PDFファイル(原本) CDで聴くふるさとの唄_01解説本文02青森_20-05-25.pdf
「鰺(あじ)ヶ沢甚句」(青森)
♪西の八幡(はちまん)港を守る 主の留守居はノオ嬶(かか)守る
ソリャ嬶守る 留守居はノオ嬶守る
(ヤーアトネー ヤーアトセー)
北前船は大阪方面から瀬戸内海を通り、下関を回って日本海を北上、北海道の松前へ向かう。その寄港地・鰺ヶ(あじが)沢(さわ)(西津軽郡鰺ヶ沢町)は津軽半島の西側、七里長浜の砂丘のつきたところにある。明治以後は鉄道が敷設されて港としての輝きを失った。越後方面から“八社(やしゃ)五社(ごしゃ)”が船人によって鰺ヶ沢に移入。移入当時は七七七七の口説き形式の盆踊り唄で、太鼓の伴奏だけの静かな唄だった。後に七七七五調の「鰺ヶ(あじが)沢(さわ)甚句(じんく)」となり、津軽各地へ広がっていく。「津軽甚句」「嘉瀬(かせ)の奴(やっこ)踊り」と同系統。
八社五社は、新潟県頸城地方に古くから唄い継がれている盆踊り唄だ。延喜式の神社が頸城(くびき)地方を流れる関川の川西に七社、川東に五社あったことにちなんで名付けられた。“イヤサカサッサド”と囃(はや)され“ヤーハトセ”の囃子言葉は最近になってからのことだ。この囃子言葉が使われる「嘉瀬の奴踊り」北海道の「いやさか音頭」などは「鰺ヶ沢甚句」の流れを汲んでいると見てよい。成田(なりた)雲(うん)竹(ちく)が地元に伝わる「鰺ヶ沢くどき」を取り入れ、節を工夫して世に出した。
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◎成田(なりた)雲(うん)竹(ちく)
COCJ-30666(99)囃子言葉は“イヤサカサッサド”。三味線/高橋(たかはし)竹山(ちくざん)。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、鳴り物/三浦節子。
◎浅利みき
KICH-2379(01)ぴんと背筋を張った厳しく迫力ある美声。浅利みき(1920-2008)の演唱には、いずれも強い説得力があり、余人をもって代えがたい声と技が光る。三味線/高橋祐次郎、片倉京子、尺八/米谷(よねや)威(い)和男(わお)、太鼓/高橋勝子、囃子言葉/西田和枝、岩本とよ子、秋山善孝。
COCJ-30332(99)スローテンポで味わい深い。三味線/工藤菊枝、太鼓/田中栄子、囃子言葉/鈴木金雄。
TFC-1201(99)若い頃の声。三味線/立石利夫、高橋祐次郎、尺八/矢下勇、太鼓/成田さよ。
△大瀬清美
APCJ-5031(94)田舎の上品な爺様が唄っているかのような味わいがある。お囃子方はCD一括記載。
「おしまコ踊り(田名部おしまこ)」(青森)
♪田名部(たなぶ)おしまコの 音頭取るものは
大安寺柳の ノオ蝉の声
田名部横町の 川の水飲めば
八十婆様も ノオ若くなる
むつ市田名部(たなぶ)を中心とする下北半島一帯で唄われる。かつては太鼓のあしらいだけで一晩中唄っていた。旧南部領一円で唄われている盆踊り唄の「なにゃとやら」の替え唄。古くは“ナニャトヤラ、ナニャトナサレノ、ナニャトヤラ”だけを繰り返し唄った。美人で美声の“おしま”を読み込んだ文句を作って唄ううち、曲名も「おしまコ踊り」となった。おしまコとは、おしまの名前に東北特有のコを加えたもの。成田雲竹(1888-1974)が高橋竹山(1910-1998)の三味線伴奏を付けて唄い出してから、広く唄われるようになった。田名部盆踊り、おしまこ踊り、大安寺踊りとも呼ばれ、踊りは輪踊りと流し踊りの二種類あって、毎年八月に行われる田名部まつりの期間中は、オーケストラ伴奏の唄にのせた“おしまこ流し踊り”が見られる。
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◎成田雲竹
COCJ-30669(99)三味線/高橋竹山。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山。
○山本謙司
VZCG-243(01)悠揚迫らざる歌唱。太鼓が効果的に曲を締める。三味線/夏坂菊男、尺八/矢下勇厳、平太鼓・締太鼓/木津茂理、ちゃっぱ/木津貴子。ちゃっぱは小型の鉦のこと。
○大瀬清美
APCJ-5032(94)雲竹似だが渋い味のある歌唱。土地の匂いを感じさせる。お囃子方はCD一括記載。
「お坊コ祝い唄」(青森)
♪(ナイソロヤーイ ナイソロヤーイ)
今日のお坊コは 良いお坊コだ
(ナイソロヤーイ ナイソロヤーイ)
恵比寿袋を 首に提げ
(ナイソロヤーイ ナイソロヤーイ)
初産で里に帰っておぼコが生まれると、七日目の枕上げには親戚を招き酒宴を開く。婚礼先の母親は、お坊コの着物や酒を里に持参してお坊コに着せ、お祝いにこの唄を唄った。県奥南部地方の風習。
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○山本謙司VZCG-243(01)三味線/夏坂菊男、尺八/矢下勇厳、平太鼓/木津茂理、ちゃっぱ/木津貴子、囃子言葉/山本謙良、山本謙之助、山本謙吾、山本謙憧、山本謙冴。
「嘉瀬(かせ)の奴(やっこ)踊り」(青森)
♪(ソラ ヨイヤナカ サッサ)
さあさこれから奴踊り踊る さあさこれから奴踊り踊る
(ソラ ヨイヤナカ サッサ)
嘉瀬と金木(かなぎ)の間の川コ 小石流れて木の葉コ沈む
津軽半島のほぼ中央にある北津軽郡金木町(かなぎちょう)嘉瀬(かせ)(五所川原市)に伝わる盆踊り唄。手拍子を三つ叩く踊りが主体である。曲は西津軽郡の「鰺ヶ(あじが)沢(さわ)甚句(じんく)」と同系統。鰺ヶ沢方面からの移入とみられる。
不遇の日々を送る主人の気晴らしのために、奴(やっこ)の徳助がこの唄を唄い、踊りを踊って慰めたという伝説が残っている。踊りは激しく速い動きを中腰で踊り、しかも他に例をみない特異な動作は奴の動きをよく出している。男役は奴の印半纏(しるしばんてん)に前掛け、ねじ鉢巻き。女役は赤い飾り布の付いた編み笠をかぶり、小巾(こきん)刺(ざ)しの野良着に襷掛(たすきが)けのいでたちで踊る。
この唄を紹介したのは“嘉瀬(かせ)の桃”と呼ばれる津軽民謡の名人・黒川桃太郎(1886-1931)だ。“小石流れて木の葉が沈む”の文句には、年貢米に苦しめられた農民の憤懣(ふんまん)が込められている。この辺りは毎年干ばつに見舞われ、収穫に恵まれなかった。江戸時代、津軽の農民は木綿の衣料を着ることが許されていなかった。寒さをしのぐために麻地の着物を何枚も重ね着した。麻の補強のために布地に木綿で刺子(さしこ)を施す小巾刺しは、こうして生み出された。
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○白戸久雄
VDR-25126(88)三味線/佐藤通弘、佐々木政昭、笛/工藤代志範、太鼓/囃子言葉/高橋つや。
○福士和子
COCF-13282(96)野趣あふれるお婆ちゃんの唄。すんなりと出ない声を無理にも出して懸命に唄っていて、いかにも民謡らしい雰囲気。三味線/工藤勝三郎、京極利則、尺八/酒田永楽、太鼓/小野市子、囃子言葉/中村波江、大沢チセ子。
△小沢弥一
K30X-216(87)素朴な味がある。手拍子入り。三味線/立石利雄、太鼓/篝正峰、囃子言葉/大原清子、渡辺守之助。
△山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、沢田勝仁、笛/福田次郎、太鼓/佐藤寿昭、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽。
VZCG-174(00)。
「かまえ(構)節」(青森)
♪一話も進上 わしゃ絵は画かぬ
絵描きなどこそ 絵を画いて参る
わしゃ絵を描かぬと
チャンクラチャント 構えた
