(おど)りの節回しにも似ていて、東京の足立区にはさんさ踊りの盆踊りがある。清元や常盤津にも取り入れられている。江戸中期以後のはやり唄が東北地方に入り、仙台を中心とする伊達領で祝い唄になったものか。

§◎赤間森水TFC-1201(99)囃子言葉不記載。手拍子で唄う本来の姿に素朴な野趣がある。囃子言葉は「三(さん)幅(ぷく)一対(いっつい)返して返して」。◎松(まつ)元木(もともく)兆(ちょう)COCF-13285(96)

三味線/武田歌子、高木義子、尺八/三浦兆漣、囃子言葉/加賀徳子、高橋桂子。土地の匂いと渋い雰囲気の名唱。お囃子なしの手拍子だけで唄うものがよい。○佐伯千恵子COCF-6547(90)声量と艶ある声で端正に唄っている。どことなく土の匂いがする。三味線/高木義子、小田良一、尺八/河村健三、八島一夫、囃子言葉/高橋桂子、早坂かおる。△星桃晃APCJ-5035(94)土地の爺様が唄う雰囲気。味と渋さがあり「しようがえな」のなまりに野趣がある。琴の伴奏が入る。△地元歌手BY30-5017(85)松元木兆か。スピード感があり、野趣と雅趣を備えた味ある声で、女声の囃子言葉も野趣があってよい。△衣川喜仁、佐藤寛一、菅沼文市、佐々木昌勝、鈴木吉記、三浦かしく、加賀徳子、峯岸とし子、千葉てい子FGS-602(98)三味線/武田歌子、高木義子、尺八/河村健三、斉藤勇一、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/大久保正子。男女の斉唱。手拍子だけで唄うと、もっと雰囲気が出せただろう。△求女、時千代COCF-12697(95)三味線/時栄、きぬ丸、鼓/かるた、太鼓/駒菊。仙台の花柳界調。かなり曲節を崩しているが、けだるい色っぽさを出して唄っている。

「塩釜甚句」(宮城)

♪(ア ハットセハットセ)

塩釜(ア ハットセ)街道に 白菊植えて(ア ハットセ)

何を聞く聞く アリャ便り聞く(ア ハットセハットセ)

千賀の(ア ハットセ)浦風 身にしみじみと(ア ハットセ)

語り合う夜の アリャ友千鳥(ア ハットセハットセ)

塩釜の遊廓で、漁師や船頭相手の遊女が唄っていた騒ぎ唄。九州天草の牛深(うしぶか)で生まれたハイヤ節が日本海を北上。各地の港へ置き土産されたが、青森の八戸(はちのへ)あたりの港へ入ったものは南部アイヤ節となり、さらに太平洋を塩釜まで南下して「塩釜甚句」となった。

塩釜は漁港で奥州一の塩釜神社の門前町。神社坂の下から西町本町まで遊郭が建ち並び、はるばる仙台から足を運ぶ客もあった。

仙台伊達家三代綱宗(1640-1711)は酒色に溺れ、江戸新吉原三浦屋の遊女高尾に振られた腹いせに、高尾を斬り殺す。そうした不行跡のために、在職わずか二年で二歳の亀千代(綱村1659-1719)に跡目を譲ることになる。そのために、仙台では遊興が禁じられ、遊廓を作ることも禁じられた。やむなく城下の人々は、塩釜街道を四里歩いて塩釜の遊廓へ通った。

§○我妻桃也(わがつまとうや)TFC-1210(99)三味線/桂桃寿、古屋桃優、尺八/長田勇吉、太鼓/菊池和左鶴、鉦/佐藤韶一、掛け声/我妻桃枝、杉山焼香。けれんみのない明るい歌唱。晩年の歌唱であろうか、声に往年の伸びがない。○峰岸利子VZCG-132(97)元気よく唄うが、高音が伸びない。三味線/本條秀太郎、本條寿、尺八/米谷(よねや)威(い)和男(わお)、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波駒千江、囃子言葉/西田和枝、山道依子、市川ツル乃。KICH-2464(05)三味線/藤本和夫、武田歌子、尺八/郷内霊風、鳴り物/熊谷寅雄、奥山幸三郎、囃子言葉/大久保正子。峰岸利子は昭和十四(1939)年仙台市生まれ。同二十八(1953)年、大西玉子門下となり、情緒ある三味線伴奏の唄に優れた味を発揮している。△加賀徳子COCF-9305(91)少々、迫力に欠けるが悪くない。三味線/高木義子、小田良一、尺八/河村健三、佐々木秀雄、囃子言葉/安藤とし子、高橋桂子。△菅原志美子APCJ-5035(94)穏やかな美声で、ほのかなお色気も漂わせている。お囃子方CD一括記載。

「十三浜甚句」(宮城)

♪(ハ ヨーイトサッサ ヨーイトサ)

ソリャ 一つ唄います ハァ十三浜甚句

地なし節なし オヤサ所節(ハ ヨーイトサッサ ヨーイトサ)

ソリャ 一つ唄う内ゃ ハァ遠慮もするが

唄い始めりゃ オヤサ幕引かぬ(ハ ヨーイトサッサヨーイトサ)

金華山の北方、宮城県桃生郡(ものうぐん)北上町(石巻市)の追浜(おっぱま)湾(わん)に面した十三(じゅうさん)浜(はま)地方に伝わる。同地の漁師が酒席の騒ぎ唄として唄っていた。唄は三陸沿岸一帯で広く唄われている浜甚句の一種で「遠島甚句」と同系である。「遠島甚句」は、大漁唄い込みの後唄となって洗練され、潮の香りが失われたが、この唄には漁師の酒盛り唄としての野生味が残っている。

十三浜は追波(おっぱ)浜(はま)、吉浜、月浜、立波浜、長塩谷(ながしおや)浜(はま)、白浜、小室浜、大室浜、小泊浜、相川浜、小指浜、大指浜、小滝浜の十三の浜をいう。

明治時代、北上川には蒸気船が就航していて、月浜から石巻までを往復していた。航路も相川や小滝まで延ばされて、バス輸送が本格化するまで活躍していた。明治二十二(1889)年、町村制施行に伴い、現在の北上町の原型となる橋浦村、十三浜村が誕生する。現在残されている最も古い国勢調査の記録は大正九年のもので、橋浦と十三浜の人口は5,358人だった。町西部は新北上川沿いに平坦地が開け、東部はリアス式海岸が続く。沖合いには鞍掛島、双子島、黒島などの島々が点在し、海洋一帯は南三陸金華山国定公園に指定されている。

§○衣川喜仁COCF-9305(91)三味線/藤本和夫、高木義子、尺八/郷内霊風、高橋平治、太鼓/熊谷寅雄、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。田舎臭い味のある声で、力まずさらりと唄うが作業唄としての迫力に欠ける。衣川は昭和十九(1944)年、登米郡米山町(登米市)生まれ。三味線の藤本和夫は昭和五(1930)年、宮城郡松島町生まれ。民謡伴奏者の育成に尽力している。○加賀徳子COCJ-30336(99)三味線/藤本和夫、高木義子、尺八/郷内霊風、高橋平治、太鼓/熊谷寅雄、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/佐伯千恵子。昭和十一(1936)年、石巻市に生まれた加賀徳子は、同二十五(1950)年、後藤桃水の門下となって民謡修行。天才少女歌手といわれた。△大久保敬志APCJ-5035(94)渋い美声に味もある。お囃子方CD一括記載。△小野くみ子COCF-13285(96)素朴で働き者の漁師のおかみさん。三味線/高木義子、小田良一、尺八/八島一夫、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。小野くみ子が唄のあとにユーモラスな囃子言葉を入れる。

「定義節」(宮城)

♪ハァー 定義定義とナー 七坂八坂(ハァ イッサカサッサ)

此処は定義か 良いところ 良いところ

(ハァ イッサカサッサ ヨイサッサ)

ハァーござれ七月ナー 六日の晩に(ハァ イッサカサッサ)

二人揃うて 縁結び 縁結び

(ハァ イッサカサッサ ヨイサッサ)

仙台市内から国道48号線を山形方面に向かい、大蔵ダムを越えてしばらく行くと“じょうげさん”と呼ばれて古くから信仰されている浄土宗の寺・極楽山西方寺(仙台市青葉区大倉字上下)がある。旧暦七月七日の縁日ともなると、その前夜の夜(よ)籠(ごも)りで大勢の参詣人同士が即興の歌詞を作り、掛け合いで唄った。

西方寺は壇ノ浦の合戦に敗れた平(たいら)貞(のさだ)能(よし)(定義)が、天皇をはじめ平氏一門の菩提を弔うために開いたとされ、周辺には天皇塚、大臣塚、屋敷平など、平家にちなんだ地名や塚が残っている。仙台市民にとっては、子授かり、縁結びの寺として馴染み深い寺である。近くに湯治場の定義温泉がある。

§○加賀徳子COCJ-30336(99)お囃子方は不記載。美声を張り上げ、元気いっぱいに唄っている。

「新さんさ時雨」(宮城)

♪萱の根方に そと降る雨は

音も立てねば 名も立たぬ

音も立てねど 萱野の雨に

思い増す穂は 色にでる ショウガイナ

刈田仁作詩、武田忠一郎作曲。戦前、東北民謡屈指の名曲である「さんさ時雨」を母体にして、東北民謡研究の第一人者である武田忠一郎(1892-1970)が作曲。後藤桃水は、この唄が歌謡曲調であるのを嫌い、発表の場を与えなかったという。

昭和二十八(1953)年、武田の妻である民謡歌手・大西玉子(-1993)がレコードに吹き込み、民謡が流行歌調に傾き始めるようになると次第に唄われるようになった。

武田忠一郎は東北民謡を五線譜に記録した日本最初の研究者であり「東北民謡集」全六巻の大著を遺している。

§○三橋美智也KICH-2417(06)編曲/小町昭。三味線/藤本秀輔、藤本秀也。長く歌謡曲のトップスターに君臨した三橋だけあって、爽快感のある美声と味わい深い節回しは絶妙。○加賀徳子COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一。ちょっと気取った素朴な歌唱。○安藤とし子COCF-9305(91)三味線/高木義子、小田良一、尺八/河村健三、平井一司。声に色気があり結構うまい。△米谷威和男KICH-2464(05)三味線/藤本秀輔、藤本秀心、琴/山内喜美子。小町昭編曲。琴、鼓が効果的。開放的で鼻にかかった艶のある美声。米谷(-2000)は仙台市出身。中学生の頃から尺八の郷内霊風に師事。上京して三味線の藤本e丈の内弟子となり、全国の民謡を習得した。妻は民謡歌手の小杉真貴子。

「摺臼(するす)ひき唄」(宮城)

♪するす挽き サーヨーイ楽だと見せて 楽じゃない

何仕事サーヨーイ 仕事に楽が あらばこそ

(ハァ イヤサカサッサ)

籾摺りのことを”するすびき”という。県北部の仙北地方で唄われる。歌詞に岩手県のものと共通のものが多いのは“南部手間取り”と称する岩手県から出稼ぎにきた人々が伝えたためだ。臼挽きは夜なべ仕事だったため、即興で面白い唄を唄うことで眠気を払った。