陸奥湾に面した浅(あさ)虫(むし)温泉(青森市)は、慈覚大師(794-864)が奥州を順錫(じゅんしゃく)した折、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て発見したという。棟方(むなかた)志(し)功(こう)(1903-1975)や太宰(だざい)治(おさむ)(1909-1948)が好み、東京方面からの多くの湯治客(とうじきゃく)もいた。その中にいた風流好みの粋人の手によって作られた数え唄のようである。青森市内の宴席などでよく唄われる。
浅虫の名は、かつて住民が温泉で織布の麻を蒸していたため、麻蒸と呼ばれていた。後に火難をおそれて火に縁のある文字を嫌って浅虫の字をあてた。
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◎成田雲竹
COCJ-30670(99)三味線/高橋竹山。
「黒石よされ」(青森)
♪黒石よされ節ゃ どこにもないよ サーアンヨ
(ハ イッチャホー イッチャホー)
唄ってみしゃんせ 味がある よされ サーアンヨ
(ハ イッチャホー イッチャホー)
黒石市の盆踊りは輪踊りでなく、行進しながら踊る。ぴんと伸ばした指先が美しい踊りである。曲名は各地のよされ節と区別するために黒石を冠す。
よされ節は江戸時代末の天保年間(1830-1843)に刊行された「御笑草諸国の歌」にも記載されていて、その頃は花柳界の拳遊びの唄になるほど流行していた。現在、各地によされ節があるが、七五七五調の古い型は黒石だけであり「黒石よされ」式の唄が各地のよされ節を生んでいったとも考えられる。
毎年八月十五、十六日に「黒石よされ」の盆踊りが開催される。徳島市の「阿波おどり」、岐阜県郡上市(ぐじょうし)の「郡上踊り」と並んで「日本三大流し踊り」と呼ばれている。
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◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/高橋祐次郎、大場清、尺八/米谷威和男、鳴り物/高橋勝子、囃子言葉/西田和枝、阿部栄子。
○山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、沢田勝水、笛/福田次郎、太鼓/佐藤寿昭、鉦/山田鶴喜美、囃子言葉/白瀬春子、白瀬春陽。
○須藤たき子
COCF-13282(96)三味線/高橋竹山、太鼓/須藤雲栄、囃子言葉/中村波江。素朴で野趣ある婆様の唄。高橋竹山の三味線が力強く響く。
○三浦隆子
VZCG-130(97)三味線/沢田勝秋、沢田勝司、尺八/矢下勇、鼓/美波駒三郎、太鼓/美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田和代。いい声でいい味を出してる。
△藤山進
APCJ-5032(94)味と渋さがあり、爽快感がある。お囃子方はCD一括記載。
△小山内清謡
ZV-29(87)三味線/豊寿、豊静。管弦楽伴奏。
「謙良節」(青森)
♪さてもハァ めでたい此の家の座敷
奥の座敷は涼み座敷 六尺屏風(びょうぶ)を立てまわし
折り目折り目に鷹を書く 鷹はさえずる何と啼(な)く
アー福々とハァ福を呼ぶ 降り来る雪は黄金なり
庭に這(は)い出る亀の舞い 鶴鶴と唄う跳ね釣瓶(つるべ)
弘前市(ひろさきし)周辺の祝い唄。越後の“松坂”が変化したものだ。松坂は新潟県新発田市(しばたし)生まれの検校(けんぎょう)・松波(まつなみ)謙(けん)良(りょう)(生没年不詳)が作って唄い出したものだという。”新潟〜”で始まるところから“にかた(新潟)節”と呼ばれた。それが越後の瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)たち、さらには船人たちによって各地へ伝えられたため、日本海側の各県で唄われている。秋田、青森、北海道の一部では検校が唄った唄だから“検校節”とも呼ばれ“検校節”がなまって“けんりょう節”となり、それと松波謙良が結び付いて「謙良節」の文字を当てられるようになった。
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◎成田雲竹
COCF-12697(95)お囃子方不記載。
COCJ-30669(99)尺八/高橋竹山。
TFC-1207(99)音源はSP盤。KICH-2378(01)三味線/高橋竹山。
◎浅利みき
KICH-2379(01)尺八/米谷威和男。
○藤井ケン子
VZCG-130(97)尺八/鎌田修水。津軽瞽女の芸を継ぐ藤井の唄には、味と渋みと野趣がいっぱい。
○若美家(わかみや)五郎
COCF-13282(96)尺八/酒田永楽。田舎育ちで美声のお爺さんが楽しんで唄っている雰囲気。
△外崎繁栄COCF-9302(91)
ちよっと声が濁るが、声張り上げず自然体で、端正に唄っていて好感が持てる。尺八/渡辺輝憧、三野宮貴美夫。
「五所川原甚句」(青森)
♪年に一度の お盆の踊り(ハァ ドッコイショ ドウシタネット)
喉で酔わせて 手振りで口説く(ヤーアドセ ヤーアドセ)
老いも若きも 皆出て踊れ(ハァドッコイショ ドウシタネット)
夜明けガラスのノウ 騒ぐまで(ハァ ドッコイショ ドウシタネット)
立佞(たちね)武(ぶ)多(た)祭りで知られる五所川原市(ごしょがわらし)の盆踊り唄。「鰺ヶ(あじが)沢(さわ)甚句(じんく)」が五所川原方面に伝わり呼び名が変わった。
寛文五(1665)年頃、五所川原の周辺は凶作続きであり、農民たちは、西海岸の深浦地方の鉱山に出稼ぎに行き生計を立てた。好天が続いて久々の収穫が期待できる年には賑やかに盆踊りが行われた。それに振りを付けて今日の五所川原甚句となる。花笠をかぶり、笠の周りに顔が見えないように稲穂をかたどった切り紙を下げ、首を左右に廻して切り紙を揺さぶるようにして踊る。
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○須藤圭子VZCG-641(07)
三味線/小山貢、小山豊、尺八/二世佐藤錦水、太鼓/美鵬成る駒、鉦/佐藤公美、囃子言葉/須藤美奈子。けれん味のない声で唄っている。須藤圭子は宮城県仙台市出身。
△田中瑞穂
APCJ-5032(94)可憐な幼い声で懸命に唄っている。お囃子方はCD一括記載。
「白銀(しろがね)ころばし」(青森)
♪ハァー(ハ キタコラサッサ)
白銀育ちで 色こそ黒い(ハ キタコラサッサ)
味は大和の 吊るし柿(ハ キタコラサッサ)
ハァー(ハ キタコラサッサ)鮫(さめ)と湊の間の狐(きつね)(ハ キタコラサッサ)
わしも二度三度と だまされた(ハ キタコラサッサ)
八戸市(はちのへし)の白銀地区周辺で唄われた。花巻方面や秋田地方では八戸節と呼んでいる。鮫(さめ)の遊郭へ魚を売りに行く女たちが道すがら唄い歩いた。
鮫の紅灯は船乗り衆の心をかきたてる。懐具合の暖かい猟師たちは、ひんぱんに遊郭に通ったが、これでは白銀にいる家族たちを殺してしまうことになると唄っている。殺しでは語感が悪いため、ころばしになった。三味線の手が付いて座敷の騒ぎ唄となり、独特の趣をもつようになった。
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○関下十五
CRCM-1OO10(98)声量が乏しく素人っぽい歌唱だが、民謡らしい味を醸し出している。三味線/山道巧、太鼓/馬渡リサ子、掛け声/山道チマ、関下恵子。
「新六戸音頭」(青森)
♪館野公園 さくらの花が 咲いて六戸 春化粧
春のたよりを ふところに 町じゃ自慢の 駒おどり
ソレ三四と五六 六戸踊り 南部若い衆 みな踊ろ
石本美由紀作詞、市川昭介作曲、山田良夫編曲。上北郡六戸町(ろくのへまち)ご当地ソング。
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○都はるみ