§○熊谷一夫COCF-10466(92)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/高橋桂子、早坂かおる。

「銭吹き唄」(宮城)

♪松島のサァヨー 瑞巌寺ほどの 寺もない

前は海サァヨー 後ろは繁き 小松山

享保十三(1728)年、江戸幕府は石巻に銭座を作る。鋳銭作業に従事する人々の多くは旧南部領の人たちだった。貨幣鋳造の際、鉱石を溶かす炉に風を送る鑪(たたら)職人は、故郷の気仙坂を唄いながら鑪を踏んだ。いつしかその唄が定着して仕事唄に変わっていく。幕府が倒れると銭座も廃止となったが、唄は各地の鉱山で構内に風を送る作業に従事する者や、鍛冶屋が唄っていた。今では銭を造る時の唄であるところから、めでたい唄、祝い唄として唄われている。雅趣ある曲調で「斉太郎節」の元唄である。

§◎松元木兆COCF-13285(96)尺八/三浦兆漣。味と渋さのある声。TFC-1209

(99)尺八/佐藤錦水。若い頃の唄。○加賀徳子CRCM-1OO17(98)尺八/河村健三。美声ではないが野趣ある歌唱。

「仙台節」(宮城)

♪伊達な仙台 青葉に参詣

一の松島 金華山 ソリャ金華山

ぜひ一度は 来て見さえん

さんさ時雨か おいとこそうだ

浜にゃえんころ 島甚句 ソリャ島甚句

ぜひ一度は 来て見さえん

後藤桃水(1880-1960)が作詞、作曲した仙台名所づくしの俗謡。唄の文句にある青葉神社は、伊達政宗を祀り、明治七(1874)年に建立された。毎年五月には仙台青葉まつりが行われている。

金華山(きんかさん)は牡鹿(おしか)半島の東南約1`の洋上に浮かぶ周囲26`の島。面積は約1000f。山頂までは445bあり、野生の鹿や猿が生息している。

§○佐伯千恵子COCJ-30336(99)三味線/武田歌子、高木義子、尺八/高橋平治、太鼓/熊谷寅雄、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/高橋桂子。癖のない穏やかな歌唱。太鼓の熊谷寅雄は大正三(1928)年、黒川郡大和町生まれ。昭和二十二(1947)年、大西玉子主宰の民謡大西会会員となり、鳴り物の師範を勤める。

「仙台松坂」(宮城)

♪これの館はめでたい館 鶴と亀とが舞い遊ぶ

めでた嬉しや思うこと叶うた 末は鶴亀五葉の松

全国で祝いの席で唄われた松坂のひとつ。伊勢の唄である松坂が仙台に持ち込まれた。新潟の松崎謙良が唄った松坂が、瞽女や座頭たちによって伝えられたとも考えられる。現在では、仙台市内よりも山間部に残されている。唄の文句は全国の祝い唄にみられる共通のもの。

§○大沼真喜雄CF-3457(89)尺八/亘理平治。枯れた声に味がある。

「仙台めでた」(宮城)

♪めでためでたの 若松様ヨ

枝も栄えて 葉も繁るヨ おめでたや ヨーイヤナー ヨーイヤナー

(ハァ メデタイメデタイ)

この家旦那さま お名をば何と

蔵は九つ 蔵之助 おめでたや ヨーイヤナー ヨーイヤナー

(ハァ メデタイメデタイ)

正月にやってくる門付けの祝い唄。年の初めに縁起の良い言葉を言ったり聞いたりすると、一年が運の良い方向に開くという縁起かつぎが庶民の中にある。門付け芸人たちは、めでたい言葉を唄い囃して家々を回った。こうした門付けは、大正の中期ごろまで全国で見ることができた。

§○近藤恵子APCJ-5035(94)お囃子方の名はまとめて記載してあるため、個々の唄についてのお囃子方の名は不明。けれんみなく唄っていて曲想もよし。

「仙北麦搗唄」(宮城)

♪ハァー麦も搗き柄 お手合わせ柄だよ(ハァ ドッコイサッサト)

嫁は姑の ならし柄よ(ハァ ドッコイドッコイサッサト)

ハァー臼は唐臼 とんがり杵でよ(ハァ ドッコイサッサト)

それで搗けない 鬼麦だよ(ハァ ドッコイ ドッコイサッサト)

唄うことで眠気を払い、調子が整えられて作業もはかどった。

§○熊谷一夫COCF-10466(92)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/高橋桂子、早坂かおる。仕事唄の雰囲気がよく出ている。

「線路搗き固め音頭(保線音頭)」(宮城)

♪トコ始まる コラショット

コラシャント コラシャント ホイシャント コラシャント……

ホイお次は ホラお次ぎはホイ 出るぞ ホラ出るぞ

ホイシャント コラシャント コラシャント コラシャント

ホイ朝から ホラ朝から ホイ晩まで

コラ晩まで ホイすくの コラすくの

ホイあの娘のホラ あの娘のホイ ためだぞ ホラためだぞ

コイシャント コイシャント

ビーターで線路の石を搗き固める作業で唄われる。道床搗き固め音頭、ビーター搗き音頭、トコショット音頭とも呼ばれる。ビーターは、一方の先端がへら状になっているツルハシに似た工具。枕木とレールを支えている道床と呼ばれる土台は、鉄道誕生の当初から、砕石(バラスト)が使われてきた。道床は列車の走行や季節、天候などの影響で、不均等に沈下したり隆起したりする。それを修正しないでおくと線路がゆがみ、大きな事故につながりかねない。

道床の搗き固めは大変な重労働であった。標準作業では、枕木一本に四人の搗き手が立ち、レールと枕木の交差するところを中心に搗き込んでいく。搗き手が四人、同じ方向を向く場合を並列搗き。レールの外側に立つ二人と、レールの内側に立つ二人が向き合う場合を襷(たすき)搗きという。搗き込んだあと、搗き手は向きを変え、同じ枕木の逆側を搗く。保線労働が機械化されると、この作業はなくなり唄も消えた。

気仙沼市(けせんぬまし)出身の橋本克彦(1945-)は、この音頭を追って『線路工手の唄が聞こえた』を著し、昭和五十九(1984)年に第15回大宅ノンフィクション賞を受賞している。

§○路線搗固め音頭保存会KICH-2023(91)阿部賢治(親音頭)、福来義吉(受音頭)他。仙台鉄道管理局のOB達が唄っている。

「大漁唄い込み」

<祝詞(お祝い)>

オォイ オォホーイ

これより海上安全を 神々に祈願いたす

船には お舟大膳 沖には 沖の明神

岸には金毘羅大権現 東には黄金山神社

西には奥州一の宮 塩釜神社

この神々 海上安全 家内安全を守りたまえ

<どや節>

♪今朝の出船に(エーエー ヨーイトコラサ)花が咲き揃うホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

戻る船には(エーエー ヨーイトコラサ)実が生まるホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

<斉太郎節>

♪(エンヤドット エンヤドット エンヤドット……)

松島のサァヨー 瑞巌寺ほどの 寺もないトーエ

(アレワエーエ エートソリャ アコリャコリャー 大漁ダエー)

前は海サァヨー 後ろは山ヨ 小松原トーエ

(アレワエーエ エートソリャ アコリャコリャー 大漁ダエー)

<遠島甚句>

♪(ハァ ヨーイヨーイ ヨーイトナ)

ハァー 押せや 押せ押せ(コラサッサト)

コラ 二挺櫓で 押せや

押せば 港が(コラサッサト)

アレサ 近くなる

(ハァ ヨーイヨーイ ヨーイトナ)

松島沿岸の漁師たちが鰹(かつお)漁(りょう)に出るとき、海の神に大漁を願って唄い、大漁で湾内に漕ぎ戻るときに唄った。

東北民謡の父と称された後藤桃水が、桃生郡雄勝町の漁師が唄う「斉太郎節」を聴いて唄を工夫。昭和三(1928)年、赤間政夫と松元木兆の掛け声で八木寿水に唄わせ、NHK仙台局の開局記念の際に発表した。その後、同二十八(1953)年、NHKのど自慢全国コンクールで、桃水門下の我妻桃也が八木寿水と赤間政夫の掛け声で唄って優勝すると、日本の海を代表する唄として全国に知られるようになった。

§◎赤間森水(斉太郎節〜遠島甚句)TFC-1201(99)音源はSP盤。伴奏者、囃子言葉は不記載。赤間政夫の素朴な味は余人を以て代え難い。◎松元木兆(斉太郎節〜遠島甚句)TFC-1209(99)三味線/宮木繁、宮木繁久、尺八/矢下勇、太鼓/山田三鶴、鉦/山田鶴貴美、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春恵、白瀬光子。野趣、味、強さ、申し分なし。△鈴木正夫(斉太郎節〜遠島甚句)VZCG-132(97)父親譲りの名調子で爽快感がある。三味線/静子、豊静、編曲/小沢直与志。管弦楽伴奏。

「田ならし唄」(宮城)

♪春が来たエーエ ソーリャ春が来た

こんこん小雨の 降るなかをエー

(こんこん小雨の 降るなかをエー)

鶯はエーエ ソーリャ声がよい

どこで生まれて 声がよいナー

(どこで生まれて 声がよいナー)

田ならしは田植え前の仕事。デコボコしている田の表面を平らにならす作業のこと。水を張った田で、水と土をよくまぜて稲が育ちやすくする代(しろ)掻(か)き作業が終わると、ハシゴや長い木の柱にロープをつけて田んぼの中をひっぱり、高い部分の土を低い部分へ運んで田を平らにする。

田植えは北が早く南が遅いものだが、最も早いのは沖縄県の三月で、最も遅いのは佐賀県の六月である。

§○衣川喜仁COCJ-30336(99)伴奏者不記載。味と野趣があり、丁寧な歌唱に爽快感がある。曲想も秀逸。

「遠島甚句」

♪(ハァ ヨーイヨーイ ヨーイトナ)

ハァー押せや 押せ押せ(コラサッサト)

コラ二挺櫓で 押せや

押せば 港が(コラサッサト)

アレサ 近くなる

(ハァ ヨーイ ヨーイ ヨーイトナ)

牡鹿(おしか)半島(はんとう)突端にある金華山付近には、大小十の島々があって、これを十(と)島(しま)と呼ぶ。この十島にいつしか遠島の字があてられた。金華山の漁場では、県沿岸部一円の漁村で唄われてきた浜甚句が、艪(ろ)漕(こ)ぎ唄として唄われていた。その唄は遠島甚句と呼ばれ、いつまでも唄と踊りが尽きないほど唄の文句がたくさんある。本吉甚句、十三浜甚句、石投げ甚句などの甚句の中で、この唄は最も洗練された美しい節回しを持っていて「大漁唄い込み」の後唄として唄われている。