COCA-11779(94)管弦楽伴奏。
「外ケ浜音頭」(青森)
♪ハァ外ヶ浜かや 三厩(みんまや)港
昔ゃ蝦夷地(えぞち)のサーナンダナンダ 出入り口だよ
ハァ右は下北 左は津軽
仲を取り持つサーナンダナンダ 外が浜だよ
昭和三十五(1960)年頃、西津軽郡の外ケ浜を紹介するために成田(なりた)雲(うん)竹(ちく)が作詞、作曲。雲竹が組織する外ケ浜会で唄わせた。当初、山形の花笠踊りに似てしまうので、かなり苦労したという。翌三十六(1961)年、高橋竹山が三味線の手を考え、その年の夏に雲竹門下の三浦節子がレコードに吹き込んだ。
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◎成田雲竹
COCJ-30670(99)三味線/高橋竹山。
◎三浦節子
COCJ-32557(04)三味線/高橋祐次郎、大場清、尺八/矢下勇、太鼓/高橋かつ子。
○村上とみ子
APCJ-5032(94)元気のよい若い声に好感が持てる。
「田名部おしまこ」⇒「おしまコ踊り(おしまコ節)」
「俵積み唄」⇒「南部俵積み唄」(南部)
「津軽あいや節」(青森)
♪アイヤナーアイヤ 唄が流れる お国の唄よ
よされじょんがら ソレモヨイヤ あいや節
アイヤナーアイヤ 破れ障子に うぐいす描いて
寒さこらえて ソレモヨイヤナ 春を待つ
“あいや”は“ああ、いいな”という津軽弁。「津軽じょんから節」「津軽よされ節」と共に津軽の三つ物といわれる。リズムは朝鮮半島やアイヌの民族音楽に見られる三拍子系で、九州のハイヤ節とは曲調もリズムも全く異なっている。
かつて成田雲竹は新潟に滞在して十二、三種類のおけさ節を習い覚えた。その中にあった“新潟おけさ”は、幼い頃、雲竹が唄っていた“津軽あいや節”と全く同じであったという。だから、津軽あいや節は“津軽おけさ”とでもいうべき唄であり、新潟県のおけさ節が北上して十三(じゅうさん)湖(こ)に入り「津軽あいや節」になったと語っている。
§
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/木田林松栄、鳴り物/木田栄子。
TFC-1201(99)若い時の声。三味線/木田林松栄、太鼓/田中英子。
APCJ-5031(94)
○赤石常勝
COCJ-30332(99)頭から抜けるようなハイトーンで唄う。三味線/小山貢、太鼓/山田百合子。
○高橋つやCOCF-13282(96)
字余りで唄う。土の匂いのする津軽女性の迫力。三味線/長谷川裕二、太鼓/菊地鐵男。
COCF-9302(91)
三味線/工藤勝三郎、太鼓/福士和子。
30X-216(87)三味線/太田光雄、太鼓/大沢ちせ。高橋は昭和三十四(1959)年、第十二回のど自慢全国大会でこの唄を唄って日本一になった。
「津軽馬方三下り」⇒「津軽三下り」
「津軽おはら節」(青森)
♪サァーサ またも出したがよい
ハァお山晴れたよ 朝霧晴れた
裾の桔梗は 花盛り
谷の向こうで まぐさ刈り
熊本県牛深市の港町で生まれた“ハイヤ節”は、日本海を北上する北前船で各地の港に運ばれた。ハイヤ節は津軽海峡を通って更に南下、宮城県の塩釜港に入って「塩釜甚句」を生み出す。この塩釜甚句が逆に北上して、青森県八戸(はちのへ)あたりに移され、津軽の塩釜甚句は、漁師や船頭相手の女たちが唄う酒席の騒ぎ唄となった。七七七五調の四句目の前に“オハラ”と入れて「おはら節」とも呼ばれていた。
明治の初めごろ、青森市浅虫の近辺では製塩業が営まれていた。釜に海水をくみ入れるとき、オーワラナの囃子言葉を入れて津軽の塩釜甚句を唄っていた。嘉瀬の桃(黒川桃太郎)がこれを口説調にして、新しく作り出したのが「津軽小原節」である。当時は“調子変わりの塩釜小原”、あるいは“調子変わりの塩釜甚句”と呼ばれていた。
§
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/木田林松栄、鳴り物/木田栄子。
VZCG-130(97)三味線/木田林松栄、工藤菊江、太鼓/工藤君枝。
COCJ-31889(02)三味線/工藤菊枝、太鼓/田中栄子。
○山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、太鼓/佐藤寿昭。三味線前奏が二分二十二秒。
TOCF-5012(92)三味線/高橋祐次郎、太鼓/美鵬奈る駒。
VZCG-174(00)
○津軽家すわ子
COCF-12697(95)囃子言葉/鳴り物連中。西津軽郡森田村出身。津軽の唄や踊りを興業的にまとめあげて「津軽家演芸団」を主宰。津軽最初の職業歌手といわれている。
○福士りつ
K30X-216(87)野趣にあふれた上手い唄。三味線/木田林松栄、尺八/佐藤天月、太鼓/野口一郎、囃子言葉/工藤君江。
COCF-32805(04)津軽女性が持つ迫力。三味線/山田千里、太鼓/木村リミコ。
○須藤理香子
VDR-25215(89)三味線/千葉勝弘、太鼓/美鵬那る駒。若さ溢れるみずみずしい演唱。
△佐藤善郎
00DG-72(86)野趣あり。三味線/市川竹女、太鼓/佐藤善城。
「津軽小原漫芸」(青森)
♪またも出したがヨイヤ
アー 谷は黄金の 波が打つ
今年ゃ豊年満作ヨ 村の祭の笛太鼓
唄の中で笑い話、滑稽な囃子言葉、駄洒落と下ネタを次々と繰り出し、唄と手踊りの身振りよろしく、抱腹絶倒の話芸で聴く人のストレスを発散させる。
§
○原田栄次郎
TFC-1208(99)お囃子方不記載。原田(工藤永次郎1907-1973)は北津軽郡木造町の農家に生まれ、寺に預けられたが逃げ出して津軽地方で人気があった津軽民謡団・川山千島一座に入る。巧みな話術と唄、三味線、踊りで頭角を現し、昭和九(1934)年「青森県民謡大会」で優勝。その後、プロとなって各地を興行し、津軽民謡のなかで慢芸の世界を創り出し“吹雪の旅芸人”“津軽漫芸の元祖”と呼ばれる。
「津軽音頭」(青森)
♪西の鰺ヶ沢の 茶屋のナ 茶屋の娘は 蛇の姿
岩木お山は よい姿 津軽娘は 見て育つ
成田雲竹が祖父の膝で遊んでいたころ、秋田坊と呼ばれる門付け芸人が秋田からやってきて、三味線を弾きながら秋田節を唄っていた。大正になってから、津軽三味線の名手である梅田豊月(1885-1952)に手を編み出してもらった成田雲竹は、彼の伴奏でこの唄を初放送した。その際「津軽音頭」と命名したが、曲は音頭でなく甚句の一種である。格調ある難曲で、津軽の人間でないと唄の味はうまく出せない。
西津軽郡木造(きづくり)新田(しんでん)の開拓が進んでいた頃、工事人夫たちは鰺ヶ沢にある茶屋に頻繁(ひんぱん)に通い、賃金を使い果たしていた。見かねた親方は一計を案ずる。茶屋の寝室に蛇の絵を隠しておいて、人夫たちを驚かせ、茶屋通いの足を止めたという。そんな逸話が詠み込まれている。
§
◎成田雲竹
COCJ-30668(99)尺八/高橋竹山、太鼓/不詳。KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、尺八/渡部嘉章、鳴り物/畔上三山。
○山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、笛/老成参州、尺八/福田次郎、太鼓/山田鶴喜美。
VZCG-174(00)
△須藤雲栄
COCF-13282(96)三味線/高橋竹山、太鼓/伊東竹味。声量が乏しく細い声だが節回しは上手い。高橋竹山の三味線は音量豊かで響きが良く、一音一音が冴(さ)えて遠音が効く。
「津軽数え唄」(青森)
♪エーでは一つとせ
ひどいものだよ 女ごというものはエー
怒れば逃げるし 叩けば泣くし
殺せばしまいにゃ チョト化けて出るぞエー
各地にある数え唄の一種。別名「日本一の数え唄」。北海道に渡って「北海数え唄」に変化していく。
§
○大瀬清美
APCJ-5032(94)囃子方一括記載。野趣があり、囃子言葉の声とよく合っている。
○一戸光春