日本屈指の漁場である金華山沖から、捕れた魚の鮮度を落とさないように、懸命に船を漕いで港を目指す漁師たちの姿が彷彿(ほうふつ)する。

§◎赤間森水TFC-1201(99)「斉太郎節〜遠島甚句」音源はSP盤。お囃子方不記載。素朴な味と野趣に民謡が持つ本来のよさがある。○松元木兆

COCF-12697(95)お囃子方不記載。古い貴重な音源。△藤原義則APCJ-5035(94)「斉太郎節〜遠島甚句」お囃子方はCD収録曲一括記載。

「どや節」

♪今朝の出船に(エーエー ヨーイトコラサ)花が咲き揃うホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

戻る船には(エーエー ヨーイトコラサ)実が生まるホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

大鮪(しび)エー小鮪(エーエー ヨーイトコラサ)唐丸に満船させて

(エーエー ヨーイトコラサ)

御船丸様に(エーエー ヨーイトコラサ)獲物を供えてホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

五色の印を(エーエー ヨーイトコラサ)立て申しホホエード

(エーエー ヨーイトコラサ)

塩釜港に(エーエー ヨーイトコラサ)走り込むホホエード

(アリャリャリャン)

<島甚句>

ハァー沖の黒潮(ハァ ヨイトサッサ)

ハァ矢のように速い 可愛い船頭衆のコラノヤー

ホンニ度胸だめし(ハァ ヨーイヨーイヨーイトサ)

松島港あたりで唄う大漁祈願の唄。どやの意味については、鋳物の精錬場を意味する炯屋(とや)、祝い事の当番になった当家などとする説がある。岩手県では「大漁御祝い唄」として唄われている。

§◎我妻桃也TFC-1210(99)「どや節〜島甚句」効果音/古屋桃優、石川桃星、掛け声/桃也会。我妻桃也(本名/久松=きゅうまつ1916-2009)は、宮城郡七ヶ浜町の農家の三男坊として生まれた。昭和二十(1945)年ごろから本格的に民謡を志し、後藤桃水の門を叩いた我妻は、町工場で働きながら精進を重ねた。当時、桃水門下には菊池淡水、鈴木正夫、松元木兆、赤間政夫といった錚々たる面々がいた。NHKのど自慢全国大会で「大漁唄い込み」を唄って美声が知られ、その後、宮城県民謡振興会の代表となり、加賀徳子、原田直之などを育てた。平成三(1991)年には、日本民謡協会から最高の称号「名人位」を受けている。○熊谷(くまがい)一夫(かずお) COCJ-30

336(99)「どや節〜島甚句」囃子言葉/地元連中。COCF-10466(92)「どや節〜島甚句」お囃子/地元連中。エンヤドットの掛け声入り。

「長持唄」(宮城)

♪ハァー今日はナァー 日もよし ハァー天気もよいし

結びナァー 合わせてヨ ハァー縁となるナーエ

ハァー蝶よナァー 花よとヨ ハァー育てた娘

今日はナァー 晴れてのヨ ハァーお嫁入りだエー

仲人を先頭にして歩く花嫁道中で、花嫁の箪笥(たんす)や長持ちを担ぐ男衆たちが荷物を杖で支えて唄った。力持ちで美声の男衆は、婚礼行事で重要な役回りをしていた。村境では婿方の出迎え人が出て、会話代わりの唄でやりとりをする。もとは街道の雲助たちが唄う雲助唄だった。参勤交代の人足に駆り出された農民たちが唄を覚え、地元に持ち帰った。日本各地の長持唄はほとんど同系統だが、仙台の北方の黒川郡や、桃生郡(ものおぐん)で唄われる仙北の長持唄は最も美しい。黒川郡大郷町の赤間政夫が戦前から紹介。他県のものと区別するために「宮城長持唄」と呼ばれる。

§◎赤間森水COCF-13285(96)尺八/久保田輝峰。TFC-1201(99)お囃子方不記載。○鈴木昌桃COCJ-30336(99)尺八/菊池淡水、西村淡笙。枯れた声で土地の匂いを出し、少し低めの声で端正に唄っている。やたらに声を張り上げて唄わないところに好感が持てる。△菅井兆月CRCM-1OO17(98)FGS-602(98)尺八/郷内霊風。VDR-25127(88)尺八/大友兆河漣。土の匂いがする長持唄。

「夏の山唄」(宮城)

♪ハァー鳴くな ちゃぼ鳥 ハァーまだ夜が明けぬ

明けりゃ お山のナァ 鐘が鳴る

ハァー独り 徒然(とぜん)だ ハァーこの山道を

一声 啼かんせナァ ほととぎす

宮城、桃生、黒川郡の農村で、夏草刈りの往来に唄われていた草刈り馬子唄の一種である。薪にする雑木切り(かくま刈り)の時に唄う。酒盛り唄の甚句が野外で唄われるうち、のんびりとした節回しになったものか。

松島北方の品井沼で、菱取りが行われていた明治の末頃まで、菱取り唄としても唄われていた。戦前に後藤桃水が命名。日々、労働で疲れた体を、睡眠で取り戻そうとしている農家の人々の心情がうまく吐露された秀歌。美声に頼らず、素朴な仕事唄の雰囲気を出して唄って欲しいものだ。

徒然は“つれづれ”の漢語。中世に使われた“徒然”が東北に残っていて、物寂しい、退屈だとの意味で使われている。

§○鳴子勝栄APCJ-5035(94)労働者の唄っぽく渋い美声。△我妻桃也

TFC-1210(99)尺八/長田勇吉。発声に強弱を付けると、爽快感が失せる。TFC-905

(00)エコーの掛け過ぎ。伴奏者不記載。△熊谷一夫COCF-10466(92)尺八は二管。COCF-13285(96)尺八/郷内霊風。△吉沢浩KICH-2464(05)尺八/郷内霊風、米谷威和男。エコーがわざとらしい。

「萩刈り唄」(宮城)

♪ハァーエ 粋な小唄で 萩刈る主のヨー

お顔見たさに 廻り道ヨー

ハァーエ 音に名高い 宮城の萩はヨー

馬コ育てる 元草だヨー

県北の加美郡一帯で唄われる草刈り唄。晩秋の頃、根本から刈り取った萩は、乾燥させて冬期の農耕馬の飼料にした。

ハギは、葉が小さい歯牙のようであることから“歯木”と呼ばれ、やがて萩の字があてられたという。細い茎に小さな葉を密生させ、赤い小さな花をいっぱいつけている姿は、たおやかな風情でありながらも、内に秘めた逞しさを感じさせる。万葉集のなかで詠まれた植物は、梅を抜いて萩が最も多い。萩が古くから日本人の心をとらえてきたことがわかる。

§○及川政芳COCJ-30336(99)いい味を出している。尺八/高橋平治、亘理幸治。△星桃晃APCJ-5035(94)素朴で味のあるお百姓さんの雰囲気を感じさせる。お囃子方不記載。

「浜甚句」(宮城)

♪ハァー大島(しま)で なんだれ

エー手拭い帯に 伊達が流行か オヤッサ締め通す

ハァ イッサイパラリト パラットセ

ハァー気仙 気仙沼の ハァ烏賊釣り船は

烏賊も釣らねで オヤサ女郎を釣る

ハァ イッサイコレワイ パラットセ ダイナンオキカラ パラットセ

島節とも呼ばれ、気仙沼地方一帯で唄われる甚句。かつて青森県で唄われた茶屋甚句や、福島県の二遍返しの元唄のようである。

§○成田雲竹COCJ-30669(99)三味線/高橋竹山。

「豊年こいこい節」(宮城)

♪今年ゃエー(コイコイ)今年ゃ豊年 穂に穂が咲いて

道の小草に 米がなる (豊年満作 サッサトコイコイ)

今年ゃエー(コイコイ)今年ゃ豊年 案山子を急げ

渡り雀の こないうちに (豊年満作 サッサトコイコイ)

豊年予祝と祈願の唄。大正の末期頃まで、毎年春になると鉦、三味線を持ち“豊年万作さっさとこいこい”と賑やかに囃しながら、仙台近郊の農家へ豊作祈願をして歩く門付け芸人の一団があった。門付け芸人たちが唄う“こいこい節”を後藤桃水が編曲。昭和十五(1940)六年頃、赤間政夫に覚えさせ、以後、赤間の唄で広まっていった。曲調に優れ、仕事唄の雰囲気と楽しさが横溢した佳曲である。同系統の唄として、静岡県に「大漁こいこい節」が残っている。

§○熊谷一夫COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。往年の艶ある美声に頼ることなく、民謡本来の楽しさと味わいの歌唱となっている。○加賀徳子VZC

G-132(97)野趣。土臭い。尺八/米谷威和男、三味線/藤本秀輔、藤本秀忠、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴助、囃子言葉/飯田優子、白瀬春子。元気いっぱいの村娘の雰囲気。○佐伯千恵子CF-3457(89)三味線/武田歌子、高木義子、尺八/高橋平治、亘理幸治、太鼓/熊谷寅雄、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/加賀徳子、高橋桂子。素朴な野趣と土の匂いがあり、仕事唄の雰囲気をよく出している。囃子言葉もよい。鉦の奥山幸三郎は、明治四十一(1908)年、宮城町生まれ。昭和二十五(1950)年、大西会の会員となり、唄、尺八、鳴り物を習得。△本郷千代子CRCM-1OO18(98)三味線/武田歌子、大西玉子、高木ヨシ子、尺八/郷内霊風、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/大久保正子、佐々木みどり。野太く土の匂いがする野趣ある声。

「宮城願人節」(宮城)

♪奥州ナー 仙台伊達様の城下ネー

名所道中でいうたなら 朝日に輝く青葉城(アツイートーツイトー)

もとを流るる広瀬川 榴ヶ(つつじが)岡(おか)へ桜見に(アツイートーツイトー)

宮城野原の萩の露 忠義は政岡千松よ(アツイートーツイトー)

相撲じゃ谷風待乳山(まつちやま) ちょっと離れて蒙古の碑

(アツイートーツイトー)

願人(がんにん)坊主(ぼうず)が唄い回った。青葉城に始まり、広瀬川、榴ヶ岡の桜、宮城野原の萩、谷風、待乳山など、仙台の名所が次々に綴られて唄われていく。

§○佐伯千恵子COCF-13285(96)三味線/高木義子、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/高橋桂子、熊谷一夫。軽快な調子で、願人坊主の唄の雰囲気を出して唄っている。

「宮城在郷節」(宮城)

♪春の成瀬はヨ 水さえ澄んで

のぼる小魚も そよそよと

(ヤンソーレ ヨーンヤトコ ドッコヤセー)

湧谷水田のヨ 菅笠姿

遠く絵になる 田植え唄

(ヤンソーレ ヨーンヤトコ ドッコヤセー)

昭和十(1935)年頃、日本民謡協会初代理事長・浦本浙(せっ)潮(ちょう)作詞、後藤桃水作曲。

§○熊谷一夫COCF-10466(92)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。

「宮城田植え唄」(宮城)

♪これから頼むぞ(ヨイサト)箆岳さまヨー(ヨイトー サッサト)

良い作とらせて(ヨイサト)給われヨー(ヨイトー サッサト)

お礼参りは(ヨイサト)二人連れ(ヨイトー サッサト)

ござれ来なされ(ヨイサト)二十日頃ヨー(ヨイトー サッサト)