COCF-9302(91)野卑な感じと力強さが民謡らしい味を出している。三味線/太田光男、太鼓/南條愛子。太鼓の音が聞こえない。
○福士りつ
COCF-32805(04)三味線/山田千里、尺八/矢下勇、太鼓/木村リミコ、囃子言葉/工藤君江。迫力のある声で押していき、現代風刺の文句を綴る。浪曲入り。三味線の山田(やまだ)千里(ちさと)(1931-2004)は福士りつの夫。夫妻は弘前駅前に開業した“ライブハウス山唄”を拠点にして、多くの後進を育てた。
「津軽願人節」(青森)
♪昔ナー 江戸より願人和尚が
寝物語に ヤンレこの唄を
サァサ ヤートコセー ヨイヤナ
アリャリャン コレワイセ コノナンデモセ
代参や代(だい)垢離(ごり)、代願をする願人(がんにん)坊主(ぼうず)が唄う。京都鞍馬山(くらまやま)大蔵院の支配下にある願人坊主たちは、全国を回って御祈祷、チョボクレ坊主、アホダラ経、住吉踊りなどを演じ、わずかな銭をもらって生活していた。
住吉踊りは白(しろ)木綿(もめん)の衣装を着た五、六人の一人が長柄の大傘の柄を叩いて拍子をとりながら唄い、その周りを茜(あかね)布(ぬの)を垂らした菅笠をかぶり、うちわを持った踊り手が跳ね回る。唄は伊勢神宮の遷宮式に使う御用材を曵く時に唄うお木曵き木遣り唄“ヤートコセー”の伊勢音頭であった。明治に入ると願人坊主が姿を消したため、唄もすたってしまった。
§
○山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、沢田勝月、尺八/福田次郎、太鼓/佐藤寿昭、鉦/山田鶴喜美。TOCF-5012(92)三味線/沢田勝仁、尺八/正田麻盛、太鼓/美鵬奈る駒、囃子言葉/新津幸子、新津美恵子。管弦楽伴奏。ライヴ盤。
△藤山進
APCJ-5032(94)お囃子方CD一括記載。
「津軽木挽(こび)き唄」(青森)
♪シャリコン シャリコン
ハァ木挽ゃよいもの ハァ板さえ割ればヨ
ハァ刻み煙草に ナンダ米の飯よ
山で木挽き職人たちが材木を板にひくとき、大きな鋸(のこぎり)の調子に合わせて唄う。木挽き職人には、青森県旧南部領から岩手県にかけての農民や、広島県下の農民が多かった。冬の農閑期を利用した出稼ぎ仕事として働いているうち、木挽き稼業が専業となっていった。前者が南部木挽き、後者が広島木挽きと呼ばれる。この木挽き職人が全国各地の山で働いたために唄も全国に広まり、近畿以東は南部木挽き、西は広島木挽きの唄が唄われている。こうした渡り木挽きを“西行(さいぎょう)さん”と呼ぶ。全国を歩き回って、その生涯を漂泊のうちに送った西行法師(1118-1190)になぞらえたものだ。木挽き唄には郷土性が乏しく、節回しの違いは唄を普及した民謡歌手によるものである。
§
○成田雲竹
COCJ-30668(99)尺八/高橋竹山。
○佐藤信治
APCJ-5031(94)尺八の伴奏だけで掛け声はなし。味のある少し枯れた高い声だ。
△つくだ貞夫
COCF-6547(90)渋さと味ある声で仕事唄らしく唄っている。尺八/郷内(ごうない)霊風(れいふう)、掛け声/後藤清子。
「津軽酒屋もと摺り唄」(青森)
♪ハァ アラもと摺りは
アラヨーイ 楽だと見せて(楽じゃない)
何仕事も アラヨーイ 仕事に楽は(ありゃしまい)
ヨイモトソーリャ(サーノナーヨーイ)
南部(なんぶ)杜氏(とうじ)の本場である紫波郡(しわぐん)乙部村(おとべむら)(盛岡市)、稗貫郡(ひえぬきぐん)石鳥谷町(いしどりやちょう)(花巻市)方面の杜氏たちの唄。
蒸し米に麹(こうじ)を加えて桶に入れ、長い櫂(かい)で掻きまわしながら唄う。杜氏の出身地の籾摺(もみす)り唄などが転用されることが多かった。
南部杜氏は、北は北海道から南は関西方面にまで出稼ぎに出て、各地でさまざまな銘酒を作り出した。唄は酒造りの工程に従って唄われる。唄で時間を計り、作業員同士の呼吸を合わせ、眠気を払った。
作業工程ごとの唄には、六尺桶や半切(たらい状の底の浅い桶)などを洗い流す流し唄。水仕事や醸造用の水を井戸から汲み出す際の水釣り唄。米をとぐ時の米とぎ唄。麹と蒸し米と水を半切桶に入れ、二、三人が長い櫂で掻きまわす際のもと摺り唄。仕込まれた醪(もろみ)を圧搾する際の舟懸け唄などがある。
§
◎初代今(こん)重造(じゅうぞう)「津軽酒屋仕込み唄」
TFC-1204(99)味のある美声。仕事唄らしい名調子で囃子言葉もよい。三味線/沢田勝秋、尺八/佐藤錦水、錦錦秀、太鼓/成田雲竹女、囃子言葉/テイチク飛鳥会。今は明治四十(1907)年十月、弘前市蔵王町の農家に生まれた。若き頃から岩木山を相手に唄の練習を繰り返して喉を鍛えた。
○福士豊秋
APCJ-5032(94)「酒屋もと摺り唄」渋さはあるが声量はあまりない。女声の囃子言葉に野趣があり、仕事唄の雰囲気が出ている。お囃子方はCD一括記載。
○菊池マセ
COCJ-30334(99)「南部酒屋もと摺り唄」三味線/佐藤光栄、やなだ真榮、尺八/太田勇、岩井利信、太鼓/千葉栄人、鉦/藤原洋子、囃子言葉/佐藤理子、佐藤美樹。ちよっと野暮ったいところがよい。
「津軽三下り」(青森)
♪ハァ奥山で
小鳥千羽の鳴く声聞けば
ハァー親を呼ぶ声 鳩ばかり
「津軽馬方三下り」の略称。馬方三下りは追分節とも呼ばれている。江戸時代の末頃、長野県北佐久郡軽井沢町にある中山道と北国街道が分岐する追分の宿で、飯盛り女が旅人相手の酒席で唄っていた。街道の駄賃づけの馬子たちが唄う馬方節に、三下りの三味線の手をつけたものだが、それがいつしか追分と呼ばれるようになり、旅人や瞽女(ごぜ)、座頭(ざとう)たちが各地に持ち回った。秋田では本荘(ほんじょう)追分(おいわけ)、北海道では江差(えさし)追分(おいわけ)を生み出す下地となる。旧南部領から岩手県最北部の九戸郡(くのへぐん)、二戸郡(にのへぐん)の農山村を回ってくる瞽女や座頭などが伝えたものは素朴な唄だった。それを津軽坊などの遊芸人が磨き上げ、華麗な曲節のものとした。節回しは難しいが気品ある唄。
§
◎浅利みき
COCF-13282(96)三味線/木田林松栄、太鼓/田中映子。丁々発止とぶつかり合う浅利の唄と木田の三味線が聴き所。
○山本謙司
CF30-5003(89)三味線/沢田勝秋、太鼓/山田鶴助。三味線が大活躍。
VZCG-174(00)
○大瀬清美
APCJ-5032(94)お囃子方はCD一括記載。
COCJ-30332(99)三味線/工藤菊枝、尺八/矢下勇、太鼓/成田春代。渋さが光る演唱。
○佐藤りつ
CF-3453(89)三味線/二代目木田林松栄、尺八/柿沢寿雄、太鼓/渡辺千佐。迫力のある歌唱で三味線もよい。
△高橋つや
COCF-9302(91)三味線/村上覚、太鼓/大谷百合子。
「津軽塩釜甚句」(青森)
♪塩釜立てた なんというて立てた
釜サ水汲んで べこサ柴つけた
(アーオーワラナ アーオーワラナ)
明治の半ば過ぎまで、宮城県の塩釜では「塩釜甚句」をあいや節と呼んでいた。もともと南部の方から伝わった唄が北上し、八戸の鮫港に逆輸入。津軽塩釜甚句となり、津軽おはら節になった。
海水から塩を取ることは今も昔も変わらない。製塩法には海水から鹹(かん)水(すい)(濃い塩水)を採る採鹹(さいかん)と、鹹水を煮つめて塩の結晶をつくる煎熬(せんごう)の二つの工程から成り、鹹水は製塩土器で煮つめられた。製塩土器を塩釜といい、塩釜は一般的な土釜のほか、地域ごとにさまざまな形の塩釜が発達した。
§
◎成田雲竹
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、鳴り物/三浦節子。
○小松祐二
APCJ-5031(94)頭のてっぺんから抜けるような声で唄う。お囃子方はCD一括記載。
○東田詩栄
CRCM-1OO08(98)津軽のなまりよし。三味線/長崎栄山、太鼓/葛西君代、掛け声/須藤雲栄。
「津軽じょんがら珍芸」(青森)
♪アー花の盛りも 嵐が吹けば
だだの一夜で 散る世のならい