二十日宵闇(ヨイサト)暗くとも(ヨイトー サッサト)

“ささにしき”は宮城県産のブランド米だ。仙台では古くから良質の米作りが行われ、田植え唄も数多く残っている。仙台を中心にして、仙南、仙北に広がる広大な水田から収穫される米は、仙北方面からは北上川、鳴瀬川を通って石巻に運ばれる。仙南の米は阿武隈川を通って亘理郡(わたりぐん)の荒浜に運ばれた。海路、茨城県の那珂湊(なかみなと)へ運ばれた米は、さらに利根川を経て江戸に運ばれると、宮城の米は江戸の人々から本石(ほんごく)米(まい)と呼ばれ、人気を呼んだ。

§○熊谷一夫「田植唄」COCF-10466(92)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/早坂かおる、高橋桂子。○三浦かしくCRCM-1OO17(98)尺八/斎藤勇一、掛け声/大久保正子。素朴で野趣のある歌唱で、作業唄の雰囲気を自然に出している。

「宮城野盆唄」(宮城)

♪ハァーヤーレン 竹に雀は しなよくとまる(ア ドウシタネ)

踊り上手は 踊り上手は サァ目にとまる

サァーアハ 踊り上手は アレサナ目にとまるヨ

(ア ソウトモ ソウトモ ソウトモネ)

伊達家三代目綱宗(1640-1711)は、江戸新吉原三浦屋の遊女高尾との確執で恥を天下に晒(さら)した。その不行跡を問われ、在職三年で二歳の亀千代に跡目を譲る。こんなことから、伊達藩では盆踊りなどの歌舞遊興を禁じ、風紀紊乱(びんらん)がないように引き締め政策が行われた。そのために県下に盆踊りらしきものはほとんど見あたらない。福島県寄りの地方では、相馬盆唄系の唄が豊年踊りの名のもとで唄い踊られていた。

戦後、仙台の盆踊りを作ろうということで、渡辺波光が作詞、NHK仙台放送局の佐藤長助が作曲したものを武田忠一郎がまとめあげた。唄は武田の妻である大西玉子が唄って普及した。

§○米谷威和男KICH-2013(91)三味線/藤本秀輔、藤本秀心、囃子言葉/西田和枝、西田和弥。小町昭編曲。穏やかで味のある歌唱。○加賀徳子VDR-25153(88)笛/米谷威和男、三味線/武田歌子、原田真木、太鼓/山田鶴三、鉦/山田鶴助、囃子言葉/佐藤勝子、山内玉美。元気な歌唱。三味線の武田歌子の父は武田忠一郎、母は大西玉子。昭和十四(1939)年仙台市に生まれる。

「宮城馬子唄」(宮城)

♪(ハーイハイ)

ここは(ハーイ)ハァー登谷坂(ハーイ)

ハァー御番所(ハーイ)どこよ(ハーイハイ)

もはや涌谷も(ハーイ)エー 近くなる(ハーイハイ)

雨が(ハーイ)降れども(ハーイ)

ハァー逗留は(ハーイ)ならぬ(ハーイハイ)

明日は(ハーイ)南部の(ハーイ)馬の市(ハーイハイ)

長野県の「小諸馬子唄」が宮城県に入って「宮城馬子唄」となった。昭和三十年代中ごろ、農業従事者としての味を失わぬ赤間政夫がレコードに吹き込み、東北の代表的な馬子唄となった。

§◎赤間政夫CF-3457(89)尺八/菊池淡水。素朴な味わいと雰囲気は、余人の及ばないところ。名人・菊池淡水(1902-1990)の尺八もよい。○菅井兆月VZCG-132

(97)尺八/菊池淡水、郷内霊風、掛け声/佐藤更司。味のある爺様の声。菊池(きくち)淡水(たんすい)と郷内霊風の尺八の技も冴えている。郷内霊風は大正五(1916)年、名取市生まれ。昭和十三(1938)年、琴(きん)古流(こりゅう)尺八清風会の広門伶風に師事。同二十五(1950)年、松本木兆、大西玉子らと民謡研究を深め、同三十(1955)年、広門伶風から霊風の雅号を授与されている。△衣川喜仁COCF-13285(96)のさびた声に爽快感がある。尺八/佐々木秀雄、掛け声/丹野貞利。△吉沢浩KICH-8404(00)尺八/米谷威和男、掛け声/小野花子。

「宮城麦つき唄」(宮城)

♪ハァー麦も搗きがら お手汗がらだよ

(ハァ ドッコイサッサド)

嫁は姑の 馴らしがらよ

(ハァ ドッコイサッサド)

昔、夏の暑い時期、朝早くから集まって、臼に入れた麦を大きな重い杵で搗く仕事があった。麦の精白が目的で、屈強な男五人以上で力をこめて搗いた。

§○衣川喜一COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、斉藤勇一、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。味があり、素朴さもよい。囃子言葉も力強くて元気がよい。

「文字甚句」(宮城)

♪甚句 アラ出た出た 座敷が狭い(チョイサ)

狭い アラ座敷も サアサ広くなる

(ハイハイ ハイハイチョイサ)

わしとお前は 焼け野の蕨

蕨焼けても サアサ芽が残る

(ハイハイ ハイハイチョイサ)

明るくはずんだ騒ぎ甚句。栗駒山麓の南の裾野に広がる栗駒町(くりこままち)(栗原市)の文字(もんじ)地域は、昔は秋田に通じる羽後(うご)岐(き)街道(かいどう)の番所があったところだ。今では「文字甚句」と日本最古の染色技法である正藍(冷)染めの里として知られている。