あてにならない 女の心
アー人の花見りゃ きれいに見える
人の商売 景気に見える
唄の合い間合い間に、三味線奏者との掛け合いでギャグや語りを入れ、聴衆の笑いを取る珍芸。
§
○原田栄次郎
TFC-1208(99)三味線/木田林松栄、太鼓/松前ピリカ。仏門から民謡興行の世界に入った原田栄次郎だが、この芸に磨きをかけて珍芸の第一人者となった。津軽三味線の名手・木(き)田林(だりん)松栄(しょうえ)との掛け合いが面白い。林松栄の肉声が聴けるのも一興。
「津軽じょんがら節」(青森)
(新節)
♪ハァお国自慢の じょんがら節よ
若い衆唄えば 主の囃し
娘踊れば 稲穂も踊る
(中節)
♪ハァお山かけたよ いい山かけた
岩木山からよく よく見たら
なじみ窓コで お化粧の最中
(旧節)
♪ハァ春は津軽の 畠一面に
りんごまるめろ いと花盛り
眠る蝶々と 野に啼く雲雀
越後の瞽女や座頭などが新潟県の「新保(しんぽ)広大(こうだい)寺(じ)くずし」を津軽へ持ち込んだ。出崎辰五郎などの津軽坊や米谷源助といった芸人たちが唄を磨き上げ、さらに黒川桃太郎(1886-1931)、梅田豊月(1885-1952)、白川軍八郎(1909-1962)、高橋竹山(1910-1998)、木田林松栄(1911-1979)といった三味線の名手が伴奏を華麗なものとした。明治二十(1883)年頃までの節を旧節、昭和初期までの節を中節、昭和三(1928)四年頃から唄い始めたのを新節と呼んでいる。曲名のいわれは不明だが、ちょんがれ節、上河原(じょうがわら)節(ぶし)などを語源とする説がある。
慶長二(1597)年、大浦城主で津軽藩初代藩主・津軽為信(1550-1607)は、南津軽の浅瀬石城主千徳政氏(1513-1588)を滅ぼした。為信は千徳家の墓まであばこうとしたため、菩提寺の僧・常(じょう)縁(えん)が激しく抗議する。その結果、常縁は追われる身となり、遂に浅瀬(あせ)石川(いしがわ)に身を投じて果てた。村人たちは常縁に同情。この悲劇を唄にした。常縁が身を投げた場所を常縁河原と呼び、それが上河原になり“じょんがら、あるいは”じょんから“になったと伝える。唄の文句にある“お山かける”とは山に登ることだ。
<新節>
§
◎浅利みき
APCJ-5031(94)年輪を重ねた芸の力を感じさせる演唱。「じょんがらおなご」と呼ばれた浅利のじょんがらは、誠に切れ味がよい。
VZCG-130(97)三味線/工藤菊江、太鼓/赤石常勝、山田三鶴。本物の芸の力は加齢とともに輝きを増す。年輪を重ねた浅利の歌唱には、一種の凄みがある。
COCF-9302(91)三味線/工藤菊枝、太鼓/田中栄子。
○山本謙司
CF30-5003(89)三味線/二代目木田林松栄、太鼓/佐藤寿昭。三味線の前弾きが1分45秒。
VZCG-174(00)
△伊藤多喜雄
32DH-5123(88)キーボード/佐藤允彦、和太鼓/林英哲、TAKIOBAND(津軽三味線/木下伸市、佐々木光儀、尺八/小川寿也、米谷智、和太鼓/植村昌弘、鳴り物/木津茂理、ドラムス/斉藤亨)新感覚の唄い方で編曲もよくできている。
<中節>
§
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/高橋祐次郎、鳴り物/高橋勝子。
○山本謙司
CF30-5003(89)三味線/沢田勝秋、太鼓/佐藤寿昭。
<旧節>
§
◎浅利みき
TFC-1201(99)若さあふれる見事な美声でユーモラスな文句を唄う。三味線/小山實、太鼓/赤石常勝。
COCJ-30332(99)若々しい声で唄う文句なしの歌唱。三味線/工藤菊枝、太鼓/田中栄子。
KICH-2379(01)三味線/木田林松栄、太鼓/成田さよ。一の糸に四十番の太目の糸を張った木田林松栄の三味線は豪快で迫力に富む。
UPCY-6192(06)お囃子方不記載。
○山本謙司
CF30-5003(89)三味線/嘉瀬雲寿、太鼓/佐藤寿昭。
TOCF-5012(92)三味線/嘉瀬雲寿、太鼓/佐藤寿昭。ライヴ盤。
○高橋つや
COCJ-32320(03)三味線/村上覚、太鼓/大谷百合子。
○三上つる子
COCF-12697(95)囃子言葉/鳴り物連中。北津軽郡鶴田村(鶴田町)出身。津軽民謡手踊りの名手である兄の尾宗万次郎に踊りと唄を習い、尾宗家鶴子の名も持っている。リズム感もよく、きれのよい唄い方をしている。
△小山内忠勝
KICH-2350(03)三味線/渋谷和生、長峰健一、太鼓/笹川皇人。
「津軽じょんがら漫芸」(青森)
§
○赤坂良蔵
COCF-10981(93)三味線/南要悦、太鼓/鎌田孝一、掛け声/中村光子。
○斉藤又四郎
COCJ-32554(04)お囃子方不記載。
○千葉勝友
KICH-2377(01)
○函青くに子
COCJ-32554(04)松村一郎作詞。三味線/白川軍八郎、太鼓/松野みどり。三味線は函青くに子の夫で二代目白川軍八郎。
「津軽じょんがら浪曲」(青森)
§
○二代目白川軍八郎
COCJ-32554(04)オーケストラ伴奏。
「津軽甚句(どだればち)」(青森)
♪高い山コから 田の中見ればホーイホイ
見れば田の中 今稲ゃ実(もで)るホーイホイ
弘前市一帯の盆踊り唄。もとは“どだればち”と呼んだ。津軽弁を巧みに交えて唄う。
津軽半島の西側、七里長浜の砂丘のつきたところに港町・鰺ヶ(あじが)沢(さわ)がある。鰺ヶ沢の盆踊り唄「鰺ヶ沢甚句」が弘前(ひろさき)方面に移されて「津軽甚句」となり、津軽甚句が北海道へ渡って「いやさか音頭」となった。口説きものが多い津軽の唄のなかで、津軽甚句とあいや節は歌詞が短く、すっきりとした緊張感ある唄だ。
§
◎成田雲竹
COCJ-30670(99)三味線/高橋竹山。「民謡うたがたり」(COCJ-30666〜30670)は、成田雲竹(1888-1974)が高橋竹山(1910-1998)の相三味線で曲の解説をしながら唄っている。青森放送局保存のテープからCD化された。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、尺八/神山天水、鳴り物/三浦節子。
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/藤本e(ひで)丈(お)、藤本秀次、鳴り物/西泰維、囃子言葉/白瀬春子、青木春路。浅利の前に浅利なく、浅利の後に浅利なし。後進に対する歯に衣着せない叱責で、母親的存在として慕われた浅利(本名・佐藤ミキ)は平成二十(2008)年八月、惜しくも八十七歳でその生涯を閉じた。
○田中武悦
KICH-2022(91)味あり。調子よし。三味線/小山貢竜、武花浩幸、尺八/武花栄風、武花栄竜、鳴り物/美波奈る駒、美波成る駒、囃子言葉/高野武美、武花紫緒香。
○須藤たき子
COCF-9302(91)野趣あるお婆さん風の歌唱。なまりが土地の味をよく醸し出している。三味線/高橋竹山、太鼓/一戸光春、囃子言葉/須藤雪栄、中村波江。
「津軽タント節」(青森)
♪ハァ義理と情に 責めたてられて
切るに切られぬ 三味の糸 三味の糸
コリャ人目を忍べば 撥当たり
切れれば 貴方は離れごま
糸は三筋でタントタント 心は一筋 そのわけだんヨ
秋田民謡の名手・黒沢三一(1894-1967)は、昭和十(1935)年頃、仙北郡の番(ばん)楽(がく)と呼ばれる郷土芸能の中で、藁(わら)打(う)ちの振りに合わせて唄う部分を独立させて藁打ちタント節(秋田タント節)の名で唄い出した。昭和十二(1937)三年ごろ、成田雲竹の弟子・高谷左雲竹が「秋田タント節」に「津軽じょんがら節」の伴奏を取り入れ「津軽たんと節」を作った。昭和三十(1955)年代になって、秋田のものより派手なところから次第に注目されるようになる。唄の文句はユーモラス。
§
◎浅利みき
APCJ-5031(94)円熟味のある声。芸の力が光る。
○間小夜子
PCJ-5032(94)
△福士りつ
COCF-32805(04)三味線/山田千里、尺八/矢下勇、太鼓/木村リミコ、囃子言葉/工藤君江。四分三十四秒の伴奏が面白い。常磐炭坑節、おこさ節をあんこ(挿入歌)にしているが、特に入れる意味はない。
「津軽道中馬方節」⇒「道中馬方節」
「津軽の子守唄」(青森)
♪寝にゃ 寝にゃ 寝にゃヤ 泣けば山から 蒙古来るじゃ
泣かねば 浜から 魚来るじゃ
寝にゃヤ 寝にゃヤ 泣けば 山から 蒙古来るじゃ
泣かねば 浜から 魚来るじゃ
寝にゃヤ寝にゃヤ
「泣くな泣くな 泣くな泣くな 泣くんでねエ 泣くんでねエ
今山から あっぱ降りてくれば 乳くれはんで
泣くんでねエ 泣くんでねエ 泣くんでねエ」
おばばが泣く孫をあやしながら唄い、寝かしつけている。子守り唄には遊ばせ唄、眠らせ唄、守り子唄があり、これは眠らせ唄。鎌倉時代の二度の蒙古襲来(文永、弘安の役)は日本国中の人々を戦慄させた。その恐怖は後々までも語り継がれ、子守唄の文句にまでなって、赤子の脳に刷り込まれたのである。守り子唄には自分の辛い立場を嘆いたり、使用人に対して文句を付けたりする唄や、戯れ唄、子守同士が唄で喧嘩する喧嘩唄などもある。
§
○二代目津軽家すわ子
KICH-2023(91)素唄。子守唄本来の素朴さいっぱい。
「津軽ばやし」(青森)
♪ハァ越後(ハー キタコラ ハイハイ)
越後村上 新茶の出どこヤイ
娘ナ やりたいヤイ やりたいヤイ
ソレサ お茶摘みにのヤイ
娘やりたいや 本当にお茶摘みに(ハー キタコラ ハイハイ)
酒盛り唄である村上甚句が津軽化したもの。新潟県の村上方面へ出稼ぎに行った人々が、村上の盆踊り唄を津軽に持ち帰った。戦前は津軽芸人の一団が各地を巡業するとき、客寄せのために最初に津軽あいや節の傘踊りと共に唄っていた。当初は越後甚句と呼ばれていたが、昭和三十(1955)年代に「津軽ばやし」と呼ばれるようになった。節回しと表現に巧みな技巧が必要であり、極めて難曲。
§
◎浅利みき
KICH-2379(01)木田林松栄、鳴り物/木田栄子。張りのある見事なまでの美声。
△須藤雲栄
COCJ-30332(99)若さ故の未成熟さも残るが、素朴さと雅趣がある。三味線/高橋竹山、太鼓/伊東竹味、囃子言葉/中村波江、福士和子、須藤たき子。
「津軽盆唄」(青森)
♪一つ唄います 音頭取り頼む(サン ドシタネ サンドシタネ)
音頭取りよで ノウ手が揃う(サン ドシタネ サンドシタネ)
さても見事な 揃いの浴衣(サン ドシタネ サンドシタネ)
赤い襷が ノウよく似合う(サン ドシタネ サンドシタネ)
民謡の題名として使われている盆唄は、盆踊りで唄われる唄を指す。盆踊り唄は七七調とか七五調をつないでいく口説き形式と、七七七五調など小編の小唄形式に大別される。口説き形式の唄では心中話など物語性のある文句が語られ、小唄形式のものは囃子言葉で唄を盛り上げ、歌詞の一部を繰り返して唄うことが多い。
§
○菊地鐵男
COCF-9302(91)味のある声。なげやりな囃子言葉が面白い。三味線/長谷川裕二、尺八/渡辺輝憧、太鼓/成田春代、囃子言葉/山田秋子。
「津軽山唄」(青森)
(西通り)
♪ヤーイデァー 十五 十五七がヤエ
十五になるから 山 山登るヤエ
奥のお山に 木を 木を伐るにヤエ
腹も空いたし 日も日も 暮れるヤエ
これを見せたや 我が我が 親にヤエ
(東通り)
♪ヤイエデァー
ハァー西の 西目屋 ハァーノヤエ
一にヘナァハ エデァエ ハェアー大滝
ハァー二にひが 二に やゃんじ兵衛がヤエ
三にヘナァハ エデァエアー三階滝
ハァ親ハァヤ 親知らハァずアヤエ
祝いの席で唄われる。山で働く仕事唄のようだが、山の神を祀る祝い唄だ。岩木川東側で唄われる東通り山唄と、西側の西通り山唄の二通りの節回しがある。東側の唄は古風であまり唄われず、西通りのものが多く唄われる。
成田雲竹、川崎きえといった名人たちがこの唄に磨きをかけた。唄の文句から十五七、十五七節などと呼ばれている。この唄を今日の形にまとめあげた成田雲竹は、現在知られている津軽民謡のほとんどを世に出した。格調高い張りのある声と、美しい津軽弁で唄われる雲竹の民謡は、いずれも津軽民謡演唱の規範とされる。
(西通り)
§
◎成田雲竹
COCJ-30666(99)尺八/高橋竹山。
KICH-2378(01)尺八/神山天水、星天竜。
◎浅利みき
KICH-2379(01)尺八/米谷威和男。
○大瀬清美 APCJ-5032(94)枯れたいい味を出している。お囃子方はCD一括記載。
△成田武士
K30X-216(87)味あり。土の匂い。渋い声。笛が寂寥感をかもす。尺八/田村祐、笛/工藤代志範。
△野呂義昭
COCF-13282(96)味のある声。婚礼の送り出し唄。尺八/米谷威和男。
△福士りつ
TFC-1207(99)尺八/高橋竹山。音源はSP盤から採られている。
COCF-32805(04)尺八/斎藤功山。
(東通り)
§
◎成田雲竹
COCJ-30666(99)尺八/高橋竹山。
TFC-1207(99)尺八/高橋竹山。音源はSP盤。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山。
○山本謙司
CF30-5003(89)尺八/斎藤参勇、三野宮貴美男。
VZCG-174(00)
△成田雲百合
CF-3453(89)土の匂いがする歌唱。尺八/渡辺壮憧。
△工藤竹風
CRCM-1OO08(98)尺八/高橋竹山。
「津軽よされ節」(青森)
♪ハァ調子がわりの よされ節 ヨサレ ソラヨイヤ
ハァおらが津軽に 一度はござれ
ハァこの村にも湯の煙 一度入れば雪の肌
どんな女も 惚れてくる
ハァ米は名代の津軽米 粘り強うて艶ようて
津軽ならでは 味わえぬ
唄の終わりに“ヨサレソラヨイヤー”が付く。“よされ”は“もうよしなさい”の意味だ。初めは「黒石よされ」のような七五七五調の短い唄だった。この種の唄が秋田県の鹿角方面に入ると、二つ合わせて七七七五調の唄に変えられ「南部よしゃれ」のようになってから再び津軽に逆輸入された。
瞽女や座頭にとって、七五七五の唄だけではあまりに短かすぎて座が持たない。そこで字余りの長編物にして、語尾を長く伸ばすようにした。大正の初め、新内入りの“字あまりよされ”を嘉瀬の桃(黒川桃太郎)が唄い出す。これが現在の「津軽よされ節」であり、長編の場合は“調子変わりのよされ節”と枕を振ってから唄っていた。
よされ、おはら、じょんがらを“津軽の三つもの”と呼ぶ。派手な津軽三味線に、一歩も譲らず、歯切れよい津軽弁をぶつけていくところが三つものの魅力だ。東北各地によされ節があり、地名を付けて区別しているが、いずれも津軽地方を巡り歩く遊芸人が唄っていたものである。
§
◎成田雲竹
COCJ-32557(04)「旧節」お囃子方不記載。
◎浅利みき
KICH-2379(01)木田林松栄、鳴り物/木田栄子。
○初代今重造
TFC-1204(99)味と渋さが光る。三味線/高橋竹山、太鼓/宇野清美。
○大瀬清美
APCJ-5031(94)味のある歌唱。お囃子方はCD一括記載。
○高橋つや
COCF-6547(90)津軽女性のたくましさを出した野生味のある歌唱。三味線/長谷川裕二、長谷川絵理、太鼓/後藤清子。
○山内たつ子
COCJ-30332(99)三味線/木田林松栄、尺八/矢下勇、太鼓/福士豊三。山内は初代今重造門下の逸材で、福士豊勝、豊秋兄弟の母。木田林松栄の三味線も聞き所。
△三代目津軽家すわ子
COCJ-32557(04)お囃子方不記載。
△須藤理香子
VDR-25215(89)三味線/千葉勝広、太鼓/美鵬那る駒。若さあふれる見事な声と唄。須藤は昭和四十五(1970)年、秋田県大館市生まれ。本名平泉理香子。同六十(1985)年から黒石市の須藤圭助の内弟子となる。
「道中馬方節」(青森)
♪(ハァエハイト)
一夜エ(ハイ)ハァ五両でもエ(ハイ)
ハァエ馬方エ(ハイ)アーいやだヨエ(ハーイハイト)
ハァエ七日(ハイ)ハァエ七夜のエ(ハイ)