秋田県由利郡鳥海町(ちょうかいまち)(由利(ゆり)本荘市(ほんじょうし))百宅(ももやけ)出身の吉田若丸(1858-1928)は、明治の前期に猿倉人形芝居を創始して各地を巡業、人々の心を慰めていた。戦前、栗駒に置き土産された「秋田人形甚句」を、栗駒町の菅原信一が新しく練り直してできた唄。

栗駒山(1626b)は東北地方のほぼ中央に位置し、宮城、岩手、秋田の三県にまたがっている名峰。栗駒山の南東麓に位置する大土ヶ森(580m)は、その姿から「文字富士」と呼ばれる。

§○安藤とし子COCJ-30336(99)味があり、若さと色気を感じさせる。伴奏者は記載されていない。△加賀徳子、佐伯千恵子COCF-13285(96)三味線/武田歌子、高木義子、太鼓/熊谷寅雄、尺八/高橋平治、亘理幸治、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/高橋桂子。加賀は少々声量が足りないか。

「閖上大漁節」(宮城)

♪今朝の日和は 空晴れ渡り(チョイチョイ)波静かエー

アラエーエ エノソーリャ またも大漁だエー

(ハァ エンヤサー エンヤサ)

船出せ出せと 乗り子も揃い(チョイチョイ)いでて行くエー

アラエーエ エノソーリャ またも大漁だエー

(ハァ エンヤサー エンヤサ)

仙台の東、名取川が仙台湾に注ぐ河口の町・名取市閖(ゆり)上町(あげまち)に伝わる祝い唄。鰹(かつお)漁(りょう)の大漁を祝い、網元や船主の家などで手拍子も賑やかに唄われる。曲は「大漁唄い込み」と同系で、この種の大漁節は岩手県から福島県に至る海岸部で広く唄われていた。岩手県の「気仙坂」が三陸海岸の宮古(みやこ)から宮城県の金華山(きんかざん)周辺の漁村に入り、次第に南下して、宮城県笠浜から福島県相馬市(そうまし)原釜(はらがま)でも唄われるようになった。

§◎松元木兆TFC-1209(99)三味線/立石利夫、原田真木、尺八/郷内霊風、矢下勇、笛/米谷威和男、太鼓/三波三駒、三波駒三郎。○星桃晃APCJ-5035(94)味、渋さ、野趣があり、素朴な爺様唄の雰囲気が出ている。お囃子方CD一括記載。△菅井兆月COCF-13285(96)素朴な声で枯れた味がある。三味線/武田歌子、高木義子、尺八/三浦兆漣、亘理幸治、鉦/奥山幸三郎、囃子言葉/加賀徳子、佐藤勝子。△泉沢芙美子CRCM-1OO17(98)三味線/武田歌子、高木ヨシ子、尺八/郷内霊風、太鼓/熊谷寅雄、鉦/奥山幸三郎、掛け声/大久保正子、佐々木みどり。ちょっと投げやり調。

「よいとさ節」(宮城)

♪よいと よいとさとヨー

七棹八棹 今度来る嫁 実(じつ)宝持ち

(今度来る嫁 宝持ち ソラヨーイトサ)

よいと よいとさとヨー

野深山越えて 可愛い初嫁 実里帰り

(可愛い初嫁 里帰りソラヨーイトサー)

§○安藤とし子COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一、尺八/河村健三、佐々木秀雄、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/高橋桂子。

「涌谷(わくや)お茶屋節」(宮城)

♪お茶やお茶やと 皆様お茶屋

お茶屋に(コラショ)桜があればこそ

(サーサコラコーラ)

涌谷花の町 安芸様の御城下

お茶や(コラショ)お茶やと茶屋繁昌

(サーサコラコーラ)

遠田郡(とおだぐん)涌谷町(わくやちょう)は日本で最初に金を産出した地で知られる。奈良東大寺の大仏に鍍金(めっき)された金は、涌田の砂金が使われた。元禄元(1688)年、徳川将軍綱吉は、仙台藩四代藩主伊達綱(つな)村(むら)(1659-1719)に日光東照宮の修営を命じた。湧谷伊達家三代宗元(むねもと)(1642-1712)が修理総奉行の任に当たる。宗元の妻は夫の労をねぎらうために、涌谷城の北にある下郡(しもごおり)沼(ぬま)南岸に二楽亭を新たに造り、夫の帰任を待った。二楽亭の名は、十一代義基が山も水も共によいという意味で命名した。二楽亭は村人たちに開放され、春の桜の季節ともなると、人々はこの唄を唄って領主を称えたという。

唄の文句にある安芸(あき)様とは、湧谷伊達家二代目当主・伊達安芸宗(むね)重(しげ)(1615-1671)のこと。二歳で仙台藩四代藩主となった綱村を擁した一門筆頭の伊達宗勝(1622-1678)は、家老の原田(はらだ)甲斐(かい)(1619-1671)と共謀して藩政をほしいままにした。これに伊達安芸らが反発して両派の対立が深まる。寛文十(1671)年、大老酒(さか)井(い)雅楽頭(うたのかみ)忠(ただ)清(きよ)(1624-1681)の屋敷で原田甲斐は伊達(だて)安芸(あき)に斬りかかる。この伊達騒動(寛文事件)は、後に歌舞伎の「伽羅(めいぼく)先代(せんだい)萩(はぎ)」として演じられた。

§○加賀徳子COCF-13285(96)三味線/高木義子、小田良一、尺八/広岡誠、太鼓/及川勝右衛門、囃子言葉/佐伯千恵子、高橋桂子。雅趣があり、曲想もよい。

posted by 暁洲舎 at 00:12| Comment(0) | 東北の民謡
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