アー露を踏むヨエ
馬所の東北各地で毎年開かれる馬市には、博労たちが十頭から二十頭の馬を曳いて往来した。馬の数が多いため、移動は交通のじゃまにならない夜のうちに行われた。その道中に唄ったのが馬方節。本来、郷土差はなく、特定の人の節回しが有名になると、その人の出身地をとって“……馬子唄”と呼ばれた。黒石から秋田へ抜ける矢立峠(羽州街道)を往来する博労たちが唄っていたものを成田雲竹が習い覚え、節回しを定着させた。昭和十二(1937)年頃にレコード化する。当時は馬方節だったが、昭和十五(1940)六年頃、八戸の上野翁桃などが唄う馬方節が、道中馬子唄と呼ばれて人気が出ると、道中馬方節に改名された。
§
◎成田雲竹
KICH-2378(01)尺八/高橋竹山。
◎浅利みきCOCF-13282(96)尺八/菊池淡水。その迫力に圧倒される誰もかなわぬ浅利のうまさ。
○大出直三郎
COCJ-30332(99)渋い味。尺八/神山天水、佐藤天月、掛け声/成田収玉、鈴/美波三駒。
△伊藤多喜雄
KICH-2011(91)尺八/矢下勇、鈴/山田鶴喜美、掛け声/西田和枝。力まず自然体。馬方仕事の感じをうまく出している。
△外崎正一「津軽道中馬方節」
APCJ-5032(94)泥臭さがよい。尺八と鈴に強い女声の掛声が入る。お囃子方はCD一括記載。
△日景寛悦「津軽道中馬方節」
COCJ-30334(99)尺八/矢下勇、鈴と掛声不記載。「一夜五両でも馬方いやだよ」
「十三の砂山」(青森)
♪十三の砂山ナァーヤエ 米ならよかろナ
西の弁財衆にゃエ ただ積ましょ ただ積ましょ
弁財衆にゃナァーヤエ 弁財衆にゃ西のナ
西の弁財衆にゃエ ただ積ましょ ただ積ましょ
十三湖の周辺地域に伝わる盆踊り唄。“酒田高野の浜米ならよかろ、西の弁財衆にただ積ましょ”と唄う酒田節が十三港に伝えられた。
トサはアイヌ語“トーサム(湖)”の意味。元禄時代の投げ節にみられるような“返し”が付けられて盆踊り唄となった。弁財衆は取り引きに関する全ての権利を与えられた船頭の敬称。中世の弁財使をもじってそう呼ばれた。元禄十三(1700)年、十三村は津軽信寿(1669-1746)の土佐守任官を機に、トサをジュウサンと呼ぶようになる。
十三港は鎌倉から室町時代には日本七港の一つとして松前通いの船が多数寄港して栄えた。上方文化を移入する玄関口でもあったが、興国元(1340)年八月、大津波が村を襲う。港は土砂で埋まり村はさびれた。
昭和二十六(1951)年、文部省主催の全国郷土芸能大会に出場した成田雲竹は、相三味線の高橋竹山(1910-1998)の手を借りて今日の形に編曲して発表。雅趣のある名曲のひとつとして人気が高い。
§
◎成田雲竹
COCJ-30668(99)三味線/高橋竹山。尺八、太鼓入り。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、尺八/神山天水、星天竜、鳴り物/三浦節子。
COCF-12697(95)三味線/高橋竹山。太鼓入り。
○初代今重造
TFC-1204(99)三味線/沢田勝秋、尺八/錦錦秀、太鼓/成田雲竹女。透き通った高音を聴かせる。
○大沢ちせ、中村なみえ、今セツ
K30X-216(87)土地の匂いを感じさせる素朴なおばさんたちの唄。三味線/太田光雄、村上暁、尺八/酒田永楽、太鼓/高橋つや。
△佐藤雪江
COCJ-30332(99)力強い粘り声で泥臭い野趣がよい。三味線/小山貢、佐藤春道、尺八/星天晨、宮代竹峰、太鼓/山田百合子、笛/老成参州。
「虎女さま」⇒「南部盆唄」(南部)
「ナオハイ節」(青森)
♪寺のナーオハイ ハオハイ和尚さま(ハァ イヤサカ ドッコイショ)
日蔭の李はヤイ(日陰の李は ヤーサイ)
赤くナーオハイ ハオハイならねに(ハァ イヤサカ ドッコイショ)
ヤァヨネ落ちたがるヤイ(ヤァ ヨネ落ちたがる ヤーサイ)
ヤリャ落ちたがるヤァイノ ヤレコノサレトナ
(ヨイヨイノヨイテモナ)
何もサァサ 坊様ヤイ(何もサァサ 坊様ヤーサイ)
北津軽郡相(きたつがるぐんあい)内村(うちむら)の盆踊り唄。津軽民謡で最も古い唄のひとつで、坊さま踊りともいわれ、念仏踊りの系統である。ナオハイは直会(なおらい)に通じ、仏事が終わった後、お神酒、お供物を降ろして頂く酒宴の唄になった。どこかわらべ歌の雰囲気を残す。雅趣があり曲想もよい。
§
○村上とみ子
APCJ-5032(94)若々しく元気で爽快。
△小野花子
KICH-8204(96)三味線/澤田勝秋、澤田勝仁、笛/米谷威和男、尺八/米谷和修、鳴り物/美鵬駒三朗、美鵬那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田紀子。迫力ある歌唱。
△須藤圭子
VZCG-641(07)三味線/小山貢、尺八/二世佐藤錦水、鳴り物/美鵬成る駒、佐藤公美、囃子言葉/須藤美奈子。
「なにゃとやら」⇒「南部盆唄」(南部)
「八戸小唄」(青森)
♪唄に夜明けた かもめの港 船は出て行く 南へ北へ
(ハヨーイヤサ)鮫の岬は 汐煙り
煙る波止場に 船着く頃にゃ 白い翼を 夕陽に染めて
(ハヨーイヤサ)
島のうみねこ 誰を待つ
昭和四(1929)年五月一日、八戸町、小中野町、湊町、鮫村が合併して市政が施行された。これに伴って市を宣伝する目的で作られた。
唄の文句は当時の神田重雄八戸市長と、市の政治記者倶楽部のメンバーが合作で作った。一番の“唄に夜明けた……”の歌詞は東京日日新聞記者・法師浜桜白(直吉)が作り、曲は東北民謡の父・後藤桃水(1880-1960)に依頼した。桃水は秋田県の生保(おぼ)内節(ないぶし)をもとに曲を作り、親しみやすい節回しが出来上がった。同七(1932)年の春、八戸藩二万石の本丸跡・三八城(みやぎ)公園の観桜会のときに披露。翌年三月、市内小中野(こなかの)の芸妓粂八がレコードに吹き込む。
現在では、流し踊りも県南に広く行き渡り、市内の婦人会だけで、一時に千人が踊れるようになっている。正調保存会では、この唄の節で崩れやすい「唄に夜あけた」の「た」のところ、「かもめの港」の「の」のところ、「サメの岬」の「の」の部分は、いずれも短く軽く止めて唄っている。
§
◎三橋美智也
KICH-2416(06)編曲/山口俊郎。三味線/豊吉、豊静、囃子言葉/飯田梅子、石沢たつ子、佐藤悦子。山口の編曲は明るい気分がよく出ていて、三橋の唄は爽快感があってさすがにうまい。
◎大西玉子
CF-3661(89)お囃子方不記載。素朴で愛らしい声使いが大西玉子の特徴。語尾をころがすように唄う。
△関本登美子
APCJ-5033(94)ちょっと年増の芸者の風情。お囃子方はCD一括記載。
△中村波江
COCF-13282(96)素朴で野趣がある。三味線/工藤勝三郎、京極利則、太鼓/福士和子、尺八/酒田永楽、囃子言葉/小野市子、大沢チセ子。
「八戸大漁祝い唄」(青森)
♪ドットコー ドットコーセーノ タラコリャー(エーイ)
ヤヨーイ ヤサ(ヤヨーイヤサ)
ヤサノヨーイ ヤサ(エーン ヨオーイヤサー)ヨーイトコーナー
(ソーリャー エンヤ アリャリャリャ ドッコイ ヨーイトーコ ヨーイトコーナー)
そりゃエー 春の初夢ヤーエ(ヤートコセー ヨーイヤナ)
そりゃ旗立てなさる 旗と思えば福の神ヨーイトコーナー
(ソーリャー エンヤ アリャリャリャ ドッコイ ヨーイトーコ ヨーイトコーナー)
漁港の町・八戸の酒盛り唄。大漁祝いの宴席で魚を満載して沖から威勢よく帰港した漁師たちが賑やかに唄う。八戸港は八戸市の前面、馬淵川河口付近にあり、三陸沖の好漁場を控えて、港はいつも収穫で賑わっている。
建武二(1335)年ごろ、甲斐の国(山梨県)から移封された南部師(もろ)行(ゆき)が八戸城を築いた。文禄元(1592)年、廃城となったが、その後、寛文六(1666)年、盛岡藩南部直房が分封して、八戸は南部藩二万石の城下町となった。
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○河原崎知佐子
CRCM-1OO10(98)三味線/山道巧、尺八/奥瀬伶山、太鼓/中村菊江、鉦/木村光良、掛け声/山道チマ、四戸圭子。作業唄らしい趣ある唄。掛け声が面白い。
「八戸大漁音頭」(青森)
♪サアサ乗り出せ 黒潮越えてヨ(ハァヨイヤサ)
沖は大凪(おおなぎ) 大漁凪 ソリャ大漁凪
港八戸ヨイヤサノサ
サアサ行く行く 南へ北へよ(ハァヨイヤサ)
今日も大漁の 日が昇る ソリャ日が昇る
港八戸ヨイサノサ
§
○吾妻栄二郎
CRCM-4OO40(95)三味線/吾妻栄幹、吾妻栄継、尺八/森下房春、鳴り物/美波駒三郎、美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田とみ枝。
「ホーハイ節」(青森)
♪婆の腰ァ ホーハイホーハイホーハイ曲がたナーエ
稲の穂が実る
愛宕山ァ ホーハイホーハイホーハイ高いじゃナー
賀田町(よしたまち)ヤ長い
日本の民謡のなかでは、ほとんど類例のない裏声を使って唄う。旧津軽領、西津軽郡森田村の盆踊り唄を、同地出身の成田雲竹がステージ用にまとめ、大正の頃から紹介してきた。地元で唄われているホーハイ節は、盆踊り以外に田の草取りや山登りなどでも唄われ、唄い方も低い声でのんびりと唄うものであった。アイヌの唄が津軽化したのではないかともいわれている。
“婆の腰”の文句は、津軽為信が負け戦になり小休止。その時、腰の曲がった茶屋の婆さんが、かいがいしく動き回っていた。その様子が面白く、即興で詞を作って唄った。それを聴いた兵士たちは大笑い。再び元気を取り戻して無事に帰陣できたという逸話による。
§
◎成田雲竹
KICH-2378(01)味わい深い美声と、品格ある雰囲気は天性のもの。尺八/高橋竹山。
COCJ-30332(99)年輪が刻まれた美声。尺八/高橋竹山。
○山本謙司
CF30-5OO3(89)尺八/福田次郎。
TOCF-5012(92)尺八/矢下勇厳。ライブ盤。
VZCG-174(00)
△須藤雲栄
COCF-9302(91)尺八/高橋竹山。未熟成なところが残るが、女声で挑戦した意欲は評価できる。須藤は成田雲竹の秘蔵っ子として薫陶を受けた。
「弥三郎節」(青森)
♪一つアェ 木造新田の下相野
村のはずれコの 弥三郎ァ家 ヤリャ弥三郎アェ
二つアェ 二人と三人と人頼んで
大開の万九郎から 嫁もらた ヤリャ弥三郎アェ
三つアェ 三物揃えてもらた嫁
貰ってみたとこァ 気に合わね ヤリャ弥三郎アェ
文化五(1808)年、西津軽郡木造の森田村字相(あい)野(の)(つがる市)に住む伊藤弥三郎は、隣村の水元村大字妙堂崎(北津軽郡鶴田町)の大開万九郎の娘を嫁にもらった。弥三郎の親は嫁に辛い作業をさせていびり抜く。亭主の弥三郎も嫁に冷たかった。その挙句、嫁は泣く泣く実家に戻される。
この話を瓦版売りが数え唄にして唄い歩いたため、弥三郎一家はたまらず逃げだす。この嫁はよほど結婚運が悪かったようで、十五番ある第八番目の文句によると、藻川(北津軽郡鶴田町)に再嫁した後もいびられたとのことである。
昭和二十六(1951)年、成田雲竹、高橋竹山のコンビが今日の弥三郎節に編曲して、全国郷土芸能大会で発表した。
§
◎成田雲竹
KICH-2378(01)ぴんと張った独特の声で津軽弁の美しさを表現する。三味線/高橋竹山、尺八/渡部嘉章。
TFC-1207(99)三味線/高橋竹山。音源はSP盤。
COCF-13282(96)三味線/高橋竹山、太鼓不記載。素朴で力があり、味わい深い歌唱。高橋竹山の三味線も前奏から大活躍している。
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/高橋祐次郎、片倉京子、尺八/米谷威和男、鳴り物/高橋勝子。
○佐藤善郎
OODG-73(86)三味線/市川竹女、尺八/山本花章、太鼓/佐藤善城。声がよく出ていて、市川竹女の三味線もよい。
○山本謙司
CF30-5OO3(89)三味線/沢田勝秋、嘉瀬雲寿、尺八/久保田燿峰、太鼓/佐藤寿昭、鳴り物/山田鶴喜美。
「よされ大漁節(よされ大漁祝い唄)」⇒「南部よされ大漁節」(南部)
「リンゴ節」(青森)
♪春は林檎の いと花盛りヨ
蜜にあこがれヨーホイ 舞う蝶々
夏は青葉の 緑の林ヨ
いとし乙女の ヨーホイ ほおかむり
成田雲竹が作った新民謡。昭和二十(1945)年、戦後第一作の映画「そよかぜ」に出演した並木路子が歌う「リンゴの歌」や、同二十七(1952)年、美空ひばりの「リンゴ追分」は、ともに大ヒットして、日本人の心にほのぼのとした明るい希望をもたらした。ところが産地である青森県に、りんごの民謡がなかった。そこで南津軽郡藤崎町の青森県りんご生産組合連合会が、成田雲竹にりんごの宣伝になる民謡作りを依頼する。
昭和二十九(1594)年、雲竹は埼玉県入間郡で唄われていた麦押し唄(麦踏み唄)を参考にして曲を作り、高橋竹山(1910-1998)が三味線を付けて発表。翌年、雲竹の弟子である佐藤りつがレコードに吹き込んだ。雲竹が作った一番の歌詞の後半は「蜜にあこがれ舞う蝶々」だったが、いつしか二番の「いとし乙女の頬かむり」と入れ替わり、以後、ほとんどの歌手が入れ替えて唄っている。
§
◎成田雲竹
COCJ-30667(99)三味線/高橋竹山。
KICH-2378(01)三味線/高橋竹山、尺八/神山天水、鳴り物/三浦節子。
◎浅利みき
KICH-2379(01)三味線/高橋祐次郎、大場清、尺八/米谷威和男、鳴り物/高橋勝子、囃子言葉/西田和枝、阿部栄子。
○佐藤りつ
CF-3661(89)三味線/高橋竹山。若々しく力強い歌唱。野趣に富み、気持ちよく唄っている。三味、尺八、太鼓もよい。
VDR-25152(88)
△三浦隆子
VZCG-130(97)娘っぽいいい声で元気良く、迫力もある。三味線/沢田勝秋、沢田勝仁、尺八/矢下勇、太鼓/美波駒三郎、鉦/美波那る駒、囃子言葉/西田和枝、西田ゆき枝。
「ワイハ節」(青森)
♪津軽生まれでヨイナ 言葉コ悪いが
一度会ってみへヨイナ サーワイハ根は正直
姉コよう聞けワイハ 本当です
津軽民謡の先覚者・成田雲竹が作った新民謡。ワイハは“あらまあ”と驚いたときや“おやおや”と悲しいときに使う津軽弁だ。昭和八(1933)年、雲竹は南洋群島のサイパン、テニヤン、ヤップ、モートロック、トラックへ九カ月にわたる民謡行脚にでた。その間、望郷の念にかられて、津軽弁の“ワイハ”をもとにして唄を作ることを思い立つ。
津軽民謡は、唄の冒頭にハァとかアーなど、声を張り上げてから唄に入るが、この唄は直ちに唄い出すところに工夫がある。昭和二十七(1952)年、雲竹がレコードに吹き込み、佐藤りつなどが唄い始めてから次第に唄われるようになった。
「民謡のよさは、声と節回しはさる事ながら、国々の言葉、方言の使い分けにある。聞く人に感動を与えると同時に、民謡の生命であるその土地の方言で、単純素朴な文句で、しかも平易でわかりやすい、誰の耳にもよくわかるように唄ってほしい。それでこそ本当の民謡であると思う。民謡は民族の鑑であり、日常生活の糧であらねばならない」……これが雲竹の民謡に賭ける終生変わらぬ信念であった。
§
◎成田雲竹
COCJ-30666(99)三味線/高橋竹山。定盤。天性の美声、美しい津軽弁の響き、雲竹とぴったりと呼吸が合った竹山の素朴で力強い糸。
KICH-2378(01)「津軽ワイハ節」三味線/高橋竹山、尺八/渡部嘉章、鳴り物/畔上三山。
○山本謙司
CF30-5003(89)三味線/沢田勝秋、嘉瀬雲寿、尺八/久保田耀峰、笛/福田次郎、太鼓/佐藤寿昭、鳴り物/山田鶴喜美。
TOCF-5012(92)三味線/沢田勝仁、尺八/矢下勇厳、太鼓/美鵬奈る駒。
VZCG-174(00)
○高橋つや
COCF-13282(96)野趣があり、土に生きる女性の強さと風土の雰囲気がよく出ている。三味線/村上覚、尺八/矢下勇、太鼓/大谷百合子。